ペーパーバックの数が増えていく TEXT+PHOTO by 片岡義男

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47 一九六十年代の五冊のミステリー

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 ニコラス・フリーリングの一九六十年代の作品が五冊ここにある。作品の数はもっと多いが、僕のところにあるペーパーバックの山のなかから見つけたのは、ひとまずこの五冊だ。五冊ともバランタイン・ブックスからペーパーバックになった。ほぼリアル・タイムで手に入れ、そのたびに気になっていたのだが、いまにいたっても読んではいないまま、こうして五冊を眺め、そのことを楽しんでいる。
 年間最優秀ミステリー長編で、一九六七年度のエドガー・アラン・ポー賞を獲得した作家だ。二十代の前半から後半にかけて、ニコラス・フリーリングのような作家のミステリーに夢中になっていたなら、その後の僕はひょっとしてミステリー作家をめざしたかもしれない、などといま僕は思う。めざすのは勝手であり、ミステリー作家になれたかどうかは、まったくわからない、なんとも言えない。
 書き手のひとりとしての進むべき方向に関して、二十代に熱心におこなう読書によって、ほぼ決定的な影響を受けるというようなことがもしあるなら、読まなかった本、あるいはどんな本にせよとにかく読まなかったそのことによっても、決定的と言っていいほどの影響を、書き手という種類の人は受けるのではないか。
by yoshio-kataoka | 2006-11-27 11:24

46 利己心という徳行

b0071709_10381086.jpg アイン・ランドのこの本が、自分のペーパーバックのコレクションのなかにあるのを確認するのは、たいへんにうれしい。『利己心という徳行』という彼女の著作の、一九六四年のシグネット・エディションだ。二十代なかばの自分がこの本も買った事実を、まずは喜びたい。まずはとは言っても、買ってから四十年がすでに経過しているのだが。
 セルフィッシュという言葉は、自己本位な、利己的な、わがままな、といった意味の形容詞だ。それの名詞型が、この著作のタイトルにある、セルフィッシュネスだ。肯定的な意味はほとんどないように思われているが、アイン・ランドによれば、これこそが人にとってもっとも重要な、倫理的な規範なのだ。
 利己心とは、自分にとってもっとも重要だと自分が思うことを、徹底的に追求してやまない姿勢を意味している。自分にとってもっとも重要なことをかたわらに置き、自分の外のどこかにすでにずっと以前からある規範に身を寄せるという生きかたのなかに、いったいどんな倫理的な規範があり得ると言うのか、とランドは主張してやまない。
 人がこの世を生き抜いていく営みにとって、立脚点となり得る唯一のリアリティは倫理的な規範であり、自分の関心や興味、方針などを、合理という論理のなかでどこまでも追求することをとおしてのみ、それは生み出されてくる、とランドは説く。そしてこのような生きかたを可能にするためには、およそ考え得る最大限の自由がないと、どうにもならない。だからアイン・ランドは、これこそがアメリカの神髄だと言っていいほどの、もっともアメリカ的な自由を信奉する人だ。
 自分にとっての最大の関心事を徹底的に追求するにあたっては、常にその人はそれを邪魔したり妨害したりする力と、可能なかぎりどこまでも戦わなくてはいけない。そしてその戦いは合理という論理のなかでおこなわれるのだから、追求してやまない利己心は、徹底した社会化の過程をくぐり抜けていく。この世を生き抜いていくにあたって、人がなんらかの価値を生み出すのは、唯一このようにしてであるというのが、アイン・ランドの提唱したオブジェクティヴィズムだ。副題にあるとおり、これはまさに、「エゴイズムの新しいとらえかた」だ。
 アイン・ランドの考えかたは、完璧に新しいものではないし、画期的なものでもない。アメリカにはその創世の時からすでにある、したがってもっとも古い自由主義だ、と言っていい。もっとファナティックな自由主義がいちばん古いとするなら、合理という論理のなかを人が生き抜いて生み出す徳行としての価値、などと厳しい条件をつけるランドの自由主義は、アメリカで二番目に古い自由主義だということになる。
by yoshio-kataoka | 2006-11-20 10:41

45 「即興的散文」とはなにか

b0071709_2283752.jpg ペンギン・ブックスが自分のところからすでに刊行されている数多くの作品のなかから、「エッセンシャル・ペンギン」として四十冊を選んで出しなおしたとき、ジャック・ケルーアックの『オン・ザ・ロード』には、このような装丁があたえられた。一九九十年代の後半のことだったと記憶している。『路上にて』はこうもなり得るのか、と思いながら買った。その当時の感覚で見て、これはいまふうのデザインの一例だったのだろう。よく見ると描かれている自動車は一九五十年代のものだ。この版はいまでも手に入るようだ。
 サル・パラダイスとディーン・モリアティというふたりの青年が、アメリカを放浪者のように旅をしていく様子を描き出したケルーアックの文章は、「スポンテイニアス・プローズ」と呼ばれた。「即興的散文」だ。放浪の旅という体の動き、そしてそれにともなう思考や感情の動きを、動きのままに文章へと移し替えていく。文章だけが興にまかせて垂れ流されるのではなく、文章よりも先にまず体の動きがあり、それにともなって必然的に起こってくる思考や感情の動きが、それに続く。自分が体験していくそのようなさまざまな動きに対して、自分が忠実なままであるかぎり、文章も動きをそのままに写し取る。「即興的」とは、そのような意味だ。ケルーアックが『路上にて』で試みた文章は、体の健康さのようなものが忠実に反映された、きわめて健全なものであり、すこやかですらある、と僕は感じる。
by yoshio-kataoka | 2006-11-14 22:10

44 気になるペーパーバック 2

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 一九六一年に出版されたウォーカー・パーシーの処女作が、一九六二年にポピュラー・ライブラリーからペーパーバックになったものが、写真の左にある。これを僕が手に入れたのは、一九六二年あるいはその次の年だった。それ以来ずっと、このペーパーバックが気になっている。そしてこれもまだ読んではいない。
『ザ・ムーヴィー・ゴーアー』という題名にも惹かれるものは強くある。映画へいく人、つまり映画を見る人だ。一九六二年度ナショナル・ブック・アウォードの、小説部門での入選作だということだが、そのことはあまり気にならない。気になる理由の最大のものは、デザインとそれが生み出す雰囲気だろう。デザインが外見だとすると、雰囲気とは明らかに内面だ。デザインという外見から想像する内面、とでも言えばいいか。
 主人公のビンクス・ボリングという男性の現実は、映画のなかにある。映画館へ通っては、何本もの映画を次々に見るのが、彼の現実だ。スクリーンという平面に映写される光と影と色彩のなかに、彼は生きている。その彼の日常のなかに、美人の従妹ケイトが、かかえている問題とともに、ある日のこと突然に、割り込んでくる。彼女との関係という、彼にとってはまったく新たな現実のなかで、ふたりはともにいくつもの変化をくぐり抜け、最後のクライマックスでは、彼と彼女のどちらにとっても、救済のように作用する地点へと到達する、というような内容であるようだ。物語の展開する場所はニューオルリンズだ。
 写真のなかで右側にあるのは、このおなじ作品が、一九八二年にエイヴォンからペーパーバックとして再刊されたときのものだ。「南部作家シリーズ」のなかの一冊だった。表紙絵のなかには、映画館の前に立つ男性ひとり、描かれている。主人公の絵解きだと思っていいだろう。一九六二年のウォーカー・パーシーにとっては、『映画へいく人』が唯一の作品だったが、エイヴォンの版が出版されたときには、『映画へいく人』の他に三つの作品が、その裏表紙に記載してあった。その三冊とも、エイヴォンからペーパーバックになっているという。僕は持っているだろうか。探さなくてはいけない。
by yoshio-kataoka | 2006-11-06 19:28

43 気になるペーパーバック 1

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 僕が持っているペーパーバックの山のなかに、見るたびに気になるペーパーバックが、何冊もある。作家が作品を書き、それがペーパーバックというかたちになっているのだから、本来なら、気になる作家、と言わなくてはいけないのだろう。しかしいったん作品になれば、それは書き手を離れて独立するのだから、気になる作品、という言いかたがもっとも正しいはずだ。そしてその作品は、いまこでは仮にペーパーバックになっているのだから、気になるペーパーバック、ということになる。
 デイヴィス・グラッブという作家の、仮に翻訳するとして『狩人の夜』という、背丈の低いデル・ブックの、一九六三年の新版。そしてクレスト・ブックで一九六二年にペーパーバックとなった、『ザ・ウォッチマン』という作品。山のなかに見落としているほかの作品が、さらに一冊くらいはあるかもしれないが、デイヴィス・グラッブの気になるペーパーバックは、いまのところこの二冊だ。
 表紙や裏表紙に印刷してある書評の引用や宣伝文句によると、どちらの作品も、戦慄に身が震える、恐怖に心が凍てつく、といったすさまじいサスペンス小説であるようだ。ただし、単なるよく出来たサスペンス小説ではなく、戦慄や恐怖にはただならぬ深みが用意されていて、その深みの底ではグロテスクなものと真実とが、渾然と一体になって悪を体現している、というような小説世界なのではないか。
 それほど気になるなら読めばいいのだが、読まないままにこうして気にしては、写真に撮ったりしているという読書も、あるのではないか。
by yoshio-kataoka | 2006-11-01 12:27




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