実は横浜の二井原ソロライブが終わった途端、野暮用に追われました。(涙)
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1982年3月
“Hello!”
曲作りをしていた我々のスタジオにいきなり入ってきたのは、軽く150キロは越すであろう巨漢で笑顔の可愛いサウンドエンジニアのダニーだった。
ダニーとは当然初対面であった。
髪の色は金髪とまではいかない明るいブラウン、目はダークブラウンで切れ長だった。

僕達は演奏を中断して彼と挨拶した。
その時の通訳が5Xのギターを弾いているジョージ吾妻さんだった。
ジョージさんとはそれ以来の付き合いで、何かLOUDNESSが海外でやる度に英語の通訳から交渉ごとまで色々大変お世話になった。
僕は始めて間近にみるアメリカ人に緊張した。
欧米の人の前で演奏するのは始めてのことだった。
いや、もしかしたらそれまでのコンサートの会場にいたのかもしれないけれど、そんなこと考えもしなかった。
挨拶もそこそこに、ダニーがニコニコして “ Let me hear what you got!”と言った。
「ちょっと曲を聴きたいんだって」ジョージさんが言った
僕達は出来たばかりの曲を演奏した。
Angel dust, Lonely player, Loving maid…
ダニーはしばらく真剣な表情で我々の演奏を聴き、ギターのアンプを覗き込んだり、ドラムの後ろに立ってドラムを聴いたり、ヴォーカルモニターから僕の声を聞いたり、ベースアンプの前に立ったり、音を確認した。
数曲演奏が終わるや否や、“ Wow!!! You guys sound great!! Really cool stuff! ”とダニーが手を叩いて笑顔で言ったかと思うと、突然ダニーが完璧な日本語を喋りだした!
「みんな良い音出しているね~~、君たち格好良いねぇ~!!」
その一言にメンバー全員が驚いた!
「え?ダニー日本語喋れるの?」
僕が声をひっくり返しながら聞いた。
「僕のお母さん日本人ね!」
ダニーがいたずらっぽく笑ってウインクをした。
「なんや~ほんまかいなぁ~~、それやったらはよ言うてーな~」
メンバー全員、妙な緊張がほぐれた・・・。
コミュニケーションの問題はこれで解決した。
どうりで、ダニーの目が少し東洋人的なのも納得であった。
数日後レコーディングが始まった。
楽曲はデビューアルバムの頃にすでにかなりの数が出来上がっていた。
曲調はまさにデビューアルバムの延長線上と言って良いだろう。
11月デビューして、次の年の3月に2枚目のレコーディングである。
デビューアルバム発売から4ヶ月、デビューアルバムレコーディングからわずか半年しか経っていない。
その間にタッカンのソロアルバム、シングル“バーニングラブ”のレコーディングがされていた。
これは異例の早さ、量産であった。
セカンドアルバムのレコーディングはコロンビアスタジオと六本木バードマンスタジオで行われた。
レコーディングもファーストと変わらないハイペースで録音された。
ダニーもこの慌しいレコーディングに戸惑っていたようだ。
アメリカ人のダニーにすれば(何故こんなに急いでやる必要があるのか?)と言う疑問もあっただろうし、実際「もう少し時間をかけれないものか?」とジョージさんに相談していた。
この頃、僕はステージでの失敗以来、歌うのが怖くなっていた。
精神的なものであったと思うが、明らかに今までのように声が出せなくなっていた。
喉の機能的な問題では無い、精神的なことと共に未熟な歌の技術が露呈しただけのことなのだが・・・。
そんな僕の喉の不調を心配した事務所の方から、発声の先生を紹介されて生まれて初めてヴォーカルレッスンを受けた。
この経験は多少の救いにはなったけれど、精神的に立ち直れるまでには至らなかった。
「にぃーちゃんあんまり考えすぎんと、のびのび歌いや。せっかくエエもんもってんねんから・・」
スタジオで度々タッカンから叱咤激励を受けた。
ダニーも驚くようなハイペースのレコーディングは進み、ヴォーカル録音の時が来た。
録音の前に僕が書いた歌詞をダニーに渡した。
ダニーが一通り目を通し僕に言った。
「日本語の部分は僕には分からないけれど、英語の部分これでは意味が分からないね・・・」
アースシェイカーの頃からずっと、自己流で英語の部分は英語辞書を片手に適当に英詞を作っていたのだけれど、実際これで良いのかと言う疑問が常にあった。
ダニーに指摘を受けて(やっぱりアカンわなぁ~)と納得した。
結局、ダニーが英語の部分を意味の通じるようにササッと書き直してくれた。
それ以来、英語詞を作る場合は必ずネイティブの人に力を借りるようになった。
ダニーにとってはレコーディング中に気を失うほどの不眠不休のレコーディングであった。
デビューしたての新人バンドなのでレコーディング予算も少ない。
必然的にレコーディング日数が少なくなるのだが、それは誰もが経験すべき道ではあった。
予算が少なかったとは言え、今現在のデジタルレコーディング環境なら当時の予算でも充分な日数をかけて余裕のレコーディングが出来るのだが。
当時はレコーディングスタジオ料金があり得ないほど高価だったし、そもそもレコーディングを誰もが簡単に出来るようなものでは無かったのだ。
2枚目のレコ-ディングは疾風のごとく終わった。
レコーディング終了後、息のつく間もなくLOUDNESSは初の全国ツアーの準備に取り掛かった。
僕達は次から次へと入ってくるスケジュールをこなすことで一杯だった。
いったい、自分達がどう言う状況に置かれているのかもあまり良く分からなかった。
まだデビューして半年も経っていないのだから致し方あるまい。
しかし、ツアーを始めた途端、日本中のキッズがLOUDNESSで大変な騒ぎになっていることを知った・・・・。
この殺気立った空気とヘビーメタルに飢えたロックキッズの叫び声がLOUDNESSを奮い立たせた。
ライブは文字通りLOUDNESSとメタルキッズとの戦場と化した。
そして、それは日本のロック界にとってはまるで超常現象の如き出来事だったろう。
まさに『戦慄の奇蹟』であった。
