前日、前々日と、小説新潮連載版の最終取材となる
突発的東京麺食い編を終えた椎名さんは
ぶ然とした表情を浮かべていた。
「二日間、東京の店をはしごしてさ。
行列のできる店に何軒か行ったんだ」
「どのラーメン屋ですか?」
「やっぱりそう思うよな。実際、行列のできる店は
ほとんどラーメン屋なんだけど、なぜだかわかるか?」
「そういえば、なんでラーメン屋だけなのかなあ」
「その前にひとつ断っておくと、
東京は地方に比べると、圧倒的に店の数が多い。
だから、東京と地方では行列の意味が違う。
店の少ない地方で行列ができる店っていうのは、
その土地の味のストライクゾーンのど真ん中をいっている。
ヨソ者は違和感を覚える場合もあるけれど、
何か光るモノがあることは確かだよ」
「なるほど。それで、東京の行列のできる店はどうでした?」
「どこもたいしたことない」
「えっ!?」
「行列ができるかどうかは、あるかなきかの差。
特別うまいわけじゃないよ。
だって、東京は50m、100m歩けば他にもラーメン屋があるんだから。
その店だけ圧倒的にうまかったら、近くの店はやってけないって」
「そりゃそうですね。じゃあ、どうして行列ができるんだろう……」
「結局、行列は実際の味じゃなくて、情報によって生まれるんだ。
だからラーメン屋に行列ができるのさ。
「行列のできる」ってマスコミが紹介するのはラーメン屋だけだろう。
行列のできるソバ屋、行列のできるパスタ屋、
行列のできるうどん屋……聞いたことあるか?」
「ありません」
「「行列のできる店=おいしい」ってのは、つまり共同幻想だよ。
客はみんな自分の舌で判断してないと思う。群衆心理と言ってもいい。
東京の人は行列そのものが好きなんだ。
ひょっとすると、並んでいる間に
アドレナリンを高めているのかもしれない(笑)」
「確かに行列のできる店に行くときって
エネルギーがいる感じはありますね。“よし、行くぞ”みたいな(笑)」
「それと、もうひとつ気に入らないのは
なかに気持ちの驕っている店があること。
“食わせてやってる”って意識が
その店のスープと同じ、いや、それ以上に濃いんだ。
2年近くかけて全国の店を回った俺が言うんだから間違いない。
でも、可笑しいのはまた行列を作る客が
店のそういう態度をありがたがってるんだなあ。
自虐的なヨロコビですよ、これは」
「じゃあ、行列のできる店はSで、客はMなんですね(笑)」
「簡単に言うとね、東京のラーメン屋の行列は“間抜け”なのさ。
それは海外の事情を見ればよくわかる。
俺は何度も見たことがあるけれど、
外国で食い物を求めて行列ができるのは
食料が欠乏していたり、店が少なかったりするときだけ。
これだけ食い物も店も豊富なのに
わざわざ行列を作ってる国なんてないよ。
「並んで食う」という発想自体がそもそも貧しいんだ。
食い物屋に並ぶという考え方でいくと
これほど能天気で間抜けな風景はない。まったく田舎者だよ」
さて、問題の多かった東京編のあとはいよいよ決勝戦。
メタボリックシンドロームなどどく吹く風、
自らの舌だけをたよりに、2年近く全国の麺々を食い倒した結果
はたして栄冠はどの麺の頭上に輝くのか。
決勝戦のヒートアップは必至。ますます目が離せません!
(レポート:
海仁)