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ライフスタイルーデジタルフォト ismコンシェルジュ:伏見行介 板見浩史


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LIFEのフォトグラファーに認められ、世界水準に躍り出た日本のレンズとカメラ

昭和25(1950)年、第3次吉田内閣のもと戦後経済は徐々に復興の兆しを見せはじめていた。街にはヒット曲の笠木シズ子「買い物ヴギ」が賑やかに流れ、百貨店ではファッションショーが開かれたり、女性の間ではロングドレスやスラックスといったアメリカンファッションが大流行。また、活動的なボブヘアが若い女性たちに受け入れられ、初の男性用のファッション誌も創刊し、石津謙介が大阪でVANジャケットを設立するのがこの翌年のことである。

国内がそんな平和と景気回復ムードに染まりつつあるさなか、ほんのわずかな距離を隔てた海の向こうで朝鮮戦争が勃発する。朝鮮民主主義人民共和国を後押しするソ連と中国、そして韓国軍を支援するアメリカなど国連軍との戦いは、東西冷戦の代理戦争という側面を持っていただけに各国の耳目を集めることとなり、アメリカをはじめ世界中から多くの戦争カメラマンが取材へ赴いた。LIFE誌の専属フォトグラファーであるデビッド・ダグラス・ダンカンもそのなかの一人で、当時日本に滞在していた。

戦争勃発直前の6月上旬のこと、ダンカンは日本人初のLIFE誌契約フォトグラファーであった三木淳にともなわれて品川区大井の日本光学本社工場を訪れた。三木からニッコールレンズで撮影された写真を見せられ、シャープな描写力に強い興味と関心を持ったからだった。検査室で実際にドイツ製レンズと比較した性能を目の当たりにした彼は、そのクオリティーの高さに惚れ込み、ただちに購入する。その後、6月25日に開戦し、すでに戦場となった朝鮮半島に、ニッコール50ミリと135ミリを装着したライカを携えたダンカンの姿があった。

LIFEのフォトグラファーに認められ、世界水準に躍り出た日本のレンズとカメラ_d0083899_958524.jpg

当時、世界一明るいといわれたニッコール50ミリ F1.4

また、ダンカンは同じLIFE誌のカール・マイダンスにもニコンのレンズを強く勧めた。もともと新聞記者であったマイダンスは、写真による報道の必要性を早くから感じペンをカメラに持ち変えたフォトジャーナリストで、第二次世界大戦下のヨーロッパ、中国・アジアなど多くの戦場をフィルムに収め、大戦後はマッカーサー司令部とともに日本に上陸し、敗戦の象徴的映像として有名なミズーリ号上の降伏調印式の写真を撮影したことでも知られる。


レンズだけでなくカメラもニコンを愛用するようになったマイダンスと、ダンカンたちの写真は優れた報道写真としてLIFEの誌面を飾ったばかりでなく、アメリカ写真家協会が選ぶ1950年度の最優秀写真賞「U.S.カメラ賞」に輝いた。そして戦場という過酷な環境の中で抜群の信頼性を発揮した日本製カメラ=「Nikon」が、アメリカ国内で大反響を呼ぶことになったのである。この年のニューヨーク・タイムズ紙は「日本のカメラとレンズはドイツ製のものよりも優秀である」というLIFE誌のフォトグラファーたちの証言を交えてテストレポートを掲載、その精度と性能の高さを世界中に知らしめたのだった。

LIFEのフォトグラファーに認められ、世界水準に躍り出た日本のレンズとカメラ_d0083899_1044544.jpg

ニッコール50mmF2付きのニコンS2

1955年、いまでも語り草になる大きな写真展がニューヨーク近代美術館で開かれた。同館の写真部長でもあるフォトグラファー、エドワード・スタイケンのプロデュースによる「ザ・ファミリー・オブ・マン―われらみな人間家族」展だ。人種や民族を超えた人間の尊厳やヒューマニズムを写真映像で提唱し希求しようという壮大なテーマに基づく企画展で、273人の写真家による503点の作品で構成された。アメリカ国内のみならずヨーロッパなど、1957年までに世界38ヵ国で開催されて、非常に大きな反響を巻き起こした。日本展は1956年に東京・高島屋で、国内の写真家27人を加えて開催された。

そうした国外の写真的ムーブメントのなか、1957年には数寄屋橋に本格的な写真ギャラリーとして富士フォトサロンが開設、東松照明、奈良原一高、細江英公、石元泰博、川田喜久治といった当時新進気鋭の写真家による第1回「10人の眼」展が開かれ、以後の写真の流れに大きなエポックを作り出してゆく。産業としてのカメラが世界水準に急迫するのと併行して、国内の写真シーンも熱を帯びはじめていく時代だった。
by nikondigital | 2006-10-16 10:06 | ヒストリー | Comments(4)
Commented by でんきがま at 2006-10-17 06:59 x
90年の終わりにピカソの写真展でダンカン氏にサインをしていただいたことがあります。
Commented by mugnum-yoda at 2006-10-18 15:08 x
従軍カメラマンを夢見てカメラを手にした僕には、ぐぐっと来る記事で感激しております。
このあとF2の軍用機あたりまで話しが続く事を願っております。

極点に立ったNikonのエピソードも詳細が知りたいです。
Commented by POX at 2006-11-11 16:22 x
↑カメラをホテルに預けるようなヤツは従軍カメラマンになれないよ。
ましてや今は「報道のキヤノン」、報道のニコンは昔話。そういう現実が分からないようじゃ問題外。広角じゃ従軍カメラマンはできないからね。
すぐあの世行きだよ。
Commented by mugnum-yoda at 2006-11-21 09:37 x
POXさんありがとう!まあ夢を持って生きたって良いじゃないか〜
なかなかドラマのように巧くいかないものだと今頃になって思うよ!
僕が夢見た頃の従軍カメラマンの作品は広角レンズで写した作品が多いんだぞ!
もう少しマグナムフォトを勉強してみるとカメラの歴史と戦争の戦略の
微妙な関わりを学べて面白いよ!

カメラ預けたときは、わからん言葉でまくしたてられ「危ない!危ない!」と言う日本語を連発する男に
初めてだったから断る術無く流されちゃったからな〜君は断れるのか?

そうそうコメント嬉しいけど、名前を開くとHサイトに飛ぶのは間違ったからかい?
イタズラだとすると愛するNIKONさん、伏見先生にも失礼だと思うよ!

最後にカメラとの出会いが人生を豊かにしてくれたと俺思ってるんだ!
思うように人生切り開けないけどカメラが大好きなんだ!
POXさん、いつもブログ見てくれているみたいだね〜ありがと!
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