ペーパーバックの数が増えていく TEXT+PHOTO by 片岡義男

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39 戦争小説の表紙絵くらべ

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 ポピュラー・ライブラリーのペーパーバックから、戦争小説だけを抜き出し、そこからほとんど無作為に六冊を選んでみた。少なくともある時期までのアメリカでは、なんらかのかたちで戦争を主題にした小説が、数多く出版されていた。なんとかして戦争と折り合いをつけよう、としていた社会がそこにあったのではないか。いまでは折り合いどころの問題ではない。そんなものはどこかへ吹っ飛んでしまった。
 写真のなかでいちばん左にあるのは、一九六三年に出版されたもので、背景となっている戦場は南太平洋だが、あとはすべてヨーロッパ戦線の物語で、一九五十年代の作品だ。ただし右から三冊目は短編集で、書かれた期間は一九四五年から一九四九年にまたがっている。ヨーロッパ戦線の物語の表紙絵には、『プライヴェット』を別にすると、どれにもアメリカの兵士たちとともに、女性が描かれている。どの女性もイタリーの人ではないか。ソフィア・ローレン、シルヴァーナ・マンガーノ、エレオノラ・ロッシ・ドラーゴといったイタリー女優の亜流のようであり、その意味では表紙の彼女たちはひとりの女性だと言ってもいい。
by yoshio-kataoka | 2006-09-29 21:44

38 ブローティガンの薄いペーパーバック

b0071709_2046660.jpg『アメリカの鱒釣り』のこのペーパーバックを、僕はホノルルのダウンタウンの雑貨店で買った。店の奥に本の棚があり、そこでこのペーパーバックを見つけた。レシートがページのあいだにはさまったままになっている。一九七二年五月八日。デルという出版社の、ローレル・エディションというシリーズだ。初版は一九七二年の二月だ。本体のこの薄さと、本文の活字の小ささが、雰囲気のある調和をかもし出している。そんなことがペーパーバックでまだ可能な時代だった。最終章の「マヨネーズの章」と、その前の「マヨネーズの章のプレリュード」は、何度読んでも飽きない。ブローティガンに六本木のバーで会ったとき、このマヨネーズの話をしようと思いながら、僕は忘れてしまってそれっきりとなった。残念な失敗だ。
by yoshio-kataoka | 2006-09-25 20:49

37 ローレンスとともにアラビアで

b0071709_10145424.jpg 自分では完全に忘れていたけれど、ローウェル・トーマスの『ローレンスとともにアラビアで』のペーパーバックが、買ってあった。著作じたいは一九二四年のものだが、ポピュラー・ライブラリーというペーパーバック出版社の、背丈が高くなってからのポピュラー・スペシャルというシリーズのなかの一冊だ。一九六一年の版だ。六十年代のおそらく前半に買ったのだろう。まだ持っていないものは基本的にはすべて買う、という方針で買ったものを後年に点検すると、思いがけないものがあって楽しい。これは確実にそのなかのひとつだ。こんなものもあるんだよ、という自慢の種だ。第一次世界大戦のさなか、新聞記者だった著者がエルサレムでローレンスと偶然に会うところから、「アラビアのローレンス」の物語は始まっている。
by yoshio-kataoka | 2006-09-20 10:16

36 ロバート・フロストのベスト詩集

b0071709_1830297.jpg 韻律は魔法みたいなものだろう。どう使うかによって、そこになにが生まれてくるかが、決定されていく。どう使うかとは、使うその人が、どのような人なのか、ということだ。詩はヴォーカルなものだと思う。黙読しても頭のなかでは言葉がリズムを作っている。
 ロバート・フロストの詩は、アメリカン・ヴォーカルの原点だ。英語による作詩の型を守りながら、彼はアメリカの言葉を韻律をとおして解放した。存分に生きて活動している体の機能としての言葉が、アメリカン・ライフの底に横たわるものを拾い上げてつなげていくと、ごく普通のなんでもないものが、すさまじく密度を高められ強化されて、過去と未来とを同時に透視する予言のようになる。
 写真にある『ロバート・フロスト詩集』は、ポケット・ブックスという出版社が出していた、カーディナルというシリーズのなかの一冊だ。僕がこれを買った日付が、扉の前のページに鉛筆で書いてある。一九五四年三月十一日。八冊の詩集のなかから選んだベストを、一冊にまとめたものだ。本文のなかには挿絵がたくさんあり、それらは微妙に淡い美しい緑色で印刷してある。部屋のなかを歩きまわりながら、このペーパーバックのなかの詩を、僕は何度も朗読したものだ。フロスト自身のリーディングをLPで聴いたときには、心の底から驚嘆した。
by yoshio-kataoka | 2006-09-15 18:38

35 渡るべき多くの河

b0071709_1058017.jpg 一九五五年の西部劇に『渡るべき多くの河』という作品があった。日本で公開されたのは一九五六年だったという。ヴィクター・マクラグレン。ロバート・テイラー。エリーナ・パーカー。僕は見ていないが、日本語題名の良さで記憶している。そしてその題名は、英語の原題をほぼ直訳してそうなったものなのだということを、ゴールド・メダルの一冊として出たペーパーバックで、僕は知った。ここにあるのはその一九六三年版の表紙だ。表紙もなかなかの出来ばえではないか。
 一九五五年に『アーゴシー』という雑誌に発表した短編ないしは中編を、著者のスティーヴ・フレイジーが長編へとアダプトしたものだという。スティーヴ・フレイジーは西部劇小説のペーパーバックでしばしばその名を目にしたひとりだ。あるとき古書店に大量に引きとってもらった西部劇小説のなかに、スティーヴ・フレイジーの作品もたくさんあっただろうと思う。まぎれ込んで残っていたものが何冊かあった。そのなかの一冊、『ランデヴー』も、表紙を写真に撮ってみた。この場合のランデヴーは、指定集合地、といった意味だ。この表紙もいい。絵は裏表紙までまわり込んでいる。だから表紙を左右に開いた様子も、写真に撮った。表紙の良さだけで選んだ西部劇小説を、売らずにとっておけばよかった、といまになって僕は後悔している。
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by yoshio-kataoka | 2006-09-11 11:16

34 コミック・ブックの良き伝統

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『オクトーバー・カントリー』と対になるような、『秋の人々』というタイトルのペーパーバックだ。レイ・ブラッドベリーの短編が八編、「コミック・ブックの良き伝統にのっとって」、駒割りで絵と台詞そしてキャプションで展開するコミックスとなっている。一九五二年から五三年にかけて、E.C.コミックスに掲載されたものだ。本のかたちで一冊にまとまったのは、この一九六五年のバランタイン・ブックスが最初だった。ペーパーバックのページを横置きにして、その長方形のスペースに駒が収録してある。アダプテーションをした人として、アルバート・B・フェルドスタインの名があげてある。
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「私も時代の子です」というワン・センテンスで始まる前書きのような文章が面白い。「時代の子」とは、コミック・ブックスを読んで育ち、ラジオを聴いて育った、という意味だ。そのようにして育ったからこそ、いま自分はこうして作家なのだ、とブラッドベリーは言いきっている。
 彼は一九二十年にイリノイ州のウォーキーガンに生まれている。「時代の子」としてコミック・ブックスやラジオの連続ドラマに夢中になって過ごしたのは、前書きによれば一九二八年から一九三八年までの期間が中心になっている、ということだ。彼の作品が最初に活字になったのは一九四十年のことだ。
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 E.C.コミックスの怪奇サスペンスや恐怖ファンタジーなどのコミック・ブックスからは、僕も大きな影響を受けているはずだ。八、九歳から十八、九歳くらいまでの期間、夢中になって読むものといえば、E.C.コミックスだけだった。読んだものはすべて、ベッドの下に大量に保管してあった。ベッドで寝ている僕の下には、ありとあらゆる怪奇や恐怖のファンタジーやサスペンスが、積み重なっていた。
by yoshio-kataoka | 2006-09-04 16:29




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