劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

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FINA Synchronised Swimming World Cup 2006 (3) 

シンクロワールドカップ2006 フリーコンビネーション 横浜国際プール 9月14日

最終回 観戦雑記

シンクロナイズド・スイミング1・2回目の記事はこちらです。
芸術性ってなんですか 1 音楽と身体 2 イメージと身体
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カナダ
(テキスト内の小さな画像は、クリックすると拡大します)


b0080239_23365075.jpg選手が入場するゲートの代わりに立っていた、巨大なヤクルト。人間と同じぐらいに拡大してみると、くびれたデザインと肌色がエロティックに目立つ。

その近くをうろうろしていたのが「ぱちゃぽ」だ(日本水泳連盟および水泳日本代表のマスコットキャラクター。水泳の大会で、 よく選手がこれのぬいぐるみを客席に放り投げている)。

左:デュエット/マカオ 
下:ぱちゃぽのバッジ

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見るからに河童由来の造形なのだが、ぱちゃぽはプールサイドでヤクルトと同じラインに立ち、みだりにはつらつと跳ねたりしたため、負けがこんでいた。

暗がりにぼんやり何か見えたが、ひょっとするとあれは河童だったのかもしれず、しかしなんでいたのかわからない、ぐらいの古典的な露出がベストではなかったか。 

右:水木しげる『河童の三平』 兎月書房 中身の画像


シンクロ関係者の方は揃いの水色のポロシャツを着て、会場に点在していた。一瞬、山田満智子コーチがたくさんいるように見える。それから表彰式の時にあがる国旗は小さく、バスタオル大ぐらいだ。ちょうどタオルハンガーみたいなものにかけられて掲揚されていた。大きいとヒラヒラしてぬれたりしがちなので、戦争映画でやっている甲板上のコンパクトな敬礼のように、水辺の狭い場所仕様なのかもしれない。

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カナダ

リハーサルプールが、競技するプールの横にあった。本番の選手たちからは遠くなるが、両方のプールが見える客席につくと、演技中とは違う選手の表情が覗ける。クールダウンや本番前のチェックをする場所と本番の舞台がとなりあわせで、どちらも観られるというのは、ホールの舞台公演ではなかなか考えられないことだ。

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左:ウクライナ 右:ブラジル

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フランス

演劇でも演出上、楽屋を観せることはたまにある。ヴァンセンヌの森を拠点にしている太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)が、新国立劇場・中劇場で公演『堤防の上の鼓手』を行った時は、普段客席にしている場所は使わずに、転換用の背景などを置く奥のスペースに舞台を兼ねたプールと大勢の役者の化粧台を並べ、観客はその間をぬって、プール近くのベンチに座るという装置がつくられた。
テアトル・デュ・ソレイユの演出家アリアンヌ・ムヌーシュキンは、「西洋のドラマトゥルギーを東洋の演劇手法で表現する実験を続けてきた」と紹介されている人で、『堤防の上の鼓手』には文楽の技法が取り入れられた。俳優は黒子に操られながら演じる。
幕間に、化粧台の前にいる役者と目があった。なんとなく目が離せないでいる内に、無性に本番中の動きを真似したくなり、コキコキと首をふる。すると相手もコキコキ動きだした。
…どうもあの時は、うまうまと操られたらしい。リハーサルプールを観ながら、5年前の楽しい記憶がよぎる。

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スペイン

会場で配られるA3の紙には、ジャッジの国籍・名前と誰がどの採点をするか、それに選手全員の氏名・Year of Birthが並んでいる。1980年代後半生まれが多く、90年という選手もちらほらいる中で、スペインの70年代3名が目についた。その内の一人は、ソロ・デュエットにも出場したエマ・メングアルだ。
この紙は小劇場の当日パンフレットと似ている。持ち帰ってきた時のヨレ具合はもちろん、練習─本番を繰り返す集団特有の密な関係性を、クレジットから感じるところが特に。でも出演者の生年をばっちり明記した舞台のパンフレットというのは、そういえばあまり目にしない。

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左:フリーコンビネーション スタートリスト   右:劇団『野鳩』 当日パンフレット
(それぞれ片面)


※3回の連載の競技画像はすべて、権利元から貸与を受けて掲載しました。
by kouchiyama-simone | 2006-11-30 23:26

FINA Synchronised Swimming World Cup 2006 (2) 

シンクロワールドカップ2006 フリーコンビネーション 横浜国際プール 9月14日

芸術性ってなんですか イメージと身体 

初回はこちらです。音楽と身体のことを中心に書いています。 
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スペイン:使用曲はアンドリュー・ロイド・ウェーバー『CATS』
(テキスト内の小さな画像は、クリックすると拡大します)


前回の最後に、演技終了後の選手の身体について書いたが、では演技が始まる前はどうだろう。
シンクロの選手たちのきびきびした入場や入水前のポーズは、点数にこそ入らないが、元マーメイドの皆さん(審判員)の心証アップを狙って、あのように動くのだという。ルール自体は陸上の競技なしで水中からの演技スタートもOK、飛び込み方法に規定はない。
            
ならばそういうものを見慣れてスレた審判員は、チェルフィッチュのようなノイズだらけの身体でバラバラと選手が現れ、 妙にきつい体勢でダラーと入水するや人間脱水機みたいな壮絶な演技をしたら、がぜん注目して、独創性や新しさに心をときめかすのではなかろうか。

…少し誇張はしたが、ふざけたつもりはない。「人と同じことをしていてはだめなんです」式の説教は、日常でしょっちゅう聞くではないか。それにのっとって戦略を練れば、こういう心証アップの方法もありではないかと。
しかし実際にそんなことをする国はなく、選手たちが揃って組んでぴちぴちと動き、テーマとなる何か既存のイメージにコミットする、という方向性は決まっている。

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スペイン:↑はトップ画像を正面から撮ったところ

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カナダ

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日本(1)
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日本(2)

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ロシア(1)
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ロシア(2)

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スイス

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ブラジル

「観ている不特定多数の客が、安心して受け入れられるものの方が、よりわかりやすい」
かりに「わかりやすさ」のガイドラインをこんなふうに引いてみると、テーマに選びやすいのは…

・わあっきれい、おおパッショネイトと思えるもの

本音はこれにつきるのではないか。
ここで記事を終わりにすると身も蓋もないので、もう少し考えてみると

・シンクロが知られている地域で、誰もが知っていると言われるような、フォークロア的な伝説やお伽話。バレエなら『ラ・シルフィード』からマリインスキー劇場時代のプティパ全幕作品を経て、バレエ・リュス『シェエラザード』ぐらいまでの時間的・地理的な幅を含める。エキゾチズムもここに入る
・同じく、誰もが知っているような童話や文芸作品、神話(の主人公)
・その底流にある世界観や抽象的概念
・一般に強烈なイメージを持たれている歴史上の人物
・古典から現代まで、太い音楽の骨格を持つ芸術/エンタテイメント作品

思いのほか分け方が難しく、それぞれに当てはまる作品を挙げていくと被るもの、特にオペラやバレエ作品は数多い。これらは「どベタ」な要素を多分に持っている。そのベタを前面に出せば、さらにイメージはわかりやすく、伝わりやすくなる。そんなわけでスポーツの芸術性は、この「ベタ」に戦略的に近づくのではないかと思う。

選ばれた既存のイメージに対して、客がそれぞれ勝手に持っている雑多な先入観にたくましく応え、さらに面白がらせる。書くと簡単だが、パフォーマンスとして定着させるには多くの才能とアイディアが必要だ。したがって面白がらせるための伝統的な方法や、新しい試みを観るワクワクした気持ちや楽しみ、あるいは死に体にしょんぼりすることは、これまでもこれからも変わらずにあり続けるだろう。

二回に渡って書いたことを芸術性というのであれば、技術は芸術性をたやすく左右する。それに技術の可変域は、あらゆる意味で限定される音楽と身体の関係、イメージと身体の関係とは、比較にならないほど大きい。

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日本

たとえば約20年前は、仲間の力を借りて身体の8 ~9 割を水上に出していたのが、今では自力でほぼ同等の身体体積を、水上に持ち上げる選手が現れたという。それから速い移動と展開、衝突しそうなぐらいに近づいた選手間の距離、高い跳躍と柔軟性、アクロバティックなリフトを支える推進力の飛躍的な伸びなどは、シンクロを見慣れた人の「シンクロナイズドスイミング観」にも強い衝撃を与えてきた。
それらを一連の泳ぎに織り込んだ結果、「選ばれた既存のイメージに対して、客が勝手に持っている雑多な先入観にたくましく応え、さらに面白がらせる新しい試み」になったのではないか。

報道などで言われる「技術性か芸術性か」という煽りは、採点競技をわかりやすい勝ち負けに見せるための工夫なのかもしれない。「技術一辺倒への批判」などといえば、芸術性は対抗馬であるかのようにさえ感じられる。が、そもそも二大別できてしまえるとする思考法の方が、よほどいびつだと私は思う。

あるいは、こんな言い方もできるかもしれない。
シンクロの選手たちは、「同調する身体」というフィクショナルな動きを人に見せる意識を、強く持っているように感じられた。ただし音楽/イメージと身体の決まった関係、勝ち負けなどの条件があって、演技は純粋なクリエーションとして振付られたり評価されることはなく、現行のルールに従って採点される。だが力学的に不可能と思える泳ぎを、流れるように見せるエッジな身体は、そうした状況に制限されず、時にそれらが推進力となって先にいける。

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日本

シンクロを含めて全般にスポーツの放送は本来ならこういう科学、特に信じがたい運動現象を解明するスポーツ科学の中心的な領域を、ていねいに観るのに向いているはずなのだが、いろいろと不可解なことが起きている。

まず実況の奇声とか、酔った親戚がつけそうなコピーで一律的な感動をくださろうとする姿勢を、なぜ頑なに守ろうとするのかが不思議だ。
それから、映す/映さないの判断。
たとえば今年のプロ野球日本シリーズの最終戦では、落合親子がついに映らなかった。しかし何年か前の巨人戦~終了後のセレモニーで、徳光アナの号泣と感極まったつぶやきは、ずうっと流していたのを私は覚えている。両者を分ける倫理と感性はなんなのか、よくわからないし、知ってもがっかりするだろう。

現場で観たシンクロの身体は、スポーツをめぐるそういった不可解な音・映像とは異次元の場所に、これまで聴いたことのない力強い水音とともにあった。そして、速いからってなにとか勝ち負けのくせになどという、スポーツ嫌いに揶揄されるがままではなく、スポーツ観戦はもっと身体を観る目を養えて、科学に親しめるものだという大きな可能性を示していた。

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イタリア

観戦雑記に続く
by kouchiyama-simone | 2006-11-06 13:34

FINA Synchronised Swimming World Cup 2006 (1)

シンクロワールドカップ2006 フリーコンビネーション 横浜国際プール 9月14日

芸術性ってなんですか 音楽と身体

ごく簡単なルール説明、参考サイトなどは別ページにまとめました。
「認めがたい」のナゾと、シンクロ4つの種目
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上:ロシア 下:日本 
(テキスト内の小さな画像は、クリックすると拡大します)


できるだけラクして、あたりかまわず長く泳ぐ。
これの対極にあって、さらに一部の選手は力学的に可能と思えない泳ぎをするのがシンクロナイズド・スイミングだ。
競技時間はテクニカルルーティン ・フリールーティンの順に、ソロは2分と3分 、デュエットは2分20秒と3分30秒、チームは2分50秒と4分。フリーコンビネーションは5分(各±15秒)。この短さは一説によると「限界だから」。競技のきつさは想像をはるかに超える。

実際にプールでフリーコンビネーションを観たら、身体の同調性が高いと力強さが増すのを感じた。それは水音にも現れる。水の抵抗を身体の芯から断ち切るような力は、動きをよりクリアに伝える。音楽のダイナミクスに同調しているかどうかは、動きがクリアに見えないと判断しにくい。それに水からたくさん身体が出ると、やりたいこともはっきりする。

同じ角度で水面に上げられた複数の脚、難しい回転でも軸が微動だにしないたくさんの脚を観て思い出したのは「in the groove」だ。グルーヴの語源になった言葉で、レコードプレーヤーの針が、レコードの溝を正確にトレースしている状態を表す。脚を針にたとえれば、競技中に「真っ直ぐ」「きれい」と高く評価される脚は、音楽にぴたあっとハマっている状態なのだ。これが連続すると、泳ぐ身体にはグルーヴが生まれる。

上でリンクしている「『認めがたい』のナゾとシンクロ4つの種目」の中で、採点競技につきものの「順位が決まっているのではないか」という指摘の根拠を仮定して、ずいぶん遊んだ記事を書いた。が、近くで観ると今書いたことが如実にわかるので、遊び記事に書いたような採点は、やはり安コントや劇中劇の領域に入ってくるだろう。

競技でよく使用されるクラシック、シルク・ドゥ・ソレイユの舞台音楽、映画のサウンドトラック、ミュージカル…いずれにしても大勢に向けてつくられた曲には、不特定多数を惹きつける、とても太い骨格がある。この骨格の太さに選手たちの身体がシンクロすると、観客は一気に引き込まれる。

たとえばロシアが使ったヨハン・シュトラウス二世作曲の『こうもり』は、バレエを挟む形式の、特に第2幕は酔っぱらいながら踊りまくり「シャンパンの唄」で最高潮に達するオペレッタで、そもそも大変ダンサブルだ。

歌詞には何回か鳥が出てくるが、どてっとしたさえないものを尻目に鳥が軽やかに飛ぶような洗練と、他愛なく辛辣でいきいきした人間観察、和解が人間愛ではなく酒の下でなされるアイロニー、それにコミックバンド的笑い(個人的に大好きだ)がとけあった作品になっている。

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b0080239_23122570.jpgワルツの3拍子と、母音がしっかり子音の面倒を見る日本語のリズムは、まるで違う世界だ。でも私が初めて劇場で『こうもり』を聴いた時は、そんな事情に関係なく、水を弾くように粋でアッパーで悦楽的な音に夢中になった。よほど暗くて悪い時代にできたのかもしれないと思ったら、初演は経済恐慌を引き起こしたウィーン株価暴落の翌年だ。おまけに構想された頃は空前の好景気だったらしい。
これは想像の域を出ないのだが、初演当時『こうもり』のワルツは、観客の郷愁のようなものをおそらくものすごい勢いでかき立て、その高揚感は新しいとも古いとも区別できない愛国心─ワルツを育てた自分たちの文化に対する誇り─と、どこかで繋がったのではないかと思う。

b0080239_23125339.jpgロシアの演技が、そういう音楽にどうシンクロしていたかは、画像が鮮やかに伝えてくれるだろう。
フィギュアスケート競技のジャンプでは、「私は これから 大技に 入るっ(踏み込み)」という選手の滑走を、観客は固唾を飲んで見つめる状態になる。音楽はここで、ストップウォッチ的な役割を果たす。シンクロの場合、大技を水中で組み立てている間の身体は、上から観ていると様子がわからない。ロシアが潜水している時の水面は、レッド・オクトーバーがザバァと海面にスピン浮上してくるような、不気味な静けさをたたえていた。こうなると見えない緊張をはらんだ水自体が、一つの仕掛けだ。音楽は、水の幕が上がる前の序曲になる。身体が見える/見えないだけで、音楽の印象はこんなにも変わる。画像8点:ロシア

水面と水着の輝きは想像していたよりずっと眩しい。スピードのある幾何学的なフォーメーションは、撮り方によってはサイケデリックな映像になりそうだった。
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左:ブラジル 右:ロシア

最近シンクロの論文を読んでいたら、ロケットスプリット、ロケットサイドスプリットというフィギュア(技)が紹介されていた。
こんなところにもロケットが!「ロケットなんとか」はグラビアからスポーツまで、万能なネーミングらしい。そういえばドラえもんにも、ロケットガム(噛むとガスが出て自己発射可)というひみつ道具があった。
またシンクロ史に刻まれる新しい技や演技は、著しくスキルの高い選手の出現によることもあるのだが、おもに「ルール改正」がきっかけになって現れている事実に驚く。

b0080239_0281861.jpgルール変更は、この論文によれば「ビジネス」や「あまりに退屈だという見る側からの一方的な理由」で行われることもあるらしい。ルールの変遷にはおなじみのスポーツ政治の歴史が、はっきりと映し出されている。

かりに技術の進化や演技の多様化は、初めにそうしたルール変更ありきだとしても。選手は高得点のためだけに精進しているのか、それとも表現したいという気持ちが高まり大きなエネルギーと快楽が生まれた時に向上するのか、はたから各選手の心理を忖度して二大別することなど不可能だろう。
左:ソロ/カナダ

ただし採点法にある多様性や創造性、水域の利用といった言葉は、振付を純粋なクリエーションとして現代人の脳と感覚で自由に評するのとは違い、現行のルールで高得点に結びつく動作を、決まった時間の中にどう効果的に構成したかを問うためのものだ。
このために、仕方ないことだが音楽はつぎはぎとカットを施され、また音楽と身体の関係は、あるていど限定されてくる。

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 スイス: ↑はジャンプ中というより、宇宙船に吸い込まれていくようだ

ところで32回転や超絶技巧を決めてガッツポーズを出すバレエダンサーを、私は見たことがない。
終わった直後のレべランス(お辞儀)も、最初は踊っていた役の余韻や作品の情感を深く残して現れ、拍手に応えて何度も登場する内に、ゆっくり目覚めるように自分に戻るバレリーナもいる。

逆に芸術性のあるスポーツでガッツポーズを見ると、勝負師の世界の凄味や闘志を感じて素朴に尊敬したりするのだが、それはあくまでもアスリートに対する感動だ。
シンクロの選手たちは、まちまちに喜びを表現したりこぶしを突きあげる様子はなく、演技終了直後から結果が出た後も、ゆるやかに動きやリズムをあわせていた。同調というのは、それ自体とてもフィクショナルな行為だ。

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左:日本 右:スペイン

…この記事続く イメージと身体
by kouchiyama-simone | 2006-11-01 16:49




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