実際のプロのロックミュージシャンの世界は、デビュー前に漠然と抱いていた憧れの世界とはかけ離れていたものだった。
その世界とは、ある意味単調な日々だと言っても良い。
僕は次から次へと入ってくるスケジュールに黙々とそして必死で闘っていた。
見えない大きな力が僕を新たなステージへと駆り立てるのだ。
僕の生活は少しずつだけれど完全に荒れて行った。
酒の量が極端に増えた。
寝る時間は滅茶苦茶だったし、あまり睡眠をとることもなかった。
毎日の食事は何を食べていたのか全く記憶に無い。
息を抜くことが出来ない毎日のストレスは僕を苛立たせた。
スタジオからアパートに戻ると、服も着替えないでベッドの上で目を開けたまま何時間もボーっとすることが多くなった。
そして気が付いたら落ちるように眠っていた。
LOUDNESSの人気が出ると共に、僕の完全なプライベートな空間、時間というものも無くなっていった。
ファンと思われる人から無言電話が1日に十数回かかるようになった。
洗濯物を干そうとベランダに出たら、外にファンの人が十数人道端でたむろし僕の部屋を監視しているのを発見した。
その日以来、僕はベランダにも出られなくなった。
仕事への移動は電車だったけれど、僕の後を付いてくる人が絶えなかった。
夜中に部屋のベルを鳴らす人もいた。
僕は一人になれない毎日が怖くなった・・・・。
京都の彼女はすでに大学を卒業していた。
「一緒に暮らそう」と言う僕のプロポーズを彼女は待っていたかもしれない。
僕には具体的にどうしようと言う話が出来なかった。
(これから私達はどうなって行くの?)と言う不安が彼女にはあったと思う。
僕には彼女に優しくする余裕が無くなっていた。
むしろちょっとしたことで、声を荒げることが多かったかもしれない・・・。
些細なことで言い争うことが多くなった。
僕には最早愛する人を幸せにすると言う、あたりまえのことさえ出来なくなっていたのだ。
彼女が東京に来る度に彼女の物が僕の部屋に増えていった。
彼女が作った僕と彼女の名前が刺繍されたクッション、彼女の着替えやアクセサリー・・・
彼女の匂いがするものが彼女の存在を主張しているようだった。
僕は人を思いやる気持ちが失せていた。
僕はあまりにも若かったのだろう。
平常心を保つことで精一杯だった。
僕はもっと彼女に甘えるべきだったのかもしれない。
ストレスや毎日の辛い気持ちを正直にぶつけるべきだったかもしれない。
私生活において僕は自分を見失っていた。
「なんやの?こんなファンレター大事にして!どっか見えないところにやってよ!!」
彼女は部屋にある大量のファンレターを見つけては僕に辛くあたった。
僕の理由の分からない苛立ちが彼女をより一層苛立たせ、そしてケンカが多くなった。
僕は彼女と一緒にいるのが辛くなって耐えられなくなっていた。
セカンドアルバムはデビューアルバムより売れ行きは良かった。
ただ、反面僕を批判する記事を目にすることも多くなった。
評論家は人を評論することが仕事である。
しかしながら、何もかもがまだナイーブだった僕には辛らつな記事は厳しすぎた。
世の中は誰もが好意的に思ってくれるとは限らないと痛感した。
こう言うことは注目されている証拠であるけれど、当時の僕にはそれが分からなかった。
1982年7月に「Japan heavy metal fantasy」に出演した。
なんとそのイヴェントにはアースシェイカーが出演することになって、久しぶりにシャラ達のステージを観た。
アースシェイカーがデビュー目前だと関係者から話を聞いた。
残念ながら、僕はその時のイヴェントでシャラ達と会話をしたかどうか記憶に無い。
まだ、シャラと僕の間のしこりは消滅していなかったのかもしれない。
アースシェイカーは数千人が集まった大きなステージに臆することも無く、堂々としたステージングに僕は驚いた。
マーシーは相変わらず素晴らしいパフォーマンスだった。
そして8月から10月の終わりまで、本格的なLOUDNESS全国ツアーが始まった。

各地の会場は溢れんばかりの熱狂的メタルファンで埋まった。
僕達はライブで全身全霊をかけてパフォーマンスをやった。
メタルキッズとの戦いはどんどん激しさを増した。

と同時に僕の喉は悲鳴を上げていた。
それまで経験したことの無いほどの喉の炎症だった。
ツアー中の不摂生が原因である。
山下久美子さんが紹介してくださった喉の専門の有名な先生へ駆け込んだ。
「絶対安静が必要ですね、沈黙療法をしてください」
「いや先生、無理です。明日は大事な東京でのコンサートがあります」
僕は全くでない声を振り絞って先生に訴えた。
「取りあえず、明日は歌えるように注射をします。でも、コンサートが終わったらすぐに声が出なくなります。なるべく沈黙してください。」
そう言うと先生は僕の首にあり得ないほど痛い注射をした。
声帯の腫れを取る注射、初めての経験だった・・・。
驚いたことに、次の日のライブでは先生が言った通り声が復活していた。
ツアーの合間を縫ってサードアルバム「魔界典章」の楽曲作りに励んだ。

“ In the mirror” “Speed” ”Show me the way” “Mr yes man” “The law of devils land”・・・
タッカンは楽曲アイデアが溢れ出てきた。
僕達は何かが憑依したように夢中になって曲を完成させた。
スタジオセッションは白熱度を増した。
11月にエンジニアのダニーと共にサードアルバムのレコーディングを開始した。

レコーディングは相変わらず時間との戦いだった。
寝食を忘れてレコーディングをした。
12月某日、寒い冬の朝、レコデーィングからフラフラになりながらアパートに帰ってきた。
部屋に入ってその異変に気が付いた。
彼女が作った僕と彼女の名前が刺繍されたクッション、彼女の着替えやアクセサリー・・・
彼女の匂いがするものすべてが無くなっていた。
二人の写真も、二人で聴いたレコードもすべて無くなっていた。
僕はしばらく頭が混乱した。
置手紙も無く、予告も無く、忽然と彼女の存在が全て消えてしまったのだ。
どんな思いで彼女が荷物をまとめたのかを思った。
どんな思いで彼女が出て行ったのかを思った。
そして僕は泣き崩れた・・・。
