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第9回 サーカスのような東京麺日和
チベットのサンラーフンに唸る

 九月はずっとチベットに行っていた。標高平均五五○○メートルぐらいの高地をキャンプしながらカイラスという聖山をめざす旅だった。キャンプになると背負ってきた肉を中心とした行動食になるが、その前後、町や村でいろんな食堂に入る。この「麺の甲子園」の連載が頭にあるのでどうしても麺に目がいく。
北京や上海経由でチベットのラサに行くとき通過しなければならない成都という大きな都市の食堂で蕨を原料にした麺としか思えないものに出会った。生憎このときは疲れていたのでカメラを持たずに店に入ってしまい写真に残せなかったが、以来食堂には必ずカメラを携えることにした。
 しばらくは四川料理の影響が強くて辛い料理ばかりが続いた。その中でもっともうまいと思ったのがサンラーフンだった。酸辣粉と書く。
 ピンと呼ぶ、見たかんじ糸コンニャクに近い、ハルサメ系の太いのを軽く茹で、唐芥子のガツンと効いた赤いスープにからめて食べる。
 スープには細かく切ったピーナツと葱と肉、それにほうれん草が入っている。容赦のない辛さだが、そこのところに全身が痺れる。辛いから痺れるのではなくて辛旨いのにヤラレる。この旨さは日本ではまず存在しないものだと思う。いやはや参った。即座に二杯食った。もしこの「麺の甲子園」に外国めん枠の参加制度などがあったら間違いなくこれは優勝候補だな、と思った。
 一緒に行ったチベット族の男は肥腸粉を頼んでいた。この酸辣粉の上にじっくり炒めた豚の臓物を載せたものだ。少しわけてもらったがこれもうまくてまいった。どちらも五元である。(一元はこの数年日本円の十三円から十五円、したがって中間の十四円で計算すると邦貨七十円=以下このレートで考えていただきたい)いやはやそれにしても中国麺の底力を思い知らされる気分だ。このサンラーフン屋が日本にあったらぼくは間違いなく毎日通うだろう。
 チベットは三回目だが中国には十回ぐらい来ている。そのたびに麺を食べているが、中国で本誌でやっているような麺の食べくらべを真剣にやったらそのスケールの大きさと種類の数から考えて取材に五、六年かかるような気がする。
 もっともこの中国とて今のようにやみくもにうまくなったのはここ十年ぐらいのものらしく昔はまずい麺がけっこう多かったようだ。
 ぼく自身初めて中国で麺を食べたのは二十五年前だが、黄河沿いの田舎のその店には人民服を着た人々が行列を作っていた。うまいからではなく店が少なかったのだ。
 麺は一種類しかなく、通訳が店の中の黒板のメニューを見て「よかったですね。今日は旬のエビラーメンですよ」と言った。
 こんな山の中の村で旬のエビとは川エビかなにかだろうと思ったが、間もなく出てきたラーメンは粉っぽくてスープもぬるい。旬のエビとおぼしきものもたいしてうまい味ではない。だいいちエビの食感や味がまるでしない。
「これはなんというエビですか?」
 通訳に質問すると、通訳は改めてメニューをながめ「あっ、わたし発音を間違えました。これはエビではなくてヘビでした。日本語のエとヘはよく似ているね」
 そう言って嬉しそうに笑った。
 そうか。ヘビラーメンを食わされたのか。しかし旬のヘビというのが面白かった。
 その頃から較べると中国は田舎でも食堂のメニューが豊富になった。
 ラサでは粉湯(フンタン)というのがまたもやうまかった。白い塩味スープに豆腐と肉と野菜が入っている。これも五元。
 干拌麺(カンパーメン)はジャガイモの細切れが入ってスパゲティミートソースふうで八元。炒炮仗麺(チヤオホウジヤオメン)は手打ちうどんふうで酢をかけて食べる。六元。冷麺は牛肉、トマト、キュウリがどおーんと大きい冷し中華ふう。八元。
 日本での「麺の甲子園」ではキリボシダイコンとかモヤシとかモズクなど麺ではないが細長くて沢山からまっているものも強引に麺としてタタカイに参加させていたが、中国の地でそういう目で見ていくと沢山あって青椒土豆絲(チンジヤオドトウス)などは見た目も涼しく美しい“麺”そのもので味もなかなかのものだった。
 オスンという野菜を細切りにしたものとかインゲンの炒め物も、今までの我々の範疇では堂々たる麺だ。チベットうどんというものがあって、これは肉汁かけうどん。わりと一般的に食われているが、麺がくっちゃりしていてこれだけはあまりうまいとはいえない。

おお堂々の武蔵野うどん

 チベットから帰ってきて二日めに日本の「麺の甲子園」の取材が待っていた。今回は時間がないので日帰りである。そうなると当然近場となる。
「今日はよく晴れて麺日和でなによりです。そういう時のために用意していたものが思っているわりには堂々あります」
 今泉三太夫が電話で言ってきた。
「キミはしばらく会わないうちにますます日本語がおかしくなっていないか。『思っているわりには堂々あります』ってそんな言葉のつかいかたがあったか?」
「ありませんでしたか。ありましたならばあればあるほどにありまられたらどうしてもありませんか。郵便局はどこですか?」
「何を言っている! 言葉のわかるヒトに変わってくれ」
 杉原が出た。
 本日の最初の行き先は東京の西のはずれ、東村山市野口町の「小島屋」で、そのあたりは近頃人気の武蔵野うどん集中群生地帯という。
「本も出ていてガイドマップなどもあります。いわばちょっとした恐るべきさぬきうどん現象かと……」
「本当かい?」
 にわかには信じがたい。なにしろほんの八年前までぼくは東村山市の隣にある小平市に住んでいたのだ。
「行けばわかります」
 驚いたことにカーナビに電話番号を入れると店の名がイッパツで出た。びっくりして十一時に到着するとあたりにはあまり歩いているヒトもないのに店の中は満員に近い。昔の農家を改造したようなつくりで釜をたく薪の燃える匂いがしてくる。庭には実をいっぱいつけた大きな柿の木。ここは秋田か青森県か?
「いや東京でござる」
 三太夫が言う。
 テーブルの上に出された武蔵野うどんは冷やしたザル麺を熱い肉汁で食べるという、さぬきうどん流にいえば「ひやあつ」である。
 他の客も熱心に無言でシアワセそうにそれを食っている。
「どうしてこんなところに?」
 隣に座った今泉三太夫に聞いた。
「武蔵野といえば関東ローム層。関東関東といってもいささかひろうござんす。富士のすそ野も関東ローム層。清水港には大政小政。赤城の山なら国定忠治」
「何を言っている?」
 杉原が三太夫に代わって解説する。
「関東ローム層は保水性が悪く米作には向かないので古くからアワ、ヒエ、小麦といった穀類が主流でした。したがって武蔵野で小麦を原料としたうどんが 流行ってもそれなりの背景がある、ということを言いたかったと……」
「関東、関東!」
 三太夫が机を叩いている。
「お客さん。ツユがこぼれます」

「L」とは何か?

 続いて廻田(めぐりた)町の「きくや」に行った。昼の時間が近づきもうここは満員だった。厨房の中は釜の湯が煮えたぎり、客をあしらうおばさんは慌ただしい中にも慣れの余裕がある。おお、これは本当にさぬきうどんのメッカで見た風景に似ているぞ。
 我々の前に座って黙って食っているニッカボッカのおじさんは無表情にゆるぎない安定速度でうどんをすすり、天ぷらをかじる。この店も冷えたうどんをザルに盛り、それを肉汁で食べる。しかしそのうどんの注文がやや難しい。単位は「一L」でうどん一玉らしい、というのがわかってくる。「二L」「三L」と進んでいっておお最高は「五L」まである。食いおわって勘定をする若い職人風の男は「五L」になんと追加「三L」であった。つーことはうどん「八L」。つまり八玉。
 なんで一玉が「一L」で、「L」とはなにか? という疑問は解明できないものの、んなものはどうでもいいじゃないか。食いたいだけ食えばいいじゃないか、という説得力がその場の空気にみなぎっている。
 おれたちは情けないことに全員「一L」だ。本日まだ先があるからなあ。
 注文したときに店のおばちゃんが「一Lは小さいけれどいいのね」と念をおした。しかしその一Lとて大盛りに近いぐらいの堂々たる量だった。
 いや、二十年ほど武蔵野に住んでいたが、ご当地うどんがこんなに立派なブランドものになっているとは思いもよらなかった。
 思えば武蔵野を去って都心に居を移してからほとんどこのあたりにやってくることはなかった。この地で育ったわが二人の子供はニューヨークとサンフランシスコに住んではや十年。二人がふるさとに帰ってくることはもうないだろう。
 ぼくに似て麺好きだった息子とよく通った店がこの隣町、ぼくが住んでいた小平市の一橋学園駅近くにあった。
 ラーメンの「大勝軒」。のれんわけで日本各地にその勢力を広げたこの店は本拠地を「池袋」と「永福町」にわけて二系統あり、ぼくの馴染みの店は永福町系である。大盛りが名物で、近くにある一橋大学の運動部の学生などと一緒になってぼくと息子はときおり「大盛り」に挑んだ。その店は普通盛りで一・五玉。大盛りは四玉であった。量だけでなくこの店のラーメンはすこぶる味がいい。
「おとう、そろそろいこうぜ」
 息子にそう言われて「よおし!」などとコブシ振り上げ二人で自転車に乗ってその店によく行ったものだ。
「果してあの店はまだあるのだろうか」
 その日、いきなり思い出し、取材同行の三人に言った。
「いいじゃないですか。フルサトラーメンの探索ですな」
 楠瀬のそのヒトコトで方針が決まった。かって知ったる、の気分で接近していった(その日はぼくがずっとクルマを運転していた)が、昔の記憶など曖昧なもので、なかなかたどりつけない。カーナビをつかってどうにか近くまで行った。しかし知っている場所にそんな店はない。ぐるぐる回っているといきなり「大勝軒」の暖簾を見つけた。店の場所とは違うし昔と較べるとずいぶん小さいけれど……。
 窓から覗いてみるとまさしく懐かしい親父さんの顔があった。

成長するチョモランマ

 中にはいって挨拶し、聞いてみると二年前に以前の店から移動したという。
「もう歳とったんでこのくらいのほうがいいんですわ」
 親父さんは懐かしそうにそう言った。しばらくむかし話。
「あの頃よくここで一緒に大盛りを食った息子は今はサンフランシスコに住んでいて時々ぼくが遊びに行くと彼はいまだに麺好きでベトナムラーメンの店によく連れていってくれますよ。うまいのは特別牛肉粉」
 そうか。チベットのサンラーフンがそうだったようにアジアの麺は「粉」というのだなということにそのとき気がついた。
「いやあ。とにかく長い時間がたちましたよ」
 ぼくと息子がよく通っていた頃、この店の大盛りは四玉だったが、その後五、六年して行ったときは二玉になっていた。
「最近の学生はもう四玉は食えないです。時代は軟弱に変わってきましたよ」
 親父がそう言っていたのを覚えている。
「今は大盛り何玉ですか?」
「今は気合い入り六玉と書いてあります」
 メニューを見ていた杉原がいきなり言った。なるほど、見るとそう書いてある。
「六玉ですか。いきなりまたずいぶん進化したんですねえ」
「いやあ今はヤケクソですよ」
「じゃあその六玉を!」
 もちろん我々はまだ別の店で食わなければならないから全員でその大盛りひとつを食うのである。
 やがて登場したそれは洗面器のようなドンブリからチョモランマのように麺が盛り上がっている堂々たる真剣な大盛りであった。
 チョモランマ部分は、別の小椀にスープを貰って「つけ麺」で食べる。ぐずぐずしているとスープの中の麺がふくらんで食っても食ってもいっこうに麺が減らない状態になる。
 近くに住んでいる三十五歳の警察学校関係の人がこいつを十五分でたいらげ、その記録はずっと破られないそうだ。
 大盛りであっても味はいい。煮干し、サバ節、トリガラ、ジャガイモのだしである。かつてラーメンのだしの中にジャガイモが入っている、ということを知って驚いた記憶がある。ハッタリの強い豚骨醤油味の有名店より、この「大勝軒」の変わらない味が懐かしくそしておいしかった。

風格の江戸前もり蕎麦

 そこから高速道路を走って神田須田町の「神田まつや」に行った。ここで大食いの強烈な助っ人高橋大と合流。
 これまで日本蕎麦の本格的な店にはなかなか出会わなかったが、ここは店構えからその客にいたるまで江戸前蕎麦の端正な貫禄を感じる。本当はこの取材でもっといろいろ東京の本格的な蕎麦屋にいきたいのである。
 まだ夕方には早い時間だが、酒を飲んでいる中年のカップルなどもいる。なかなかカッコいい。いい歳をしていつまでも大盛りラーメンではなく、江戸前の蕎麦屋で静かに妖しく酒を飲めるような度量をそろそろ身につけたいものだ。
 羨やましい気分でそんな客を横目にまずはオーソドックスにもり蕎麦を注文。店内にはなんと九人のおばさんが忙しそうに動き回っているし厨房の活気も伝わってくる。客は抑制されていてその数のわりには静かで、これが江戸の蕎麦、という説得力がある。関西や日本の田舎では絶対につくれない雰囲気である。
 出された蕎麦がまたうまい。
 今回は午前中に行った店が懐かしい場所にあったからなのかやたらと懐古的になってしまうのだが、その店の雰囲気のある蕎麦を食べながらもうとうに死んだぼくの叔母さんのことを思い出していた。
 叔母さんは深川に住んでいて小学生の頃遊びにいくと近くの蕎麦屋につれて行ってくれた。そのときに叔母さんはもり蕎麦のほかにカツ煮のようなものを頼んでくれた。この組み合わせがうまかった。もり蕎麦にはカツ煮。このカツ煮が、東京の蕎麦屋の「台抜き」という注文であるということを後年知った。以来いろんな蕎麦屋でその注文をしたのだが、地方の田舎では通じず、それは東京(主に下町)の食い方であるのを知ったのだった。
 その店では「小田巻むし」に出会うことになった。第5回の西九州ブロック大会取材で、この「小田巻むし」のことを思い出し、長崎のいろんな店で聞いて歩いたのだが残念ながら知る人はいなかった。
 また回顧話になるが、ぼくのサラリーマン時代は銀座だったが、会社のすぐ近くに長崎チャンポンの有名店があって、そこが大きな器の茶碗蒸にうどんの入っている「小田巻むし」を出していたのだ。だからてっきりそれは長崎のものなのかと思っていたのである。
「これはね、江戸時代から東京の食べ物なんですよ」
 店のおばさんが教えてくれた。そうかこれはわが地元のものであったのか。
凶暴極太一本うどん

 ここで我々はいったん解散。三時間後に本郷の「高田屋」に再集合することになった。
「高田屋」には池波正太郎の「鬼平犯科帳」に登場する一本うどんがある。
 出てきたそれに驚いていると描写だけで大変なことになるのでサラリといくことにする。
 切り口二センチ四方ぐらいのうどんである。それが四人前。一本うどんなのでずっと一本である。つまり我々の前に「あいよ」といって出されたそれは大きなザルの上にとぐろを巻いている白い巨大な生き物のようであった。まあ簡単にいうと蛇。白蛇である。このうどんは本当に途中に切れ目のない一本つなぎなのだ。
 以前ベトナムでザンロというミドリ蛇の大群を見たことがある。太さ二センチぐらいで二メートルぐらいの長さがある。それがカタマリになって勝手に動いている。目下我々の目の前のうどんが動き回っていたらそのザンロのイメージにちかい。
 もうひとつ、モンゴルの遊牧民がときおり羊を解体してそのすべてを食べるけれどそのとき見る羊の腸がよく似ている。
 ただし目の前のそれはうどんであるからあくまでも全体が白い。うどんであるから勝手にぬるぬる動いたりしない。
 みんなでおそるおそるつまんでみる。箸でちぎれるというようななまやさしいものではなく、指でぐいんとちぎるしかない。分葱(わけぎ)と生姜と山葵(わさび)という基本の調味料に満たされたタレにつけて食べる。しっかりとコシのあるいつまでも存在感の持続するうどんである。噛みしめるといい味であるということがわかる。けれど全体が固いので「おいしい」とか「こくがある」とか「キレもある」なんていう感想を述べることはできないままかなり長い時間噛み続けていることになる。とにかくこれは集中して噛んでいくしかないのだ。
「みんな無口になりますな。そういう意味では蟹を食うときに似てますな」
 高橋大が言う。そういいつつ一番確実に早くずんずん食っているのが彼である。
「恋人たちが食うのにも適していないでしょうな」
 楠瀬が言う。
「しかしこれを両端から食っていって最後に全部食べおわると食っている二人の口と口がくっつくという状態もあります」
 集中しているわりにはなるほど的なことを高橋大がいう。やはり途中から参加しているイブクロの余裕であろうか。
 そのあと東京のラーメンでは十指に入るという湯島天神下の有名ラーメン店「大喜」に行った。すんなり入れたが出るときは行列ができているので驚いた。なるほどおいしいけれど行列まで作って食うほどでもない。この店だけではないが有名ラーメン屋に並ぶ青年男女をみるとみんな平和ニッポンの純粋なアホ顔にみえる。
# by shiina_rensai | 2007-01-22 16:04 | Comments(10)

第8回 灼熱のタタカイは火山のような噴火麺に 横浜、静岡、山梨
濃厚強豪強気のぐらぐら

 今回は横浜、静岡、山梨を回ることになっている。なかでも横浜は激戦地だ。
 夏の盛りである。雲は湧き、汗もわく。濃厚な夏空の下、ホンモノの甲子園のほうでは駒大苫小牧と早稲田実業の決勝戦を迎えるところであった。家からクルマで出発。
 隣の助手席にぼくの若い友人が乗っている。ナガイショウタロウ君。高校二年生。沖縄の那覇からやってきた。
 親類というわけではないが四歳のときからの知りあいである。来年は大学受験の勉強があるからこの夏休みをつかってはじめて東京見物にやってきた。ぼくの家にホームステイしている。
 今回の「麺の甲子園」に同行してもらった。この少年が生まれてはじめての本州の麺の味にどう反応するか、おおいに参考意見としたい。
 別の場所から出発するもう一台のクルマには杉原、楠瀬、今泉、カメラの佐藤が乗っている。今泉 三太夫はひさしぶりの参加だ。
 午前十一時めざして横浜西口近くの「吉村家」で待ち合わせたが我々のほうが早く、一時間も前に着いてしまった。コインパーキングにクルマをいれて店の近くで四人組の到着を待つ。
 横浜の西口に来るのは三十年ぶりぐらいだろうか。もちろんショウタロウ少年は初めてである。見回すといたるところにラーメン屋の看板がある。
「吉村家」はいわゆる横浜「家系ラーメン」の総本山のようなところと聞いていた。ラーメンの話になると必ず出るその有名な家系ラーメンというのをこれまで食べたことがない。
 第一その日まで「よしむらけ」と読むのだとばかり思っていた。でも「吉村家」では葬儀みたいだものなあ。「よしむらや」と読むのであったか。
 もうすでに沢山のルポ、探訪ものに書かれ、テレビのグルメものなどでも存分に紹介されているこの店を、こんな無知識なおやじがいまさら何か感想を書いて何がどうなるわけでもないが一応一年以上かけて全国を歩く「麺の甲子園」であるから行かないわけにはいかない。しかもここは優勝候補筆頭にあげられるような強豪ですから、と編集部に言われていた。
 三十分後にその編集部四人組到着。すぐに吉村家に行った。
 店の前には三○人ぐらい座れる待機用の椅子がある。三十分前にもうあんちゃん二人組が座っていた。大きな旅行鞄を持っているのでどこか地方から来たようである。期待に顔が光っている。いや暑くて汗が光っていたのかもしれないが。
 待機用の椅子といい、その上の日除けの可動式ひさしといい、なかなかの思いやりだ。我々がすわって五分もしないうちに待機組は二○人ぐらいになっていた。まだ開店十五分前。さすが一日一五○○食は出るという超人気店である。
 待っている二○人は全員男である。単独客が多く、会話のないのがやや不気味だ。みんな小太りで夏なのにどことなく暗く、ラーメンお宅を連想させる。
 全員食券を買っていて汗ばむ手でにぎりしめている。それを見てぼくも少年も緊張して自分の食券を確認する。「開店前にこんなに並んでいるというのがすごいですね」少年が驚いている。「那覇では並ばない?」「あり得ないです」ヒソヒソ会話である。
 やがて時間どおり開店。
 太ったおばさんが「順番に奥から詰めてね」毎日同じような状態なのだろう。手際がいい。一日一五○○食も出るというのだから客は動く胃袋のように見えているのかもしれない。
 厨房には五、六人の若い男が白い服に長靴でテキパキ働いている。この店を総本山として暖簾分けなどでこれまで二○○人以上が独立していったという。全国にちらばる家系ラーメン店。大勢力である。フといま試合中の高校野球の駒大苫小牧を思い出す。
 フロアマネージャー然とした男が鋭い顔つきで注文を聞いていく。麺の茹で方、油の量、トッピングの追加等々。
 このトッピングがすごい。味玉、味付けうずらの玉子、いんげん、わけネギ、キムチ、生ほうれん草、キャベツ、もやし、コーン、玉ネギ、チャシューまぶし、のり、生タマゴ、オニオン、タケノコ。
 その日によってできるもののアイテムは変わるようだ。
 これらの注文をいちいち聞いていくというのは凄い。注文は一○人ぐらいで一グループのようであった。こういうしきたりを知らなかったのでその人にいきなりどうするかと聞かれてやや狼狽する。麺やわらかめであとは普通でお願いする。沢山の人のいろんな注文をメモにしないのは何かの符丁があるのか。
「食券の置き方で区別してるみたいです。少しナナメにしたりして」
 少年が指摘する。ほー。少年は国立理系の大学を目指している。呆然夏バテ作家とは瞬間分析力がまるで違うようだ。
 いろんな本に「野獣派」と書かれている大きなズン胴鍋から豚の大腿骨のスープがぐらぐらいってふきあがるイキオイだ。そこから漂ってくる匂いがすでにストロング派である。
 豚骨味と醤油味の合体は絶対に強い。今や家系ラーメンの象徴ともなった大きな海苔三枚と脂したたる焼豚が「どうだまいったか」といっている。脂がぎらり。半分だけ食べて外に出た。紺碧の青空。突き刺さる陽光。

灼熱のサンマーメン

 続いてやはり有名な新横浜の「ラーメン博物館」に行った。もの凄い雑踏で、ここに入っている全国有名ラーメン店にはすべて長い行列ができていてどこも一時間ぐらい待つという。
 それでも取材であるから入場料三○○円を払って中に入ったが全館押すな押すなの大混雑。お盆最後の日曜日だからなのだろう。それにしても日本人は本当にラーメンが好きな国民なのだなあということを思いしらされる。
 初めてラーメン博物館を見ての単純な疑問がひとつ。そういう日だったからなのだろうが、客は圧倒的に家族連れが多く、しかも連れているのは小さな子供が多かったけれど、中の仕掛けは昭和三○年代。あのノスタルジックなしつらえは子供たちにどんなメッセージになっているのだろうか。
 仕事に疲れたおとうさんが酒のあとにやってきて一人でラーメンを(待たずに!)ススレルのだったからいいんだろうけれどなあ。我々はここでは何も食わずひとまわりして外に出た。隣接した駐車場が大きく、その名称「ナルトパーキング」はなかなかよかった。マークもナルト模様だったし。
 横浜中華街に行って「海南飯店」に入った。ここは浜っ子のベテラン将棋差し河口俊彦さんがうまいとすすめてくれたところだ。
 干労麺(汁なし葱そば)葱油麺(ネギそば。ともに七三五円)湯米粉(汁ビーフン。八四○円)を複数頼んで六人で少しずつ食べる。麺のはいったドンブリが空中をはげしくとびかっているので店の人が笑っている。少年は連続三杯食っても平気というので最後に全部のドンブリが少年の前に集まる。
 次は「清風楼」。持ち帰りのシューマイで知られる店だ。ここでは横浜名物サンマーメンを注文した。サンマーメンは横浜の中華店の中だけでもいろいろな字が書かれているが、ここでは生碼麺と書く。いずれにしてもあんかけのもやしそばである。
 なかなか味が深くておいしいけれど、さきほどからどうも我々の背後がヘンである。店の中には注文を受けたり料理を運ぶおばさんが五人もいるのだが、どうもなにかのイサカイごとがあるらしく静かながらもおばさんたちの口げんかが続いていて、我々のうしろの配膳カウンターのところに戻ってくると口げんかが継続されている。
 どうもそっちのほうが気になってしまっていまひとつ集中できない。帰りがけに勘定をしていた楠瀬にあやまりつつ話してくれた。昨日おばさんのうちの一人が客に頭からサンマーメンをぶっかけてしまったのだという。一日ずれていてよかった。外は真夏の午後の灼熱の太陽。

焼きそばだもの

 東名高速を静岡にむけてとばす。
 ラジオは甲子園の決勝だ。それを聞きながらショウタロウ少年と横浜の総括をする。
 強豪と聞いておそれをなしていたが「吉村家」の濃厚ラーメンは好みによって評価がわかれるだろう。あの強烈な味にハマッタ人は逃れられなくなるだろうし、駄目な人は最初から敬遠するだろう。似たような味は日本中にあってそれぞれ人気がある。同系列だと「吉村家」より和歌山の「井出商店」のほうがハッタリと客側の無意味で滑稽な崇めりがない分はるかに上のような気がする。吉村家は宗教のようなものなのだろう。
 ショウタロウ君はヨコハマでは「ネギラーメン(葱油麺)が断然うまいッス」と言っていた。
 夕方四時頃に焼津市に隣接した岡部町の「ゆとり庵」に着いた。ここは「茶ソバのヤキソバ」があるという。
 茶そばは以前我々のあいだで問題になったことがある。外国へ飛ぶ日本の飛行機の機内食などでそばが出てくると、あたかも日本のソバを代表するがごとき様相でたいてい茶ソバが出てくるが、我々は茶そばに日本を代表してくれたまえ、と頼んだ覚えはない。そのあたりのこと、いったいどうなっているのだ、という問題なのであった。
「ゆとり庵」のそれは抹茶を練りこんだソバを瓦の上で焼いて牛肉と錦糸タマゴとネギをからめモミジオロシのそばつゆで食べる、という凝ったものだった。
 何もそこまでそんなにいろんなことをしなくても、という感想がのこった。
 熱闘甲子園は引き分け再戦となった。我々は熱風こもる清水の宿に泊まる。
 翌日はかなりへだたったところをあちこち回らなければならないので忙しい。まずわっせわっせと静岡松坂屋に行った。十時開店と同時に五階にある「起多乃(きたの)」に突入。
 店も驚いたことだろう。開店と同時に六人の男がなだれこんできてトコロテンを注文し、わっせわっせとたちまちそれを食べてわっせわっせと去っていったのである。
「起多乃」のトコロテンは芥子ではなくワサビで食べるのだが、これが大変うまかった。我々「麺の甲子園、実行委員会」は早くからトコロテンの出場を認めていたのだが、静岡でようやくエントリーしてきた。そして期待どおり爽やかな笑顔であらわれ、いいタタカイをしていった。
 その足で、というか正確にはそのクルマで富士宮にすすみ「若林たばこ店」の焼きそばを食った。煙草屋をやっていたのだが、ついでに焼きそばをはじめて今にいたり、煙草店という名はそのままになってしまった、というかわった店である。
 ちなみに富士宮は焼きそばの街で市内に百五十店の焼きそば屋があるという。
 店というよりもその家の茶の間のような部屋でお好み焼きふうの焼きそばを食べる。
 壁に「相田みつを」の色紙がいろいろ貼られている。
「くちではなあ」
「人の世の幸不幸は人と人とが逢うことからはじまる。よき出逢いを」
「ちからをいれてりきまない」
 この「麺の甲子園」の取材をやるようになって気がついたのだが相田みつをさんの色紙を飾っている店がけっこう多い。注文したものが出てくるまでのあいだ結構それを読んでいるのでよく覚えているのだ。いつもなかなかいいことを言っているんだけどときおり「おせっかい」では、と思うこともある。
 そこでぼくもここで少しおせっかいなことを言いたくなった。
 この「麺の甲子園」において焼きそばはちょっと特異な位置にあるようだ。第四回の東北・日本海側ブロック編で秋田の横手を取材した。横手もまた焼きそばの街で、いたるところに焼きそばの店があり、百人ぐらい入れる大きな店などもある。
 ひとつの街の人々がみんなして毎日ひたすら焼きそばを食っている、というのも考えてみたらもの凄いはなしで、なんだか理由のわからない不安を抱く。なんで不安を抱くかというと、相田みつをさんふうにいうと、
「焼きそばだもの」
 ということになるだろうか。
 焼きそばはたしかにそれはそれでおいしいが、そんなに毎日食いたくなるものではないような気がする。これを読んでいる人も考えてください。
「あなたは今年何回やきそばをたべましたか?」
 よほどの焼きそば好きでないといつ頃どこで食ったかあまり記憶にないような人が殆どではないだろうか。なかには今年はまだ一度も……というヒトも多いのではないだろうか。ぼくもこの富士宮で食べたのが横手以来であった。
 当事者からいったらいらぬお世話の“不安”であるが、ひとつの場所でひとつのものがこれほど流行りまくる、という現象がいまひとつわからない。
「ほかにもいろんな麺がある。いい出逢いを。まこと」
 そのようなことをほざきつつ逃げるようにして一路山梨県の甲府にむかった。

火山のような力技

 山梨に武田信玄あり。
 同時に「ほうとう」あり。
 これはずっと以前から聞いていたことである。さらに「うまいもんだよカボチャのほうとう」というのも聞いていた。そしてその日まさに生まれてはじめて「ほうとう」を食べるのである。
 道々、高校野球決勝の実況中継をショウタロウ君と興奮しながら聞いていく。互角の力のチームの決勝ともなるとちょっとした運、不運が試合を決めてしまうこともあるんだなあ、などと感想をのべあう。
 楠瀬が見つけてきた「ほうとう」のうまい店は甲府駅南口の「小作」であった。
 座敷とテーブルにわかれた居酒屋的たたずまいの店であった。まあ簡単にいうといかにも心やすらぐ田舎の店である。
 ここでは迷わず「かぼちゃのほうとう一一○○円」を頼んだ。かぼちゃは熟瓜と書いてある。ショウタロウ君は「豚肉のほうとう一三○○円」。
 むかいの席では若いカップルがやはりなにかの「ほうとう」を食べてしあわせそうな顔をしている。山梨ではカップルも「ほうとう」を食べているということを知ってこれは発見であった。
 どんぶりいっぱいこぼれんばかりのアツアツの「かぼちゃのほうとう」が出てきた。もの凄いボリュームである。なんとなくそのアクの強さと食感に名古屋の味噌煮込みうどんときしめんの合体をイメージした。べろべろの平たい麺はきしめんの親分のようだ。なによりも存在感が強烈である。武田信玄の風林火山をおもいだす。夏の今は火山のような猛々しさ。
 これはつくづく優秀な食べ物であると思った。その理由は①いかにも栄養たっぷり②量のわりに安い③店が気取っていない④今は夏だから不利だけれど冬だったらこの濃厚な暖かさ、いや重厚な熱さはたまらないだろう⑤運んでくるお姉さんがまったく無表情⑥これ一杯で酒の肴になるしごはんにもなる⑦ほうとうはこの地でしか本当においしいものはたべられないだろう⑧そういうことがあるからなのか東京進出などヘンな色気はみせていないようだ。つまりおのれを知っているということか。
 理由の順番は脈絡がないものの、麺の甲子園としては大変な賛辞である。
 実はショウタロウ君はこの日の夜に沖縄に帰るのだが、これを食べているあいだに帰りの飛行機の時間がだんだん厳しく近づいてきていることを知ったのである。
 我々はもう一軒、富士吉田に寄らなければならなかった。クルマで回っていると間に合わなくなることがわかった。
 そこで甲府の駅から電車でショウタロウ君を羽田まで送ることになった。杉原が同伴してくれる。
 さらばショウタロウ。こんど間もなくこのシリーズの取材で沖縄に行くことになるからそれまでのあいだに沖縄および八重山の麺類情報を収集しておくように。そしてその折りはおじさんたちを案内するように。
 ショウタロウ君に沢山の宿題をあたえてその店で別れた。
 そこから一路、富士吉田をめざす。ここには有名な「富士吉田うどん」がある。
 けれど吉田うどんは主だった店が昼頃で終わってしまうという。そこは楠瀬がなんとか根性で一軒の店をみつけた。目立たないところにあってしんとしている。
 密かな人気店なのか暖簾の下半分が掠れていてそこに書いてある文字がもう読めない。沢山の客がくぐり抜けてきたのでそうなったのかもしれない。
 通された部屋は三畳間で丸いチャブ台がひとつ。壁にはいたるところ染みがあり、畳はささくれだっていた。
「うどん博物館のたたずまいですな」
 今泉三太夫があたりを見回しながら言う。店にはおばあさんが一人。
「七○年前にたてた店だからあちこち古いですけんども……」
 持ってきてくれた水は懐かしいワンカップ大関のコップに入っていた。
「いまおしんこ持ってくるからに」
 おばあさんはとても親切でヒトがいいようであった。
「こういう店はもの凄くうまい可能性があるな」
 ぼくは低い声で呟く。
「間違いないですな。私のカンと胸騒ぎが……」
 今泉三太夫も呟く。
 待つことしばし。やがてめあての「吉田うどん」が運ばれてきた。吉田うどんはいまこのあたりに約五○軒。ぐんぐんのしあがっている期待のご当地うどんだ。
『絶品うどん図鑑』(はんつ遠藤=生活情報センター)には「味噌や醤油をあわせた温かい汁、さらりとしたちょっと濃いめの味噌汁のようなスープ。さすがは富士山麓。良質の水が生き生きとしている」と書いてある。代表的な店は「桜井うどん」で噛みごたえのある固い太麺に茹でキャベツがめずらしい、とある。
 いやはや待っていました。まずはみんなしてちゃぶ台の上のうどんをすする。
「噛みごたえゼロの歯にぐちゃりとくっつく麺。半生のようなキャベツが温い汁のなかで途方にくれている。馬の肉がうろたえてキャベツとうどんの中に隠れようとしている。汁はモロに合成調味料の濃厚な刺激味」
「うう」
 温厚な楠瀬が喉の奥で唸っている。
「うう」ぼくは咳き込む。
「うう」カメラの佐藤の目にキラリと光るものがある。静岡掛川出身の佐藤は、富士宮の焼きそばで状況的に静岡勢の不利をさとり、この「吉田うどん」に最後の勝負をかけていたフシがある。
「うう」
 その佐藤が飲み込めずに苦労している。
「お店のおばあさんの対応は実にいいんですけどねえ」
 どんな勝負にも運、不運はあるものだ。

(次回は大座談会「麺の甲子園」各地方ブロックかく戦えり)
 
# by shiina_rensai | 2006-12-27 14:53 | Comments(93)

第7回 文学的中京うどん――ああわたしはうどんのような人生だった。
小説「味噌煮込みうどん」

 その日私は名古屋にいた。だからどうした、という声も聞こえてくるが、名古屋といったら「味噌煮込みうどん」ではないか。私は新幹線の改札口を出てすぐ左側のキヨスクの隣に場違いなピエロのように身を竦(すく)めて佇み、相変わらずの激しい喧騒の中で静かに八丁味噌の香りに思いを広げた。方針は決まっていたが、まだ微かな蟠(わだかま)りが私の胸のまわりに小さな澱みを作っていた。焦思にも似た秘密の煩悶があった。見知らぬ人々が慌ただしく行き交い、埃臭い熱風が排気ガスにまじって膨満した空気にまざりこむ。
 私は孤独に逡巡していた。「味噌煮込みうどん」と決めてはいたがこの大切な日に私は「山本屋本店」と「山本屋総本家」のどちらに行けばいいのか決めかねていた。店の名前は私の昏惑をあざ笑うかのように巧みに近似し、それぞれが怜悧に自己を主張していた。噂によればこのふたつのよく似た名前の店は互いに張り合い黒豚骨肉の争いをしているという。五年ほど前の万里子の嘲笑がふいに私の耳朶(じだ)の奥に蘇った。万里子は浅葱(あさぎ)色のスカーフに形のいいおとがいを包み、城の近くの大通りの僅かな薄闇の中で私にいくらか掠れた声で言った。
「東京に山本山と山本海苔店があるようなものよ。その強(したた)かな突き放し方があなたのやりかたに似ているわ。私たちもそれと同じよ。あなたのやり方を考えていたわ。人間としてどうなのかってね」
「だからそれはもう」
「もう、なんなのよ。私から言うわ。私たちもうおしまいなのよ」
 闇の向こうに屹立する城の上の鯱が夜霧に濡れてむせびなくような夜だった。
「名古屋には夜霧なんかいっぺんも出たことにゃあよ」
 ふいに男が言った。ただの通りすがりの男のようであったが哀傷にむせぶ私にはそれに応じる余裕はすでになかった。
 この「麺の甲子園」も長くやっているとマンネリを感じ、いろいろ書き方に工夫を凝らさなければならない、という自負のもと、今回はタイトルを小説「味噌煮込みうどん」として一昔前の文学同人誌ふうに構成したいと考えたのだが、折角いいところで名古屋の人が通りかかったものだから早くも文学作戦は挫折傾向にある。
 仕方がないのですぐ近くのエスカの「山本屋本店」にむかった。
 万里子も言っていたが、それにしても「山本」さんちというのは東京も名古屋もなんでこのように張り合うのであろうか。その秘密に迫りたくなったが、今は早いところ行列に並んでおく必要がある。十一時を少し回ったところだがすでに十人ほどの行列ができているのだ。店の人はさすがに行列をさばくのに慣れていて十分ほどで席に案内された。
「味噌煮込みうどん」は二○○四年に行われた輝け!第一回全日本麺の甲子園(『全日本食えば食える図鑑』新潮社刊、すいませんぼくが書いた本です)で東海・中京ブロック優勝。全国大会でもベスト四進出。準決勝で西日本Bブロック優勝の「さぬきうどん」に敗れたが今回も優勝候補の強固な一角にある。
 間もなく注文の「豆腐けんちん入り味噌煮込みうどん」がやってきた。あちあちの鍋にフタが八割りぐらいの比率でかぶさっている。フタに空気を抜く穴がないのは、フタの上にうどんをのせて食べるようになっているからである。どの客にもそういう案内がある。すべてテキパキしている。アツアツのうどんをハフハフいって食べる。それにしてもアツアツハフハフだ。早めに文学調をあきらめていてよかった。まだ続いていたらこんな情景で万里子をどう描いたらいいのだ。
 夜霧に追われるようにしてやってきた私は万里子と向かいあっていた。ここまでくる間のぎこちなくしかもとぎれとぎれの会話はいきなりの八丁味噌の濃厚な匂いのなかで重い沈黙に変わっていた。私はメニューを眺め、万里子の出方を待った。
「特選黒豚入り味噌煮込みうどんにするわ。ごはんとオシンコつけてね」
 万里子はオレンジがかったルージュの中で静かに言った。

 それにしても特選黒豚入り味噌煮込みうどん税込二三一○円という値段である。あっ、もうこのあたりの文章には万里子はいないのね。だから安心してどんどんいくが、たかがと言ってはナンであるが「たかがうどんで平気で二○○○円以上というのはいかがなものか!」という意見は二○○四年の大会にもあった。たしかに「味噌煮込みうどん」はおいしいがこんなに高くなってしまって果してそれでいいのか。
 万里子は「人間としてどうなのか」と私にむかってするどく言っていたが、私は味噌煮込みうどんにもそのことを問いかけたい。
「あなたはうどんとしてどうなのか」

ルポ「きしめん野郎」

 次のこの章はいわゆる普通の食味探訪記調でいってみたい。思えばこの連載では案外こういう書き方はしてこなかったのである。
 名古屋で麺といったら「こっちのほうが本場ものだぎゃあ」といって出てくるのが「きしめん」であろう。ここで筆者は(ぼくのことですね)きしめんについてその歴史や製法などについて少し調べてみるか、と思ったが、今回も探訪言及すべき麺が大変多いものだから、それらを書いていくと全体のスペースがなくなる。そして読者はかならずしもそういう研究的概説を求めてはいない、という気もするのでここは単純に印象評価でいくことにした。
 そして「味噌煮込みうどん」の二○○○円にからむ「うどんとしてどうなのか問題」をふまえ、もしかしたらこの「きしめん」こそが名古屋の主力麺なのではないか、という命題を持った。
 夜になって同じエスカの地下にある「きしめんの吉田」に行ったら、いまさっき麺が切れました、と店のおばさんに言われた。一日の麺が閉店まぢかに売り切れるというマーチャンダイジングはなかなか優れていると言わざるを得ない。
 しかし、いちど「きしめん」に思いをはせてしまったこの身としてはなんとか今日中に一杯ぐらいのきしめんに触れ合っておきたい。すぐにタクシーに乗った。
「どこかきしめんのうまいところへ」と言うと、
「名古屋で一番きしめんがうまいのは新幹線のホームの立ち食いだよ」と言う。それは以前にも聞いたことがある。しかしそれでは今回は駄目なのである。
 運転手は「きしめんのうまいところと言われてもなあ」と言って困っている。そこで初めてわかったのは名古屋では「きしめん屋」というのはとくになく、うどん屋に当然の同伴者のようにしてきしめんが置いてある、という話だった。同時に名古屋では蕎麦屋というのが極端にすくない、ということも実感した。
 名古屋の麺事情については清水義範さんの名著『蕎麦ときしめん』でかなり衝撃的に紹介分析されていてそれは同時に優れた名古屋文化論になっている。今度の取材でこの本を久しぶりに読みかえし、たしかに名古屋の本質を強烈に突いているのに感動した。
 さてしかしその日、結局三台のタクシーに乗ったがみんな同じようなもので、これはという店を誰も知らない。結局タクシーの運転手が頼りなげにあてもなく走っている途中でこっちが見つけた「きしめん」の看板のある店に入ったが、ここにとりあげるほどのものではなかった。ものすごい空転。
 結局翌日また「きしめんの吉田」に行っていかにも名古屋っぽいきしめんを食べた。
 この店で驚いたのはめちゃくちゃにきしめんの種類が多いことであった。あつい「きつねきしめん」があると「ころ」と呼ぶ冷たい「きつねきしめん」がある。あつい「天ぷらきしめん」があると冷たいのがあるという具合。店のショーウインドウに並んでいる代表的なものには「きしめん」の「めん」は略されて「きし」だけになっている。おろしきし、あんかけきし、やまかけきし、玉子とじきし、ごま酢きし、八宝きし、五目とじきし、新発売!カツカレーきし、ともうなんでもありというかなんでもいいというか。
 けれど本当に問われるべきは「きしめん」そのもののうまさのレベルだ。平麺独特のベロベロ感の評価は完全に慣れと好みで左右されるような気がする。そこのところの評価がぼくのようなソトの者からみるとどうも分かりにくい。
 ぼくは「きしめん」はいいやつだと思っている。けれどあまりにもいろんな方面に進出しすぎて、いまやどこにでも口をだす軽い「きしめん野郎」のようにも思える。それについては名古屋そのものが「きしめん野郎」状態になっている、という印象もある。
 たとえば人気の「ヨコイ」の「ミラカン」や「あんかけスパ」はスパゲティというにはあまりにも乱暴だ。ここもメニューを見るとコンビニのカップメン売り場のように【沢山/たく/さん】の種類があって見てると目玉がクラクラしてくるが、肝心の麺がどう考えても本場のスパゲティとはほど遠く、これで名古屋はいいのであるか、と身をひくような気分だ。
 マスコミに面白がって取り上げられる南山大学そばの甘味屋の「抹茶小倉スパゲティ」などはお化け屋敷のような食い物だからあれをまともな情報としてとらえてはいけない。本誌のグラビアにも大きく出ているが単なるゲテモノで、名古屋の人が好んで食べているわけではない。本誌も含めたマスコミの孫びき取材の連発で店も客も幼稚にカン違いしているとしかいいようがない。
 そんな意味では「寿がきや」のマヨネーズをかけて食べる安くて下品な冷し中華などはこれはこれで大きな存在感に満ちている。
 ある名古屋人が「寿がきやではじめて外食の味を知り、寿がきやで初恋の気配にフルエタ」と言っていた。それこそ文化ではないか。
 そんなことにからんでもうひとつ取り上げたいのが「味仙(みせん)」の「台湾ラーメン」である。二回の取材で今池本店と矢場店に行ったが、ここは入ったとたんに異国の気配があって、矢場店などはその大きな規模からしてたちまち“異国”だ。台湾や香港によくあるなんでも屋的巨大中華料理店の感覚。ウェイトレスも中華系が多く、入っていった客に全員が「イラサマセー」と叫びまくるというやつだ。この異国気配がなにかしっくりしているのが不思議だ。
 ここの売り物「台湾ラーメン」は別に台湾にルーツのあるものではないらしい。強いていえばオリジナル。名古屋産ということだ。系統的にはタンタンメンだが半端でなく辛い。しかし辛いけれどうまい。うまいけれど辛い。辛いけれどうまい。あまり辛すぎる人にはマイルド味がある。それを「台湾ラーメンのアメリカン」というらしい。それを聞いて嬉しくなった。一種の陽気な換骨奪胎麺だ。
随筆「伊勢うどん」

 私が「伊勢うどん」を知ったのは今から五年ほど前だった。
 おお、五年といえば万里子と夜霧に別れた年だ。そういうこととはまったく関係なく、三人の旅仲間と鳥羽湾の答志島に行くために志摩半島の鳥羽の港に行った。
 島に向かう連絡船の待合室にうどんを売っているコーナーがあった。やれうれしやとみんなで注文した。晩秋のよく晴れた日差しに海と空が光っているここちのいい朝だった。待つことしばし。やがて底の丸いどんぶりが「あいよ」という声とともに手渡された。立ち食いである。
 しかしどんぶりを手にした私はしばし沈黙し、いささか静止した状態で自分の手のうちにあるドンブリの中を眺め続けた。
 いやこれはいわゆるひとつの面妖麺である。見回すと私の連れの男たちも同じように動きを止めていた。中にはなぜか不思議な笑いを見せている男もいる。よく意味がつかめずどう反応していいか分からず、とりあえず「笑っちゃう」というやつだろう。
 私は茶色の巨大なミミズ型生物もしくはなにかの間違いでここに登場したなにかのウンコ、という最悪の瞬間的反応を自覚した。
 見てはいけないものを見てしまった、という狼狽の念もある。その一方で「まさか」という常識的な精神の対応もあるから、実際に動きをとめて沈黙していたのはせいぜい数秒のことであったろうか。
 私が初めて見た「伊勢うどん」は直径二センチはゆうにあった。汁はどんぶりの底のあたりに茶色いコールタールのような様子でへばりつきその色に染まったうどんは全体にねちゃり感で膨満していた。そいつがなにかの拍子に勝手にぐねぐね動きだしたとしても、そのときの私はあまり違和感を持たなかっただろう。
 おそろしい奴、というのがそのあとのいくらか落ちついてからの感想であった。全体に信じがたいほどに柔らかく、うどんというよりもなにか弱々しい生き物に触れた気がした。食べたあと、このことは早く忘れてしまえばいい、という小さな思いが消極的拒絶としてひっそり心の隅を流れた。
 けれど人生というのはわからないものだ。思えばその日のいささかぎこちない「伊勢うどん」との出会いは、私たち(私と伊勢うどん)にとって案外しあわせなものであったのかも知れないのである。
 それから幾星霜、私はいつもの麺喰い団の一行と近鉄線にのって伊勢を目指していた。愛知・伊勢ブロックを制覇するためにどうしてもいかねばならない伊勢うどん参りだった。
 近鉄電車は思った通り社運を賭けて!とでもいうような超北極型冷房で全車をとことんまで冷しまくり私たちの吐く息はすでに白くなっていた。
 新聞を持つ両手の表面には不安な痛みが走りだし早くも手袋がほしいくらいだ。たまらず歩いてきた車掌に窮状を訴えたが「これでも暑い言う人がおりますんで」と即座に却下。
 便所に行きながらこれで暑いといっているのは人類と言えるのだろうか、とおそるおそる見ていくと後部のほうにそれらしき一団がいた。
 おばさん四人組である。全員丸々太って、あろうことかノースリーブですでにウゴーウゴーなどと深い寝息をたてている。
 この人たちは平均七~十五センチの皮下脂肪の【鎧/よろい】に覆われたコモドドラゴンかマストドン級の地上最強純正関西種のおばさんである。怒るとしばしば口から火を吐くくらいであるからこういう人にはマイナス四十度の冷凍庫を持ってきても暑いと言うであろう。我々は肩を寄せ合い両手をこすりながら「がんばれ!」「眠るな!」などと互いの頬にビンタを張り、励ましあいながらなんとか目的地の宇治山田駅まで耐えたのだった。
 降りた駅は閑散としていたが当たり前の季節の温度があった。我々はやっと人類生存適正温度の温もりに身やココロをほぐしながら、すでに調べてある駅そばの「ちとせ」へ乱入した。
 まだ客は誰もおらず田舎っぽい店はやや【黴/かび】くさかった。クーラーがついていたが頼んでこれは消してもらった。いまはむしろ火鉢がほしい。奥の厨房が騒がしく、この店には案外たくさんのおばさんがいるらしいとわかった。ここは「伊勢うどん」発祥の店であるという。
 あのなんというか、うどんなのかウンコなのかわからないような不思議なるものだけを食いに冷凍電車で凍死寸前になりながらここまでやってきたのである。五年前の鳥羽の港の記憶だけで書いてしまうのはアンフェアであろうと「伊勢うどん」一杯食うためだけにここまでやってきたのである。
 さすが本場である。壁に伊勢うどん四五○円のほかに月見、玉子入り、おろし、きつね、かやく、鳥なんばん、肉、山かけ、天ぷら、冷やし、と伊勢うどんのバリエーションがならび、伊勢うどん定食というものまである。
 冷えきった体に「鍋焼き伊勢うどん」などがあったら頼みたいところだが、麺の甲子園の審議団としてはオーソドックスにただの「伊勢うどん」を頼んだ。
 待つことしばし。やがて伊勢弁というのだろうか、けっこうがさつなかんじのお姉さんが元気な声で伊勢うどんを持ってきた。五年ぶりの再会である。
 やや緊張する。あれから五年、いろいろあったけれど元気でいたのか万里子、じゃなかったお伊勢ちゃん。
 おお、どんぶりの中にいる伊勢うどんは記憶の中の面妖なる伊勢うどんとはだいぶ面がわりしていた。まず全体にスリム。細くなっているだけ本数が多いようでそのあいだをいかにもだし汁然としたおつゆがたっぷり。あの鳥羽のコールタール汁とは随分違う。
 味もなかなかのものだ。案外コシもあり、全体に心地のいい小麦粉の抱擁のようなものを感じる。おお。しばらく見ないうちに「お伊勢ちゃん」はすっかりきれいになっていたのだ。
 念のために足を伸ばした「つたや」ではもっと洗練されていた。ここは「伊勢うどん」五五○円。上品でボリュウムもある。満足して帰路に。
 駅に行く途中のタクシーの運転手に、伊勢うどんが急速に変化してきていることを聞いた。むかしはどろんとして柔らかくて箸でつかもうとするとそのまま切れてしまったという。それだけ柔らかくコシというものがなかったのだ。
「離乳食がわりにしていたからカミさんなんかまったく楽だったでえ」
 運転手は伊勢弁で言った。
 伊勢まで足をのばしてよかった。帰りの電車は行きよりは安心できる温度だった。

あとがき

 なんだかんだと言われてもやはり「味噌煮込みうどん」は強かった。しかし強豪「きしめん」を破ってあの「伊勢うどん」が決勝にまで進出してきたのには我ながら驚嘆した。決勝は癖のあるうどん同士で、からみあいもつれまくる熱戦だった。なおこのブロックの取材ではグラビアに出ているが本文で割愛したものに「くらげ」「春雨」「鉄板スパ」などがある。くらげは新顔ながら知名度の高い「抹茶小倉スパ」をバント攻勢で破り二回戦へ。善戦したが歯切れがよすぎて最後の粘りが足りなかった。春雨もよくやったが一回戦でぶつかった相手があまりにも異質であり驚いているうちに惜しくも予選退敗した。
(次回はいよいよ激戦、関東・西東京ブロック)
 
# by shiina_rensai | 2006-10-27 15:53 | Comments(547)

第6回 問題の多い北陸クセ麺ジグザグ街道
富山ブラックラーメンに怯える

 麺喰い団は北陸に飛び、日本海側から太平洋側にむけて縦断する恰好で中部、近畿に向かうことになった。
「なんか台風みたいでいいっすね」
「めざすは鳴門海峡!」
 いつものように不毛の会話を交わしつつ羽田空港から富山空港へ。団員はぼくを入れて四名。金沢から今泉三太夫が加わる。
 寝不足なのでうとうとしているうちに富山に着いて空港でフラフラしているうちに楠瀬がレンタカーを借りてきた。後部座席でさらにウトウトしていると氷見市に入っていて、ぼおっとしているうちに「あけぼの庵」のテーブルにたどりつき、ウーとかアーなどと言っているうちに「氷見手延うどん七百五十円」が目の前にあった。緊張感がないことはなはだしい。
「日本三大うどんの一つと讃えられる氷見手延うどんを一番おいしい状態でお召しあがり頂くために、うどんは【茹/ゆ】でたて、天ぷらなども揚げたてでお出ししております」
 テーブルの上にそのようなことを書いたカードが置かれている。
 なるほど「うまい」。
 あつあつの素うどんを食べたのだが揚げたての天ぷらとともに食べたほうがよかったかも知れない。緊張感がないから堪能している余裕もなくあっという間に食べおわってしまった。あまりの速さに申し訳ない気持ちだ。
「日本三大うどんを言いなさい」
 麺の甲子園審議団に聞く。
「ええと、讃岐に稲庭に野村屋のひやしぶっかけ」
「何? その野村屋って」
「郡山市内の老舗。うちの田舎です。そこの野村屋のひやしぶっかけが日本三大うどんのひとつと数えられている、とその店では言っています」
「氷見うどんがないじゃないか」
「だから困っているの。ええと日本三大祭は神田祭りに祇園祭りに天神祭り。日本三大商人が大阪商人、近江商人、伊勢商人。日本古典三大随筆が枕草子に徒然草に方丈記」
「ああにを言っておるのだ」
「日本三大夜景が函館、神戸、長崎。日本三大温泉が有馬、下呂、草津。日本三大履物が草履に下駄に……」
「もういい、先を急ごう」
 気を取り直してたどりついたところが富山市西町の「大喜本店」。
 ここはいま地元を中心に勢力を広げている話題の強烈キャラクター「富山ブラックラーメン」元祖の店である。富山市内に入ったところで十年ほど前の出来事をふいに思い出した。
 あるとき富山の駅の裏にあるラーメン屋にはいったらそこがおそろしくまずくて、週刊誌のコラムに「バカヤロ的にまずかった」と書いたら、富山のラーメン業界が富山のラーメン全体がまずいと言われたと過剰反応して激しく怒り、スポーツ新聞や地元テレビのワイドショーなどが騒ぎだしてえらい騒動になった。以来富山のラーメンを語るには神経を使うのである。
 富山ブラックラーメンの店は細長いつくりで、全体に黒が基調。壁にぐるりとカウンターがくっついているので全員壁にむかって食べるようになっている。だから入っていくと客の頭の後ろ側と背中しか見えない。雰囲気がすでに圧倒的に黒い。
 あのエート「暗い」ではなく「黒い」のね。七割がた埋まっているのは単独客なので、お喋りの声はあまりなく、これは人気名物店のいわゆるひとつの特徴である。厨房に沢山の人がいて黙って忙しく立ち働いていてメニューは「中華そば小(並)六百円、大九百円、特大千二百円」のみ。これらも流行り店の特徴。客が次々に入ってくるのでいろんな注文はうけられませんというやつだ。
 我々はまだあとがあるので全員(小)を頼んだ。それにしても期待に胸がふくらむ、つうか胃をふくらませて待つ。
 間もなくおばちゃんの手にむんずと掴まれたブラックラーメン(小)がカウンターの上にならべられた。すでにブラックペッパーがかけられているそのドンブリの中は色あくまでも黒く、スープは醤油をそのまま流したようにみえる。全員無言でまずそのブラックスープをおむ、じゃなかったのむ。
「うう」。思ったとおりしょっぱい。ダシはきちんと出ているがとにかくしょっぱいのでラーメン用にこれから薄める前の状態のがそのまま出てきてしまったような気さえする。おそるおそるまわりを見回すとみんな同じ色だ。よかったようなそうでないような。次に麺をすする。麺がスープに黒っぽく染まっている。
「うう。これもしょっぱい」
 黒ラーメンが生まれた背景は、そのむかし労働者などがラーメンをオカズに弁当のめしを食べていたのでそれならもっときちんとオカズになるように味をとびきり濃くしてやろうと経営者が考えたことによる。
 なるほどラーメンライスならいいかも知れない。しかしこの店ではゴハンは扱っていないのであった。よく見ると生タマゴがメニューにあった。せめてそれが欲しくなる。
 見回すとこれの(特大)を食っている凄い人もいる。ごはんや生タマゴもなしにこの強烈しょっぱしょっぱラーメンの特別大盛りを全部食ってしまう人を尊敬したい、つうか畏怖せしめるものを感じるのであった。今のコレ、言葉の使いかた間違っていないよね。
 驚いている間にも客がひっきりなしに入ってくる。店の雰囲気といい、事前の評判といい、この店のラーメンにはかなり熱烈なファンが沢山いて、それらの人々はたとえばこの強烈に濃くてしょっぱい味に全身がからめとられてしまっていてもう離れることができない状態になっているのではないか。という印象さえ受けた。
 麺の甲子園としては、この富山のブラックラーメンにどう対応していったらいいか。
「凄いけれど、これがうまいかどうか、といったらはたしてそうであるかという疑問を抱いてもやむを得ないということを認めるにやぶさかでないかどうかという判断にうなずかざるを得ないという結果に陥ってもそれをよしとする考えも認めざるを得ない」というしかないのであった。

長身大門素麺にあとずさる

 レンタカーの中で全員いつもより沢山のペットボトル入りのお茶を飲んだ。
「今のブラックラーメンですが、そのへんのニーチャン、ネーチャンがイチャイチャしながら食うことができない、というのがとにかくいいと思いました」。なかなか結婚できない独身のカメラマン佐藤が力をこめていう。
「参考にしておこう」
 審議団の杉原が言う。
 ちょうどそんなところにしらじらしい偶然で「麺の甲子園」大阪と讃岐の地区大会の結果速報が飛び込んできた。
「おお。あのあたりの決勝大会がいま行われていたのか。もうじき夏だもんなあ。それにしても関西ブロックを見てください。強豪が沢山ひしめいていてどうなることかと思っていましたが『肉吸いうどん』が『チリトリ鍋』を破ったんですね。これは凄い。あの肉吸いですよ!」
「チリトリ鍋のブロックで京都の『たぬきうどん』と大阪の『きつねうどん』の対戦が×印になっていますよ。なんですかねこれは?」
「たぶん両者バカしあいで試合にならなかったんじゃないでしょうか」
「じゃあ一試合勝っただけで決勝にかけあがったチリトリ鍋は有利だったんだ」
「決勝でそこを『肉吸い』がじっくりねっとり攻めた」
「攻められるほうはたまったもんじゃないでしょうなあ」
「一度攻められてみたい」
「『肉吸いうどん』は西日本でも相当強いんじゃないですかね」
「楽しみです」
 一同盛り上がりつつ山越えして岐阜県に。飛騨高山はカツオだしの“地ラーメン”が勢力をのばしているという。
 その高山ラーメン発祥の店「まさごそば」に入る。親父が一人カウンターの中に入っていて「あいよ」などといってちゃっちゃっと作るというよくあるスタイル。客は派手で品のないおばさんが一人、ナナメに煙草をくわえて煙を口の横からだしている。常連らしい。カラオケスナックかなにかを経営していて店を開く前の腹づくりというところだろうか。ラーメンはすぐに出てきた。
 普通の濃さのスープがありがたい。カツオブシの匂いが鼻孔をくすぐる。くふくふ。すぐに麺喰い審議団一同点数を書いたボードを掲げる。8点、6点、7点、7点。いや、ボードはなかったな。低い声でボソボソ点数を言い合っただけだ。おお、結構高得点である。
 今回の移動スケジュールは楠瀬の作成だが相当乱暴なものでこのあとまた富山に戻るのだった。
 砺波(となみ)市の「お多福」。ここでは大門(おおかど)素麺が出場準備をしている。特徴は干した素麺を切らないでそのまま長いのを出している。
 カウンターでビールを飲んでいる常連らしい中年の男。カメラマン佐藤が一眼レフを構えると「おおマスコミか。なんていう会社?」といきおいこんで聞く。
「小説新潮といいます」
 客の親父さんあきらかに聞いたことないな、たいしたマスコミじゃないな、というガックリ顔だったが気を取り直して解説してくれる。
「素麺はここの店のように切らんで食うほうがうまいよ。一口サイズにまとめればええから不便じゃない。味は切っても切らんでも変わらんけど小豆島の素麺だって元は長いのを切っとるだけやろ?」
 どおーんと山盛りいっぱいの素麺が出てきた。素麺を店で頼むとふた口み口も【箸/はし】でとるともうそれで終わってしまうぐらいの量しか出てこないところが多いからモノ足りず不満であったがここは違う。
 なるほど麺はずずーんと長い。やる気いっぱい。おおこれは有望強力麺か。
 でも一同ほぼ同時に一口すすって「レレレレレ化」した。麺はあきらかにゆですぎでくっちゃりからみつき、たっぷりのタレは異様に甘すぎである。辛い大喜ブラックラーメンのあとは蜜のように甘いタレだ。おおやばい! ここも富山県だ。
「どや、うまいやろ!」
 客の親父の声が大きい。
「うう。長いですね」
「うまいやろ!」
「長いですね……」
 一人で親父の質問に答えなくてはならなくなったカメラマン佐藤の眼が我々に助けを乞うている。我々は八割がた残ったままの大盛り素麺四つと佐藤を残して黙って店を出る。
「あの素麺、絵にはなるのでグラビアのアタマに載せたいと思っていたんですが一回戦敗退というのではカッコつかないかなあ」
 楠瀬が店の玄関を出たところでつぶやく。
「いや甲子園で選手宣誓やるけれど一回戦でズタボロに負けて早々に引き上げる高校ってあるやん。あれと同じと思えば」と杉原。
「どや、うまいやろ」
 カウンターの客がまだカメラマン佐藤に言っている。声が恫喝に変わっている。
「はい。長いです」
 絞り出すような佐藤の声がきこえる。我々は佐藤を見殺しにして駐車場に急ぐ。

幻の日本三大珍麺

 金沢にむかい「白鳥路ホテル」というえらく洒落た名前とたたずまいの宿に入った。荷物を置いてすぐに夕食というか、まあビール方向にすすむ。本誌でもお馴染みの居酒屋名人太田和彦の居酒屋ガイド本に出ている「浜長」という店にむかった。しかし我々程度にはやや敷居の高い高級な店構えなので、入るのに一瞬ヒルンだが店の中は意外に庶民的なしつらえであった。
 生ビールを頼んだところで今泉三太夫が合流。その店の肴として出てきた「イカソウメン」「イカの黒づくり」「魚ゾウメン」「岩モズク」に一同注目した。どれもそこそこの長さがあり、変わり麺として金沢地区大会に出場させられるのではないかという「スカウト会議」がにわかに始まった。
 見たかんじ強そうなのは「天然岩モズク」だ。そこでこの海のもの四種の中から代表を決める予選リーグをひらき、さっそく「天然岩もずく」が予選通過。能登代表として決勝トーナメントに進出した。話は早いのである。
 店を出て今夜金沢のラーメンを食べると本日一日で富山、岐阜、石川三県のラーメンを制覇することになる、ということに気づき「万味」の中華そば五百円を全員注文した。
「うーん」金沢のラーメンもあまりピンとこない。だんだんはっきりしてきているのは、日本最大のラーメン激戦区はとにかく東京であるということだった。
 東京には全国から突出した実力派ラーメンが密集しているのである。しかも東京の客は百戦錬磨。ちょっと味が落ちたり手抜きがわかったりするとたちまち客足は絶える。麺喰い団はこの長い全国麺喰いツアーにおいて次第にそのことの現実をきっぱり確信しつつあるのだった。
 翌日は福井に向かう。この取材旅は当然ながらホテルの朝飯は食わないから出発は素早い。いきがけに近江町市場に寄っていった。規模の大きな立派な市場である。うまそうな魚が並んでいてくらくらする。イキのいい能登半島の「岩もずく」を見つけた。塩だししないとすぐには食べられないというのが残念だが、電光石火のトーナメント出場を讃えて佐藤が丁寧に写真撮影。「おれたちこんな色黒でいいっすか……」。緊張してたらたら汗まみれの素朴な岩モズクに「いいぞ」「そのままいけ!」などと激励の言葉を送る。
 クルマを飛ばして福井の三国に行った。「新保屋」に直行。ここには数年前にきて辛味そばを食べて感動したことがある。
 富山のブラックラーメンと並んで今回の北陸大会では事前に注目されていた「麺」のひとつである。
 これまでの経過でみてくるとどうも日本そばはあちこちに注目すべきものが沢山あるのだが出場の機会に恵まれないものも含めて全体にどうも不調である。
 しかし「三国の辛味そばを知ったら黙っていられなくなるぞ」と私は事前に麺喰い団のめんめんに言ってあった。
 午前中の店内はまだまばらな客であった。おろしそば並五五○円。おろし天ぷらそば並八○○円を注文する。
 大根オロシのオロシ汁にカツオ、コンブのだし汁がまざったものが皿に盛られたそばにかかってくる、というシンプルなものであった。
 一同、こあがりでそれをずるずる。誰からともなく「おっ」とか「うまい」とか「いやはや」などと控え目ながら力のみなぎった声がもれる。全体に「シンプルながらきっちり勝負している」なという説得力がある。
 二杯目をお代わりしたいところだが、本日もまだいろいろあとがあるので気持ちとイブクロを説得しておさえる。思い出したが前回来たときはあちこちで連続ノルマ喰いという制約がなかったので何杯もお代わりした。その場合は辛味ダイコンのオロシ汁がどおーんとついてきてそれをつぎつぎにかけていくのである。
 コメカミにツーンとくる深い「うまみ」が脳髄をゆする。さあみんな点数ボードを。
 9点 8点、9点、8点、10点、おお10点がでた。
 念のためという意味で近くのペンション風の辛味そばをたべさせる店に行ったがこれは駄目だった。でも客でこんでいた。
 すぐさま北陸自動車道を飛ばして敦賀までいくことになった。あまりにも連続移動時間が長く、後部座席にいるとすぐ寝てしまうのでそのルートはぼくがレンタカーを運転していくことになった。腹ごなしにもなる。
 目指すは美浜町の「麺房かなめ」。講談社文芸第二部長氏が楠瀬に「麺の甲子園」の参考として教えてくれた「うそば」の店だ。うどんとそばがぴったりくっついた日本三大珍麺のひとつだという。食うと当然うどんとそばの味がするという。食うと親父は必ず「うそばうそだ」と言うという。だからなんなんだという問題もあったが楠瀬が張り切っている。
 日本三大珍麺の一角を制覇したら当然つぎは“どこにあるのかわからないが”残りの二珍麺制覇という新たなる目標も生まれるはずだ。
 二時間かけて到着したら本日休業であった。こら楠瀬、事前に電話でやってるかどうか聞いたらどうなんだ!
# by shiina_rensai | 2006-09-27 17:42 | Comments(1431)

第5回 長崎二大強豪対決。がちんこのもつれあい
好漢芋うどん

 エー、麺の甲子園地方ブロック大会もだいぶ進んでまいりまして今回はいよいよ西九州ブロック大会です。それでは主催の全麺全喰連(全国麺類全部喰うぞ連絡協議会)の代表、粉麦蒸太郎氏からひとことご挨拶申し上げます。

粉麦代表挨拶

 エー、代表の挨拶が終わりました。それでは西九州ブロック大会出場選手が揃っていますのであとは実況で。ゲスト解説に麺類全面研究家の鳴門さん、お隣に麺類大食い探検家の鮫腹さんです。司会はわたくし(以下=主催)です。どうぞよろしく。
 鳴門 よろしく。
 鮫腹 よろしく。
 主催 九州は強豪揃いでして、ここはなんといっても豚骨スープ勢が圧倒的で、昨年は九州・沖縄ブロックで「鹿児島ラーメン」が優勝。福岡の「長浜ラーメン」が準優勝です。今回の西九州ブロック大会に駒を進めてきたのは次の七校じゃなかったエーと七麺です。すでにくじ引きで組み合わせができています。どうですかこの顔ぶれは?
 鳴門 まあ順当なところでしょうな。
 鮫腹 一回戦で「長崎チャンポン」と当たる「トルコライス」というのは? ライスで出場できるんですか?
 主催 あっこれは長崎の新勢力でピラフとスパゲティが同じ分量ぐらいあってその上にトンカツがのっていましてトンカツがライスとパスタをつなぐ東西文化の架け橋を意味するのでトルコライスというわけですが、実は組み合わせができてからトルコライスは出場を辞退してきました。 鳴門 もったいないね。理由は?
 主催 不祥事がありまして。
 鮫腹 どんな不祥事?
 主催 手紙がきまして。
 鳴門 酒、タバコだな。
 主催 匿名ですが……。
 鮫腹 そういう時わたしはそこと対戦する相手チームに注目するんです。匿名の場合はとくにね。
 鳴門 対戦相手は「長崎チャンポン」。地元の最有力だからな。そうかここはモロに同じ地元同士があたるんだ。 主催 ま、そういうわけで一回戦は「長崎チャンポン」の不戦勝。我々は同じAブロックの島原代表「六兵衛」対「熊本ラーメン」に注目したいと思います。
 鳴門 「六兵衛」の進出はいかにも地方ブロック大会っぽくていいね。
 鮫腹 八兵衛じゃないのね。
 鳴門 ふたつ足りない。
 主催 (無視して)完全なローカル麺でこれはさつま芋を粉にして水を加えてダンゴにしてろくべえ突きというトタン板に穴をあけたようなものに突いて押し出してつくります。ま、芋うどん。むかし島原一帯を襲った天保の大飢饉のときに名主だった六兵衛が考えだしたものと言われています。
 鳴門 みんなタケが短いんだね。
 主催 なにしろ芋なんで切れやすいんですよ。でもチビながらみんな【真面目/ま/じ/め】に地道に一所懸命やっています。
 鮫腹 好漢ますます自重せよですな。それにしても大会出場規定の七センチに何本かがやっとクリアという状態ですね。平均すると五センチってとこですか。
 鳴門 甲子園でもえらく背の低い選手ばかりのチームってあるからな。一番大きい選手でピッチャー山口君一六一センチなんて。
 主催 対する熊本ラーメンは「黒亭」。ここは午前十時半開店ですが十五分もするとあらかた席がうまってしまうという人気店で、玉子入りラーメン八百二十円。ちょっと高いかんじなんですが玉子はふたつ。みごとに白身がとりのぞかれているんです。トンコツ醤油味に玉子の黄身が濃厚にからんだりしてもうたまらないですわ。
 鮫腹 主催者がそんなこと言っていいんですか?
 主催 思い出すと言わずにいられない。
 鳴門 のっけから問題発言だなあ。

皿うどんの疑惑

 鮫腹 鹿児島とんこつラーメンに押されて熊本ラーメンは目立たないですよね。
 鳴門 熊本ラーメンというより「黒亭」が突出しているという感じだね。そういう意味では和歌山の「井出商店」と似たような位置にあるだろう。
 鮫腹 辛口の鳴門さんとしては物凄い評価ですね。
 鳴門 初出場の六兵衛は好感もてるけど対戦相手が悪かったね。六対二で「黒亭」の勝ち。
 主催 もう決まっちゃったんですか。でもいいです。私って濃厚味が大好きな人じゃないですか。だから私的には文句ないです。
 鳴門 君が濃厚味が好きかどうかなんて知らないよ。それから自分のことを「〇〇な人」って言うのやめてくれないか。それに「私的には」っていう言い方も嫌いだね。
 鮫腹 まあまあ。
 主催 Bブロック一回戦、第一試合は長崎の「ド・ロ様そうめん」対同じく長崎の「皿うどん」です。
 鳴門 勝負にならないんじゃないの。何? その「ド・ロ様そうめん」っていうの。
 主催 明治十二年、外海町出津の町に赴任したパリ外国宣教会のマルコ・マリ・ド・ロ神父は村人たちの暮らしがあまりにも貧しいのに驚きました。そこで布教活動のかたわら村人にマカロニやそうめんの作り方をおしえましたとさ。
 鳴門 君、なにかパンフレットのようなものをそのまま読んでいない?
 主催 わかりますか。
 鳴門 あたり前でしょう。何だよその「おしえましたとさ」って。
 鮫腹 まあまあ。
 鳴門 もう一方の「皿うどん」は、これはすぐ長崎チャンポンと較べられてチャンポンの付随的な位置や立場におかれてしまっているようなところがあるけれど、本当は長崎の人は皿うどんのほうが好きな人が多いようなんだ。しかもこれは完全に出前で食べるものという位置にあって圧倒的にふるさとの味であり、チャンポンが観光的にも感覚的にも「ハレ」のイメージがあるのに対して皿うどんは「ケ」のイメージがあります。しかし実際には家にお客さんが来たとか親戚が集まった、というようなときによく出されるものであり、酒の肴にもよく、しばらくおくとパリパリ麺があんかけになじんできてまたたいへん美味しくたべられます。好みによってソースなどもかけるとさらにちがった風味で楽しめます。 
 主催 鳴門さんのほうこそ何かをそのまま読んでいませんか。
 鳴門 るさい。
 鮫腹 まあまあ。「皿うどん」で前から疑問に思っていたのは一般的に長崎の皿うどんは油で揚げてかたまっているカリカリの細麺ですよね。あれをうどんというのに私は相当抵抗がある。
 主催 あっ、ちょっとすいません。各地のブロック予選の結果が入ってきました。まずは東北太平洋側ブロック予選の結果です。
 鳴門 おお! 優勝は福島代表の「高遠そば」だ。日本そばがブロック優勝したのは初めてじゃないかな。あの太い葱を箸がわりにしてそばを喰う、というやつだったなあ。
 主催 ええ。もう高遠は大騒ぎだったらしいですよ。今まで地味でしたからね。祝賀提灯サンバ行列が出たりして。葱も踊りだしてたそうです……。
 鮫腹 昨年の麺の甲子園ベスト8に入っていた北の強豪「盛岡冷麺」が準決勝敗退ですよ。驚いたなあ。なにがおきたんだろう。あっ「盛岡冷麺」に勝ったのは宮城県の「うーめん」です。意外な伏兵でしたね。「冷」対「温」の対決だったんですね。強豪冷麺を破ってイキオイをつけた「うーめん」がそのまま決勝まで行ってしまった。
 鳴門 うーめんってそんなにうまかったかなあ。
 鮫腹 審議団の今泉三太夫さんが「うーめえんです」としきりに言っていたのが効いたんですかね。
 主催 そろそろこっちのブロックの試合のほうもお願いします。今の「皿うどん」対「ド・ロ様そうめん」はどうなりますか。
 鳴門 これは十対三で「皿うどん」の圧勝ですよ。

もやしの惜敗

 主催 次は熊本の「太平燕」対長崎上五島の「五島椿うどん」です。「太平燕」というのはハルサメです。鶏ガラスープのだしにフーヒータン(揚げ玉子)、キャベツもしくは白菜、シイタケ、ネギ、モヤシ、キクラゲなど豊富な具がのっています。熊本のローカル麺ですが人気があります。
 鮫腹 贅沢な食感なんですよ。でももともとは戦時中の貧しいときにフカヒレの代用としてハルサメを使ったものだと言われています。
 主催 五島の椿うどんはいまイキオイがありますよ。上五島に製麺所が集中しているんですが工場は増えていていま三十以上あります。うどんと言っていますがうどんよりだいぶ細く、ソーメンよりは太い。椿油をねりこんであるのでずっと炊いてものびない、という特徴があります。
 鮫腹 ぼくはこれが好きでもう十年ぐらい前から中本製麺所の三十袋入り税込み七千八百七十五円のをいつも注文しています。
 鳴門 ずいぶん具体的に言うね。あんたなにか貰っていない? 食べ方はどうなの。
 鮫腹 地獄炊きというのを地元の人はよくやってますね。鍋で茹でてアゴ(飛び魚)だしや、タレに生玉子、ワケギや生姜、トウガラシなどをいれてすき焼きを食べるようにして煮ながら食べたりしてます。
 鳴門 なんで地獄炊きなんて恐ろしい名前なの?
 鮫腹 むかし旅人にこれを出したら「すごくうまい」と驚嘆して言ったそうなんですがその人は訛りがひどくて「じごくうまい」「地獄うまい」と聞こえた、という説を前に来たとき聞いたんですが、今回の取材では食べると地獄の釜にいるように汗を沢山かくからだ、という説を言ってましたね。
 鳴門 すごくうまいを「じごくうまい」。そうとう訛りのひどい人だったんだなあ。
 主催 この対決はどうですか。
 鮫腹 うーん。難しいところですねえ。
 鳴門 大勢でからみついて来るハルサメを玉子でからめて五島うどんの逆転勝ちだな。
 主催 あっ、また各地のブロック大会の結果が入ってきました。今度は東北の日本海側ブロックです。
 鮫腹 おお! やっぱり優勝は「酒田のワンタンメン」でしたか。前回の全国大会で準優勝した実力麺ですものね。決勝の相手は「稲庭うどん」か。もうこの山形麺対秋田麺は伝統の一戦になっていますね。
 鳴門 「もやし」が一回戦敗退ですか。まあしょうがないだろうなあ。このブロックは思いがけないニューフェイスがいて注目していたんだが残念。
 主催 「もやし」は麺の甲子園地区大会に出られただけでもうれしいってさわやかに嬉し泣きしてみんなグランドの土を掘ってたそうですけど固いって困っていたそうです。
 鳴門 もやしだものなあ。
 鮫腹 「わかめ」も一回戦で敗退ですね。いいところまでいくんだけどねばりがない。
 鳴門 あれはねばりは無理だねえ。
 主催 続いて二回戦、準決勝です。「長崎チャンポン」対「熊本ラーメン・黒亭」。
 鮫腹 チャンポンはいつごろから長崎の名物になったんですかね。
 鳴門 店でいうと「四海楼」が有名だね。中国福建省から長崎に来た陳平順さんという人が明治三十二年に作って売り出して評判になったというのが定説だね。
 主催 福建省の人は倹約家でコヨリ一本でも捨てずに取っておく、なんてよく言われてますが、家庭で残った野菜や魚介類を集めて作ったのがチャンポンと言われてますね。だから当時貧しかった人の味方になってたちまち流行っていったという。
 鳴門 長崎の街を歩くとチャンポン屋だらけだよな。あれだけあって店によって味にいろいろ差があるものなんだろうか。
 主催 最初の店「四海楼」が大きなビルになっていていつも満員です。

ニーチェの逆襲

 鮫腹 行きましたよ。ちゃんぽんミュージアムがあるんですよね。あそこに行くと麺喰いにはいろいろためになることが書いてあります。チャンポンの語源が「吃飯」(ごはんはたべましたか)からきているということを知りました。それから斎藤茂吉から瀬戸内寂聴さんまでいろいろ有名な人の応援メッセージがあってまさにメジャー級。寂聴さんの色紙には「ちゃんぽんの由来を肴に秋彼岸」とありました。
 鳴門 だからこの麺が試合場にいくともうその応援団ではち切れそう。こういうパワーと金のありそうなのが「六兵衛」と対等にたたかうということに私は何かウツウツとしたものを感じるんだ。
 主催 「六兵衛」は一回戦で敗退しました。
 鳴門 そうだっけ。相手は?
 主催 これから対戦する「熊本ラーメン・黒亭」です。 鳴門 黒亭たった一軒でちゃんぽんビルの大勢力と戦えるのかな。
 主催 黒亭の店内には色紙よりも大きい紙にこんなことが書いてあります。
「鋭くて柔和、粗野で繊細。慣れていて珍らか、汚れて純潔、愚者と賢者との密会。ぼくはこうしたすべてであり、そうありたい。鳩であって同時に蛇であり豚でありたい」 鮫腹 誰が書いたんですか?
 主催 ニーチェです。
 鮫腹 えっ! ニーチェが熊本に来たんですか。
 主催 来てません。店主がニーチェが好きで……。
 鳴門 寂聴さん対ニーチェか。
 主催 そういうことでも……。
 鳴門 ニーチェの勝ちだな。文字の量が違う。
 主催 えええええ!
 鳴門 と思ったら投書があって外国人の助っ人は禁止されていると。大会規定に書いてあるそうだ。
 鮫腹 どこからの投書だったんですか。
 鳴門 匿名に決まっているでしょ。
 主催 もうひとつの準決勝は「皿うどん」対「五島椿うどん」です。
 鮫腹 うどんうどん対決ね。
 鳴門 どちらも譲れない。
 鮫腹 しかもどちらも同じ長崎出身。島対長崎最大の繁華街。
 鳴門 がっぷり四つだな。
 鮫腹 相四つです。突いて出て先に前みつをとったほうが勝ちですね。両者の力量から見てどっちにしても速攻です。
 鳴門 取り直しで「皿うどん」の勝ちだな。
 主催 えええ? いつ最初の勝負があったんですか。
 鳴門 だからよく見ていないと。速攻だから。
 主催 それではもう優勝決定戦です。「チャンポン」対「皿うどん」。よく見ていくと「チャンポン」も「皿うどん」も麺にのっている具は同じようなものです。麺も油であげてないのはチャンポンと同じようなものです。汁があるかないかの差ぐらいしかない。兄弟というか夫婦というか。互いに近すぎるので近親憎悪というか。がちんこの勝負というか。骨肉の争いというか。
 鮫腹 優劣をつけるのが難しいですね。
 鳴門 皿うどんの店には何か書いてなかったの。
 鮫腹 思案橋のそばの「天々有」という店で「皿うどん」食べてたらメニューに「ゴールドの免許証を持っている人は五パーセント引き」と書いてありました。ぼくはゴールドだったのでほんとに五パーセント引いてもらいました。
 鳴門 皿うどんに決まりだな。
 主催 えええええええ。
# by shiina_rensai | 2006-08-18 17:12 | Comments(667)

<椎名誠プロフィール>
1944年東京生まれ。東京写真大学中退。流通業界誌「ストアーズレポート」編集長を経て、現在は作家、「本の雑誌」編集長、映画監督など幅広い分野で活躍。著書は『さらば国分寺書店のオババ』『哀愁の町に霧が降るのだ』『新橋烏森口青春篇』『アド・バード』『武装島田倉庫』『岳物語』『犬の系譜』『黄金時代』『ぱいかじ南海作戦』など多数。紀行エッセイに『波のむこうのかくれ島』『風のかなたのひみつ島』などがある。近作の『全日本食えばわかる図鑑』には第一回≪全日本麺の甲子園大会≫の模様を収録。ブンダンでも随一の麺好き作家として知られ、世界中どこでも「一日一麺」を実践する、敬虔な地麺教信者でヌードリストである。


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