ブログだって「座の文芸」だ! って前回書いた。
でも、本当言うと、奇妙なねじれを感じる。何だろう。
句会は、誰もが同じ立場で行える(先生がいる場合もあるけど)。
でも、ブログは送り手と受け手がまったく同じ立場、というわけじゃない。
まず、誰に向かって書いているのか、ということだ。読み手は誰なのか?
不特定多数の読み手を想定すること。
ぼくたちは、それに慣れてない。
インターネット以前は、不特定多数の読み手を想定することは、あまりなかった。
本を出版する?
テレビに出る?
町内会の壁新聞に何か書く?
そういった特別な場合は、あっただろう。
だが、日常的に、自主的な場として、不特定多数の読み手を想定して「書く」ことは無かったはずだ。
本やテレビや壁新聞には、それぞれメディアとしてのルールがある。
送り手も、受け手も、その暗黙のルールにしたがって、活動する。
町内会の壁新聞に、個人的な食事のことは書けない。
新聞に何か書いてくださいって頼まれたとき意味もなく「んちゃ!」って書きはじめない。
テレビに出て、ぼけーっと黙ってカメラを眺めたりしない。よだれを流したりしない。スポンサーの悪口を言ったりしない。
それぞれのメディアのコード(暗黙のルール)があって、それぞれのメディアが想定するモデル読者が存在する。存在するというふうに確定したような書き方をすると、ちょっと違うかもしれない。送り手と受け手の共同作業の中で、モデル読者が想定されるのだ。
では、ブログが想定するモデル読者って、どんなふうなのだろう?
いや、ブログが、“日常的に、自主的な場として、不特定多数の読み手を想定”するとするならば、ブログというメディアのコードだけではなく、それぞれのブログのコードが重要になってくる。
ブログを運営している自分自身と、そのブログを受け取る側の共同作業の中で、モデル読者が想定されなければならない。
そして、やっかいなことに(もしくは、楽しみなことに)、ブログの読者は、簡単に増えたり、減ったり、変わったりする。大手サイトからリンクされると、翌日にはアクセス数が100倍に増えることだってある。
それまでのモデル読者が、一変してしまうことだってあるのだ(そして、そのために炎上してしまうこともある)。
という考え方を以前、紹介した。
『高校生のための文章読本』という本に登場する「良い文章とは、どんなものか」というテキストに触発された考え方だ。
「良い文章とは、どんなものか」というテキストには、こう書いてある。
良い文章とは、
1:自分にしか書けないことを
2:だれが読んでもわかるように書く
という二つの条件を満たしたもののことだ。
(梅田卓夫,清水良典,服部左右一,松川由博『高校生のための文章読本』筑摩書房P18)
だけど、“だれが読んでもわかるように書く”って、どういうことだろう。
理想や目標としては、ありえるけど、実際に書く場で、そんなことが可能だろうか。
いや、ほんとうに、ぼくたちは、“だれが読んでもわかるように”書きたいんだろうか?
この項、次回に続く。っつーか、次回、最終回です!