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モノへの愛着とその喪失
ライター、渡部のほうです。

 形のデザインに関係がないようでいて多分かなり関係ある事だけれども、デザインにはあまり役に立たない気がする話。

 実家を建て替えるというので、ほぼ2週間に1回実家に行き、家の片付けを手伝っている。(蛇足だが、その都度PCR検査をして行くのは面倒臭い)

 これまで70年余り3世代のべ7人が住んできた家を母1人用の家に建て替える。大幅な規模縮小ため、中に入っている荷物の処理も半端ない、はず、なのだが、これがなかなか難しい。
 一人暮らし用の生活用品の量にまとめるには、現状の1/100くらいに減らすくらいが丁度良いので、目に付く不要物と思われるものはすぐゴミ袋に入れようとすると、母のストップが入る。来客用のかき氷の器とか、人にお裾分けをする時に使う使い捨てのパック100組とか、ラジカセとかビデオデッキとか。果たしてどんな時にそれが使われるのであろうか、と疑問に思うのだが、とりあえず後期高齢者には口出ししない。
 かと思うと結婚指輪を処分しようとしたり(「あら、これ私のだった」)、何が必要で何が不必要なのか、子供でもその基準は全く分からない。

 普段デザインの事を書いていると、多くはこれから買われるもの、これから使うもの、についてその有意性を考えている。その後どのように使われ、使用期間が終わる時、というのはユーザーに委ねられていて、その使い方、終わり方はユーザーにより多岐に亘る。
 食品などの消耗品(のパッケージデザイン)は捨てる事まで考えられているが、それにしてもパッケージを取っておく人(私だ)もいたりする。詰め替え可能なシャンプーなどのボトルになると、数年使い続けるということもあるだろう。

 製造時には魅力的に作ってあるものであるから、ユーザーがその意図を汲んで使っているのであればその魅力は継続する。そのモノとの関係性が長く深くなるほど、愛着も湧いてくる。そんな愛着をいきなりストップしよう、と思ってもなかなかできないものだ。
 母が使ってきたもの、見て来たものにはそれぞれ母と関係があるわけで、捨てろと言われてもなかなかその繋がりは断ち切れない。

 これは全部愛着の問題なのか、と思うとそうでもないようだ。
 捨てるとなると二の足を踏む母なのだが、リサイクルに出すとか骨董屋に見てもらうとなると、ぼんぼん出してくる。次の用途がある場合、売るという役割がある場合、スムースにモノは手から離れていく。
 ゴミとして出す事はモノの痕跡をなくし、存在を永遠に消し去る事を意味する。そこになにかもやもやとしたものを感じてしまうのだが、譲るなり対価を得るなり、そのモノの有用性があるのであれば捨ててもいいらしい。

 モノが作られ売られる場所に比べて、リサイクル、リユースをする場所というのは異常に少ない。人がモノに対して抱いている愛着なりをうまく消化してくれる場所は少ない。この場所がもっと広くなるようなモノのサイクルのデザインが必要だし、またモノ自体もリサイクル、リユースしやすいように、その出自や素材などを分かりやすくしておくデザインというのも必要だろう、、というのはサステナブルデザインを実践している人には当たり前の事なのだが、現実と理想はほど遠い。
 母に「これはまだ使う」と言われて、ええーっと困窮する。「これは捨てない」と言われてムッとする。そんな事をやってきてえらい疲れてしまった。やれやれ。
 

by dezagen | 2021-03-02 16:58 | その他