劇場紙風船 TEXT+PHOTO by 河内山シモオヌ

リンガー! (原題 THE RINGER)

b0080239_704027.jpg

ringerには「競技不正参加者、替え玉」という意味がある。それがなぜかオーストラリアの口語では「抜群のやつ」になる。「小屋でいちばん速い羊毛刈りの職人」をringerというらしく、そこから来ているとすると、口語とはいえ特殊な表現なのかもしれない。公開終了後の紹介になってしまったが、『リンガー!』はどちらの意味も当てはまる映画だ。


昇進させろと上司に直訴した会社員スティーブ。あっさり聞き入れられるが、さっそく命じられたのは長年勤めた用務員のスタービ(移民で奥さんに先立たれて子だくさん)をクビにすること。解雇を告げるだけというのはできず、スティーブは彼を雇って自宅の芝刈りを頼む。と、事故でスタービの指が取れてしまう。保険に加入していなかったため、スティーブは高額の手術代が必要になる。

さてスティーブには、借金で首の回らなくなった叔父ゲイリー(ブライアン・コックス)がいた。ゲイリーは「スペシャル・オリンピックス(知的発達障害のある人たちに日常的なスポーツトレーニングと、その成果の発表の場である競技会をサポートする国際組織)」の放送を観て、甥が学生時代、陸上選手で俳優志望だったことを思い出した。彼はスティーブに知的発達障害者を装わせ、2週間のスペシャル・オリンピックス競技会に出場させる計画を思いつく。

ゲイリーの金貸し屋は、スペシャル・オリンピックス6度の優勝に輝くアフリカ系のジミー(レオナード・フラワーズ)が好きだ。正確にいうと見るからにアスリートの身体をしたジミーが、飛んで走って殊勝なポエムを詠む宣伝用映像が好きだ。ゲイリーはスポーツ賭博の胴元もやっている金貸し屋に、今度のジミーの勝敗を賭けようと持ちかける。自分は負ける方に賭けてスティーブが優勝すれば、借金もなくなるし多額の金が手に入るという計算だ。ご都合主義的とあなどらないでほしい。むしろ一秒の無駄もない展開に、私は引き込まれた。


スペシャル・オリンピックスの賛同を得て、全面的な支援のもとに製作されたという『リンガー!』。スティーブを演じるのは、身体をはったバラエティ番組『ジャッカス』のメイン・パーソナリティ、ジョニー・ノックスヴィルだ。こういう役を、ジム・キャリーに頼らなかった人選に注目したい。
顔のパーツが若干中央に寄ったノックスヴィルは、気弱な会社員スティーブとして登場する最初の場面から、この役に選ばれた理由がわかるなあとしみじみ感じるような、説得力ある表情をしている。ところが叔父のしつこさに負けて「知的発達障害者のジェフィー」を装って以降は、油断したり罪悪感からブルーになったりで、演技がほころびまくったまま競技場をうろつく。

つまりスティーブはそれほど装っていないし、ノックスヴィル自身『ジャッカス』の時と、そう変わらなくなっていく。なのに「障害者はこういう表情や動きをするよね」という私自身の思い込みと一致する演技がちょっとでもあると、「あっ障害者に見える見える」と感じてしまう。
映画の中でも、スティーブのワンパターンな決め顔が、たまに天使の笑顔のように受け止められるという奇跡が起きる。現実にはありえない反応だと思うかもしれない。が、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の原作者やクヒオ大佐など、長年うまくやっていた詐欺師を思い出してみよう。周囲の思い込みや期待に逆らわない彼らの演技。最小の力で最大の利をもくろんだことをうかがわせる、チープな仕掛けの数々。ゲイリーの悪だくみは、こんな現実に裏打ちされている。

ゲイリーは自分の都合でスティーブを叱咤激励する。台詞を聞いていると、日常によくある「感動的な前向きの励ましメッセージ」と、一字一句違わない言葉がいくつか出てきた。
じつはringerという単語は、dead ringerという語句になると「生き写し、そっくり」の意味を持つ。この意味も映画のタイトルに重ねられているとしたら、それは「ジェフィー」と実際の障害者がdead ringerなのではなく、叔父のヤクザな言葉と、感動を呼ぶわかりやすいメッセージが「そっくり」ということだろうと、私はみている。


スティーブの正体を見破ったのは、チームメイトたちだ。彼の「ケチャップとれる?」という一言を、「“とって”と言えばいいのに」と、テーブルにいた全員で大笑いしてずっとからかう。彼と我の数が違うと簡単にこういうことが起きるのだが、食べカスも浴びてむっとしたスティーブは素で喋ってしまう。
場が険悪になったこの時、スティーブはスタッフのリン(キャサリン・ハイグル)に甘えてごまかすという方法でピンチをしのぐ。「何か欲しいとき僕らもやる」わざとらしい演技を、スティーブはさらにあざとくやったため、彼らの疑いは決定的に。

リンはスティーブに恋愛感情を持たせたらいけないと思う一方で、怪しさのあまり孤立するスティーブを、新入りだし周りと打ち解けるのに時間のかかる性格なのだろうと考え、特別に心をくだく。彼女を好きになったスティーブが体験する現実の不条理や、ある一線を意識的・無意識的に引いておきながら、それを侵す行動をしてしまうリンの矛盾は、恋愛を通してていねいに描かれる。

結局、チームメイトはスティーブの偽装をリンにも告げず、彼をしごいて勝たせることに決める。ここは安いヒューマニズムを蹴散らす、すてきな場面になっている。
彼らに問いつめられたスティーブは正体を明かし、来た理由を図解で説明する。さりげなくUncle Gary→Bad manと書くが、スティーブ自身は同情されない。そんなことより彼らはジミーが嫌いだった。そしてスティーブは、ジミーの優勝を阻止する駒に使えそうだった。

TVでは視聴者に向かって「みんなと同じだよ」と、受けのよい台詞を囁くジミー。見開いた目のまま、ニイーッと作る笑顔が〈嘘だけどね〉と教えてくれる。凡人より優れた身体能力を持つジミーにそう言わせたり、優勝したらディズニー・ワールドに行くとスピーチさせようとする、彼のマネジメント(もっといえば、それを求める視聴者)の薄気味悪さが、ここから伝わってくる。競技場で会ったジミーがじつに嫌な人間だったからという以上に、こういうディテールが映画の最初からぴしっと積まれているので、スティーブに「いてくれ」と頼む彼らの台詞が効くのだろう。


次第に仲よくなるチームメイトとスティーブは、ある夜、宿舎のロビーに布団を持ち込んで「キャンプ」をする。俳優になりたかったがうまくいかなかったと語るスティーブに、みんなが聞く。
「ハリウッドへ?」
「いや」
「ブロードウェイに行ったんだろ?」
「行かなかった」
「小劇場?」
「…違う…みんなに無理だと言われた」
「僕らもよく言われる」
挑戦の痕跡を見つけてフォローしようとするものの、彼らの基準からするとスティーブの「うまくいかなかった」は、「なれたらいいな」だけだったことがはっきりする。この後、俳優に大切なのはルックスだという意見にみんなが深くうなずき、スティーブは「俳優になれなくても挑戦すべきだったよ」(原語は容赦なくて「まあ、君は十中八九ダメでしょ。けど、やってみるぐらいはできたよね」)と諭される。

ハリウッド女優たちの井戸端会議とインタビューで構成された映画『デブラ・ウィンガーを探して』では、中年以降も需要のある性格俳優のことを、「足の裏みたいな顔」と言って盛り上がっていた。そんなルックスなのにまともなオファーがあるのよ、というニュアンスと、男優の場合は成熟したかのように見えるものが、映画界から必要とされて羨ましいという気持ちを込めて。この言葉に照らせば「挑戦すべきだったよ」は、まことに正しい。


この映画には善玉悪玉という図式が、ありそうでない。両方の面を必ず、時にギャグ漫画的手法でみせるので、人の言動には善悪の両方がわかりやすくついて回る。スティーブは自分のやっている騙しを、正当化してくれそうな理屈にすがるのをやめ、よく考えて善がまさると思った行動に賭けて出る。

『リンガー!』はハッピーエンドだが、現実だとスティーブ的真摯な態度は、善悪の見極めのハードルをなるべく低く設定して、善人ぶりたい人間から疎まれたりする。映画はその辺りにも目配りを忘れず、最後のお祭り騒ぎのシーンで、観客に現実向きの提案をする。「少しだけ敬意を払って」と。自分は優しいとか善いとか思い込んでみても、同じようには感じない人がいる。その意見を聞いてもう一度考えることをしないで、得体のしれない善意だけを押し出す横暴な人間が、他人へ敬意を払うことは、たしかに難しいだろう。

b0080239_73627.jpg

☆公開終了後の作品のため、画像はチラシの表裏を載せました。裏面の画像は、クリックすると大きくなります。
☆「リンガー!」の短い記事が、こちらにあります。→リンガー!
また、ブラウスタイン監督の前作『ビヨンド・ザ・マット』の記事を、このサイトのフォローページ「劇場紙風船 おふろ場」に掲載する予定です。『ビヨンド・ザ・マット』は、WWF(現WWE。当時はパンダマークの団体WWFに敗訴する前でした)の社長からドサ回りの元スター・レスラー、新人まで、アメリカのプロレスに関わる人々を捉えたお勧めのドキュメンタリーです。
# by kouchiyama-simone | 2007-05-31 23:32

バベル 

「ブラッド・ピット」と言われていつも一番先に思い出すのは、格好良さよりもこのすっぱい、泣きラッキョウのような顔だった(その次に思い出すのが『テルマ&ルイーズ』J.D.役で見せた腹)。この顔を持てあまさずに、自作のキャラクターと融合させてうまく使った監督は『バベル』のイニャリトゥが初めてではないだろうか。
b0080239_181494.jpg
「血を流すモロッコ、暴走するメキシコ、怒りのアメリカ、傷だらけの日本」。国ごとに色調の違う赤で色づけされた映像、大陸間の暮らし方の差異など、違いを見せる仕掛けが盛大にばらまかれている。スケールも3大陸4言語と大きいが、監督の用意してくれた仕掛けに半分つきあわずに観ていると、ミクロな視点から描かれた家族映画という『バベル』の別の顔が見えてきた。

旧約聖書の「創世記」バベルの塔のエピソードは、神に近づこうと天まで届く塔のある町を建て始めた人間の傲慢に、神が怒ってただちに彼らの言葉を混乱(バラル)させ、世界中に散り散りにした。そんなわけでこの町はバベルと呼ばれることになった、というものだ。町のネーミングが語呂合わせだったとは…。軽い衝撃だ。
それはおくとして、『バベル』監督・製作・原案(ギジェルモ・アリアガと共同)のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは「境界を形成するものは、言語、文化、人種、宗教ではなく、私たちの中にある」「人を幸せにするものは国によって違うけれど、惨めにするものは、文化、人種、言語、貧富を越えて、みんな同じだ。人間の大きな悲劇は、愛し愛される能力に欠けていること」と語る。
互いの言葉が聞き分けられなくなり、みんな散り散りになったバベルの物語に監督が重ねているのは、言語・文化・宗教など大文字の「世界の違い」ではなく、自分の狭い価値基準に人を当てはめ、ちまちま隔てをつくっては自分の満足や平穏を得ようとする、人間の内面だ。これを家族にやる、つまり家庭内バベルを築き始めてしまう人たちが、この映画には何人か登場する。本人も周りもたちまち不幸になっていく。モロッコでは争いが起き、日本では互いの存在を忌避し、問題が複合化しやすいアメリカはメキシコを巻き込むというかたちで。さまざまな価値観が散らばり、普遍という言葉がうさん臭く聞こえる現代で、これは国を超えて分かち合える数少ない話だろう。

b0080239_182057.jpg

キャスティングも『バベル』の魅力の一つだ。映画監督としても活躍するアドリアナ・バラッザ(左奥)と、舞台歴の長いガエル・ガルシア・ベルナル(右)。イニャリトゥの『アモーレス・ペロス』(99)で共演した二人が再び顔をあわせ、アメリカで暮らすメキシコ人の子守(家政婦も兼ねている)アメリア、長い屈辱に耐えきれなくなる甥のサンチャゴを演じる。
ブラッド・ピット扮したリチャードには、「"いかにもアメリカ的な男性"を思い描いていた」という監督。「こういうタイプの役を演じたことのないブラッドを、危機に陥る中年男性に変身させるのには、ワクワクした」。

b0080239_18205685.jpg

リチャードはツアー旅行でモロッコを訪れ、現地レストランでコーラを頼む。米国人観光客のステロタイプな描写だが、彼は慣れない土地で腹を下さぬよう、無難に缶入りコーラを取ったのではなさそうだ(その証拠にリチャードは氷に無頓着で、コーラを氷の上に注ごうとする)。
ブラッド・ピットの演技は、リチャードの嗜好がそうさせたのでもなく、彼にとってはいち早く落ち着けるドリンクがコーラなので、もう絶対選ぶことになっている─そこにリチャードのわずかな、でも周囲に対してわりと根深く持っている猜疑心を覗かせるという隙のない表現だった。このような猜疑心も、何かのきっかけで極端に増幅されてしまうと「境界を形成する、私たちの中にあるもの」に変貌するのかもしれない。

b0080239_18251079.jpgリチャードは全般に、見ていていたたまれない感じの人物として描かれていた。世話になったモスリムのガイド(モハメド・アクサム)と別れる時、どうしていいかわからず、やおら財布からドル札を渡そうとして固辞される様子などは特にきつい。私の目は映像を観ているのだが、「ヤスジロー(役所広司)なら、
札はティッシュにくるむかな」と、脳が状況から逃げ出した。イニャリトゥにおける「いかにもアメリカ的な男性」=少しいたたまれないということらしい。
(写真左は日本人会社員ヤスジロー。チエコの父。以前ハンティングでモロッコを訪れ、ガイドの男に猟銃を贈った。最近妻が自殺し、たびたび警察から事情聴収を受けている。)


菊地凛子が演じた聾唖の女子高生チエコのことを書く前に、『バベル』とは関係ないが、ある舞台を紹介しておきたい。私は数年前、目で聴くミュージカルを観た。ロジャー・ミラー作詞作曲『ビッグ・リバー』というブロードウェイの作品で、聾唖の俳優と、健常者の俳優(音声を担当するか、音声と手話両方やる)とが共演する。まず俳優たちの手話sign languageが始まるや、それはsignごとに決まった意味を持つやりとりで「ただし日常の言葉とは違い、いかにも演劇的な台詞になっているのだろう」と、ごく自然に察することができた。その台詞が詩になり、リズムやテンポがつき、信じられない表現力が加わるとどうなるか。なんと、目で聴く歌詞つきの歌になる。音声担当の俳優がそばで話す・歌うので、台詞や歌をどう表現しているかがわかりやすい。
クライマックスでは舞台に大勢の俳優がいて、音声による合唱がある時ふつっと消え、全員の手話だけが続く。舞台はシ~ンとしている。が、ここには大音量の歌が鳴っている。音が消えた瞬間、私の中で歌を捉える方法が切り替わったのだ。これは感動的な体験だった。
この舞台には課題も多く感じたが、小説『ハックルベリー・フィンの冒険』の骨組みを借りながら、聾唖者と健常者が用いる言語の違いを知ることの難しさと、違いを侵さず協調して一つの作業をすることの難しさに挑んだ軌跡の記録でもあり、手話を学んだ経験のない私にも、手話は顔の表情や身体を駆使する特徴を持つ言語だと、明快に教えてくれる作品だった。

b0080239_18404549.jpg

というわけで手話は音声のコミュニケーションとはもちろん異なるが、チエコは一つの言語を持つ人で、言語を奪われちゃったカワイソウな子ではないだろう。チエコの手話は、淡々としていてどちらかといえば尖っている。言いっぱなしで話を打ち切ってしまう短気なところもある。でも取る行動とのちぐはぐさ加減から、複雑な内面がヒリヒリと感じられる。拒絶されることを繰り返すチエコの魂の彷徨に終わりの兆しが現れる場面は、静かで暖かくとても美しかった。
このように『バベル』では、出てくる人たちの哀しみはあまり解消されないのだが、そういった感情の中で彼らがひっそりと繋がっているような感覚と、その繋がりがもう少しで励みや慰めに変わりそうな気配を、スクリーンのこちら側では持つこともできる。観る人の感受性によって、評価が分かれる作品になるだろう。

『バベル』には複数の物語が進行するスタイルの作品ならではの、シャッフルされた空間・時間をたぐり寄せる面白さもある。特に息子の結婚式当日、アメリアが受けた無体な電話。あれをかけた主が誰で、どんな状況でかけたのかは映画の進行とともに紐解かれ、大きなヤマを超えて観客が安堵した頃に、はっきりと知らされる。これがいいようのない苦さを残す。

b0080239_6111018.jpg
☆イニャリトゥ監督の言葉は『バベル』プレス資料から引用しました。
☆上の写真はギャガ・コミュニケーションズ提供 『バベル』ジャパンプレミアの一コマです。私は左端の少女をデビー(エル・ファニング)だと勘違いし、映画に比べて顔が別人のように大人びて来たとか、ベビーファットがすごい勢いで取れていっていると感動していました。実際に別人でして、写っているのは監督の愛娘マリアさんです。

2006 by Babel Productions, Inc. All Rights Reserved
# by kouchiyama-simone | 2007-04-30 23:39




ページの上へ