ライター渡部のほうです。
先の「1wall グランプリ 李漢強君」は、私的な感想で、客観性がなかったので、少し補足。
今回は、だ・である調。
今回の1 wall、
http://rcc.recruit.co.jp/gg/exhibition/gg_wall_gr_201402/gg_wall_gr_201402.html
グラフィックの第10回目に当たる回。
ひいき目をなくして見ると、ファイナリストの6人はそれぞれに面白い点があり、実際誰がグランプリを取ってもおかしくはなかった。
ウェブサイトの紹介順に
Aokidは、ダンス表現も重視しており、肉体の動きとグラフィックを繋げる試みを行っている。前回もファイナリストに選ばれていたとのことで、前回よりも「グラフィカルになった」と評されていた。
例えば(といって例えが古いが、ジャクソン・ポロックやイブ・クラインはアクシデント的なものから生まれた絵画だが、その行為を目にせず絵画のみ見ても十分面白く見れる。
Aokidはそんな印象を受ける。
寿司みどりは電車に乗りながら、人々をスケッチした紙を壁中に貼り、その紙の集合体が巨大な横顔に見えるような、全体に絵画というよりは、インスタレーション要素の大きいものとなっていた。1つ1つの画風はウェブでも見れる、若干漫画調なスタイルを取っているが、素地としてのデッサン力も伺える。
モデルを電車内で選んだため、動いたり、出ていったり入ってきたり、とモデルとして固定しているわけではない。その瞬間を捉える、繊細な作品である。
ナガタニサキは、気持ちのよい線を追求している。
かわいい女の子を描くのが好きだ、とプレゼンテーションで言っていたが、本人もかわいかった。
ここに審査員の長崎訓子氏が「若くてかわいいだけじゃ済まされなくなってくる時があるから」という言葉で、審査員と場内の軽い笑いを誘ったのだが、実はかなり意味のある言葉で、「女性がかわいい/きれいな女の子/女性を描くという使命」について、長崎氏は少し説明していた。
完全にメモしていたわけではないので、私の考えも少し付加させながら書くと、男性が女性=異性に対して憧れを持って描くのと、女性が女性=同性に対して現実の自分の性と向き合いながら描くことはかなり意味が違う。
長い歴史の中でほぼ常に、と言っていいほど女性は「描かれる存在」「見られる存在」だった。しかし、現在では女性が女性を描く。自分が自分を見る。そこに、憧れを入れることもあるのだろう。こうなりたい、という願望を入れることもあるだろう。だが、どうしても「男性が見るmuse」としての女性とは異なる女性像が出て来るはずである。
自身もかわいらしく(と本人は自覚していないかもしれないが)若いナガタニサキが、今後年を経て、描く女性と自分が体験する現実の女性とが徐々に乖離していく、その時、どうするのか。
この1wall展の中ではまだそれは表現しなくてよいことだが、それが見えているか見えていないかで、かなり差が出たと思う。
実際にナガタニサキは、今は気持ちのよい線を描きたい、という願望だけであり、その次を見越したビジョンはなかった。ナガタニサキの作品はイラストレーションとして、なんらかの挿絵として使うには非常に使いやすい、本人も言う通り気持ちのよいイラストである。
が、この1wallは1年後に展覧会を行うことが副賞として与えられる。もしただ同じようなイラストが並んでいるだけであれば、物足りない。そこがナガタニサキの弱さではないかと感じた。
今回の審査では、このやりとりが一番記憶に残っている。
山本歩美は文字をグラフィック化したもの。他多くのグラフィックデザイナー、アーティスト、イラストレーターも行っているので、手法としてはそれほど新しくなかったが、展示の作品は、ウェブのサンプルとはかなり異なるトーンの、どちらかといえば土臭い、というか、相撲力士の化粧廻しのようなどかーんとした勢いがあり、これは力強かった。
横山萌果はパターンの付いた形のピースを組み合わせ、形を作っていく。展示では「牛」に見えるようで見えないようで、見ようと思うと、すごく牛に見えてくる、という形の組み合わせを作っていた。
自身では、パズルという要素があったようだが、プレゼンテーションでもうまく説明できておらず、審査員とのやりとりは、(結局それがどういうパズルなのか分からなかったものの)聞いていて面白かった。それは横山萌果のある意味チャーミングさとも取れたし、出来た作品は、抜けがよく、気持ちよく並んでいた。
Lee Kan Kyo(李漢強)の作品は、前のポストで述べたように、アイドルの増殖をグラフィックで表したものである。なぜアイドルはひっきりなしによどみなくあふれ出てくるのだろうか。昨今のそれはまるで、工場生産されたかのように、素早くできあがってくる。しかも大量に。
我々はそれをテレビで見て、新聞で見て、中吊りで見て、youtubeで見て、あらゆるメディアで目にすることとなる。この複製感を李漢強は、アイドルのファンが買ってしまうような(しかもオフィシャルじゃない自前風な)缶バッジという方法で表現した。
画面の構成は黒字をバックにかなりギラギラしたものとなっているが、これはテレビのRGBを意識したものだという。
それぞれのファイナリストにそれぞれの良さがあった。
審査の最後の最後で山本歩美とLee Kan Kyoのどちらか、となった時、審査員が基準としているのは、彼らの1年後の展示が見たいか否かなのだろう、と感じた。
山本歩美とLee Kan Kyoは、言ってしまえば、他のファイナリストに比べて土臭い感じ、お洒落じゃない感じ、それだけに予想が付かない感じ、があったのだ。
しかもどちらも勢いと力強さがあった。
結果的にはLee Kan Kyoがグランプリになったが、山本歩美よりもさらに想像がつかないからであろう。山本歩美の若干のスマートさは、少し言葉を換えれば「スタイリッシュ」であり、安定した「スタイル」を感じさせる。次に出してくるものは予想が付かないが、ひょっとしたら、このスタイルを続けてしまうかもしれない。
期待をいい意味で裏切るパワーがあるかもしれない度、でLee Kan Kyoが選ばれたのだと思う。
それにしても、この「グラフィック」という切り口に、審査員の苦労を感じる。
もしプレゼンテーションを聞かず、見て気持ちよいもの、を選んでいたとしたら、ナガタニサキか横山萌果が選ばれたかもしれない。彼らの作品は、イラストとして広告などにも使いやすそうで、そんな意味でもいい。
この展覧会において審査基準というのは作りにくい。
誰が審査員で、その時みんながどんな気分で、どんなものを求めたか、それ次第で決まるのだろう。
1wallおよびひとつぼ展を経たアーティスト、デザイナーはその後もいい仕事をし続ける。不思議なコンペではある。