ライター渡部のほうです。
さきほどソウル経由でパリから戻ってきたところで若干死んでますが、ブログ書かないと、と思い立ち、スーツケースの整理もまだですが、書いてます。
このブログも死んだようでいて、まだ生きてます。無事ログインできて良かった。。。
かく言うワタクシも、今年台北と上海で行われる中村さんの個展のお手伝いをし始め、ある意味中村至男フィーバー(この言葉って今使うんですかね?)に乗ってるとも言えますが、具体的なきっかけで言えば、2017年に行われたG8での個展です。亀倉雄策賞の受賞対象もこの個展でしたし、やはりこの個展で「中村至男ってすごい」ということを再認識したんだと思います。
例えば、文字組が美しいとか、使っている素材が素晴らしいとか、論理的に説明できるものというよりは、本能的に「わ!」と驚く、脳にダイレクトに響く。
今、自分が大学の先生をやっていて、学生にこうすると良いとか、印刷方法とか素材とか具体的な事例を「説明する」事をやっているのだけれど、やっぱり「説明ができないけれど魅力的なもの」というものもすごく必要なわけです。でも説明できないんだからどうやったらそういう魅力を作れるのかは教えられない。大学教員のジレンマです。
大学教員のジレンマといえば、資料を取って置かないといけない、というのも実は結構困りもので、正直なところ、自分自身としては、次々新しいものを見て行きたいし、ため込むのは苦手。自然と資料が溜まっていくことは溜まるのだけれど、本当は、これを捨てたい。世の中にある視覚情報をすべて収集することは不可能だし、蓄積してしまうと、そこで分析した自分なりのルールから逃れられないような気がしてしまう。
それでもデジタル媒体のお陰で随分、物量的に溜めなくてもある程度は大丈夫になったものの、とはいえ、逆に、気楽に資料が集められる、保存できる、見られるだけに、自分のデザイン体験をPCやスマホに委ねてしまって、自分の体感をあんまり信用してないような気もします。
中村至男さんの作品は、そういえば2017年の毎日デザイン賞の井上嗣也さんの作品もそうなんですが、その作品を見た時の衝撃が大きくて、実物がなくても意外に覚えている。脳が覚えていて、物に依存してないわけです。
1999年の『広告批評』の表紙や背表紙って、定規で引いたような真っ直ぐ感。当時は「デジタルの時代が来たぞー」ってぎらっとしたCG感のあるものとか、ちょっと変わったフォントやタイポグラフィーだったりとか、逆にそれにアンチだ、と、手作り感があったりとか、衝撃的な写真を使ったりとか、何か「押し」が多かった中で「なぜこんな真っ直ぐ…しかも全然複雑じゃない」と、なんなのだろうか、この違和感、と思った覚え。
佐藤雅彦さん他の方々との共作だけれども「テトペッテンソン」も、ただ立方体が動いていくだけなのに、何なのこれ、とテレビの前で棒立ちになったのはすごく強烈に覚えていて、今でも思い出すと首筋の辺りがむずむずするような気がするのです。
比較的最近の作品だと『forest』というzineがあって、緑地に白い三角がちらちら見えるのが、ページをめくっていくと、実は緑が木だった、森だった、という、「えーっ、そういうこと!?」と驚いたとか。
こういう驚き、その感覚自体を記憶できている作品というのが本当にすごいグラフィックデザインなんじゃないかと思ったりします。
グラフィックデザインも書籍からサイン計画から、様々あるんで、一慨に言えるものではないのですが、2019年の今、純粋に目で見たものに驚いたり感激したりする体感が減っている、もしくはその感度が落ちているような気配があって、そんな中で、中村至男さんは物に頼らず、視覚から来る純粋な体験を与える希有な存在なのだと思います。
ちなみに、私は普通に生活していると惰性だけで日常を見てしまうので、これじゃいかんと、隙を狙っては海外に行って普段見ないものを見てくるようにしてるわけで(言い訳臭いな)すが、意外に飛行機に乗らなくても、中村至男の作品があるじゃん、ということに気付かされてしまったのでした。