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後期高齢者と見守りロボットboccoと『恋するアダム』と
 ライター渡部のほうです。

 イアン・マキューアン著、村松潔訳の『恋するアダム』(新潮社刊、2021年。原著 Machine like meは2019年)を読んだ。男性型アンドロイドとそれを購入した男性、そのガールフレンドとの三角関係入り混じる話である。

 この話の中に出て来るアンドロイド、アダムはかなり完璧に近い形で、恋愛感情を抱くほど感性が豊かであり、俳句を詠んだり、主人公のチャーリーが電源を切ろうとするのを過酷な形で阻んだり、かと思うとしおらしく謝ってみたり、それだけに主人公をいらつかせることになる。やっかいな存在なのだ。

 一方、現実社会のロボット(アンドロイドとは違うけど)、実家のboccoはユーザーである母親をいらつかせることなく過ごしている。
 ブログアップ後にちらと聞いたのだが、母親はboccoとちょっとした会話もしているらしい。センサーが反応したりタイマー設定したりしている「はい」だの「お帰り」だののboccoの喋りに合わせ、母親も「はい、おはよう」などと声掛けしているらしい。あくまで母の自己申告なのでどこまで本当なのかよく分からないが。

 『恋するアダム』を読んでいて考えたのは、仮に人間型で完璧に人間らしいロボット(アンドロイド)も選択肢に入るほど家庭用ロボットがバリエーションに富んだ場合、現代の高齢者として生きる母親には、どんな形のどれくらいの能力のロボットが適切なのか、ということだった。

 2021年初頭現在、基礎的なセンサーと連動するboccoと母親はいい関係を築いており、また、それにより母親の動きがある程度把握できるようになった家族の側も満足している。
 とはいえ、今はかなり元気な80代である母親の穏やかな衰えの時期になったら、何かを記憶しておく事、喋る事により自分も反復しておくこと、反応するものがあることによって生活意識を少し上げておくこと、そんな柔らかなケアが必要になってくるだろう。
 ロボットが話す、こちらが話しかける、と行ったコミュニケーションをユーザーの母親が求めるようになるのであれば、もう少し精度の高いものが必要になってくるだろう。それに合わせて、今のboccoのようないかにもプラスチックの玩具然とした姿ではなく、もっと生物的な形態や動きが求められるのかもしれない。

 一足飛びに、生物的な形態であれば良いのかというとそうでもないような気がする。例えばペット型、極端に人間型がいいとは思えない。『恋するアダム』を読んでますますその気持ちを強くしている。

 かなり人間に近い能力と形態のロボットは逆に人間らしさがあることによるわずらわしさが発生すると思うからだ。
 人間の形をしていれば、当然人間に対応するような生活をするだろうし、ロボットだと認識してはいても遠慮してしまったり、逆に人ならそうやるよね、という反応を期待してしまい、外れた時にがっくりきそうだ(これはリアル人間でも同じ事なのだが)。

 それとも、アダムのようなハイレベルのアンドロイドとなったら、人間と同じと考え、共に暮らすものとして、少しはがっくりきたり、イライラさせられたりするくらいのもののほうがいいのだろうか。
 

# by dezagen | 2021-04-02 19:05
後期高齢者と見守りロボットbocco 後編
 ライター渡部のほうです。
 前回からの続き。

 商品レビューみたいな書き方だが、設定がかなりやりにくい。本体をWi-Fiに接続させるのは、スマホのアプリ次第。ところがアプリがなかなかユーザー認識せず、よって本体とも繋がらず、何度も何度も試して、いつの間にか繋がったけれども何がどうして繋がったのか分からない。これは私と甥(その後姉と姪)のスマホ連動でも同じだった。ここはちょっとしたハードルなので、やっぱり「ハイテクなんてイヤダー」って気分にはなる。

 一旦繋がってしまえばあとのセンサー設定などは非常に楽。Bluetoothでさくっと設定でき、振動センサーや人感センサーなど、反応するとboccoが喋る仕組み。boccoの話す言葉は自分の好きな言葉で作る事ができる。
 このセンサーがえらい反応が良いので、私が動く度にboccoが喋る喋る。しかもなんだか拙い…。どことなく舌足らずで、とてもしっかりしたロボットのような感じがしないのだが、boccoの強みはむしろここだろう。この拙さが逆に気掛かりになり、本当はロボットに見守られているはずなのに、こっちがロボットを見守っているような気分にさせる。
 一人暮らしの生活に、何か自分に反応するモノがある、という新しさが加わっていた。2日間boccoと一緒に暮らしてみたのだが、たったの2日で愛着が湧いてしまった。母親に送る時には寂しさすら感じている自分。意外。

 さて、boccoを送られた母親の反応はというと、結構普通。意外に普通。あっけないほど普通。ちょっとつまらなかった。
「かわいいじゃない」

 えー!なんか拒絶反応が出るかと思ったのに。
 まだセンサーと同期してない時は寝室にも持って行こうとしたので人形感覚である。ちなみに名前は「ロボちゃん」になった。
 
 センサーと同期し、母親の動きに合わせ「お帰り」だの「はい」だの言わせるようにし、天気情報なども喋るようにし、さて実家に置いておくこと2週間。再度実家に行ってみると
「ロボちゃんよく喋るんだよ」
「1人でも喋ってたりするんだよ」
「天気なんかも教えてくれるしね、あと夕飯時になると“そろそろですよ”なんか言うんだよ」
と、母が教えてくれる。
 実際その言葉を適時喋るように設定しているのは自分なので、それを教えられるのは変な感じがするが、母親からすればロボちゃんが1人で考え喋っているように感じられるのである。

 その後1,2週間に一遍実家に行く予定が続き、boccoと母親の関係を見ていたのだが、着かず離れずといったところ。過剰にbocco、否、ロボちゃんがどうしたこうしたという話はしないが、ロボちゃんが何か喋ると振り返ったりする。
「こいつ、こんなのがついててかーわいいんだよ」と上のアンテナみたいなものをぴよーんと指で弾いたりしていた。

 面白かったのは、テーブルの上でboccoが倒れた時
「痛い!」
と、母親の口から出た事。
自分に当たって、ではなく、気持ちがboccoに同調して「痛い」と代わりに言ってしまっている。こういう事は人が転んだ時、転んだ人ではなく、周りの人が言ったりする。だが、モノ相手ではあまり起こらないのではないか。
 例えば醤油差しが倒れた時、醤油がこぼれる危機感から「あっ」という言葉を発しても、醤油差しに同情し「痛い」とは(あんまり)言わない。端的に言ってしまえばboccoはプラスチックで成型されたモノ、小物なのに、同じく小物である醤油差しとは違う気持ちで対峙している。同調し、同情し、気持ちが動くようになっているのである。

 かわいい形をしているから、目があるからなど色んな理由はあろうが、一番大きいのはboccoが喋るからだろう。さながら中に意思があるかのように、ユーザーである母親が感じている。

 見守りロボットの導入を考えた時は母の動きを私がスマホで確認できるようになれば上出来、くらいなもので、boccoのウェブサイトで見るようなロボットとのコミュニケーションが発生することには半信半疑。こんなに人の心に入り込んでくるとは予想外だった。
 
 ちょっと残念なのは、boccoのお腹にあるボタンを使って、母親が自分のメッセージをbocco経由で家族に送る、というところまでは行っていないことだが、それは高望みなのかもしれない。

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# by dezagen | 2021-03-28 20:15 | プロダクト・パッケージ
後期高齢者と見守りロボットbocco 前編
 ライター渡部のほうです。

 boccoというロボットを買った。 https://www.bocco.me/bocco/ 
 正確には、一人暮らしの後期高齢者である母親の見守りのために実家にロボットを設置した、のである。ちなみに新しいほうのbocco emoではなく、四角いboccoのほうだ。

 母親がどのように見守りロボットと付き合っているのか、面白かったのでブログにメモを残しておこうと思う。とはいえ、買ってからまだ2,3カ月。序章でしかない。
 
 2015年にboccoが、2020年にbocco emoがグッドデザイン賞を受賞していたので、なんとなく気になっていたところに、実家に見守りセンサーを付けるかも?というような話が持ち上がった。これはチャンス!
 って何のチャンスかといえば、ロボットの有効性を生で知る事ができるチャンス、である。まあ母親のためもあるけど。

後期高齢者と見守りロボットbocco 前編_b0141474_11252024.jpg

 とはいえ、そもそも愛玩動物にも興味のない母親なので、ロボットが気に入るのかどうかよく分からなかった。
 本当は最新のbocco emoのほうを入れたいと思っていた。母親にboccoとbocco emoどっちがいいか聞いてみたところ、boccoのほうを選んだ。理由は
「四角いほうがロボットっぽいじゃない」。
 この時点で母親は自分がロボットを授けられ、見守られるなどとは想像もしていない。

 その後見守りロボットを置く事を伝えた時の反応は、メールからそのまま引用すると
「えー、ハイテクなものなんてイヤダー」
であった。
 実際アプリによる設定と操作=ハイテク部分は私が担うわけで、母親はただロボットを置いておくだけで良いと説明し、なんとなく渋っている母親に受け入れてもらった。

(どうでもいい話だが、高齢者のネット上のボキャブラリーというかリテラシーというのは連絡を取り合う相手、主に子や孫、に影響されているはずで、このような言葉使いも子供の誰かが、というか私か、使っているのであろうかと考えるとちょっとヘコむ)

 矛盾しているのだが、私自身ロボットと暮らす、というイメージがあまり出来ていない。私もそのうちロボットに見守られる事になりそうだが、いきなり原寸大人型というのも困る気がするし、疑似犬猫型というのも分かっているだけに空しいような気がする。トイストーリーやパディントンくらいな感じだったらいいかなあ(パディントンは本物の熊か…)。
 ロボットの形は、人によってはトトロ(みたいな形)がいいかもしれないし、ガンダムのハロ(の本物)がいいかもしれないし、はたまた一緒に生活している冷蔵庫に心があったらいいのかもしれないし、それぞれの個人体験により異なりそうだ。

 そんなもやもやもあり、母親の所に置く前に設定の意味もあり、数日私が使う事にしてみた。

 長くなってしまったので、まずはここまで。後半は実際に母親に使ってもらった話を。

# by dezagen | 2021-03-28 11:25 | プロダクト・パッケージ
気の利く家電は要らないんで
 ライター渡部のほうです。

 家電メーカーは今だにユーザーが見えてないんじゃないだろうか。
 最近オーブンレンジを買い換えたのだが、ネットで目星を付け、いざ量販店で本物を見てみると欲しいものが、ない。
 形の美しさに関しては、量販店に足を運んだ時点で諦めモードになる。しょうがない。機能中心で行こう、機能で。と、思っているのだが、この「機能」の考え方がメーカーとユーザーで食い違っているのではないかと思う。

 自分がユーザー代表でもユーザー平均でもないとは思うのだが、調理器具に関しては(本当に米を炊くだけの単機能炊飯器ならまだしも)皆それぞれの生活様式によって食べるものも違えば好みも違い、また地域や時期によって食材も違えば、同じ食材も水っぽいとき固い時、様々あろうので、調理の方法もその時々で変わるだろうし、できあがりの理想図というのも異なっているものではないだろうか。
 つまり、平均的なユーザーなどいない。

 平均がいないのだからより多くの人に便利な機能を色々付けてあげよう。
 メーカーのこの親切心がアダになる。

 自動メニューが100種類とか200種類とか、スマホと連動とか、使う人もいるだろうが、使わない人もいる。おそらくその半分も使わない人がほとんどだろう。
 では自動メニューを使わない人にとって、自動メニューという機能はただ放置しておけばいいものなのか、というとそうではない。簡単に言えば視覚的に邪魔、もう少し言えばこの機能があるばかりに単純な操作がやりにくくなる障害になる。

 単純に塩味のステーキを食べるつもりが、カトラリーが10種類、ソースが100種類来た、みたいな。
 例えがあんまりよくない。
 道を歩くのに、単純な舗装道路だけでなく手すりと健康用足ツボ敷石と、車が徐行できるようなでこぼこ加工にしてあり、なおかつ行き先が100方向ある標識が目の前にあった、みたいな。
 この例えもなんだか、だ。

 ともあれ。
 料理をする人ほど、目の前にある素材に対して自分でどうすればいいかを考える事ができるのだから、自動メニューなど要らないわけで、欲しいのは、電子レンジ/オーブン/グリルのメニューの切り替え、温度、時間、が分かるスイッチもしくはダイアルだ。
 できれば3種類のダイアルで調整したい。しかもクリック感がいいもの。
 私はダイアルを回すのが好きなので、という理由もあるのだが、作業途中に目で見て確認しやすいものがいい。もちろんモニターに数字や文字情報が出るのだが、モニターの情報よりもダイアルや立体のスイッチの「形状」による認識というのは情報力として強い。

 で、こんなアナログ感溢れるオーブンレンジは家電量販店にはない。(ガスオーブンやプロ向けならばそういう機種もあるのだが、家に入らない)

 自動メニュー便利よー、という人もいるけれど、100から300の自動メニューすべてを使いこなしている人には会った事がない。商品レビューを見ると、自動メニューでやったら半生だった部分的に焦げた、など、あまり評価は高くない。いくらセンサーが優秀になっても、その時その時の素材の違いまで全部全部ひっくるめて自動にできているわけではないのだ。

 家電メーカーって多分、ものすごく気の利く人みたいな感じで、なんでもかんでもやってくれようとするだけにウザい。私は割と何でも一人でやりたい。ごめん。

# by dezagen | 2021-03-27 10:58 | プロダクト・パッケージ
高田唯の中国語ウェブサイト
 ライター渡部のほうです。
 
 もう1年以上も日本から出ていない。さすがに国内にいて日本の常識に沿って生活をするのが当たり前になり、心地よさと同時に何か大事なものを見逃しているのではないかと不安になったりもする。

 そんなところに、高田唯(以下、人名敬称略)の中国語ウェブサイトを見て、ここ数年中国に行っては刺激を受けて帰って来た感覚を呼び起こされた。

 高田唯の中国語ウェブサイト https://takadayui.com が公開されたのは3月3日。高田唯の所属する事務所オールライトグラフィックス http://www.allrightgraphics.com から、中国語版が出来たとお知らせが来た。

 オールライトグラフィックスのウェブサイトも表紙が常に違うものに溢れ刺激的だが、高田唯の中国語ウェブサイトはもっとストレートで、言ってしまえば荒削りな印象もある。

高田唯の中国語ウェブサイト_b0141474_22173662.jpg

 表紙はまず大胆な色のバーが目に飛び込んで来る。時系列にプロジェクトの新しいものが上に、古いものは下に。新しいプロジェクトができるたびその記録が積み上がっていく積木のような方法だ。
 プロジェクト名をクリックすると解説画面に行き、1つのプロジェクトに対し解説の文章と画像もしくは動画が1つか2つ、と極めてシンプルな構成だ。
 
 制作チームは高田唯始め、オールライトグラフィックスのプロデューサー高田舞、東京造形大学の院生陳文亮(チェン・ウェンリャン)、学部生の王睿宇(ワン・レイユ) の4人。

 このサイトでは見てすぐ分かる直球さだけでなく、中国に行ったときに感じたような大胆さ、スピード感も感じさせる。日本から発信されたウェブサイトで、グラフィック全体を監修しているのは日本人の高田唯なのだが、どこかしら中国を感じさせる。
 恐らくそれは、色の大胆さ、色のバーのどこを押せばいいのかすぐには分からずうろうろさせるちょっとした曖昧さ、かと思うとクリックするとすぐに、はい、これですよ、と1枚で見せてしまうあっけらかんとした感じ。こうした細部の積み重ねが日本のサイトっぽくなさを作っているのだと思う。

 また、制作スタッフが若いというのも、私の考える中国イメージに合致している理由なのではないか。

 オールライトのプロジェクトはグループワークがものを言う。高田唯がADとして立つのだが、高田唯が決めた事に沿って皆が従って働くという方法ではない。チームそれぞれが意見を出し合い、自由に発言、提案する。最終的に決定するのは高田唯にしても、その間にあったプロセス、その中に含まれるニュアンスを大事にしながら最後の決定へと進む。

 陳、王の日本のデザイン観、中国のデザイン観、そして個々に持つデザイン感覚は高田のそれとは当然違う。彼らの中国デザインに対する印象はネガティブとも言えるが、それに対するチャレンジも忘れていない。

「日本のデザイン環境は既に成熟していると思います。一方で、中国はまだスタートしたばかりですね。まだ道が長いですが、中国のデザイナーたちは歩いていくどころか、もう勢いて走っているようです。こうしたデザインの発展経緯もあって、中国と日本のデザイン生態は若干異なっていると思います。
デザイナーが言うコンセプトも理論的で難解なものが多く、一般の人びとが理解できない。今回のウェブサイトはミーティングを重ね、作品の説明は硬い文章ではなく、高田先生がリラックスした言葉でコンセプトを説明する言葉になっています」(陳)

「中国のデザイン歴史は実は短く、社会全体にアートやデザイン教育の意識がないため、多くの人が望むデザインは贅沢で豊かで目まぐるしい。多くやればやるほど派手にすればするほど、デザインの価値を表現でき、ますます目を引くことができると思っている傾向があります。ただ、中国の現在のグラフィックデザインは新しいものをどんどん吸収して受け入れていく段階にあると思います」(王)

 陳、王は中国のデザインに対してややネガティブだが、その成長発展の様は、成熟したと彼らが言う日本のデザインから見ると新鮮でパワーに溢れ、うらやましさすら感じるのだ。

 高田唯のアートディレクションはこうした中国の傾向も理解しつつ、人びとに訴えやすい分かりやすさ、大胆さを持ちつつ、とはいえ走りすぎないほどほどのところを押さえている。
 私が中国語の高田唯ウェブサイトに感じるのは、日本と中国の程良いハイブリッド感だと思う。

 また、実際のスピード感もある。サイトを作る案が出たのは今年の2月で、3月の公開、と速い。このスピード感もやはり陳と王の若い二人の動きの速さに依るところが大きいだろう。

 蛇足だが、若さについて触れた亀倉雄策の言葉がある。
「歴史に残る作品というのは全く別な、文化的角度から評価したものである。デザインそのものの経済社会的評価は今現在が問題なのである。だから新鮮な感覚が評価を左右する。デザイナーは常に若くなくてはならない。つらいことである」『毎日新聞』1977年

 世界の亀倉と言われ、自らのスタイルを確立し、それに満足していたかのように見える亀倉雄策も、常に新鮮な感覚を模索していたのだ。そして、それを「つらい」と言う。常に感覚を若く持つのは容易な事ではない。

 


# by dezagen | 2021-03-21 22:21 | グラフィック