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今この状況のミライトワとソメイティを考える
 ライター渡部のほうです。

 先日、郵便局でオリパラリンピックグッズを目にした。ひょっとしたらレアグッズになるかもしれないこれら、買うべきか?
 普通、あるいは自分の趣味性から言えば絶対買わないんだけども、絶対、とは言い切れない。デザイン史上貴重なものになるのかもしれないのだから。
 以下、オリンピックとパラリンピックをまとめてオリンピックと表記。

 特に気になったのはオリンピックマスコットのミライトワとソメイティのついたボールペン(だったかな?)などのグッズである。
 何も郵便局だけで買う必要もないので、オフィシャルオンラインショップのマスコットコーナー https://tokyo2020shop.jp/contents/2020mascot を見てみる。
 まず筆頭に出て来るのは双眼鏡。無観客かどうか分からない状況ではかなり有用性が問われる商品だ。他にもあるわあるわ、アパレル、ファッション小物、応援グッズ、文具雑貨伝統工芸…。

 オリンピック等の大きなスポーツイベントがある度に、こうしたオリンピック関連商品があるのを当然のように思っていた。自分はほとんど買う事がないのだけれど、と、思っていても競技を見ていて夢中になってくると欲しくなってきたりする。

 関連商品というのはいつ頃から出てきたのだろうか。『ヴァナキュラー文化と現代社会』ウェルズ恵子編、2018年、思文閣刊の中「ヴァナキュラーな消費文化の展開――メディアイベントとしてのオリンピックをめぐって 」関口英里著、によればスポーツイベントであるオリンピックのメディア、エンターテイメント化は1960年スコーバレーオリンピックでディズニーが関わってきた事から始まっているようだ。それは1964年の東京オリンピックにも引き継がれた。
 関口は以下のように書いている。

「日本のメディア関連企業による五輪連動キャンペーンは、オリンピックと自社製品の商品を、エンターテイメントの参加という意味づけにおいて結びつけ、国民生活の発展に不可欠な経験として強調した」

 そこで様々な日用品(ヴァナキュラーな品々)がオリンピックに関連付けられてくる。
 以降、スポンサーの役割を明確にしオリンピックを黒字イベントにさせた1984年ロサンゼルスオリンピックや、閉会式開会式のドラマ化によりさらにショー要素を増した1992年バルセロナオリンピックなどを経て、オリンピックとその周辺は国民生活の発展に不可欠なものという精神的な面に加え、より経済的に意味のあるエンターテイメントへと変化、確立してくる。
 それと共に、関連付けられた日用品は、日常の商品ではなく、非日常の商品となる。

 夏季冬季とオリンピックがある度に、周辺商品もある事が当然だと思っている。当然、これらの商品は実イベントが行われる前に作られる。
 ところが、今回の新型コロナウイルス感染症により、2020年の東京オリンピックは異例の延期になった。2021年の開催もまだどのようになるか「分からない」という本当に異例な状況なのっだ。
 通常通りにはやらないかもしれないけれど、無観客でも盛り上がるかもしれないし、意外に割と普通にやれるのかもしれないし、いやいや、やっぱり無理でしたできませんでした、ということになってしまうかもしれない、という本当の「分からない」の状況というのは、周辺商品をストップさせるわけにもいかない状況にしている。
 違和感を抱きながら、オリンピックのグッズの販売は継続しているわけだ。

 周辺商品、例えばマスコットのミライトワとソメイティが描かれたボールペンというのは単なるボールペンではない。書くための道具を超えて、オリンピックというイベントが“あって”そのイベントを応援する、気分を盛り上げるための付加的要素を買うものとなっている。
 仕事をしている時も勉強をしている時も、ペンを使う事でオリンピック気分を盛り上げている事になる。
 
 ではイベントが“なくて”そのイベントを応援する事ができない場合、気分を盛り上げるための付加的要素も失われた場合、ミライトワとソメイティが描かれたボールペンは非日常性を失うのだろうか?付加的要素ミライトワとソメイティは何を象徴する事になるのだろうか?

 今回のオリンピックで無観客になる可能性は、“あって”も競技場で楽しむ事はできない。そもそも、通常の大型スポーツイベントというのは競技場で応援できる人数は限られていて、多くの場合テレビやネット媒体といったメディアで楽しむ人数のほうが多い。
 つまり、そもそもメディアの中で、やっているはず、のイベントを応援しているわけだから、周辺商品が盛り上げているものは、やっているはずのものの気分というひどく抽象的なものであることにも気付く。

 そもそも論はちょっと横に置いて。
 コンテンツのないメディアだけの状態とは何だろうと考えてみる。
 例:ものすごいかっこいレコジャケに惹かれて買ったら、中の音はなかった。
 例:缶入りドリンクを買って開けたら、中身がなかった。
 こんな感じだ。

 もう一つ例を考えてみたのだが、分かりにくい例。
 例:外国の有名ブランド商品とはいえ、お土産で買ったところで渡した相手がそのブランドを知らないのでブランドとして意味がない。
 海外を行き来しているとしょっちゅうある話なのだけれど、ある地域だけで尊重されているブランドも、誰も知らないところに持って行くとブランドとしては成り立たなくなる。

 まあ、こんな感じだろう。なんとなく。

 と、ここまで書いてきて、言っておきたいのは、私がここで言いたいのはオリンピックマスコット否定でもシンボルマーク否定でもない。ただ、この曖昧な状況を自分なりに消化したいだけである。

 もしオリンピックが中止になった場合、上の例も冗談じゃなくなってしまうわけで、国家総出で作り上げた壮大なる企画がなくなった周辺メディアというのは本当に珍しい。こういう場合、機能しないメディアを見る事でメディアの機能を考える素材として買って保存しておくほうがいいのかもしれない。

 実際日本では計画したオリンピックがなかった、という1940年オリンピックの過去があり、その時のオリンピックグッズは今のようにないにせよ、ポスターは貴重な資料とされている(実物見たことないけど)。

 段々話が散漫になってきたので、この辺でやめておいたほうがいいだろう。機会を改めてもっと考えみたいトピックではある。

 ミライトワとソメイティのメディアとしての意味をあえて定義するならば、今、まだ分からないこの状況を耐え忍ぶ象徴としての存在、と言えるのではないか。明るく振る舞っている感じがけなげに見えてしょうがないのだ。

by dezagen | 2021-03-15 05:15 | グラフィック
『これ、誰がデザインしたの? 続(2)』
渡部千春著、デザインの現場編集部編
美術出版社刊
04年以降の連載記事をまとめた2冊目の書籍。連載で紹介したアイテムのほか、名作ロゴやパッケージ、デザインケータイなどを紹介。
 
これ、誰が書いているの?
 
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