ビーチサンダル・クロニクルズ TEXT+PHOTO by 今井栄一

018【聖地その3 Bali, Ubud】

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 バリ島の人々は言う、「海には魔物が棲んでいる」。
 バリニーズ(バリ人)にとって「海は悪い場所、魔物が棲む世界」であり、反対に「山は聖なる地、神々が棲む世界」だ。
 30年前、40年前のバリ島を知っている友人がいて、彼はこう言う。「当時は、クタやレギャンに行っても、海に入っているバリニーズはまずいなかったよ。海は、恐れる場所だからね」
 漁師たちは? と僕は訊いた。
「バリにも、カースト制度がある。インドほど強烈なものではないけれどね。もともと漁師はカーストの低い人たちの仕事だったんだ。位の高い人たちは海には寄りつかない。そこは悪魔が棲み、汚れた心が漂う世界だから」

 今は、バリニーズもサーフィンをする。クタやレギャンに限らず、バリ島のどこでも、若者たちは海に入るし、子供たちは海辺で遊ぶ。もはや海は「近寄りがたい魔界」ではなく、「近所の遊び場」になった(物売りにとっては、そこは大切な商売の場所だ)。
 バリ島は、ずいぶん昔から他のアジアの島々や、アフリカ東海岸域からの影響をたくさん受けてきた。バリ島の漁の方法や船のスタイルを見ていくと、そこには様々な異文化の混在が確認できるという。
 だから、「海は魔物の世界」とは言っても、ずいぶん昔から、海に入っている、海で仕事をしている、という人々はいたようだ。ただ、寺の僧侶をトップにしたカースト的バリニーズ界では、海は「近寄りたくない場所」とされていた。

 前述の友人。彼は、1960年代末から70年代初頭にかけ、米国西海岸で学生時代を過ごしていた、僕よりずいぶん年上の友人だ。過ごした年代、時代、世界はまったく違うけれど、僕らは親友である。
 彼は、ウッドストック世代であり、ビートの本を手に、インド・ゴアやアフガニスタン・カブールなどを「旅の聖地」として巡り、世界中を旅していた。そう、「あの時代の旅人」のひとりなのだ。彼が初めてバリ島へ訪れたのは、1972年。
「クタの一部にしか、まだ電気は通ってなかったし、水道がない宿が当たり前。ウブドなんて、電気は一切なかったし、電話なんてゼロ。道路はどこも田んぼのあぜ道みたいなもんだったよね」
 アマン・グループやフォーシーズンズのホテルを知っている世代からするとにわかに想像もつかないが、それはわずか30〜40年ばかり前のことだ。
「初めてバリ島に着いたときのことは忘れられないね」と彼は述懐してくれた。
「ヒッピーバスに俺たちは乗り込んで、みんなで海辺をめざしていた。深夜中走り続け、明け方、黒砂の浜辺に到着したんだ。クタビーチだったけれど、まだクタなんて名前も知らなかった。バスの中ではみんなでジョイントを吸いまくっていたから、どいつもこいつもストーンしていた。バスを降りると、ちょうど夜が明けようとしているところだった。俺たちは裸足で黒砂の上に降りた。クタビーチの海沿いには、その頃はまだ何も建物なんてなかった。ずっと田んぼだけ。田んぼが終わると浜辺だった。ひとつだけ、バンジャール(バリ各地に必ずある、村や町の集会所)があって、そこに村人たちが何人か集まっていた。俺たち白人ヒッピーが10数人、ドヤドヤとヒッピーバスから降りると、どこからかひとりの老人が現れて目の前に立った。彼は、僧侶だった。彼は俺たちをひとりずつ自分の前に立たせると、ひとりずつに向かって何かお祈りを唱えてくれたよ。バリ語だから何を言っているかなんてわからない。ストーンしていた俺たちは一瞬にして醒めて、みんな恐縮したし、でも、なんだか心が清められているみたいで、実によい気分になれた。あれは、素晴らしい瞬間だったな。そうやって、俺たちヒッピーはバリ島に迎えられたんだ。髪の毛もヒゲも伸ばし放題、汚い格好をした俺たち白人を、僧侶もバリニーズも、何の差別もなく受け入れてくれた。“ああ、ここは楽園に違いない”ってオレは思ったし、すぐにこの島を大好きになったんだ」

 彼は言う。「バリ島は、地球上の聖なる場所のひとつだ」。
 僕は何度も彼と一緒にバリ島を旅した。島全体について「聖なる場所だ」と彼が言うこともあったし、島の何処かで「ここは聖地なんだ」と言うこともあった。たとえば、アグン山。実際、アグンは、バリニーズにとっての「聖地」でもある。そこにはバリ島で一番重要な神が宿り、重要な寺があり、大きな力が備わっているという。バリニーズたちは、アグンに向かって心の中でお祈りをするのだ。
 アグンは、美しい山だ。雨季には低く垂れ込める雲に隠れてあまり見えないが、乾季に訪れると、いろんな場所からよく見える。南半球のバリ島は今、乾季である。

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 何度も訪れているバリ島で、こんな風景が心に残っている。もう、かれこれ10年前のことだ。

 僕はウブドのはずれにある、小さなロスメンに滞在していた。ロスメンというのは、B&Bというか民宿というか、朝食が付く安い宿のことだ。今、そのロスメンはコンクリートの壁にセキュリティされた、ずいぶん立派なコテージハウスに変わってしまったけれど、当時は人も風も犬も猫も「通り抜け自由」という感じの安宿だった。
 多くのバリの宿がそうであるように、2階にベッドルーム、1階には吹き抜けになったリビングルーム、その奥にバスルームがあった。目の前は、田んぼ。いわゆるライス・フィールド、水田である。
 夕方、そのライス・フィールドが美しい色のショーを見せてくれる。バリ島の稲作は三毛作が基本だが、目の前の水田は、お百姓さんが毎日苗を植えている時期だった。毎日、毎日、数人のお百姓さんたちが、家族総出という感じで、夫婦や友達、子供も一緒になって、朝早くから夕方まで、水田に稲の苗を落としていた。バリ島には昔も今も「協力し合う」習慣があって、苗を植える水田があると、周りの別の水田の農民たちも手伝いに馳せ参じる。お互いにそれは行われる。そう、自然に習慣化されたギヴ&テイクだ。
 赤道直下のバリ島のサンセットは早い。乾季なら、だいたい6時半頃だったろうか。その1時間ほど前から、空の色がゆっくり変わりだす。光の変化に伴い、水田の表面の輝きも変わっていく。日中、青い空と雲を鏡のように映し混んでいた水田は、夕方にはオレンジ色に変わり、やがて水面が深紅に染まっていく。ほんとうに、ほんとうにきれいだ。太陽がついに西の山の向こうに沈むと、赤が急激にフェイドアウトしていって、紫や藍色がさーっと水面を覆う。空にはまだ明るさが残されているのに、水田の水の色はいつかし漆黒にも似た、影のような、ダークカラーになる。空はまだほんわり明るい、その下には、黒い影になった水田の広がり。絶妙なコントラストだ。
 その頃には、お百姓さんたちは1日の仕事を終え、帰路につこうとしている。そのすべてが見渡せる1階の吹き抜けのフロアの座布団の上に座り、僕は見ているのだ。
 5人、6人くらいの大人たち、その前や後ろに、遊び半分であぜ道を駆けていく子供たちの姿がある。サンセットの少し前に彼らはすっかり帰り支度を終えているわけだが、とうとう陽が暮れたかどうかという瞬間、彼らは必ずーーそう、それは毎日、毎日、必ずなのだーーふと立ち止まる、田んぼのあぜ道の途中で。そして、夕焼け空を見やり、そっと頭を下げるのだ。ゆっくり頭を下げ、また上げると、そこには何とも言えない満足感に満ちた、穏やかな笑顔がある。「今日も1日、どうもありがとうございました」・・・まるでそう言っているような、誰かにーーアグンに? それとも空に? 太陽に?ーー彼らは一礼を捧げることを忘れない。

 僕が感じたのはーーあくまで僕の個人的な感じだがーー彼らはきっと、目の前のその美しい風景すべてに対して、「ありがとう」と言っていたのではないかと思う。そう、万物、森羅万象への感謝の気持ち。
 ああ、なんて美しいんだろう・・・! 僕はその風景を見てそう思った。たぶん、何度かは涙さえ流したと思う。バリニーズのお百姓さんたちの、自分の島=土地への想いが僕の心の中にもすーっと入ってきたような気がした。この風景が僕をバリ島にぐっと近づけてくれたと思う。もちろん僕には決して超えられない壁を知ったわけだが、そのことで僕はこの島を大好きになった。
 今、その風景を鮮やかに思い出してみると、彼らお百姓さんたちにとってその場所はすべて、「聖地」なのではないかと思える。聖地という言葉そのものの本来の意味は知らないのだが、僕が目撃した風景はとてもスピリチュアルであったし、彼らの一連の自然な行動は、スピリチュアルなものだった。
 バリ島が聖なる場所であるかどうかはわからないけれど、あのとき、あの瞬間、僕にとってバリは確かに聖なる世界に生きる人々の土地だった。
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<今回の旅のヘヴィ・ローテ>
『BALI DUA』JALAN-JALAN
『IN A SAFE PLACE』THE ALBUM LEAF
『LE PAS DU CHAT NOIR』ANOUAR BRAHEM
『AMBROSIA』A REMINISCENT DRIVE
『NATURAL MYSTIC』BOB MARLEY

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by imai-eiichi | 2006-07-02 15:48




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