LOUDNESS、デビューしたての頃レコーディングで合宿した。
初日スパゲティーが普通に4人前出て僕達は「おかわり」をした。
翌日、スタジオの人が気を利かせてくれて「8人前」を作ってくれた。
僕達はペロッと平らげた。
翌日は「10人前」が用意された。
僕達は何とか頑張って平らげた。
翌日「15人前」が出てきた。
ひぐっつあんが「おぉ!!これは俺等への挑戦やな!!お前ら負けるなよ!絶対全部喰うたれよ!!ええか!!」
ひぐっつあんの命令の元僕達は頑張って食べた。
翌日「20人前」が出た。
ひぐっつあんが「おぉ!又増えてるやんけ!!おりゃ~~絶対に負けるな!!」
ひぐっつあんの号令の元、僕は涙目になりながらがんばった、そして平らげた。
「おぉ!!よーがんばった!」ひぐっつあんもさすがに苦しそうだった。
翌日スタジオの人が昼食時に出てきて「みなさん、もう勘弁してください、負けました」と言った。
おいおいあんたは本気で勝負しとったんかい!!
--------------------------------------------------------------
こうして大阪と京都を行き来する生活が始まった。
「軽音クラブ」で出会った新入生の仲間と軽音クラブ内でバンド活動をするようになった。
先輩達からも僕達のバンドは正式に承認されて、晴れてバンドの「練習日と時間」が与えられた。
先輩がセッションをしていて「演奏しよう」と言われるとき以外、僕達はその決められた時間以外は演奏をすることも無くなった。
なんだかんだ当初は部長から注意を受けたりしたけれど、時間が経つうちに、新入生達や先輩達とも仲良くなって「軽音楽部」は僕の憩いの場所となった。
地方から来ている同級生の下宿先へ行ってそこから学校へ行ったりするようにもなった。
特に茶々丸とは仲が良くなり茶々丸から音楽の理論も少しだけ教わったりした。
茶々丸が影響を受けたギターリストとしてジェフベックは当然として、他にBBキングなどアーシーなモダンブルースギタリストがいる。
実際、茶々のブルースギターはブルースのつぼを押さえたブルースを知り尽くした本格的なものだった。
ロック的な活動としては高校時代にドゥビーブラザーズの完全コピーバンドをやっていたと言っていた。
茶々丸の根底にはそう言った非常に土臭いギター魂があり、僕はそういう茶々丸のギターが大好きだった。
茶々丸はもう忘れているかもしれないけれど、「俺なハードロック大っ嫌いやねん、ハードロックやっている奴もあんま好きやないねん」と言っていたのが印象に残っている。(笑
ハードロッカーにあまり良いイメージを持っていなかったようだ。
僕と茶々丸と始めたBANDは、Jeff Beck groupやRUFUS, Stevie wonder, を中心にファンキーなものを演奏した。
後にそのバンドは「青春会」と言う名前が付いた。
「青春会」は主に学園祭や「軽音楽部定期コンサート」に出演したりした。
学校外での活動も少しやった、当時アマチュアコンテストの王者だったYAMAHA主催の88ロックデーの京都予選大会にもエントリーした。
ちなみに、その京都予選大会の司会者が僕の心の師匠である”イタチ”と言うソウルバンドのシンガー「三井はん」だった。
「青春会」のコンテストの結果は予選落ちだったと思う。
ちなみに、その時京都地区優勝したのは京都の伝説のソウルバンド”SOUL-DOO-OUT”だった。
”SOUL-DOO-OUT”は男性二人女性二人と言う4人の猛烈&強烈なソウルシャウターがフロントを勤め、ホーンセクションやパーカッションを有する総勢15人ほどの大所帯バンドだった。
この時のメンバーは全員、僕と同じ年19歳~20歳の連中だと後で知った。
そしてその年、”SOUL-DOO-OUT”は全国大会へ出場してグランプリを獲得した。
88ロックデーのエントリー以降、「青春会」はライブハウスにも出演したりした。
京都に出来たばかりのライブハウスに出演し、対バンが三井はん率いる「イタチ」だった。
その時の「イタチ」のベースプレイヤーが現在のX.Y.Z.-Aのベースプレイヤー和佐田だった。
和佐田曰く僕は「最低な男」という印象があったらしい。
僕は覚えていないけれど、和佐田との初対面でいきなり「お前ぐらいのベースなんか楽勝で弾けるでぇ~」と最低の僕は言ったらしい。
当時ベースの初心者だった和佐田はあまりの悔しさに僕を殴り倒す衝動を抑えるのが大変だったらしい。
ちなみに和佐田は当時アマチュアボクサーの猛者だったので、殺されなくて良かった。
僕がそんな事を初対面で言ったなら確かに「最低な男」である、ただ僕はさほどベースに対して自信があった訳でもなく、本当にそんなことを言ったのか甚だ疑問なのだが、ことあるたびに和佐田は「そうや!お前は昔から最低な奴やからな!」とX.Y.Z.-Aのステージで僕をいじり倒すのだ。(笑
一方、アースシェイカーもバハマ初出演以降、定期的にバハマ出演をやり、学園祭に出たりしていた。
アースシェイカーはバハマのライブの度にファンも増えていった。
その頃からだんだん、僕には色んな知らないバンドの人から「うちのバンドで歌ってくれへんか?」と言うお誘いの電話を沢山受けるようになった。
その中でも、88ロックデー全国優勝したあの”SOUL-DOO-OUT”からもシンガーとしてバンド加入のお誘いの電話が来た。
当時、”SOUL-DOO-OUT”のあのヴォーカル4人は大阪・京都界隈で新人ソウルシンガーの中でも最も勢いのある注目ソウルシンガー連中だったのだ。
その中の男性シンガーの1人がヴォーカリストとしてアメリカ修行へ出るということで、僕はその後釜と言うことで白羽の矢が立ったのだ。
僕にはソウルミュージックを歌うと言う「挑戦」だった。
ソウルミュージックは大好きだったけれど本格的に歌ったことは無かった。
僕は理由が分からないけど、「ヴォーカリストとして歌ってみたい」と思った。
何処からか「歌うべきだよ」と言う声がしたような気がした。
そして、歌の勉強をするなら「ソウルミュージック」だと思っていた。
僕は迷うことなく”SOUL-DOO-OUT”の申し出を快く受けた。
この頃ようやく、僕は「歌うこと」を意識するようになった。
「ヴォーカリスト」と言うパートに真剣に向き合うようになった。
自分の「声」に対しても本気で意識して考えるようになった。
未知なる力が「ヴォーカリスト二井原」へと僕をどんどん導いているような気がした。
僕の中で何かが目が醒めた。