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コロナ禍で何もかも 、、きっと皆さんも… 価値観や生活や多くの物事が大きく変わったでしょう
僕ら嗜好品の部類のモノは特に緊急で必要無いものの トップであり、クラスター発生源にされたり、 飛沫に密に一番目の敵の様な状況でした。
プロになって初めてライブ赤字でこちらが お客さんの分を全部会場に払うみたいな…ね。 ライブをいつも見に来て下さってた方、 ライブやる会場、イベンター、本当に変わった…
まさかここまで⁉️ってくらい徹底的に 飲食店に出る補助金すら羨ましかったもん。
頑張ってまず還暦 60thまでたどり着きたい… 音楽、番組をまずそこまで続けたいと ただそれだけを頭に置いて直接会えない歌えない 部分を配信に移して実行して皆さんと コミニュケーション取ってまた皆さんも 積極的に推し活として応援して事務所機能や バンドの維持に貢献して下さったりもう 本当に涙出るほど、何回か涙出たよね、、
そして何とかその2025年に辿り着いた でもその様子や景色は自分が想像していた「ソレ」 とは全然違う景色になってました
ソロでのライブもいまは打てない… 元々、アポロンから徳間に移籍した時も大きな 変化があったし大きな壁がありました。 いわゆる戦力外通告?みたいな? 生まれて初めて全身の血の気が引いた瞬間、、 第一回のファンのバンド離れが起こった
ファンクラブも停止して事務所変わって。 キツかった、予想もしない絶好調次期の 移籍、大人?権力者?!嫌悪感が渦巻いた。
その後で移籍した徳間ジャパンがなくなり しばらくラジオやMCで事務所や仕事を繋いだ時も 「音楽捨ててパーソナリティーになり下がった」 「歌わなきゃミュージシャンじゃない」など とても寂しい言葉ももらったし経営や運営にも 自分の人間的な部分も批判を浴びた。
過去の衣装を売って次の衣装を買うとか今では 当たり前の事さえ当時は異様だと言われた。 サステナブルな事も2足のわらじも先見の明でなく すべて裏返しに捉えられた。
ネットラジオや衛生放送がごく当たり前の今では 信じられない「ネットなどラジオではない❗」 本当になぜそんな事を言われる?という批判も ありだんだん心も荒れていった。 パチンコ音楽や娯楽音楽でも何でも手掛けたし とにかくinfixを続け事務所を続ける それだけを胸にこの2025年になった。
確かに忙しい、それはやはり想像した忙しさの 「ソレ」ではなく、仕事を入れないと続けて行けない、 給料ではないので仕事の量を増やすしかない。 しかもアマチュアも介入してきて価格なんて 崩壊して、数こなさないと。 スタッフもだけど朝早く暗いうちに起きても 仕事が終わるのは夜中、寝て2時…
コロナ禍から身体ももたなくなって来た。 売れてたりそれなりに知名度でもあれば 少しは楽だったけど。 真面目にラジオでなく、他に形のある副業でも やっていれば良かった?とも思った。
でももうここに来た、時は来た。 ここからの一年ちょっと、もうこの仕事が 出来なくなるかも?という危機もあるけど 声が出て歌えてしゃべって出来る今が 自分の最後のチャンスだと思ってます。 もう退路もない、辞めるのは引退の時
限界という甘え振り切って… 年始から作曲してて生綱のパソコンを買い替え?! 無理ムリ❗ でもラジオにも台本作るのも 曲を作るのもパソコンが無きゃ出来ない。
いやぁ、コロナ禍より厳しいです。 ライブもガンガン入れたいけど「誰が観に来て くれるの?」と問われれば自ずと本数も 企画を請けるうけないも決まって来る…
この厳しさを、世間も冷え込みみんなも冷え込み 財布も冷え込みって時代にどう歌うか?! ヒートビートで追い掛けるしかない
答え answerはひとつしかない すべて 自分が歌って来たように生きるしかない それが答えなのだ…
2月のホームルームライブのリハーサルから 今年のライブがスタートして新大久保での 久しぶりのゴキゲンなライブ、、 ワンマンライブへと繋いで行きます。 全ては自分の人生、自分の人生なのだけど それは皆の人生とともにありたいと思っている あの世には何も持って行けない。 最後は生きた思い出とみんなしか遺るモノはない。 だから晩年はみんなと人生を重ねながら 喜びも悲しみも受け入れながら生きて行こう
万人に好かれるなど不可能 でも自分を想って くれる人達を思って生きたい(行きたい)
infixの曲が番組が存在があって良かったと 思ってくれる人をどれだけ作れるか? そんな 仲間や同士をどれだけ作れるか?!
固く硬く握りしめてポケットに入れてた手を てのひらを太陽にかざして、そして みんなが笑ってくれたり安心してくれる 愛の言葉をひとつでも発したい… それがいま、この瞬間 ボクが想うことです…
おやすみなさい(-_-)zzz
長友仍世
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