なんだか、やすっぽい苦労自慢みたいになってしまって。
申し訳ないです。乱文ですな。
ま、とにかく、浪人時代は暗かったぞと(笑)
今もか(笑)?
とにかく忙しいのだけど、自分としては十分に頑張ることができているとは思えないまま、時は過ぎていって。
あれだけ大きな決意をして、親にも大きく見栄を切って始めたにも関わらず、自分はできないと。自分という存在が信頼できなくなったというか、もう最低の自分を見てしまったというか。
くわえて、この日々が本当に将来のためになるのか、と。
不合格に終わったら、この1年間が全くの無駄になるんじゃないかと。
まぁ、落ちているときってのは人間無駄に想像力が膨らみまして、こんな感じのいらんことばっかり考えておりましたね。
ほんと南新宿の駅のベンチは忘れられません(笑)
もうダメだな、俺。
てか、無駄になるのかもな、この1年。
って、かなり本気で思い込んでいた2001年の冬。
もう冬ですよ。いつの間にか、何回目かの模試も終わりかけてた冬。
代々木ゼミナールの会報で、ある現代文の講師の一言が書いてありました。
「人間は努力した分だけ幸福になれる。それ以上でも、それ以下でもない。」
あぁ、結局はお決まりの”努力論”かよ、と(笑)
そんな声が聞こえてきそうだけど。そうじゃなくて。
ひんしゅくを買うかもしれないけど、僕は”努力”っていう言葉がどうも嫌いで。
「努力すれば、なんでもかなう」なんて軽々しく言う人は、いかがわしい占い師を見るくらいのレベルでその信頼性を疑ってしまう人間です。
努力は夢をかなえる伝家の宝刀でもなんでもなく、単なる一手段でしかありません。
現実は甘くない。
僕が、その言葉に救われたのは、”努力”なんていう魔法の言葉によるものじゃない。
「それ以上でも、それ以下でもない」
やったら、やったぶんだけ返ってきて、やらなかったら、それだけのこと。
そういうフェアな考え方。
そういう社会をフェアに捉える姿勢。
それに、救われたんです。
さびしかったけど、何百、何千時間も自分の目標に費やしてきて。
それは自分の満足のいくレベルや質のものではないけれども、自分がゼロから、多少なりとも進んできたことはたしかなんだと。
合格という結果に結びつくかは、まだわからないけど、今まで頑張ってきたことは、たとえ少しずつだったとしても自分のなかにちゃんと蓄積されていて、必ず無駄にはならないんだと。
そう感じられたことに、救われたんです。
南新宿のベンチでひとりで過ごした時間も。
机の前で何千時間と過ごした時間も。
金の大切さを実感しまくったマクドナルドでの時間も。
自分がやってきたことは「合格か不合格か」、つまり「ゼロか100か」という話ではないんだと。ちゃんと1があって2があって、3も4も、98、99、100まで積み重なっていくものなんだと。
もしかしたら不合格になって、100というゴールを得ることはできないかもしれない。
だけど、自分は、自分の意思でちゃんと決意して、自分のその情けなくおぼつかない足で、1を踏み、2を踏み、3を踏んできたんだと。
ちゃんと進んでこれたんじゃないか。
その言葉を見て、そんなふうに思えたんです。
それが、自信を、”自分への信頼”を、少しだけ取り戻させてくれました。
いや。
まさしく、それまで自分がやった分だけ、取り戻させてくれました。
やっとそのとき、僕は、それ以上でもそれ以下でもない”等身大の自分の背丈”を、ちゃんと見据えることができたような気がします。
その数ヶ月後、僕は最後の最後で、第一志望の大学にひっかかり、奇跡的に100を達成しました。
南新宿のベンチでの自問自答が効いたのか、数学でも英語でもなく、小論文で得点を稼ぐというおまけ付きでしたが(笑)
今から思えば、あの1年間は、自分にとってとてつもなく大きな財産です。
もちろん合格できたことは、自分の可能性を大きく広げることにつながりましたが、その結果だけが自分にとって大切なのではありません。
あの1年間、自分自身の目と耳とからだで体験したすべてのことが、自分の価値観、社会の捉え方、お金の捉え方、その他多くのことに強い影響を与えました。
少しだけど、あの1年間、僕はちゃんと積み重ねることができたんだと思います。
今、受験を前に戦っているひとたち。
今感じているその自問自答、ため息、疲れ、不安感…その全てが、ちゃんとあなたの未来に積み重ねられています。今までがんばってきたことは、やったぶんだけ、ちゃんと積み重ねられています。
つまりは、それ以上でも、それ以下でもない。
無駄になるとか、逆に報われるとか、そういうんじゃなく、ちゃんと進んでこれています。ちゃんと歩いてこれています。
頑張ってきた自分を信じて、頑張ってきた自分に胸を張れるように、もう少しだけ、歩いてみてください。
応援しています。
頑張って。