ペーパーバックの数が増えていく TEXT+PHOTO by 片岡義男

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33 モーターサイクルとモビー・ディック

b0071709_13375580.jpg 「モーターサイクルとは主として知的な現象である」とこのベストセラーの著者は言う。正しく機能するようにメインテナンスされた一台のモーターサイクルは、燃料と電気それにオイルさえあれば、その内部に推進力という力を持つ。そしてその力は、モーターサイクルという機械を作り上げた、理性そのものなのだ。だからモーターサイクルという機械を、正しい態度で正しくメインテナンスするなら、その人はモーターサイクルという理性の過程の一部分となり、そのことをとおして心の平静さに到達し、そこに真の自分を見ることが出来る。自分を見つける男の話を、モビー・ディックのアナロジーとして、このような一冊の本へと書き上げることもまた、著者にとっては自分の発見だったのだろう。
 僕が持っているバンタム・ブックスの、一九七六年第十五版の表紙はつまらないデザインなので、裏表紙にある絵を写真に撮ってみた。自己発見の旅というものをわかりやすい絵にするなら、こうもなるだろう。
by yoshio-kataoka | 2006-08-28 13:39

32 写真に撮りやすいこの三冊

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 デル・ブックスの背丈がまだ十六センチだった頃のペーパーバックだ。二冊が一九五八年、そしてもう一冊は一九六十年のものだ。発表されたのはもっと以前で、一九三十年、一九四八年、一九五二年だ。三冊とも厚さは二センチ。小さな活字でびっしりと組んであるから、日本語に訳せばどれも四百字詰めの原稿用紙で千枚を軽く越えるだろう。どの作品も植民地時代からそれに続いた開拓期を背景にして、勇気と実行力のある男たちを描いている。
 読み始めたら面白さに引き込まれ、二百年、三百年前のアメリカを、文字のなかに彷徨うことになるのだろうな、とこの三冊を手にするたびに思う。一九六十年代の初めに手に入れたと思うから、すでに四十年が経過している。三冊を続けていっきに読むなら、それぞれの作品から受ける感銘が僕の内部で共鳴し共振し、三冊分をはるかに越えて大きくなるのではないか、などといまは思う。こういう段階も読書のうちだろうか。
 題名は見事に三題話だ。ロング・ライフルで新たな夜明けを迎えればそこには豊穣の地が待っている、というわけだ。どの表紙絵のなかでも、男が銃を持っているところが、この三冊をならべて写真に撮るとき、たいそう撮りやすいものにしてくれている。
by yoshio-kataoka | 2006-08-25 17:01

31 男から男へと口移しで

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 アメリカの雑誌『プレイボーイ』に連載された「パーティ・ジョーク」を、何冊ものペーパーバックにまとめたものだ。いまでも連載されていると思う。累計は膨大な数だろう。パーティで男から男へと口移しで伝承されていく、性的な意味合いを大きくもった、笑いを誘うひと口話だ。日本語だと艶笑小咄だろうか。お色気コント、ピンク・ジョークなど、時代によって言いかたは変化した。いまはもう絶滅した領域だろう。
 五冊だけ見つけ出すことが出来たので、その五冊を写真に撮った。すぐあとで一冊、手に入れることが出来た。古書店の店の外に出してある棚で見つけた。二百円。東京の古書店の店先で、いまでもこのようなペーパーバックが、一冊にしろ手に入ることに感銘を受けた僕は、一冊増えて六冊になったのも、写真に撮ってみた。五冊と六冊では撮りかたを変える必要があった。
 ジョークとともに、『プレイボーイ』に掲載されたカートゥーンも、収録してある。「パーティ・ジョーク」のキャラクターとも言うべき、黒いストッキングの女性が、本文のなかにさまざまな姿態で登場する。この女性を描いたのはリロイ・ニーマンだ。
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 雑誌『プレイボーイ』はプレイボーイ・プレスという出版部門を作り、そこからこの『パーティ・ジョーク』のようなペーパーバックを刊行した。雑誌にとってひとつの柱であったいくつもの読み物で構成した、『ザ・ポケット・プレイボーイ』というペーパーバックも出版された。何号まで出たか僕は知らないが、第二号があったのでそれも紹介しておこう。水着ないしはそれに類した服装の美人が、その体で作ってみせる「バニー」の、きわめて標準的なタイプが、表紙を飾っている。一九七三年のペーパーバックだ。
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by yoshio-kataoka | 2006-08-21 11:41

30 レナード・コーエンの隠れファンとは

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 レナード・コーエンのミュージック・カセットがふたつ、なぜか僕のところにある。『愛と憎しみの歌』と『ひとり−部屋に歌う』だ。ナイス・プライスと称した廉価・省略版だから、収録してある曲数はLPよりも少ない。「そのほうが楽に聴けていいですよ」と言った人がいた。あれは誰だったか。そう言うからには、レナード・コーエンをかなりのところまで、聴いていた人だったか。
 ペーパーバックの山のなかに、レナード・コーエンの作品を三冊、見つけることが出来た。三冊ならべて写真に撮ってみた。まんなかにあるのは詩集で、『大地の薬味入れ』と日本語では呼ばれているようだ。新幹線で京都へ向かう途中に読んでみよう。京都に着いてから、なにが自分のなかに残るか。
 二冊の小説はどちらも評判になったらしい。登場人物が配置され、彼らの物語が始まるべくして始まり、三ページ目あたりで早くも展開に引き込まれていく、というような一般的な意味での小説ではないから、読むのは大変だと僕は思う。コーエンがひとりで気持ちも体力も集中させて喋り続けるような書きかただ。次々に出て来る言葉のひとつひとつにかけた彼の執念と粘着力に、読者はまずはつきあわないことには、読み進むことが出来ない。ときどき面白いことが書いてある。
 ジェニファ・ウォーンズが一九八六年に作った『よく知られた青いレインコート』というLPを、ごく最近、中古の店で手に入れた。七百円だった。コーエンの作った歌だけで構成されているLPだ。まずはこれから聴いてみようか。そしてソング・ブックも探せば自宅のどこかにあるはずだから、それで譜面を読もうか。そしてカセットを聴いて、詩集を読んで。最後に小説だ。日本にはコーエンの「隠れファン」が多い、とジェニファのLPのライナーに書いてある。コーエンの「隠れファン」とは、いったいどのような人たちなのか。
by yoshio-kataoka | 2006-08-14 18:03

28—29 十三歳の少年の一人称で

b0071709_1743958.jpg 東テキサスに設定されたデューモントという架空の町での、一九五八年の出来事が、十三歳の少年の一人称で語ってある。最後のエピローグのような部分にさしかかると、そこでは彼は三十代なかばで、結婚して仕事を持ち、両親はすでに他界し、デューモントを離れているが、物語の大部分は十三歳の主人公の一人称で語られ、展開していく。一人称による物語の記述に興味のある人には、十三歳の少年というところに、いくつもの面白さを見つけることが出来るだろう。
 もう何年も前にこのデューモントで、ふたつのまったく関係のない殺人が、偶然にも同時に引き起こされた。殺人だったとは気づかれないまま、どちらも経過していった時間の底に埋もれ、未解決のまま町の人々からはほとんど忘れられた出来事となっている。日常生活のなかのほんのちょっとしたことから、このふたつの出来事へやがては到達するはずの最初の一歩を、少年は踏み出してしまう。ふたつの殺人の真相に、彼はどこまで接近することが出来るか。少年の一人称を支え、その語りを推進させていくサスペンスが、そこに発生する。
 ふたつの殺人のどちらもが、具体的な事実関係をそれぞれに持っていた。真相とはその事実関係であり、それはどちらの出来事においても、ひとつしかない。存分に時間が経過したあと、数少ない、しかもどれも小さくて断片的な手がかりを積み重ねる作業をとおして、殺人として現実に存在した事実関係に、どこまで迫ることが出来るか。推理によって組み上げた真相の構造が、現実にあった事実関係の構造と、どこまで合致するか。おそらくこうだったのだろう、とひとまずは言いきっていいぎりぎりのところまでは、到達することが出来る。
 ふたつの殺人に関して、その真相をすべて明らかにすることは出来ない、という方針で書かれている。正解はそれしかないだろう。手がかりがどこにもなく、しかも事実関係はとっくに消えているのだから、真相など明かしようもない。ふたつの殺人のうちひとつは、かなりのところまで解明される。そしてもうひとつは、全体像がぼんやりと浮かんだところで、物語は終わりとなる。かなりのところまで解明される殺人は、その出来事の構造が単純であるからだ。そしてその殺人事件は、一九五八年東テキサスの小さな町に生きた、最底辺と言ってもいいほどに貧しい人の側に、振り当ててある。ごく曖昧にしか解明されない殺人のほうは、その町でいちばんの金持ちの側の出来事として、物語が作ってある。作者によってここに対比が意図されているようだ、と僕は思う。
 殺されたのはどちらの場合も女性だった。遠い昔の殺人の真相が解き明かされるとは、彼女たちを殺したそれぞれの人たちが、なぜ殺さなければいけなかったのか、その理由が明らかになることにほかならない。どちらの殺人においても、殺した理由は、自分のありかたをそれによって支え、補強し、出来ることなら増幅もしたいという、エゴにかかわる問題だった。東テキサスの小さな町、という限定された時空間のなかに、ふたとおりのエゴが対比されて描かれている。読み終えて半年後のいま物語を振り返って、僕はそんなふうにも感じている。
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by yoshio-kataoka | 2006-08-08 17:29

27 人称語を題名にして五百万部

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 一九七十年にHerというタイトルで第一作がバンタム・ブックスから刊行された。いつまで続き何冊が刊行されたのか僕は知らないが、手もとには写真の八冊が残っている。Herの次はHim、そしてI、Me、Them、Us、Youと続き、おしまいのほうではTwoやWomanといったタイトルになったようだ。著者はアノニマス、つまり匿名という人だ。
 内容はソフトなポルノグラフィと言っていいだろう。男と女のさまざまな組み合わせのなかに、肉体の関係と同時に感情の関係の可能性を模索する、というような方向かと思うが、男は男としてきわめてはっきりと、もはやこれ以上にはどうにもならないほどに男として硬化したありかたであり、女性のほうも負けず劣らずだから、どんな関係を想定しても、そしてそこにどのような感情の物語を組み立てても、決定的な退屈さは最後までつきまとう。
 Usの一九八一年、十三刷りの裏表紙には、このアノニマスのシリーズは五百万部を売ったとうたってある。日常の現実のなかではなかなか作れない関係でも、小説のなかにはいくらでも作ることが出来る。ヴァリエーションの少ない関係の内部に固定されていた多くの人たちが、関係の多様性を夢見て、このアノニマスのシリーズを読んだのだろうか。
by yoshio-kataoka | 2006-08-04 16:16





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