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製菓とファンシー
ライター渡部のほうです。
 
 コロナ禍で良かった事、という質問を聞かれたとすれば、あまりに自宅にいすぎるので、菓子作りをするようになった、だろう。

 菓子作りはやればやるほど専用の道具や製菓材料が必要になるので、売り場に足を運んだりネットで購入したりするようになったのだが、これが結構辛い。ピンク、パステルカラー、ハート型、意味のない欧文が書かれた紙のマフィン型やラッピング用品など。一言で言えばファンシーの世界である。

 本格的な道具が必要になってくるとこうしたファンシー味は消えてくるのだが、アマチュア用と言えばいいのだろうか、安価な道具はどこかしらファンシーの要素がある。
 100均の製菓コーナーの充実ぶりには驚くばかりで、もともとファンシー傾向の強い100均と製菓の相性は非常に良い。製菓専用サイトなども、丸みを帯びた文字だったり、ピンクとブラウンの組み合わせで暖かみを演出していたり。調理器具1つ、材料1つ取りあげても、それを使ったレシピとちょっとしたストーリー(「ぶきっちょさんでも簡単にできちゃう」「バレンタインギフトにぴったり」などなど)

 では菓子に限らない調理器具用品の世界はどうか、と厨房道具専門サイトに行くと、こっちはこっちでかなり雑多な世界で店により雰囲気は異なるが、怖いくらいの明朝が使われていたりして、鍋を買いたい世の人は皆ラーメン屋を開かねばならないのだろうか、と思わせるほどガチな感じだ。扱われているものも無駄な装飾が少ないし、商品紹介もスペック重視。

 この差は何なのだろうか。
 ファンシーの本質とは何か?まで迫らないと分からないような気もするが、当座、製菓の場に限って言えば「ちょっとヘタでも許してあげる」許容の表現のように思う。

 製菓にきちんと向き合おうとすると、正確さとコツが必要になってくる。この正確さとコツは簡単な科学に基づく。水の沸点、砂糖の融点、グルテンの、油の、卵の、温度湿度、力の要れ具合、など様々な条件が揃って始めて成立する。
 分かりやすいところではシュークリームの皮。生地を火に掛けるのは80度前後で小麦粉が糊化するため、生地を練るのはグルテンを発生させるため。粘り気のある皮を作ってから、オーブンで焼くと生地に含まれる水が蒸気となり、膨らむ仕組み。こうした事を一つ一つ踏まえなければ、きれいに膨らまない、つまりシュー皮ではない何かになってしまう。

 製菓は簡単な科学を元にして成り立つので、化学実験用品のような雰囲気があってもいいはず、ではある。だが、スペック重視で精緻、ピシッとしたイメージで製菓用品のパッケージや専門店サイトなど作ってしまうと、非常に門戸が狭くなってしまう。
 顧客からしてみれば、製菓用品のパッケージも専門店のサイトも、入りづらいのは困るし、うまく作れないと「失敗」「後戻りできない」感が増す。
 菓子を作る過程において失敗は多い。思うように形ができない、緩すぎる固すぎる、半生だ焼きすぎで焦げる、こうした失敗も「また挽回できます」という許容量の広さがなければ製菓の世界は広がっていかない。

 製菓回りのデザインにファンシーが多いのはこうした失敗も認める、つまり「ぶきっちょさんでもできちゃう」感を盛り上げてくれるものと考えられる。

 と、ざっくりまとめてみたものの、だからといって猫や熊が人気で、欧文の新聞みたいなパッケージが氾濫している状態が好きだとは決して言いたくない。多分一生言わないだろう。

 


# by dezagen | 2021-03-08 13:48 | プロダクト・パッケージ
モノの消失
 ライター渡部のほうです。

 モノが作られ、買われ、使われ、捨てられるというサイクルを見ている。普段から見ている事は見ているのだが、改装に伴う実家の片付けをやっているとより強くこうしたサイクルを意識せざるを得ない。
 そんな事を考えていた時に、実家の近所で家が一軒全焼する火事があった。後日、片付け手伝いに行ってみると、目の前の家は黒焦げになり、外から見えるほどぎっしり詰まっていたモノは残骸と化していた。
 火事で最も落胆しているのは家に住んでいた人だということは言うまでもない。だが、火事というのは周囲にも、しかも消火した後ですら衝撃をもたらすものだということを知った。

 日々人がモノを捨てて行く、モノが消失していくのはしょうがない事だ。燃えるゴミに出すのと、火事で燃える事は結果的には同じ事なのかもしれない。だが人が燃えるゴミに出す時、「捨てる」という意思を持って、袋に入れ、もうそのモノには会わない別れの儀式を行っている。気持ちの消化を済ましていると言えるだろう。
 一方、火事でモノが消失するのは突然の別れである。モノの有用性が突然失われ、そのモノに対する愛着、愛着とは言わないまでもその対象に対する気持ち、は消化されず、残骸と共にどうにも行き場のない気持ちが残ってしまう。
 火事というのは、モノの終末の中でも最も悲しい方法の1つだと実感している。

 そんな残骸を横目に、家の片付けに向かう時、しっかりとモノと別れをしなくてはならない、と思う。作られ、使われてきたモノに対して。

 

# by dezagen | 2021-03-07 20:01 | その他
日常と日用品
 ライター渡部のほうです。

 自粛生活が続いた事もあり、改めて「日用品」って何だろうと考える機会が増えた。

 丸善が出している季刊冊子『學鐙』の2021年春号は「日常」特集。寄せられているコラムの中から自分が面白いと思った言葉を抜き出してみた。(敬称略)

「健康、普通、日常というのは不思議なもので、手の中にあるときは石ころ同然だ。しかし、いったん失うと、光り輝く」頭木弘樹

「昨日と今日が一続きとして意識されることが、「日常」の実感的根拠であろう」永田和宏

「タンザニアの人びとの日常には、いつも野菜を買う青空市場の露店、いつも昼食をとる路上惣菜売り、いつも利用するタクシー、いつも綻びを修繕してもらう仕立て屋など、いくつもの「いつもの」がある」小川さやか

 これらのコラムからは「日常」とは綿々と続く普段の身近のそこかしこにあって、その価値に気がつかない程に生活の基盤となっているもの、という事が伺える。

 日用品は日常使うものだけに、その定義や価値は「日常」とほぼ同じと考えていいだろう。

 私の中での日用品は消耗品に限らない。長年使う家具も日用品と捉えているし、普段の生活で視覚的に使用されるサイン計画も入る。となると無限に何でも入って来てしまうし、人の生活様式に依ってかなり差異が生じる。
 何となくルールとしているのは
・スーパーマーケットやドラッグストアなどで売られ、比較的低価格で多くの人が目にし、使うもの。
・高価でも毎日のように生活の中で使い、かつ長く使われるもの(家具など)
・高価さがステータスシンボルの意味を持つものは入れない(宝飾品など)
・量産品、あるいは量産可能なもの。

 日用品を通して見えてくるものは、卵と鶏の話になってしまいそうだが、やはり日常である。普段の、普通の、普遍的なもの。日用品が人びとの日常を、生活を映し出す、そんな仕組みを見ていきたい。

 こんなことを書いていって何なの?と思われる方もいるかと思うが、今回は特にオチなし。メモですね。

 

# by dezagen | 2021-03-06 20:03 | その他
「リノリウムの新しい使い方展」「祈りのかたち展  vol.2」  
 ライター渡部のほうです。

 東京造形大学大学院のプロジェクト「リノリウムの新しい使い方展」「祈りのかたち展  vol.2」を見に、渋谷ヒカリエ のaiiima2まで。

「リノリウムの新しい使い方展」は、主に床材に使われる事の多いリノリウムを他にどんな応用ができるのか検証していったプロジェクト。

 リノリウムというと、小説の中にたまに出て来る古いアパートのキッチンの「剥がれたリノリウムの床」という表現が思い浮かぶ。
 それくらい最近のリノリウムについては知っていなかったのだが、聞けば、リノリウムとは亜麻仁油始め天然素材を原料とし、抗菌、抗ウイルス性に優れ、かつ天然素材のため生物分解性も備えている、というサステナブルな社会の今時な素材として注目を浴びているのだそうだ。全然知りませんでした。すいません。。。

 さて、プロジェクトではそんなリノリウムをもっと幅広く使ってみよう、という試みで、加えてインタラクティブな要素(振動などに反応)も盛り込んだプロダクトが6種類作られた。
 例えば「LINOMAL」と「LINOCK」と名付けられた積木のような玩具。(制作チーム:丸山真奈、ケイ シエン、オウ シンウ)

LINOMAL
「リノリウムの新しい使い方展」「祈りのかたち展  vol.2」   _b0141474_21262129.jpg

LINOCK
「リノリウムの新しい使い方展」「祈りのかたち展  vol.2」   _b0141474_21264963.jpg

 どちらもリノリウムの抗菌性、抗ウイルス性といった安全性を活かし、小さい子供が遊べるものとなっている。LINOMALではぶつけても危険ではないような丸みを持たせたり、LINOCKでは持ち方によって形の感じ方が違うその触感を楽しめるような工夫がされている。どちらも動かす事により、台のスピーカーからそれぞれに合わせた音がなる仕組み。LINOMALではそれぞれの動物ごとに、猫ならにゃー、豚ならブー、と違う音を出す。

 他の作品も最近のリノリウムの色のよさ、触り心地の良さを活かしていて面白い試みだったが、平面的な貼り材に終始してしまった事、インタラクティブ性があまり活きなかった事が残念ではある(という書き方はどうしても自分の務める大学の学生作品として見てしまうから、なのだけれど)。
 もう少し曲線的立体的な造作にはならないか、印刷など施せないか、もっと色を楽しむ方法など見てみたい。面白いプロジェクトなので次年度も是非継続してもらいたいし、もっと幅広く検証してもらいたいと思った。

 同会場、もう一つの展示、「祈りのかたち展  vol.2」は会津若松の仏壇仏具位牌のメーカー、アルテマイスターとの共同プロジェクト。祈る、をテーマにハンカチやモニュメントなど5作品が作られた。

 こちらでは「kemari」という作品に目が行く。(制作チーム:チョウ カキン、リ シイツ、リ チヒロ、岩森咲季、橘玲慧)

 
「リノリウムの新しい使い方展」「祈りのかたち展  vol.2」   _b0141474_21271077.jpg
「リノリウムの新しい使い方展」「祈りのかたち展  vol.2」   _b0141474_21272670.jpg


 こけしかけん玉にも見えるこれは、ペットの毛玉をボールにし、土台に置くもの。ペットへの気持ちを形にして祈る、というか思いを託すもの。
 今回は生きているペットでも亡くなったペットでも、という前提だったが、真価が発揮されるのはやはりペットが亡くなった後だろう。

 ペットも家族の一員のようにいるものの、人間さまが死んでしまうと儀式があれこれあり、お墓などの形にして残す一方、ペットはこうした物事が形式化していない。それゆえ自由に思いを残す方法を考えればいいのだが、何もないのも寂しいと聞く。

 kemariはこちらの映像 https://youtu.be/OrYRFGxBX3I で作り方を見る事が出来る。完成まで、ペットの毛を丹念に針で刺して固定する作業がある。このあえて面倒な手間があることで、ペットへの思いも昇華させることができるのではないだろうか。

どちらの展覧会も3月7日(日)まで。
展覧会、作品の詳細は以下のサイトでどうぞ。
リノリウムの新しい使い方展 http://linoleum.zokei.ac.jp
祈りのかたち展 vol.2 http://aizu.zokei.ac.jp

# by dezagen | 2021-03-02 21:30 | 展覧会
モノへの愛着とその喪失
ライター、渡部のほうです。

 形のデザインに関係がないようでいて多分かなり関係ある事だけれども、デザインにはあまり役に立たない気がする話。

 実家を建て替えるというので、ほぼ2週間に1回実家に行き、家の片付けを手伝っている。(蛇足だが、その都度PCR検査をして行くのは面倒臭い)

 これまで70年余り3世代のべ7人が住んできた家を母1人用の家に建て替える。大幅な規模縮小ため、中に入っている荷物の処理も半端ない、はず、なのだが、これがなかなか難しい。
 一人暮らし用の生活用品の量にまとめるには、現状の1/100くらいに減らすくらいが丁度良いので、目に付く不要物と思われるものはすぐゴミ袋に入れようとすると、母のストップが入る。来客用のかき氷の器とか、人にお裾分けをする時に使う使い捨てのパック100組とか、ラジカセとかビデオデッキとか。果たしてどんな時にそれが使われるのであろうか、と疑問に思うのだが、とりあえず後期高齢者には口出ししない。
 かと思うと結婚指輪を処分しようとしたり(「あら、これ私のだった」)、何が必要で何が不必要なのか、子供でもその基準は全く分からない。

 普段デザインの事を書いていると、多くはこれから買われるもの、これから使うもの、についてその有意性を考えている。その後どのように使われ、使用期間が終わる時、というのはユーザーに委ねられていて、その使い方、終わり方はユーザーにより多岐に亘る。
 食品などの消耗品(のパッケージデザイン)は捨てる事まで考えられているが、それにしてもパッケージを取っておく人(私だ)もいたりする。詰め替え可能なシャンプーなどのボトルになると、数年使い続けるということもあるだろう。

 製造時には魅力的に作ってあるものであるから、ユーザーがその意図を汲んで使っているのであればその魅力は継続する。そのモノとの関係性が長く深くなるほど、愛着も湧いてくる。そんな愛着をいきなりストップしよう、と思ってもなかなかできないものだ。
 母が使ってきたもの、見て来たものにはそれぞれ母と関係があるわけで、捨てろと言われてもなかなかその繋がりは断ち切れない。

 これは全部愛着の問題なのか、と思うとそうでもないようだ。
 捨てるとなると二の足を踏む母なのだが、リサイクルに出すとか骨董屋に見てもらうとなると、ぼんぼん出してくる。次の用途がある場合、売るという役割がある場合、スムースにモノは手から離れていく。
 ゴミとして出す事はモノの痕跡をなくし、存在を永遠に消し去る事を意味する。そこになにかもやもやとしたものを感じてしまうのだが、譲るなり対価を得るなり、そのモノの有用性があるのであれば捨ててもいいらしい。

 モノが作られ売られる場所に比べて、リサイクル、リユースをする場所というのは異常に少ない。人がモノに対して抱いている愛着なりをうまく消化してくれる場所は少ない。この場所がもっと広くなるようなモノのサイクルのデザインが必要だし、またモノ自体もリサイクル、リユースしやすいように、その出自や素材などを分かりやすくしておくデザインというのも必要だろう、、というのはサステナブルデザインを実践している人には当たり前の事なのだが、現実と理想はほど遠い。
 母に「これはまだ使う」と言われて、ええーっと困窮する。「これは捨てない」と言われてムッとする。そんな事をやってきてえらい疲れてしまった。やれやれ。
 

# by dezagen | 2021-03-02 16:58 | その他