Thanks! 10th ANNIVERSARY  特別企画
第二百三十八話(終章)

―この場所で、あたしたちは出会ったんだね。

目の前には湖が穏やかに広がっていた。
真昼の陽射しを受けて、あちこちに光のかけらが戯れるように揺れていた。

―あたしたち、ずいぶん回り道しちゃったのかもしれないね。

風がまた二人の傍らを行き過ぎた。

「ねえまこと、ほら」

不意にはるかが手を放し、一歩前へ出て振り向きながら空へと顎をしゃくった。
いつのまに手を後ろ手に組んでいる。
まことが見上げると、頭上には雲一つない青空がどこまでも高かった。
いっぱいに翼を伸ばした鳥が一羽視界をよぎって消えてしまうと、そこには本当に青だけしかなくなった。
はるかが一つ息を呑み、それからかすかに頬を染めて続けた。

「すっごくきれいなお月様だね」

そういって向きなおったはるかの目が照れ臭そうに笑っていた。
一瞬だけ戸惑いを浮かべたまこともすぐ首を縦に動かして応じた。

「うん、あたしもずっとそう思ってた」

二人はそのまま見詰め合う。
まるで互いの瞳に映る自分を確かめてでもいるかのようにじっと動かずそのままでいる。
はるかが一瞬唇を結び、それからまたたくらむような笑顔を見せた。

「ねえ、まこと」

うん、と頷いたまことにはるかは一つ鼻から息を吐いてから続けた。

「キスしよう」

「え、ここで? だって―」

かすかに頬を染めながらまことは周囲に目を走らせた。
子供たちともベンチの老人とも距離は十分に離れていたけれど、もし抱き合えば何をしてるかがわからないほどではなかった。
だがはるかはすぐかすかに頬を膨らませて続けた。

「いいわよ、別にしたくないなら。
その代わり、今しなかったらもうずっとそんなチャンスなんてないんだからね」

「そんなの、ずるいよ」

「さあ、どうする?」

はるかは楽しげに笑っている。
わかったよ、と顔をしかめて、まことは腕を持ち上げてはるかの両肩を抱く。
それでも二人はそのまましばし動かない。
ただ視線だけが覗き合う。

―ねえ、知ってる? 初めて会った時から特別だったの。

そんな言葉が宙を伝う。
まるでそこに引力があるかのように互いの顔が近づいていく。
けれど鼻と鼻が今にも触れ合いそうな距離になったところでまことがふと口を開いた。

「はるか。
目、閉じてよ。
ちょっと、やりにくい」

だがはるかは勝ち誇った瞳で返事する。

「嫌だ。
いったいどんな顔でするのかじっくり見てやる」

一瞬だけ唇を尖らせたまことは、それでもすぐはるかの肩をつかみなおして一つだけ息を呑む。

「じゃあ、行くよ」

「バカ」

頬を染めたはるかが目を閉じると二人の唇が重なった。
いつのまに互いの腕はそれぞれ背中に回されている。

―ねえわかる? あたし、貴女を愛しているの。

声にならない言葉が唇やそのほかの触れ合った場所から流れあう。
その奔流に身を委ねながら二人はしっかりと身体を合わせ長い長いくちづけを交わす。

不意に吠え始めた飼い犬にベンチの老人がふと顔を上げ、すぐ慌てたように目を戻す。
砂場で遊んでいた子供たちの一人が抱き合った二人に気づき、すっげえー、キスしてるぅと声を上げる。
あれ女同士じゃねえの? 
別の誰かが囁いて、混ざっていた女の子が、あんまり見ちゃだめだよ、と釘を刺す。
それでもなお二人は離れずにいる。

湖は静かにきらめいてる。
湖面を渡った穏やかな風が重なり合った彼女たちの形をそっと包み込んでいく。
二人の頭上には雲一つない真っ青な空がどこまでも晴れ渡って佇んでいる。


―了―


[第二百三十七話(終章)]

# by takuyaasakura | 2008-11-28 15:56 | 第二百三十八話(終章) | Comments(27)
第二百三十七話(終章)

二人は並んで坂道を降りた。
太陽がほとんど真上から彼女たちに降り注いでいた。
昔は十分に手を繋いで並べた歩道が今はもうかなり狭かった。
それでも肩を寄せ合うようにしていると時折手が触れ合った。
やがてはるかがまことの手を握りそっと指を絡めてきた。
まこともその手をしっかりと握り返した。

コンビニの角を折れ湖の側の歩道に渡った。
ほどなく哲平の家が見えてきて、はるかが少しだけ、まことの不在の間に彼の身に起きたことを説明した。
それでも哲平の転倒がまことの家出と同じ日の出来事であることは、彼女も口にはしなかった。
最初は驚きと狼狽を隠せなかったまことも、彼の結婚の報告にはどうにか頬を緩めることができた。
話題が彼らの第一子の予定日にまで至ったところで、まことが、じゃあひょっとして同じ学年になるのかな、とはるかのお腹を盗み見た。
気づいたはるかが、それがちょうど微妙なところなのよ、と肩をすくめて返事した。

やがて二人は目的の場所にたどりついた。
互いに口に出しこそしていなかったけれど、自分たちがそこを目指して歩いていたことは最初からわかりきっていた。
平日の午後の公園に人影はまばらだった。
広場に向いたベンチに犬を連れた老人が腰掛けて文庫本を読んでいる。
遊具の一画にだけ子供たちが集まって、何が楽しいのかさざなみみたいな歓声を上げていた。

はるかがふと立ち止まり声の方向へと顔を向けた。
柔らかく目を細め口元にはかすかな笑みを浮かべている。
その表情にほんのわずかに戸惑って、まことは横を向き少しだけ苛立たしそうに幾度か髪をかきあげた。
それまでずっと繋がれていた手がそっと離れた。
はるかがその手を後ろに組んで湖の方へと向きなおった。
二人は前後に重なるような位置になった。

「気持ちいい風ね」

「そうだね」

湖面を渡ってきた風がかすかな冷たさを帯びながら額や首筋を撫でていく。
それでもすっかり陽射しに温められたてい身体にはむしろ心地好いくらいだった。
後ろに立ったまことにはるかが前を向いたまま口を開いた。

「ねえまこと―」

なあに、とまことが訊き返した。
はるかが少しだけ俯いてから続けた。
顔はやはり湖水に向けたままだった。

「貴女はやっぱり、あの夜の続きがしたいのかな」

まことはすぐには答えなかった。
それでも相手に背を向けたまま、はるかも黙って返事を待った。

「したくないっていったら、たぶん嘘になるんだと思う。
でもはるかが嫌なら全然そんなの、しなくてもいい」

はるかはそこで振り向くと、一旦まことの顔を見つめてから再び目を伏せた。

「やっぱりちょっと、お父さんが生きている間は気がひけるんだ」

なんとなくわかるよ、とまことが頷くのを確かめてはるかは重ねた。

「まこと、それまで待てる?」

まことが首を縦に動かして応じた。
はるかが一歩詰め寄った。

「でもその時には、ひょっとしてあたしも貴女もすっかりお婆ちゃんになってるかもしれないよ。
だってあたし、頑張ってお父さんに長生きしてもらうつもりなんだから。
それでも待てる? 
それでもずっとそばにいてくれる?」

まことはもう一度ゆっくりと頷いて見せた。
かすかに強張っていたはるかの頬が静かにほぐれた。
それからはるかはそっと身体を回しまた湖面に向きなおると、小さな息を鼻から吐いて首を傾げた。

「だめよだ、まこと。
あたしのいうこといちいち真面目に聞いてたりしたら、きっとまことがもたないよ」

そういうとはるかは体の前で手を組んで小さな伸びをした。

「だってね、あたしの心なんて毎日毎日変わるんだもの。
少しも同じだったことなんてないの。
だからあたしの言葉なんて真に受けちゃだめ。
あたしにはもう何もわからないの。
ううん、違うわね。
もう、じゃないな。
最初からそうだった。
あたしには初めから何もわかってなんかいなかったのよ」

まことは答えずに歩み寄り、後ろからそっとはるかの肩を抱く。
顔を寄せ、髪の匂いを間近に感じる。

「やっぱりはるか、強くなったよ」

耳元にそう囁くと、全然そんなことないってば、とまたはるかが首を横に動かした。
さわりと髪がまことの頬に触れる。
思わず指が動いて静かにその髪をすいている。

「でも誰だってそんなものなんだと思うよ」

はるかの手が持ち上がり自分の肩の上のまことの手に重なる。
だがまことは気づかぬ振りで先を続ける。

「誰でもきっと、自分のことなのに自分っていうのが全然わからなくてさ、時にどれほど自分があやふやか頼りないか思い知っては幻滅したりしてるんだよ。
あたしだってずうっとそんなことばかりだった。
結局私たちはみんな似たような道を歩いてるんだ。
誰も彼も手探りで、初めて生きる一回きりの人生と向き合わなくちゃならなくてさ」

そこで言葉を切ったまことは、はるかの肩の上に乗せていた手のひらを裏返して、そこにあった相手の手に自分の指を絡めた。

「でももし、はるかが今そんなふうに何も信じられなくなってるんだとしたらさ、だったらあたしを信じればいい。
あたしは少なくとも、貴女を好きなあたしというものを信じてる。
それだけは疑わないって決めたんだ。
それだけはね、ずっと昔からわかってた。
絶対揺るがなかった。
だからさ、今からずっと、こんなふうにあたしの手をとってよ。
そうしたらきっと、この気持ちを分けてあげられると思うんだ」

ありがとう、とはるかが小さく呟いた。
するとまことが自分の言葉に照れたように一つ咳を払って身体を放し、今度ははるかの横に並んでぎこちなく手を繋ぎなおした。
はるかがその手を握り返した。


[第二百三十六話(終章)] [第二百三十八話(終章)]

# by takuyaasakura | 2008-11-27 11:47 | 第二百三十七話(終章) | Comments(0)
第二百三十六話(終章)

「貴女の手紙を読んだのはね、あたしの周りにもう本当に誰もいなくなっちゃて、何もかもがあたしを責め立ててるみたいになって、どうしようもなく辛くて辛くてしょうがない時だったの。
でもね、貴女の言葉を読んで、あたしも同じ気持ちだって思ったことも本当なの。
何度も自分に確かめたわ。
もうほかに頼るものがないから、それでも何かに縋らないと進めそうにないから、だからあたしは、あたしもずっとまことを好きだったんだって、そう思い込もうとしてるんじゃないかって」

はるかの口が短く動いてかすかに唇を噛み、再び開いた。

「でもたぶん、それでもいいのかなって、ちょっとだけ思ったの。
だってさ、ほら、よく嘘から出たまことってもいうし、だから、間違った選択なのかもしれないけど結果的に正しいことっていうのも、きっと世の中にはあるんだろうと思うのね。
たぶんそれを自分で認めてあげればそれでいいのかなって、正しかったことにできればそれでいいのかなってそう思ったの。
やっと思えたの」

何がいいたいのかわかんないわよね。
はるかがそう顔をしかめて見せると、まことが、なんとなくわかる、と首を縦に動かした。

「だけどもう二度とまことに何処にもいってほしくない。
絶対、何処にも」

まことはかすかに身構えた。

「それでもいい? 
それでもあたしと一緒にいてくれる?」

繰り返し首を縦に動かして、まことは、うん、うん、と声にならない返事を返した。
するとはるかがほっとしたように目に見えるほど肩の力を抜いた。
まことも右手をぎこちなく運び、すっかりぐしょぐしょになってしまった目元と鼻の下とをこすった。

「でもはるか、ずいぶん強くなったね。
いつだって泣くのはあんたの方だったのに」

呟いたまことにはるかが笑顔で首を横に振る。

「違うわよ」

そしてはるかが軽く目を閉じてから続ける。

「たぶんまことの前だからなの。
貴女なら絶対あたしを傷つけるようなことはしない。
少なくとも決して傷つけたくないと本当に思ってくれている。
それがわかっているから。
だからこんなふうに振舞えるの」

はるかはそこで片方だけで頬杖をつくと、反対の腕を伸ばしてまことの頬にそっと触れた。

「そんなの貴女だけなんだって、あたしもようやくそう気づいたの。
本当にあたしってば内弁慶だからさ、職場でもほかの機会でも、いいたいことなんてこれっぽっちもいえた試しがなかったわ」

まことが返す言葉を見つけられずにいるうちに、はるかが手を戻し、ごめんね、と小さく口にした。

「本当はちゃんと食べ終わってからいろいろ話そうと思ってたんだけどね」

食事はあちこち食べかけのままだった。
揃ってテーブルの上を見渡して、それから二人は顔を見合わせて、さっきまでとは少し違う笑みを交わした。

「続き、食べちゃおうよ」

箸に手を伸ばしながらはるかがいった。
まことはけれどかすかに眉を曲げた。

「うん。
でもなんかもう、胸いっぱいではいりそうもない」

「あら、あたしは食べるわよ。
残しちゃったらもったいないし」

いいながらはるかはもうお茶碗を運び自分の魚に箸をつけている。
つられてまことも続きを口に運び始めた。
ご飯も玉子焼きもすっかり冷めていたけれど、それでも何もかもがとても甘かった。

「こうしてると、何だか昔のまんまだね」

まことがいいはるかが頷いた。
けれどそこでまことはわずかに眉をひそめた。

「ちょっとだけね、あたしは何だか、自分がずっと子供のままでいたいから、だからはるかが好きなのかなとも思うことがあるの」

するとはるかも同じような顔を浮かべた。

「いわれてみると、あたしにもそういうとこちょっとはあるような気もする」

そういったはるかは箸を持ったままの右手を持上げて続けた。

「でもそれはきっとしょうがないことなんだと思うよ。
あたしたち人間はさ、子供のまんま大人になってしまう世にも稀な生き物なんだから、仕方がないのよ」

そうなんだ。
またお味噌汁を飲み下してまことが返事すると、そうなのよ、とはるかがしたり顔で頷いた。

「ねえ、これ片付けたら少し散歩でもしようか」

はるかがいい、まことがいいねとまた首を縦に動かした。


[第二百三十五話(終章)] [第二百三十七話(終章)]

# by takuyaasakura | 2008-11-26 18:38 | 第二百三十六話(終章) | Comments(3)
第二百三十五話(終章)

「でもね、貴女にだってもう貴女の生活があるだろうし、それに、先生だっけ? その人にだって―」 

「そんなの全然いいんだ。
先生にもちゃんと話してきた。
居場所があるんだったらそこに帰れってもいってもらった。
大丈夫、あたしがはるかの代わりに働いてあげる。
病院にだって連れていくよ。
炊事だってもうできるし、それに、それに―」

はるかの言葉を遮って一気にそこまでまくしたて、けれどまことはそこで不意に声を詰まらせた。
いつのまに自分は泣き出していた。
でも何故泣くのかがわからなかった。
それでもどうにか咽喉を振り絞り、まことはその先にいわなければならない言葉を継いだ。

「本当はずっと、ずっと帰ってきたかった。
ほかに何も要らないからただはるかのそばにいたかった」

はるかの腕がそっとのび、テーブルの上のまことの手に手のひらを重ねた。

「あたしもね、まことにそばにいてほしいと思ってる」

はるかは首を傾げると、なんでまことが泣くのよ、と笑ってみせた。
だが涙が次から次へと湧いてまことはただ頷くしかできなかった。

「まこと」

もう一方に手も伸ばし両手でまことの手を握り、はるかがまっすぐにまことを見た。

「もうどこにもいっちゃだめ。
そんなの絶対許さないんだからね。
今日からずっと未来永劫貴女はあたしのそばにいて。
でないとあたし、いつか一人ぽっちになっちゃうもの」

まことはまた懸命に首を縦に動かして答えた。

「ううん、まことがいなくなってからずっと、あたしはこの世界で一人きりみたいなものだったのかもしれないの」

そう呟いてはるかがふと、どこでもない場所をみるように視線を上に動かした。
まこともつられて宙を見上げ、それから顔を元に戻すとまた目と目がまっすぐにぶつかった。
はるかの手がそっとまことの指先をなだめるように確かめていた。

―そうだったね。
あたしたちは小さい頃からずっと、こうやって手を繋いでどうにか世界と向き合ってきた。

言葉にするまでもなく互いが互いにそう考えていることがわかった。

―そしてそれはたぶん、きっと出会う前から決まっていたことだったのよ。

触れ合った指先の、そこにある確かな体温がはっきりとそれぞれの思いを運んでいた。

―なのに、なのに長い間一人ぼっちにして、ごめんね。

泣きながらまことはまた二度三度と首を縦に動かした。
はるかの手が離れ、静かに傍らのティッシュを引き抜いてまことの目元を拭った。
右を二回、それから左を二回。
その指先を感じながらまことはじっと動かずにいた。

「やっぱりまこと美人よね。改めてそう思うわ」

その言葉と一緒にはるかの手が離れた。
そして彼女はわずかに肩を持ち上げて姿勢をただすと、まこと、と相手の名を呼んだ。
うん、とまことが頷くのを待ってはるかがゆっくりと切り出した。

「あたしはきっと、貴女が思っているよりずっとずるいよ。
貴女の気持ちを受け入れることと引き換えに、自分一人では到底抱えきれないものを全部貴女にも押し付けようとしているの。
それがすべてではないにしても、そういう気持ちがどこかにあることはたぶん本当なんだと思う」

そこで一つ間をおいてはるかはまたまことの目をまっすぐに見た。

「それでもね、でもこれだけは信じてほしいの。
貴女にそばにいてほしいって今いったその気持ちには絶対に嘘はないわ。
それがどういう思いなのか、まことがあたしに向けてくれているものと本当に同じものなのか。
正直今のあたしにはそれがまだよくわからないままなの」

注意深く言葉を選びながらはるかは続けた。


[第二百三十四話(終章)] [第二百三十六話(終章)]

# by takuyaasakura | 2008-11-25 15:06 | 第二百三十五話(終章) | Comments(0)
第二百三十四話(終章)

まことの答えを確かめたはるかは、そのまま首を持ち上げて天井を見上げると、今度は長い長い吐息をもらした。
それから席を離れるかのように椅子をずらして、けれど立ち上がることはせず、わずかに斜めになった位置からまことを見つめた。

「実はね、あたし、妊娠しちゃったんだ」

膝の上で組んだ手の指先が落ち着きなくうごめいていた。
今度はまことが息を吐く番だった。
知らぬ間に頬が強張っていることが自分でもわかった。

「訊いてもいい?」

なあに、とはるかが顔を持ち上げる。
彼女はこのほんのつかのまにもう笑顔を取り戻している。

「父親は、誰なの?」

続けたまことの声はどこか上ずっているようだった。
一瞬の間をおいてからはるかは静かに首を横に動かした。

「そんなの、いないわ」

まことが悲しげに眉をしかめた。
その表情をじっと見ていたはるかだったが、やがてまた首を振りながら俯いた。

「そりゃあね、あたしにだっていろいろあったのよ。
だってまこと八年もいなかったんだよ。
居場所も教えてくれなくて、どんなに話したくたって話せなかったんだから」

その声が今までとはうってかわって硬く響いて、まことは返す言葉を見つけられずに黙ったままになってしまった。
はるかが下を向いたまま続けた。

「本当いうとね、あたし今結構とんでもないことになっちゃってるんだ。
お父さん半分寝たきりみたいな状態なのに、仕事辞めなきゃならなくなっちゃってさ。
そのうえ子供までできちゃって、もうどうすればいいのかわからないくらい」

「そんなこと何にもいってなかったのに」

「電話でなんて話せないわよ」

そこではるかは顔を上げ、それから小さく眉を寄せた。

「どう考えたって本当は堕ろすしかないの。
そんなのは最初からわかってるのよ」

いいながらはるかの手は自分の下腹に降りている。

「そりゃあね、つつましく暮らせばひょっとして、お父さんの年金とか貯金とかで、働かなくてもしばらくは持つかもしれないわ。
でもずうっとじゃないのよ。
それに、このまま順調にいけば一年も経たないうちにあたしだって思うようには動けなくなっちゃうんだろうから、そうなったら今度は誰もお父さんの面倒みてあげる人がいなくなる。
何よりね、子供って産んで終わりじゃないし、むしろそれからの方が大変だと思うし。
考えれば考えるほど絶対無理なの」

はるかはそこで言葉を切ると、そっと下唇をかんでから顔を上げた。

「でもね、あたしどうしてもそうしたくないの。
怖いのもあるけど、それよりもどうにかして産んであげたいの。
この子をようこそって世界に迎え入れてあげたいの。
だってせっかくきてくれたのよ」

それからはるかは悲しそうな顔で笑った。

「ねえまこと、あたしどうすればいいんだと思う」

盗み見るようにはるかが見上げた。少し黙った後、まことは懸命に顔の上に笑みを作り上げてから口を開いた。

「あたしが、助けるよ」

するとはるかは穏やかに目を細め、それからゆっくりと首を左右に振った。

「ごめんね。
まことならそういってくれるって、わかってて訊いちゃった」

組んだままのはるかの手が前に動いて伸びのような形を作る。
まことはその指先を目で追った。


[第二百三十三話(終章)] [第二百三十五話(終章)]

# by takuyaasakura | 2008-11-21 13:48 | 第二百三十四話(終章) | Comments(0)

その日、止まっていたはずの彼女たちの物語が再びそっと動き始めた。
by takuyaasakura
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浅倉卓弥インタビュー[1]
浅倉卓弥インタビュー[2]
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第二百三十話(終章)
第二百三十一話(終章)
第二百三十二話(終章)
第二百三十三話(終章)
第二百三十四話(終章)
第二百三十五話(終章)
第二百三十六話(終章)
第二百三十七話(終章)
第二百三十八話(終章)
[登場人物]

来生まこと
24歳。小学校時代に母親とともにはるかの隣家へ越して来る。以後は、はるかにとって一番近い存在となったのだけれど、高校卒業を前に家を出て現在は所在不明。

片岡はるか
24歳。教職についていた両親の一人娘で、自身は現在保育士として地元の幼稚園に勤めている。母の死後、二人暮しで衰えた父親の面倒を見ながら日々を送っている。

久住哲平
湖畔の食堂の一人息子。まこととはるかの二つ上で、二人の幼馴染み。現在は自動車修理工で故郷を離れている。



浅倉卓弥
(あさくら たくや)


1966年7月13日北海道札幌生れ。東京大学文学部卒。
2002年『四日間の奇蹟』で第一回『このミステリーがすごい!』大賞金賞を受賞し翌年デビュー。『君の名残を』、『雪の夜話』、『北緯四十三度の神話』、『ライティングデスクの向こう側』、『ビザール・ラヴ・トライアングル』など、次々と話題作を発表する気鋭の若手ベストセラー作家。



[連載小説]
*毎週月~金曜日連載*



[おことわり]

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