二井原実 二井原実 Infomation

二井原実

■2008年5月9日-10日の
ソロライヴを収録した、
2枚組みCDがついに完成!

『MINORU NIIHARA LIVE!
"R&R GYPSY SHOW"@KAGURAZAKA DIMENSION (2008.05.09-10)』

通信販売&ライブ会場限定販売商品です。
定価¥3,000

CDの試聴、購入サイトへの
入り口はこちら
http://www.blasty.jp/niihara_cd/

〈収録曲〉
-DISC 1-
1.THIS LONELY HEART
2.FEVER
3.SOLDIER OF FORTUNE
4.THE NIGHT BEAST
5.SHUT UP AND BUY
6.DREAMS OF DUST
7.IN MY DREAMS
8.Tagawa Hiroaki Gtr solo
9.ASHES TO GLORY
10.1000 EYES
11.I'LL NEVER HIDE MY LOVE AGAIN
12.YOU CAN DO IT

-DISC2-
1.FAR AWAY
2.Funky Sueyoshi Dr solo ~
3.LET IT GO
4.Terasawa Koichi Bass solo ~ LET'S GET TOGETHER
5.STRIKE OF THE SWORD
6.ESPER
7.ROCK'N ROLL GYPSY
8.DREAM FANTASY
9.SO LONELY
10.TAKE ME HOME

Produced by Minoru Niihara

二井原実

二井原実
「Ashes to Glory」

¥3,000 (Tax in)
TKCA-72985
【徳間ジャパン】

この作品を買う Official site Music mall
アースシェイカー始動
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LOUDNESS豆日記or豆情報

モトリークルーと一緒に全米ツアーをしていた時、彼らの衣装ケースを見てぶったまげた。
モトリーのメンバーそれぞれに、ちょっとした洋服タンスなみの大きさの衣装ケースがあった。
外観はツアー用の楽器のハードケースで観音開きなっていて底には当然コマがついて簡単に移動が出来る仕組みだ。
その衣装ケースを開くとまず目に入るのがずら~~っとハンガーに掛けられたステージ衣装だ。
衣装の下にはブーツやらがありその靴関係の横には引き出しが5個ほどあった。
各引き出しにはメーク用の化粧品がひとしきり、アクセサリーも山のように入れてあったしドライヤーやヘヤ―スプレーも完備。
観音開きの蓋(扉?)右側には大きな鏡が合ってその鏡の上にはスポットライトが付いてた。
左の方の扉には沢山のヌード写真が貼ってあった。
彼等の衣装が華やかだったので、そのステージ衣装ケースを見ているだけでも楽しかった。
AC/DCのメンバーにも同じような衣装ケースがあって、アンガスヤングの衣装ケースには同じような色違いの半ズボンと小学生の制服みたいなのがずら~~~っと並んでいた。
一番笑ったのはヴォーカルの人の衣装ケースで、あの黒のタンクトップと色あせたジーパンのまったく同じものがずら~っと並んでいた。
あのハンチング帽も数個あったと思う。(笑
当然、LOUDNESSも彼等の影響で衣装ケースを作ってもらった。
多分ESPが提供してくれた衣装ケース、ほぼモトリークルーの衣装ケースを完コピーした優れものを各メンバーが所有していたなぁ~。
しかし、あの衣装ケース何処へ行ったのかなぁ~?
そして衣装も誰が持って行ったんだろう?
衣装は記念に欲しかったなぁ~。
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アースシェイカーが始動した。
まずはバンドの楽曲である。
とりあえずどんな曲を持ち曲としてやるのかのミーティングである。
Drのわったんが自分のやりたいバンドのLPを持ってきた。
「凄いバンドがあるからこれコピーしようや」と言ってもってきたのがVAN HALENのデビューアルバムだった。
シャラも僕もエディーヴァンへーレンの今まで聞いたことの無い斬新なサウンドや超絶なギタープレーに耳が釘付けになった。
70年代後半にしてまさにハードロックの新たな息吹を感じさせるような、革命的ロックアルバムだと思った。
アメリカかぁ・・・LA?
アメリカのLAと言う土地柄から考えるともっとレイドバックしたロックと言うイメージが強い。
例えば、ドゥービーブラザーズやイーグルスと言ったところだ。
もっと極端な例ならビーチボーイズやカーペンターズと言ったサーフィンやコーラスなど爽やかポップスバンドのメッカという印象であった。
あの、LAからこんな格好良いハードロックバンドが現れるなんて、僕達は戸惑った。
アメリカが凄いことになってるなぁ・・・・。
アースシェイカーとしてヴァンへーレンは絶対やらなくてはならないバンドだと思った。
早速ヴァンへーレンのファーストから”ON FIRE”と”YOU REALLY GOT ME””AIN’T TALKING ABOUT LOVE””ATOMIC PUNK””I’M HE ONE”あたりをやることにした。
シャラのお勧めはRUSHだった。
RUSHはカナダの3人組ハードロックバンドで非常にテクニカルなバンドで3人組の我々にはうってつけのバンドだった。
RUSHの“ALL THE WORLD’S STAGE”“と言うライブアルバムから沢山の曲をやった。
特にこのアルバムの”Bastille Day“という曲は僕のハイトーンヴォーカルの決定打となり、その後の僕のヴォーカルスタイルの礎となった曲でもある
その他にもUFOやSCORPIONSなどもレパートリーに入り、アースシェイカーの大よその方向性は出来上がった。
僕はヴォーカルをとりながらベースを弾くと言うことになり、大変苦労した。
僕はもっとベースに専念したかった。

アースシェイカーのヴォーカルを探すこととなった・・。
# by loudness_ex | 2008-03-25 23:54
アースシェイカー誕生
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LOUDNESS豆日記or豆情報

LOUDNESSのライブのPAの音の大きさは半端じゃないけれど、実はステージ上の音のでかさも凄かった。
モニターの音のでかさはミュージシャン仲間の間でも有名だった。
普通、ステージには自分の演奏を聞く為のモニタースピーカーと言うものがある。
それぞれのパートの足元に2個モニタースピーカーが置いてある。
ちなみに、我々の間ではそのモニタースピーカーのことを「転がし」と呼んだりする、まぁー業界用語ですわ。
ちなみにステージ右が「カミ」左手が「シモ」、ステージのものを片付けることを「ワラワス」と言ったりする。
最近ではライブハウス形式のライブが多いからそんなにモニターの音はでかくないけれど。
一番モニターの音がでかかったのは80年代のホールツアーの頃だな。
ドラムの人も当然モニタースピーカーがある、普通は我々と同じようなスピーカーなのだけど、ひぐっつあんのは規格外だった。
まぁーモニタースピーカーと言うよりモロPAだったな・・・PAがステージの後ろにある感じ。
どれだけ音が大きかったと言うと、例えばベースドラムの音の風圧で髪の毛や衣装が揺れるぐらい。
いや~ヴォーカリストには地獄だったっす。

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僕達は18歳になっていた。

「曲作ったで~、聞いて~や~」シャラがテープを持って僕の教室へ来た。
カセットにはちゃんと2本ギターでリフが録音されており、メロディーやソロも録音されていた。
曲調はモロハードロックで、その曲は後のアースシェイカーのアルバムでも聴けるはずだ。
アースシェイカーのアルバムでの曲名は忘れたけれど・・・・
そのギターリフは基本的に当時のままだったと思う。

「おぉ~~なんじゃ~~これは!!!!レコードみたいやんけ!!目茶格好ええやんけ~~!!」
僕は初めて聞くオリジナルロックの曲を聞いて興奮した。
「シャラ凄いなぁ~」
曲そのものも格好良かったけれど、ギターが沢山ミックス録音されているのに仰天したのだ。

今は、DTM(デスクトップミュージック)とか言って楽器が弾けない人でもコンピューターを駆使して物凄い演奏をプログラミング演奏できるし、デジタル録音機(MTR)の進歩で安価で一昔だったらありえないような機能がオールインワンで手に入る。
ちなみに、MTR(マルチトラックレコーダー)と言うのは多重録音機で、2トラック以上の複数の録音トラックの録音再生を行う事ができる録音機器で、それぞれのトラックで個別に録音、再生を選択する事ができる優れもの。

さて、話は1978年の話だ。
シャラが作ったそのテープはなんと英語の教材用の録音機(2ch)で録音されていた。
何度も、何度もテープを出しては録音して作った涙ぐましいもの。

「このオリジナル曲やろうや!」
シャラから初めてのオリジナル曲をバンドで作ろうと言う提案であった。

WILD BOARは高校生の青春の1ページ的な趣味のバンドだったし、オリジナル曲を作ると言う発想は無かった。
シャラのオリジナルの提案は紛れも無い本格的なロックバンド結成を意味していた。
その為には、本気でバンドをやる気のあるメンバーを探す必要があった。
そこそこ技術的にも優れている人が欲しかった。

僕とシャラは梅田の楽器屋の前にいた。
シャラは自分で手書きで書いたメンバー募集のチラシを持って。

「ドラマー募集、当方18歳、GtrとBass ハーロックバンドやります!」

胸を躍らせてメンバー募集の張り紙を楽器屋さんの掲示板のようなボードに貼った。
僕達の頭の中ではすでにスーパードラマーと一緒にバンドをやっていた。
何でも思い込みが一番大事だ。

ついでに、他のメンバー募集の張り紙をチェックした。
その中に「Gtr&Bass募集!WE ARE BLUES LIKE!!」と言うアホな文面の張り紙を見つけシャラが大爆笑した。
「こいつ等アホやな~~文法もへったくれもないんやな~~」
「このバンドに連絡したろか?」シャラが悪戯っぽく言った。

数日後、僕とシャラは「WE ARE BLUES LIKE」バンドの人の家に行った。

「自分ら高校生なん?ちゃんと楽器弾けんの?」
社会人のその人達はシャラに質問した。
「ギターあるからなんか弾いてみぃー」
少しバカにしたような感じでギターを渡されたシャラは猛烈な早弾きを披露、その社会人の度肝をぬいた。
「自分ら・・・す、凄いなぁ・・・」
「WE ARE BLUES LIKE」バンドのリーダーらしき人はしばし呆然としていた。
しばらく僕とシャラと「WE ARE BLUES LIKE」バンドのドラムの人とジャムセッションをして帰った。
「シャラどーすんねん?あのバンドに入ってやるんか?」
「あほーあかんやろ・・・WE ARE BLUES LIKEやでぇ・」
その後「WE ARE BLUES LIKE」バンドのリーダーから何度も家に電話がかかってきて「俺らのバンド入れやこりぁ~」と脅された。
マジ怖かったなぁ・・・・。

数日後、芦屋に住むボンボンのY君から応募の電話が来た。
「ハードロックのドラムやりたいねんけど、まだ募集してんの?」
18歳で同じ年のY君の家は芦屋にある大邸宅で、その邸宅の屋根裏になんとバンド練習できる部屋があった!
彼からそこへ招待された。
僕とシャラは逆にオーディションされたのかもしれない・・・。(笑
「わったん」と言うあだ名が付いたY君のドラムは高校生にしては充分パワーがありテクニックもそこそこあった。
性格もさわやかで格好も良くばっちりの人材だった、なんと言っても練習し放題の部屋があるのだ!

ただし条件があった、彼の高校卒業までの期間限定でのバンド参加だった。
わったんは高校卒業後アメリカの大学へ留学することが決まっていたからだ。
(実は後日、わったんは大学1年までアースシェイカーでドラムを叩いていたとシャラからの指摘がありました。そう言えばわったん甲南大学行ってたことを思い出しました。大学1年でアメリカ留学だったのね。わったんごめんなさい!
ここに訂正をしてお詫び申し上げまするぅ~許して~~。)


僕達は3人でバンドをすることになった。
Y&Tが大好きだったシャラはもうバンド名を決めていた。
Y&Tの曲名からいただいた名前だった。
「アースシェイカーってどうや?」

アースシェイカーが始まった・・・・。
# by loudness_ex | 2008-03-24 18:41
楽器を聴く耳
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LOUDNESS豆日記or豆情報

デビュー当時、作詞はレポート用紙や便箋やノートに書いていた。
レコーディングの時にスタジオへ何度も書き直したのを持っていって、それをアシスタントが必要なだけコピーしたりしていた。
僕の直筆があまりに汚いので、ディレクターが「これじゃ読めねーよ」と言うことでアシスタントの人が清書することも多かったけれど。
ワープロで書くようになったのはSLYの2枚目のアルバムからだったと思う。
コンピューターを使うようになったのはX.Y.Z.-Aのアルバムからである。
僕の直筆の歌詞がボツ曲を含め数百曲分この世に存在していたことになる。
いったい何処へ消えたのか?
直筆の歌詞があったところでどうってこと無いけれど、まぁー記念になるもんねぇ!
もっと大事にしておくべきだったと後悔している。

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ベースギターの話。
僕は中学校の時にベースギターを手に入れたけれど、ベースと同時期にアコースティックギター(フォークギター)も弾き始めていた。
これは姉がフォークをやっていた影響もある。
中学3年の頃にはアコギを結構弾けるようになっていたし、高校のころにはその腕もあがってラグタイムスギターも得意だった。
ステファングロスマンhttp://www.youtube.com/watch?v=91u_0PccY4cやスリーピジョンエステス、ポールサイモンなどを弾いていた。
と言っても、耳でコピーしたわけではなくて、近所のお兄さんの弾いているのを見よう見まねで弾いて覚えた。

肝心のベースなのだが、ベースを弾いているお兄さんは僕の周りにいなかったので、本当にどうして良いのか分からなかった。
ある日シャラにコードの概念を教えてもらいベースはそのコードのルート音を弾けば取りあえずは良いと教えてもらった。
さらに「ブルーノートスケール」と言うものも教えてもらい、アドリブのイロハも教えてくれた。

まさに手品の種明かしのような感じである。

「おぉ!!!成るほど!!そう言うことかぁ!!」

これらの知識は頭の中の霧を消滅させるには充分だった。
迷路に迷い込んだ旅人が道しるべを発見したような、夜の海原の灯台の光のようなものだった。
僕の頭のモヤモヤが消え「おぉ!!理屈がわかったぞ~~~!!」となってからの進歩は凄まじかった。
ベースギターのフレーズも乾いたスポンジに水が吸収されるように身に付いた。
指もガンガン早く動くようになった。
練習の仕方も色々研究した。
リズムの大事さも理解した。
相変わらずコピーは下手だったけれど、ベースを弾くことに関して確固たる自信を持って弾けるようになった。
これはとても大事なことである。
僕はベースの練習にのめり込んだ。
勉強そっちのけで練習した、無我夢中になってやった。
毎日最低4~5時間は弾いていたと思う。
コピーをすると言う行為は耳が鍛えられる。
集中してベースのフレーズを聴く癖が付いた。
ベースの音が聞き取れるようになると、他の楽器の音もつぶさに分析できるようになった。
コード分析も出来るようになって音が聞き取りにくい場合でもコードの理屈でおおよその音が拾えた。
何もかも今までのロックの聞き方とはかなり変わったのは言うまでもない。
反面、物凄くベースの音を集中して聞く癖が付いたお陰でどの曲を聴いてもベースの音ばかり聞こえて困った。
否が応でもベースの音ばかりが耳に入ってくるのだ。
歌謡曲であろうがジャズであろうが曲を聴いたらまずベースのメロディーが先に飛び込んでくる。
バランスよく音楽が聴けるようになったのはここ10年くらいかもしれない。
今は随分楽器のバランスは普通に聞くことができるけれど、もしボーっとして曲を聴いているとベースのラインばかり聞いている。
まぁー好きだから良いのだけれど。

今はヴォーカリストであるけれども、あの当時の楽器練習がプロになってからもとても役に立っている。
出来るならばヴォーカリストと言えど、楽器を何か一つ基礎で良いからマスターすべきではないだろうか?
せめて、コードやスケールぐらいの知識はあっても良いと思う。

どんなことでも、頑張って続けていると今まで見えなかった聞こえてこなかったものが突然モヤが消えたようにはっきり見え聞こえるようになる瞬間が来る。
ちなみに、僕の英語のヒヤリングもある日急に霧が消えたように英語が聞き取れるようになった。

どんなことでも、解決する為のちょっとしたヒントがどこかに隠れている。
そのヒントに出会うには「続ける」以外方法は無いような気がする。

ある日シャラが曲を作ってきた・・・。
# by loudness_ex | 2008-03-23 19:22
RAINBOW!!KISS!!AEROSMITH!!!
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LOUDNESS豆日記or豆情報

LOUDNESS日記と言っても日記にするような活動が今現在そんなにないので、豆情報も追加しました。
最近テレビで黒人演歌歌手のジェロさんの一日追っかけ特集をチラッと観た。
いや~今話題の人だけにキャンペーンが凄かった。
朝からインタビューやらラジオやテレビ出演やらでおおわらわですなぁ。

そう言えばLOUDNESSも80年代は彼のような感じでアルバムプロモーションを全国展開してたな。
だいたい各地方にレコード会社の営業支社みたいなのがあって、そこの宣伝の人がキャンペーンスケジュールをブッキングするんですなぁ。
例えば、朝に札幌に到着したとする、まずはレコード会社の営業所へ行って偉いさんやスタッフへ挨拶→数社の新聞社インタビュー→ミニコミ誌インタビュー→ラジオ出演→レコード屋さん巡り→有線放送へ挨拶→テレビ出演→サイン会などのイヴェント出演→再びラジオ出演→夕食会があって→酔いつぶれて沈没・・・・
ほんま、早朝から夜中までよく働いたなぁ。

===============

高校2年ぐらいからライブを見に行くようになった。
当時の関西にはまだそれほど目だったハードロックバンドは無く,主に関西ブルース&ソウルバンドが主流だった。
アマチュアバンドのコンテストもあって、アマチュアコンテストの横綱はYAMAHA主催の88ロックデーだった。
大阪の万博跡地でやっていた88ロックデーは僕らの憧れだった。
88ロックデーであの伝説の沖縄ハードロックバンド「紫」を観たし、上田正樹&サウスツーサウス、優歌団を観て夢中になった。
特に僕は関西ブルースバンドにのめり込んで、上田正樹&サウスツーサウスやソーバッドレビュー、優歌団の追っかけをするほどになった。
僕は関西ブルース面々の影響が大きいと思う。
僕のステージングやMCの間といったものはかなり彼等の影響を受けている。
優歌団のシンガー木村さんの物まねが得意だったし。
当時、僕はハードロックよりどちらかと言うと関西ブルースバンドのようなことの方が好きだったかもしれない。
シャラとバンドを組んだときも優歌団みたいな曲をやろうと提案したら「死んでも嫌や」とケンモホロロに反対された。

キッスやエアロスミスが初来日したのもこの頃で僕とシャラは一緒にライブへ行った。
3階の後ろの方の席で米粒にしかバンドは見えなかったけれど、僕達は興奮したし、これが本物のコンサートやと思った。
特にKISSのロックショーはエンターテイメントの真髄、頂点だと思った。
ちなみにその時、前座でバウワウが出演していて、その完璧なパフォーマンスに度肝を抜いた。
日本人もなかなかやるなと思った。
所謂ロックの外タレの来日が盛んになってきたけれど、僕達は高校生でお金が無かったので沢山のライブには行けなかった。

そんな時シャラが驚くべき方法で外タレのライブを見る方法を見つけてきた。

「ニーちゃん、物凄いええ方法見つけたで!!ライブただで見放題やで!!!」
「どーすんねん?」
「ライブの警備員のバイトあるらしいで」

確かにこれは名案であった、ただで観放題と言うか聴き放題だった。
そのバイトはライブ当日の早い目の夕方に会場に集合して、外タレ招聘会社U社の人から警備に関しての注意をうけたりした。
コンサート前の会場ではサウンドチェックをやっていてその音に釘付けになった。

ある日、レインボーのライブでの警備員バイトの日、ライブ終了後に数人居残りを命じられた。
メンバーをステージから帰りの車まで警備する為である。
会場で待つように命じられていたので会場のいすに座って待っていると、なんとリッチーをはじめレインボーメンバーが全員ステージに登場してきた。
そして、なんと、次の日の変更曲のリハーサルを始めたではないか!!!!
僕達は腰が抜けた。
レインボーのリハーサルは2曲ほどで、PAから音は出ていなかったけれど大満足だった。

そのレインボーライブの日、僕達が会場の入り口ロビーで説明を受けているとブラブラっとロビーに出てきて「やぁー」と言って気さくに握手してくれた人がいた。
僕は興奮しながらも「I'm BIG FAN!!!!」とその人につたない英語で言った。
そうしたらなんとその人、僕をガシッとハグしてくれて頭をぐしゃぐしゃとして何やら英語で言ってくれた、僕は夢心地だった。
グイッとハグされたとき大柄ではなったけれど鋼のような筋肉の塊が印象深かった。
僕をハグしてくれたやさしげな笑顔で気さくなそのお人こそ、今は亡きコージーパウエルだった。
# by loudness_ex | 2008-03-22 15:13
70年代のミュージックライフ
LOUDNESS豆日記

僕にとって最新アルバムMETAL MADは再結成後に作ったアルバムの中で最も好きなアルバムだ。
再結成して初めてリハーサルやった時、80年代に比べてチューニングのせいもあったけれど、タッカンのギターの超ヘビネス重低音に圧倒された。
再結成後のサウンドは80年代に作っていたサウンドや曲の方向性からがらりと変わり、ぼくにとってその方向性やサウンド全てに対して手探りのような感じだった。
ここ数年のアルバムでやっと暗中模索状態から抜け出せたように思う。
色んな音や曲に挑戦していくことがミュージシャンを長く続けていけるコツかもしれないね。

===============

僕にとってはハードロックをやるきっかけとなった「文化祭」が終わった。
僕の小さな恋のメロディーはサビらしいサビを迎えることもなく、数小節でエンディングを向かえた。
その失恋話はちょっと悲しすぎる話なので、ココでは割愛する。

さて、高校2年生になった頃には、坊主頭だった頭もロックのロンゲに成長した。
ロックは相変わらず僕達の大事な宝物だった。
当時CDは無くLPレコードの時代だった、LPのジャケットのデザインだけで全く知識の無いレコードを買うと言う博打のような「ジャケット買い」も沢山した。
「これはハードロックだろう」と思ってジャケット買いして酷い目にも何度もあった。
僕はジャケット買いで一番印象に残っているのは、多分ブラジルのバンドの輸入版だったと思うけれど、物凄いハードロックしている格好良いイラストのジャケットのCDだ。
そのCDを物凄く期待して買って家で爆音で聴いたら思いっきり陽気なサンバでひっくり返った。
サンバなのにあんなにハードロック度の高いジャケットはいらんやろ!
デザイナーがロックファンだったのか?
ロキシーミュージックの「カントリーライフ」のジャケットは凄かった。
なんと女性二人の陰毛が見えていたのだ。
純情一直線童貞高校生の僕には大事件だった、あり得なかった、だって陰毛だよ陰毛、お0毛だよおめ毛!
即買いたかったけれど、レジに持っていく勇気が無かった。
だって高校生だもん、汗っかきだも~ん、ドーテーだも~~~ん!
数日その輸入レコード屋に通ってはそのジャケットを確認し興奮し、あまつさえ店で勃起させた。
ある日ついに勇気を振り絞って買った、みの吉は少し大人になった気がした。
そのジャケットには僕の青春時代の憩いの時間にかなりお世話になった。
十数年後あの女性達が実は性転換した男性だと知った。
僕は男性の陰毛で青春を駆け抜けたのだ・・・あまりに不憫な童貞であった・・・。

当時はインターネットも無く情報といえばラジオ、雑誌、テレビしかなかった。
ラジオの横綱はFM大阪のでビートオンプラザが一番だった。
ロック系中心にニューアルバムを紹介する番組だったけれど、なんとフルアルバム全曲をかけるという画期的な番組で大好きだった。
エアーチェックすると言うことを知らなかったので必死で聴いて耳に焼き付けたりしたもんだ。
ロック雑誌の横綱は「ミュージックライフ」だった。
キッスが表紙になったり、レインボーの特集をやったり、僕らのバイブル的雑誌だった。
WILD BOARのギターリストの悟り君は「ミュージックライフ」が大好きで、すぐに全部読むのが惜しくてコツコツと一ヶ月をかけて読みきるのが得意だった。
テレビの横綱はNHKの「ヤングミュージックショー」だった。
まだMTVも無かった時代、動く海外のアーティストが観れる唯一の番組だった。
ヤングミュージックショーは神だった、雲上の存在だった、番組中は正座して穴が開くように観たもんだ。
みんなで録音したカセットを交換したりした。

牧歌的アナログな70年代のミュージックライフであった。
# by loudness_ex | 2008-03-21 16:47
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