劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

プロデューサーズ(続き)

初回の原稿と映画の基本情報はこちらです。
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 「プロデューサーズ」ではゲイ:gayの2つの意味(同性愛の/陽気で華やかな)が目まぐるしくスイッチし続ける。ロジャーとカルメンもキャッキャとはしゃぎエモーショナルな表現をするのだが、他の人物同様大いに誇張されているにもかかわらず、何度も思い出し笑いできそうな言動にはなぜか既視感があり、どちらかといえば彼らはナチュラルに映った。
 現実の人間のキャラクターは、他一切を否定した自我のみで成り立つのではなく、周りに受け入れられやすい在り方を意識することによって形成される、と仮に考えてみよう。さてここに、ロジャーらの誇張された人物像を、そう極端にも感じない現実がある。その現実のキャラクターは多分に意識的にできたのだとすると、理由はさておき(同性愛者全員とは言えないが)彼らは、日常でプレゼンする自分の「人となり」を、限りなくミュージカル級の「芸」に近づける必要があったということになる。なぜかといえば、そもそも人は他人の自我などできる限り無関心な生き物で、ステロタイプに当てはまるものなら、関心がなくてもわかるからだ。

 詐欺の容疑でマックスを捕まえにきたアイルランド系巡査の、訛りギャグの丁寧な字幕(戸田奈津子)は、会話のテンポのよさは失われているものの、英語の笑いはこうやって言葉を崩したりかけたりせざるをえないという、タイトで論理的な英語の言語構造を垣間見せた。
 欲をいえば「刑務所かリオか」は「オリかリオか」にするぐらいのケレンが欲しかった。が、まずは過去の字幕で物議を醸した「かもだ」(例「あいつは行くかもだ」)が消えたことを喜びたい。

 こうした移民の言葉や出身や性など、人が生きていく上でどうしても持ってしまいがちな差別感情は、「プロデューサーズ」では一対一ではなく流動的な集団対集団で、しかも一方的ではない「やりつやられつ」の図式で出てくる。飽和状態になっているので気づきにくいが、要するになかなか変われない人間のいやらしい部分を大変うまく表現しているのだ。

 「プロデューサーズ」の笑いにルールがあるとすれば、次の一点だと私は思う。喪失や虚無がどんなものであるかうすうす知っている人々が、それでも生きていこうとするタフさを、正面から言わずに大勢を笑わせながらそっと伝えよう、フィクションにはそれができるはずだから、という決まりだ。これを律儀に守っているからこそ、一時の儚く楽しい夢とは質の異なるたくましい明るさが、最後に立ち上る。
 こういう作品に対する「下品」「中身がない」という低く見た言葉は、まさに先ほどの「いやらしさ」の一つだ。前回私は、「プロデューサーズ」にはいてほしい人が必ずいると書いた。なにを隠そうアラスカン・マラミュート似の、いわゆる「ガチの人」リープキンは、そうした評言を戯画化した人物である。
 
 リープキンはユーモアを解さず、自慰的なグッドモデルに合致するものしか認めない。リープキン作、ハードゲイ風のドイツ兵が漫然と歌い踊る「春の日のヒトラー」は最初こそ客が呆れるが、ロジャー扮する屁のようなヒトラーの登場をきっかけに、戦争への皮肉を込めたコメディに違いないと、本来敵であるはずの娯楽を求めて劇場にきた観客に間違って救われる。リープキンは懲りずに、実はヒトラーをダシに自分語りをしたかった小さな心をたぎらせて激怒。まことに、ユーモアを成立させるには欠かせないタイプの人間といえる。
 ミュージカルと違い現実の場合、そうした反応や言葉の多くが不徹底なステロタイプであるのが問題だ。暇つぶしや消費ではないと信じて映画館に行っているのだとすれば、そこで何かしら「得たもの」とやらがあるだろうし、経験の蓄積から生み出される鋭い言葉はないのだろうか。今さらそのような、ミュージカルにも出てこないベタな表現を用いない方が、批判の言葉は説得力を増すはずだ。
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by kouchiyama-simone | 2006-05-17 22:30




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