嘘と真実
こんにちは。
5月もあと3日で終わりですね。
春も終わりというこの時期、私と娘は交代でインフルエンザにかかってしまい、ファイト、いっぱーつ!も効かず、完全にノックアウトされてしまいました。
私に移した娘は先に元気になりルンルンで出かけていきましたが、私はやっと数日前に回復してきたところです。
しかしちょっとやそっとじゃ気持ちが落ちないのは私のいいところ。
「これはここでたんまり休んでインフルのウイルス抗体をつくっておけば、今年の冬はかからないでいいわー」
お仕事は無理せず少しずつ復帰しております(^^♪
今日は「嘘と真実」について、ゆずれもん飲みながら書いてみました(笑)
みなさんはインターネットやマスメディアの情報やニュースのどれが本当でどれがフェイク(嘘)なのか、ちゃんとわかりますでしょうか?
正直むずかしいように思います。
「本当のように見せかけた嘘」「嘘のようだけど真実」「真実のように信じられている嘘」「嘘から真実に発展した嘘」「本当だか何だかわからないもの」などが混在して、拡散されていくからです。
報道番組をまもとだと思って見ているが、実はお笑い番組やちょっと見ただけではわからないようなニコ生放送のほうにまともな報道があったりします。
報道番組の多くは都合よく隠蔽されたりフェイクや一部のみ取り上げられたりすることが多く、それをまじめに語っている人たちを見ると胸糞が悪くなることもあります。
では私たちはいったい誰を何を信じればいいのでしょう?
「信じる」こと自体、信じる側の人の「個人的世界観に基づく妄想=ファンタジーの物語」だからです。
「信じる・ビリーブ」とはそれが「本当」とか「真実」だから信じるのでしょうか?
違いますよね。
たとえば漫画や小説、アニメやディズニーのようにファンタジーの世界に登場するキャラクターを信じるのは、それらが本当だから信じているのでしょうか?
ミッキーやミニーは現実には存在していませんね。
あるいはサンタクロースや神、妖精や天使はどうでしょう?
サタンや幽霊、宇宙人やUFO、クロップサークルやニセ科学の類は?
人はなぜ不思議なものを信じるのか TEDトーク
「真実」とは、それを信じる人たちがいて、信じるに値する事象があると仮定されたことが事実であると立証されて初めて成立するわけですね。
宗教も社会も同じような構造によって信じられて成り立っています。
でもその「信じる人」の言っていることが「信じる」に値するかどうかは立証されていませんし、信じるに値する事実の確信となる部分も現代ではいくらでも模造・修正できるわけですから、それが絶対真理だとは断言できませんよね。
「真実」と似ているが意味は異なる言葉「真理」があります。
これは「真のことわり」です。
「理」とは 物事の筋道。条理。道理。などの意味がある言葉ですが、この「ことわり」という語は人間のみが自由に使えるものではなく、「真理」や「摂理」のように自然や神、自然界の秩序や法則のようにいっさいの万物に用いられる場合に適用されるものです。
「真実」は如何様にも変貌させられることがありますが、「真理」や「摂理」は変容しません。
普遍性に基づく概念です。
私は「真実」は人間が追い求めたり、正しいと主張したり、武器に使ったりするものであり、人間の手にかかれば真実も嘘になるものだということを覚えておくほうが望ましいと思っています。
そして「信じる」という行為も「真実」に近いもので、信じたり信じなくなったり信じられなくなったりするのは人間サイドの問題や世界観、物語に基づいているものですので、普遍性のものではなく、あくまでも社会あるい人間界のものであることを知る必要があるように思います。
私が「信じる」という言葉を使うとき、それはいったん「真理」や「摂理」に照らし合わせ、問いかけ、光が屈折せずに私のところへ戻ってきたとき、ようやく「信じる」という単語に心が結びつきます。
それは「人」「もの」「仕事」「ニュース」などすべて同じようなルートをたどります。
「真理」や「摂理」は普遍性をもつものなので、いつも私は真理や摂理を探求しながら理解を深めます。そしてそのフィルタを通して信じるわけです。
よって人を直接信じるわけではないので、裏切られたとか騙された感はありませんし、信じられないからといって付き合いをやめることもありません。しかしながら信じられない人を信じることは「ことわり」が許さない限り出来ません。
ニュースも同じです。まずは「信じられるかどうかのジャッジを天の摂理や真理に委ねること」から始めるわけです。
動画にでてくる子どもたちは、神を信じて踊っていますが、これは「真実」ですよね!
マヤの叡智や天の摂理、真理は、問いかけるには優れている「理」です。
<嘘と真実>それは<愛と憎しみ>のように、同じ次元土俵の上にあるものではないかしら。
仮に「愛と憎しみ」の反対を定義するなら、それは「無関心」ではなく「一般」でしょう。愛とか憎しみという興味の対象から外れる一般不特定多数ですから。
そして<真実と嘘>を見分けるのは「過去や歴史、足跡」ではないでしょうか。
現在と未来において「真実」は確定されていませんが、過去においての「事象」は確定されます。
嘘と真実どちらであっても、過去に対しては”入れ替え不可能”ですからね。
少し難しい「嘘と真実」のお話を書きました。
これもまたサードアイの哲学とでも申しましょうかしら