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繁栄と動乱の交錯する不確実な時代、それぞれの世界を見出した若き写真家たち

70年代の幕開けは、その後の日本の世相を象徴するようなイベントや出来事で始まった。1970年3月から9月まで「人類の進歩と調和」をテーマに大阪で開催された万博EXPO'70には6420万人以上が訪れ、万博史上最高の入場者数を記録。アメリカ館では前年に月面着陸に成功したアポロ11号が持ち帰った「月の石」の展示に長蛇の列ができるなど、各国のパビリオンは人類の明るい未来を予感させるようなムードにあふれていた。

しかし一方で海外に目を向ければ、長期化したベトナム戦争はいまだ続いており、カンボジア内戦まで誘発してむしろ戦火は拡大していたし、また国内においても安保や大学闘争や三里塚国際空港問題などで世情はまだまだ騒然としていたのだった。

同じ1970年の10月、一人の日本人カメラマンがカンボジアの戦場で命を落とした。優れた業績を残したジャーナリストに与えられるピュリッツァー賞(写真部門)を1966年に受賞した沢田教一である。迫り来る米軍の進撃から川を渡って逃げるベトナム人母子の切迫した表情を見事に捉えた受賞作「安全への逃避」は、沢田の代表作としてさまざまに紹介されているので見たことのある人も多いだろう。そこには、戦争という非情で過酷な運命に翻弄される人間の恐れや悲しみや苦しみが凝縮されている。そうした沢田の眼差しは民衆だけでなく戦う米兵士にも同様に注がれていて、多くの優れた戦場写真がそうであるように、単なる「戦闘の記録」ではなく、「人間」が写されている点で高く評価されている。

ベトナム戦争の時代、戦場を活躍の場に選んだ日本人カメラマンは沢田のほかにも多かった。PANA通信社特派員としていち早くベトナムに入った岡村昭彦はその後1965年に「南ヴェトナム戦争従軍記」で戦争の内側を描いてベストセラーとなった。また、戦場でつかのまの休息を取る兵士を捉えた「より良きころの夢」で1968年度ピュリッツァー賞を受賞した酒井淑夫、週刊朝日の特派で作家・開高健と同行取材をした秋元啓一、そして石川文洋、一ノ瀬泰造、峯弘道、嶋元啓三郎などが、ベトナムの戦場で活躍した主な日本人カメラマンといってよいだろう。

文字通り命をかけた撮影であるため、沢田をはじめその半数近くが戦場で命を落としている。なかでも1973年、ポルポト派の制圧下にあったカンボジアのアンコールワットへ潜入取材を試みて消息を絶ち、のちにその死が確認された一ノ瀬泰造の青春の軌跡は、その著書や映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」「TAIZO」などでよく知られているところだ。

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戦闘中の取材で被弾した一ノ瀬泰造のニコン 撮影:早川文象

日本大学芸術学部写真学科を一ノ瀬が卒業したのは1970年。大学紛争も、大衆的な盛り上がりから徐々に不毛な内ゲバ闘争といった閉塞的状況へと向かい始める。冒頭に述べたように、明るくあるべき未来と眼前の困難な現実が不確実に交錯する当時の時代意識のなかで、若者たちがいま生きていることの実感を求めて海外へと向かう兆しが見えはじめてきた頃だった。たとえば、24歳から13年あまりにおよぶ海外の旅の所産を「印度放浪」「全東洋街道」などの著作に結実させ、のちに若い世代の圧倒的な共感を得ることになる藤原新也が、インドをはじめとするアジア諸国へ旅立つのもこの時代の少し前、1968年頃のことだ。

一ノ瀬の生き方を英雄視や美化したりすることは避けなければいけないが、一ノ瀬が命をかけて切り撮ってきたベトナムの戦場の写真は、僕たちの目の前にまぎれもないその時代の世界の一断面を見せつけてくれた。激しい戦闘シーンだけでなく、戦渦におびえる子供の無垢な眼差しや、戦闘の合間のベトナム兵士や女性や老人などの人間スナップにも優れていて、その若すぎた死を惜しむ声は今も絶えない。遺品となった、被弾し貫通した跡の生々しいニコンFブラックボディは、カメラに命と未来を託した一人の若者の心の形を残しているようで切なさを誘う。

1960年代後半、成田空港建設に反対する農民を密着取材した「三里塚」で写真家として出発した北井一夫は、70年代に入るとアサヒカメラの連載「村へ」で全国各地の農村の生活を撮り続け、1976年に第1回目の木村伊兵衛賞を受賞する。

一方で、斬新な肉体表現による2作目の写真集「NUDE」で1970年に高い評価を得た篠山紀信が、その後、山口百恵や桜田淳子などのアイドルたちを精力的に撮り始め、小学館から創刊された若者向け雑誌『GORO』でヌード・グラビアページ「激写」シリーズを担当し時代の寵児となっていくのも、この頃のこと。

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「村へ」1975年 (c)北井一夫

日航よど号乗っ取り事件、ディスカバージャパンブーム、連合赤軍浅間山荘事件、日本列島改造論、オイルショック、ロッキード疑獄…。繁栄と動乱が交錯する1970年代、若い写真家たちはそれぞれのアイデンティティーに従って、「世界を映し出す鏡」…つまりカメラという小箱を抱えて、その視点をさまざまな地平へ放ち始めたのだった。
by nikondigital | 2006-12-05 20:06 | ヒストリー | Comments(1)
Commented at 2006-12-05 20:22 x
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