劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

<   2006年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

演劇の目で観たスポーツ 4 フレンチオープンテニス

ローラン・ギャロスの4色
b0080239_610138.jpg
LA GRIFFE 公式グッズカタログの1ページ 左2005 右2000

 衣類などたくさんあるが、色はどちらの年もほぼ、鮮やかなレンガの赤・乳白・ブルー・深緑の組み合わせになっている。赤はアンツーカー(粘土を焼きレンガ状のブロックにして、粒状に砕いた人工土。コートに使用されている)、白はコートラインの色、ブルーはもちろん空だ。決勝当日によく晴れると、準優勝者に渡される銀のプレートに空の色が映り込んで、青い盆を下げているように見える。

b0080239_1429123.jpg
2000年女子シングルスセミファイナル マリー・ピエルスがサーブを打つところ

 深緑はベンチやコート周りの色だ。それにStade Roland-Garrosには、425本82種類の樹木が生えているらしい。日刊誌には「まさに驚きの庭園!」という特集が載っている。街でも、この頃にめいっぱい広がる葉の色が目立つ。
b0080239_16421586.jpg
パリ1区の緑 その1

 現地でテニスの人気を実感した。街に地元の人たちがいてよく話題にされ、路地を歩くと生活の匂いが感じられたからだ。何度かオリンピックの報道で観た、しらける/できれば逃げる開催地住民という図はなかった。フレンチオープンは、地元でわりと楽しみに待たれている大会だと思う。4色はトレードマーク的というより、全仏がまた来たというこの時期の気持ちの高まりを色で表すと、こうなるという論理的な配色なのかもしれない。

b0080239_2315323.jpg
パリ1区の緑 その2
 
 右に立っている「大陸軍の記念柱」には、アウステルリッツの戦記がリボン状に刻まれている。ますらおぶりなので、道祖神と呼んでいた。
by kouchiyama-simone | 2006-06-22 16:01

演劇の目で観たスポーツ 3 フレンチオープンテニス

プレーヤーズ・プレイ 俳優の試合と選手の演技

 全仏公式マガジンRoland-Garros Magazine Internationaux de France 2005 の98-100ページ では「俳優たちのゲーム」というタイトルで、映画の脚本家Jean-Loup Dabadie(1938-)が、10年前に同誌で受けたインタビューを抄録している。ちょうど2005年の8月、彼が昔手がけた作品のDVDが発売になったらしい。

 映画はテニスが出てくる70年代の連作コメディだったようで、実際に元デ杯の選手をコーチに招き、週2回の割合で1カ月間、ジャン・ロシュフォール(Jean Rochefort,1930-)ら4人がしごかれたそうだ。映画のアイデアはどうやってうまれたのか、また制作・撮影時のエピソードなどが語られている。
(画像をクリックすると、かなり大きくなります)
b0080239_783673.jpg

 写真のセレクションが最高だ。どれを見ても本編を観たくなる。インタビューは「試合後の解説です」というフレーズで始まり、誰が一番いいプレーヤーだったかお互いに語るという、俳優の仕事にひっかけた遊び記事(DVDの特典映像から書き起こし)もある。ダントツの大根はGuy Bedosで皆の意見が一致している。

 映画の監督はイヴ・ロベール(Yves Robert,1920-2002.「冒険また冒険」「マルセルのお城」など。舞台俳優出身で「男と女」には俳優で出演している)。Dabadieと組んだこの2作は優れたコメディのようだが、調べた限り日本では通常公開されなかったらしい。ちなみに1番目の作品「Un Éléphant, ça trompe énormément 」は、80年代にアメリカでリメイクされ「The Woman in Red」になった。

b0080239_7153195.jpg

 左上はRoland-Garros Magazine の表紙。2005年はフランス人テニスプレーヤーのスザンヌ・ランラン(Suzanne Lenglen, 1899 -1938)が、ウィンブルドン6度目の優勝、また国際大会になって初の全仏選手権に優勝した1925年から80年目にあたった。それにちなんで現役のアスリート9人が、54-65ページでランランの時代のテニスシーンを演じている。

b0080239_7204591.jpg
 
 コートに立つ彼らは単体で観ると大変研ぎ澄まされた身体なのだが、当時の実際の写真と比べると、テニスの技術の進化に応じて、くっつけたりぶらさげているものが多い身体であることもわかる。

 ハードヒッターが増えテニスのパワー化が進むにつれ、身体だけでなくボールの速さや強さもずいぶん変わった。
 97年にはWTAランキングの計算法が平均法(1年間の獲得ポイント÷大会数)から加算法になり、以後選手は世界各地での連戦を余儀なくされている。計算法の変更は、ベテラン勢が出なくなった大会のスポンサー離れを防ぐ策でもあったという。それらが原因で、特に女子トップ選手の故障が続出している(6月20日付の朝日新聞朝刊より)。主催者は、以前に比べ金銭面での待遇をさらによくすることに成功したが、興行優先でツアーは過密日程らしい。

 冬季オリンピックが好例だと思うが、日本人選手活躍の後のあからさまなルール変更の歴史から学べるのは、「あちらの考え方では、ルール(きまり)は自分たちを有利にするためにある」ということだ。今回の場合、主催者にとって「自分たち」に選手はたまたま入っていないのであって、現状が自分たちに不利と判断したら、素早く変えるはず…なんだか、すごく古い話につきあっているような気がしてきた。今日の新聞を読んだとは、とても思えない気持ちだ。

 「演劇の目で観たスポーツ」の1と2で詳しく書いた通り、フレンチオープンの観戦には、リズムの面白さ、演技ではないが演技のような世界の驚き、新しい科学に立ち会う興奮があった。選手のコンディションが慢性的に著しく低下すれば、これらは観られなくなる。

 プロ・テニス界の現状に問題提起する切り口はいろいろあるだろう。ただスポーツ・ジャーナリズムからはるか彼方にいる者としては、合言葉のような拝金主義やスポンサー批判よりも「面白いものがつまらなくなるおそれがあります」と言われた方が、深刻な問題だという意識をすぐに持てる。

 ところで今劇場で観るクラシック・バレエや歌舞伎などの伝統芸能も、作品が初演された当時のパフォーマーと今とでは、 やはり大きな身体差があるだろう。それを超えて現代の観客に「古典」としての感動を与えるためには、視覚に対してはもちろんのこと、聴覚など視覚以外の作り込みも大事だ。

 「近世の大坂、つまりある時代のある地域で記された言葉(義太夫訛り)が、型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体を通し音として目の前に立ち上る、その生々しく艶のある音の抑揚や運びから、言葉の意味を超えた人間の内面の起伏そのものをありありと感じ取ることによってもらい泣きが起こるのだ。音楽的かもしれないが、音楽とは異なる。感情移入でも同化でも共感でもない。だから頭で考えるとめちゃくちゃな話でもかまわない。例えるなら、辻褄はあわないが感覚だけ非常にリアルな夢を見たような感じだ。 」
劇評「若草物語」から引用した。この前に、19世紀に書かれた『Little Women』という物語の読み方と、そこに出てくる身体について少し書いている。
by kouchiyama-simone | 2006-06-21 01:12

演劇の目で観たスポーツ 2 フレンチオープンテニス

b0080239_2492949.jpg

 さてスポーツも演劇も、世界的に注目を集める大会やチケット完売の人気公演を横目に、もっと関心を持ってもらいたい・客を呼びたいとさまざまなメディアで双方の関係者が言っている。

 自分をアピールするために都合のよさそうな舞台を、決まった見方で観る人たちの言葉や、お気に入りの競技を持ち上げるために、それ以外のスポーツをけなす言葉が、他人を惹きつけないのは当たり前だろう。どちらも結局は、対象をダシに自分語りしているだけだからだ。こういうのは、ネタとして捉えてやっと少し面白くなる。

 スポーツの試合には、勝ち負けがついて回る。どうすればこのスポーツは盛り上がるかという話を専門家がしている時、身近にいる生粋の勝ち負け好きが神妙に聞きつつも、そこにツボはないんだなあという様子でぼんやりしているのを見ると、実に偽りのない反応だと思う。

 私が昨年のフレンチオープンテニスを観戦して感じたこと(前回の記事)は、直接勝ち負けには関係していない。が、それらはATPランキングに大きく反映する・勝ち負けが大前提にある試合だということを、まず選手が自覚して戦っていたから得られたものだ。「スポーツ観戦の楽しさは勝ち負けだけではない」という言葉は、たしかにごもっともだが、その「楽しさ」をもたらしてくれる人たちは、勝敗と堅く結びついている。

b0080239_3262077.jpg

 もちろん試合の勝者は、対戦相手だけに勝つのではないだろう。しかし名選手の立派なエピソードを紹介されても、それがきっかけでスポーツを観ようという気はおきない。これは私の実感だ。
 実験的な公演を除くプロのパフォーマンスの場合、私はポイントを真剣に取りにいくものより、スポーツの表現でいうなら「魅せる」ために真剣になっているもの、そしてそこに生じる共同幻想の質を観に行っている。パフォーマーに、演出家に、振付家に、作品に勝ち負けをつけたい客は自由につけられるが、それは誰に対しても、何の効力もない。賞ですら、それ自体に価値があるかはわからない。これは、スポーツの試合の「勝ち負け」と親和性が低い。

 「厳しい練習に耐えてここ一番で決める選手は、だらけた自分に比べてなんてかっこいいのか」という紋切り型の感動は、演劇の世界でも不滅だ。でもよく考えると「厳しい練習~」は勝負の世界にいる限り続くアスリートの日常なので、試合を観てもそこにしか感動を見出せないのなら、スポーツを観ることはあまりスリリングではなさそうに思えてくる。もっとも言った側も、たまたまOAなどで観た時にそう感じたということであって、選手個人への感動と、競技そのものへの関心とは別だろう。

 ある競技が伝統的に、住んでいる地域や社会の遊びの延長で親しまれてきた歴史、自分もそのスポーツをやっていたことなどは、選手に対する素朴な尊敬を覚えるきっかけになる。しかしテニスをやることにほとんど執着のない私も、試合を観ながら夢中になって拍手を送っていた。「人間の身体は、そんなふうに動かないはず。ボールはそんな軌道で飛ばないはず。今のテニスの趨勢と違うから、そんなプレースタイルの選手はいないはず。もっともらしい、さまざまな「はず」が、ただの自分の思い込みだったと知らされる」のが、楽しくてたまらなかったからだ。
 
b0080239_1333063.jpg
 
 ナダルのボールと身体が、2000年に同じ場所で観た、クレーコートを得意とするプレーヤーとまるきり違うのは一目瞭然だった。ナダルは今年のフレンチオープンも優勝し二年連続チャンピオンとなり、同時にクレーコートの連勝記録を60にのばした。ボールは昨年より強く速くなり、相手を前後に揺さぶるのはもちろん、多彩になったショットでコートを立体的に使っている。

 アスリートの信じがたい運動現象を、人体力学やスポーツ科学が解明する。やがて、それを超えるスキルを持った選手が現れるというように、選手は進化し、スポーツの科学は鮮やかに変わっていく。新しいもの、隠れている未知のものへの期待がつねに持てる領域だ。
 今まさに、そういう進化の場に立ち会った!─「ああっ」とともに、私がローラン・ギャロスで聴いたもう一つの記憶に残る声、勝者が決まった瞬間の客席の歓声には、こんな興奮が込められていた。それは勝ち負けの決着がついたことを喜んだり、両者を讃えているだけではない、強い驚きを含む声だった。ふだんからスポーツに関心を持って観ていれば、この興奮はより大きくいち早く、自分のものとなるに違いない。

b0080239_2411929.jpg

写真 上から順に
・男子シングルスファイナル 試合開始直前。ナダルの足元の土が乱れている。
 つねにこうやって動き、コイントスが終わるとダダダと左右に走ってポジションにつく
・試合が白熱した時の、地元紙の記者席
・表彰式 準優勝はマリアノ・プエルタ(アルゼンチン)。ジダンの姿も見える
・最寄駅の飾りつけ 右下が電車。コートの赤土を構内に敷いた年もあったそうだ
by kouchiyama-simone | 2006-06-18 16:15

演劇の目で観たスポーツ 1 フレンチオープンテニス

b0080239_3544645.jpg
 
 1年前の話になるが、2005年の5月末から2週間、ある人の随行でパリに行き、ローラン・ギャロスでフレンチオープンテニス男/女シングルスファイナルを観た。

 テニスの放送を観ていると、選手がボールを打つときに漏らす「ああっ」という声には、演劇にはない何とも形容しがたい響きを感じる。時にエロティックだとも言われている。  

 現場で「ああっ」はどう聴こえるのか。
 放送では比較的大きな声しか拾えないが、「んぁっ」や「ほひっ」といった小さな声も会場では耳に入ってくる。それは力を込めてハードヒットしようとする瞬間、力の塊が小さく破裂する音のようだった。特に淫靡ではなく、放送で観る時とずいぶん聴こえ方が違う。
 種明かしは多分「ああっ」の少し後に映る、ポイントを取った選手のすごい顔、特にガッツポーズのアップだ。声が妙に聴こえるのは、おそらく「ああっ」+アスリートのアグレッシブな表情や隆起する筋肉のアップを繰り返すという、現実を音声と映像で切り出し重ねることによって出てくる、フィクショナルな面白さである。

 声の出始める瞬間とボールをヒットする音のタイミングは、選手によって異なる。打つ瞬間は無言で、ラケットを振り抜いてから「ひいっ」と声を出す人もいる。が、たいてい声の方がわずかに早い。ボールの力に押されると、ほぼ同時になったり、自分のパターンでポイントが取れない状況が続くと、声のトーンが下がったりする。ヒッティングそのものの音も、選手のゲームの組み立てで変わる。それに気づくと、より攻めている側の選手が「こう変化させたい」と思っているリズムが、ボールの回転や強さやスピード(目)で確認する前に、少しずつ感じられるようになる。
 組み立てがうまく行った時に実際に起こるリズムの変化は、天才的な才能と努力して身につけた技術の上に成り立つ、とてつもない即興だ。CDを買って音楽を聴く以外にも、リズムを感じる方法はこんなふうにたくさんある。むしろCDだけに頼ると、感受できるリズムは限られてくるはずだ。

 「フィクショナルな面白さ」は、映像のほかにも見つけることができる。
 上の写真は会場で売っている日刊誌の表紙だ。パリ5区の学生街、カルティエ・ラタンそのままのタイトルで「スペインとアルゼンチン、ラテン系二人の魅力に占められたすてき対決」という方向で切り出している。
 こちらは面白いというよりゆるい。最終号で編集部が力尽きエスプリを見失ったというより、こうしたゆるさや駄洒落はごくふつうのセンスで、まだまだ私が「シェー」のイヤミ暦から抜けきれない目でフランスを見ようとするから、若干の驚きを感じるのだろう。 

 2005年の男子シングルスは、19歳・初登場のラファエル・ナダル(スペイン:表紙右上)が優勝した。
 ナダルの打つボールを観ていると、スピンに細かく変化をつけているのがわかる。そのうちの一つはベースラインを大きく越えてしまうのではないかと思う高さで飛ぶが、突然軌道が変わりコートの深い位置に入る。ギュルギュルとスピンのかかったそのボールは、見るからに重そうでしかも速い。回転をかけて打つと通常ボールのスピードは遅くなるという私のぼんやりした認識も、ボールと一緒に気持ちよく飛んでいった。

 この猛烈なスピンをかける、頭上に振り上げるようなフォアハンドストローク、強い脚、伸びる肘、打つ瞬間の右手の「4」に似たかたちなど、ナダルは影を観ても「ナダル」とわかるフォームを持っている。ボールへの反応も大変速い。セット後半になっても速さは衰えない。
 身体は後ろ全体が、ぶ厚くて新しいゴムみたいだ。特に有名な、ぷりぷりのブドウを半分に割って背中あわせにくっつけたように丸く盛り上がった尻の筋肉は、客席から肉眼ではっきり見えた。この頃すでに身体つきが話題になっていたが、それでも今年に比べれば、まだほっそりしている。

 たまに問題視されているナダルの「ルーティーン」と呼ばれる儀式的な動作は、多くて長いのでたしかに目立っていた。靴下上げや、サービス時に3つのボールを取り寄せ2つを選ぶ身体の動き…こちらのリズムは、きっかりしていて変わらない。
 フェルナン・レジェの実験映画『バレエ・メカニック』(1924年)は、リズムやかたちの似たもの同士を編集した11分の映像だ。ナダルのルーティーンに似たリズムを持つものも、この中にあるかもしれない。

 さらに今年のフレンチオープンテニスをテレビで観て、ナダルは映像向きの人でもあることに気づいた。
 クレーコートは長いラリーが続きやすい。足の動きは土の滑りを利用するのだが、それでも取れなさそうな、難しい位置に飛んでくるボールに「うわー届いてる、しかも返したショットがハードヒットでウィナー」という驚き。この時現場では力がどう連動しているのか、細かい部分までは捉えにくい。さっきも書いたように音で読み、ボールの軌道や相手の対応を観て、どんな攻めだったのか自分で補うことになる。が、スロー映像ではラケットのあわせ方や打点、抜群のコントロール、それにラケットのグリップが細めなことまで手にとるように観られる。
 また試合中、ナダルはバモースと吠えガッツポーズも見せるが、ウギャアと切れる方向にはメンタルがいかない。休憩の間は客席からだと、バナナをよく食べ、水の置き場所に気を遣う落ち着いた若者に見えた。ところがひとたびカメラを通せば、矢じりみたいな鋭い表情や、相手を徐々に破壊していく精神力のありようが、アップや編集で強調されて伝わってくる。

 私は今回、WOWOWの放送をいくつか観た。身体がこう動いて、力がこう加わると回転はああなって土のバウンドがこうなって、結果あそこへあのようにボールは行く。それをこう切り返すなんて信じられないが、この選手はおそらくこういう理由でできていると、ていねいに解説しているゲームもあった。
 人間の身体は、そんなふうに動かないはず。ボールはそんな軌道で飛ばないはず。今のテニスの趨勢と違うから、そんなプレースタイルの選手はいないはず。もっともらしい、さまざまな「はず」が、ただの自分の思い込みだったと知らされる。トップアスリートの試合は、その連続だ。

…この記事続く
by kouchiyama-simone | 2006-06-16 09:42




ページの上へ