劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

バベル 

「ブラッド・ピット」と言われていつも一番先に思い出すのは、格好良さよりもこのすっぱい、泣きラッキョウのような顔だった(その次に思い出すのが『テルマ&ルイーズ』J.D.役で見せた腹)。この顔を持てあまさずに、自作のキャラクターと融合させてうまく使った監督は『バベル』のイニャリトゥが初めてではないだろうか。
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「血を流すモロッコ、暴走するメキシコ、怒りのアメリカ、傷だらけの日本」。国ごとに色調の違う赤で色づけされた映像、大陸間の暮らし方の差異など、違いを見せる仕掛けが盛大にばらまかれている。スケールも3大陸4言語と大きいが、監督の用意してくれた仕掛けに半分つきあわずに観ていると、ミクロな視点から描かれた家族映画という『バベル』の別の顔が見えてきた。

旧約聖書の「創世記」バベルの塔のエピソードは、神に近づこうと天まで届く塔のある町を建て始めた人間の傲慢に、神が怒ってただちに彼らの言葉を混乱(バラル)させ、世界中に散り散りにした。そんなわけでこの町はバベルと呼ばれることになった、というものだ。町のネーミングが語呂合わせだったとは…。軽い衝撃だ。
それはおくとして、『バベル』監督・製作・原案(ギジェルモ・アリアガと共同)のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」「人を幸せにするものは国によって違うけれど、惨めにするものは、文化、人種、言語、貧富を越えて、みんな同じだ。人間の大きな悲劇は、愛し愛される能力に欠けていること」と語る。
互いの言葉が聞き分けられなくなり、みんな散り散りになったバベルの物語に監督が重ねているのは、言語・文化・宗教など大文字の「世界の違い」ではなく、自分の狭い価値基準に人を当てはめ、ちまちま隔てをつくっては自分の満足や平穏を得ようとする、人間の内面だ。これを家族にやる、つまり家庭内バベルを築き始めてしまう人たちが、この映画には何人か登場する。本人も周りもたちまち不幸になっていく。モロッコでは争いが起き、日本では互いの存在を忌避し、問題が複合化しやすいアメリカはメキシコを巻き込むというかたちで。さまざまな価値観が散らばり、普遍という言葉がうさん臭く聞こえる現代で、これは国を超えて分かち合える数少ない話だろう。

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キャスティングも『バベル』の魅力の一つだ。映画監督としても活躍するアドリアナ・バラッザ(左奥)と、舞台歴の長いガエル・ガルシア・ベルナル(右)。イニャリトゥの『アモーレス・ペロス』(99)で共演した二人が再び顔をあわせ、アメリカで暮らすメキシコ人の子守(家政婦も兼ねている)アメリア、長い屈辱に耐えきれなくなる甥のサンチャゴを演じる。
ブラッド・ピット扮したリチャードには、「"いかにもアメリカ的な男性"を思い描いていた」という監督。「こういうタイプの役を演じたことのないブラッドを、危機に陥る中年男性に変身させるのには、ワクワクした」。

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リチャードはツアー旅行でモロッコを訪れ、現地レストランでコーラを頼む。米国人観光客のステロタイプな描写だが、彼は慣れない土地で腹を下さぬよう、無難に缶入りコーラを取ったのではなさそうだ(その証拠にリチャードは氷に無頓着で、コーラを氷の上に注ごうとする)。
ブラッド・ピットの演技は、リチャードの嗜好がそうさせたのでもなく、彼にとってはいち早く落ち着けるドリンクがコーラなので、もう絶対選ぶことになっている─そこにリチャードのわずかな、でも周囲に対してわりと根深く持っている猜疑心を覗かせるという隙のない表現だった。このような猜疑心も、何かのきっかけで極端に増幅されてしまうと「境界を形成する、私たちの中にあるもの」に変貌するのかもしれない。

b0080239_18251079.jpgリチャードは全般に、見ていていたたまれない感じの人物として描かれていた。世話になったモスリムのガイド(モハメド・アクサム)と別れる時、どうしていいかわからず、やおら財布からドル札を渡そうとして固辞される様子などは特にきつい。私の目は映像を観ているのだが、「ヤスジロー(役所広司)なら、
札はティッシュにくるむかな」と、脳が状況から逃げ出した。イニャリトゥにおける「いかにもアメリカ的な男性」=少しいたたまれないということらしい。
(写真左は日本人会社員ヤスジロー。チエコの父。以前ハンティングでモロッコを訪れ、ガイドの男に猟銃を贈った。最近妻が自殺し、たびたび警察から事情聴収を受けている。)


菊地凛子が演じた聾唖の女子高生チエコのことを書く前に、『バベル』とは関係ないが、ある舞台を紹介しておきたい。私は数年前、目で聴くミュージカルを観た。ロジャー・ミラー作詞作曲『ビッグ・リバー』というブロードウェイの作品で、聾唖の俳優と、健常者の俳優(音声を担当するか、音声と手話両方やる)とが共演する。まず俳優たちの手話sign languageが始まるや、それはsignごとに決まった意味を持つやりとりで「ただし日常の言葉とは違い、いかにも演劇的な台詞になっているのだろう」と、ごく自然に察することができた。その台詞が詩になり、リズムやテンポがつき、信じられない表現力が加わるとどうなるか。なんと、目で聴く歌詞つきの歌になる。音声担当の俳優がそばで話す・歌うので、台詞や歌をどう表現しているかがわかりやすい。
クライマックスでは舞台に大勢の俳優がいて、音声による合唱がある時ふつっと消え、全員の手話だけが続く。舞台はシ~ンとしている。が、ここには大音量の歌が鳴っている。音が消えた瞬間、私の中で歌を捉える方法が切り替わったのだ。これは感動的な体験だった。
この舞台には課題も多く感じたが、小説『ハックルベリー・フィンの冒険』の骨組みを借りながら、聾唖者と健常者が用いる言語の違いを知ることの難しさと、違いを侵さず協調して一つの作業をすることの難しさに挑んだ軌跡の記録でもあり、手話を学んだ経験のない私にも、手話は顔の表情や身体を駆使する特徴を持つ言語だと、明快に教えてくれる作品だった。

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というわけで手話は音声のコミュニケーションとはもちろん異なるが、チエコは一つの言語を持つ人で、言語を奪われちゃったカワイソウな子ではないだろう。チエコの手話は、淡々としていてどちらかといえば尖っている。言いっぱなしで話を打ち切ってしまう短気なところもある。でも取る行動とのちぐはぐさ加減から、複雑な内面がヒリヒリと感じられる。拒絶されることを繰り返すチエコの魂の彷徨に終わりの兆しが現れる場面は、静かで暖かくとても美しかった。
このように『バベル』では、出てくる人たちの哀しみはあまり解消されないのだが、そういった感情の中で彼らがひっそりと繋がっているような感覚と、その繋がりがもう少しで励みや慰めに変わりそうな気配を、スクリーンのこちら側では持つこともできる。観る人の感受性によって、評価が分かれる作品になるだろう。

『バベル』には複数の物語が進行するスタイルの作品ならではの、シャッフルされた空間・時間をたぐり寄せる面白さもある。特に息子の結婚式当日、アメリアが受けた無体な電話。あれをかけた主が誰で、どんな状況でかけたのかは映画の進行とともに紐解かれ、大きなヤマを超えて観客が安堵した頃に、はっきりと知らされる。これがいいようのない苦さを残す。

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☆イニャリトゥ監督の言葉は『バベル』プレス資料から引用しました。
☆上の写真はギャガ・コミュニケーションズ提供 『バベル』ジャパンプレミアの一コマです。私は左端の少女をデビー(エル・ファニング)だと勘違いし、映画に比べて顔が別人のように大人びて来たとか、ベビーファットがすごい勢いで取れていっていると感動していました。実際に別人でして、写っているのは監督の愛娘マリアさんです。

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by kouchiyama-simone | 2007-04-30 23:39




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