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NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長が、『アンチエイジングな日々』を
軽快な筆致でつづります。 どうぞお気軽にコメントをお寄せください。 |
先日の学会で、北島政樹元慶應医学部長が最近の手術手技の進歩について話されて感銘を受けた。
![]() 一つは内視鏡による低侵襲外科であり、今一つは癌のリンパ節転移に対するセンチネルリンパ節という概念の導入で、それぞれの患者に合わせて切除を考えると言うやり方である。 これにより、患者への負担を軽減し、しかも治癒効果を向上することができるようになったという。 数年前、王貞治監督の手術も北島教授のもとでこのコンセプトで行われ、見事復帰し花を咲かせたのは記憶に新しい。 ただこの手術は、熟練した外科医の超人的な忍耐を必要とする。 また、彼の唱える臨床に直結した研究という考えは僕も全く同感であり、又別の機会にご紹介したい。 ![]()
数日前、故大森誠一先生のことを書いて以来、故人の懐かしい思い出があとからあとから蘇ってきた。
ともかく型破りな人物で、逸話には事欠かない。 又、ムンテラの名人でもあった。 ムンテラとは、和製ドイツ語、ムント(口)テラピー(治療)の略で、患者に対する説明を意味する。 帰国後一時、大森先生の診察を見学させていただいたことがある。 形成外科では、火傷、交通事故、痣など顔の悩みの患者が多い。 ある日、外傷で顔がつぶれた若い女性が診察室に入ってきた。 座った患者を前にして、大森先生は何も聞かず、ややあって“君、今までつらかったろうな。”と語りかけた。 想いがこみ上げた患者は、激しく嗚咽しながら“ええ、“とだけ答え、大森先生の診察を受け、治療の説明に聞き入った。 手術予約しての帰り際、“先生に手術していただければ、私、死んでも本望です。” と涙を拭きながら診察室を後にした。 回診中はいつも医局員は怒鳴られどおしで、大学から実習で回ってくる医学生は、青ざめておろおろと戻ってくるのが常だった。 怒られ役のトップは現東京女子医大の名誉教授平山先生だった。 ある日、超ド級の雷が落ちた後で、大森先生は僕を自室に呼んでこう言われた。 “塩谷君、俺がなぜ患者の前で助手を怒鳴りつけるかわかるかい? ああすれば、もし手術が失敗した時は、患者は助手のミスと思うからさ。” と独特の笑みを浮かべ、こともなげに言われた。 いと辛きものは宮仕え、と思い知らされた一こまである。 前述の患者については手術場での後日談があるが、患者、医師双方の個人情報の問題もあるので、ここでは割愛する。
“よう、ノビ!元気かい?”
![]() 懇親会場の入り口で肩をたたかれ、振り向けばテキサスの形成外科の神の手、ケン・サリエだ。 彼の特技は顔の骨をバラバラにしてつなぎ合わせ、面相を自由自在にとまでいかなくても、より整ったものに変貌させる筈の「頭蓋顎顔面外科」である。 明日からスタートする「第27回日本頭蓋顎顔面外科学会」の前夜祭が、京王プラザホテルで始まろうとしていた。 僕が「第9回」の会長を務めた時、ということは1991年だが、彼を横浜に招いて、特別講演をお願いした仲だ。 その時は会場が横浜そごうの9階の会議場だったので、“俺は世界中で講演をしたが、デパートで講演したのは初めてだ”と言われたのを思い出す。 この「頭蓋顎顔面外科」、英語ではCraniofacial Surgery というが、半世紀前にフランスの天才的な形成外科医、テシエによってはじめられ、その弟子たちによって世界中に広まった。 サリエもその一人である。 彼との付き合いは長いが、丁度その頃、ミシガン大学に留学中の僕の次女は、よく僕の海外の学会出張に同伴してくれたので、サリエと夫人のルーシーとも親しい。 残念ながら今回はルーシーは留守番のようだ。 そして僕の娘は三人の子持ちで、今はニュー・ヨークに住み着いている。 ![]() 所で晩さん会のメニューだが、決してアンチエイジングな取り合わせではない。健康のために少しカロリスをと思ったが、やはり和牛のおいしさに負けて、ついつい全部平らげてしまった。 アンチエイジング・ダイエットのスタートは明日からにしよう。 ![]()
カウンター席で配偶者と料理をつまんでいると、突然後ろから若い男の子に声をかけられた。服装からみると従業員の一人のようである。
“人違いならお許しいただきたいのですが、もしや塩谷先生では?” “そうですが?” ああ、やっぱり。とほっとしたように男の子は話し始めた。 “20年ほど前、北里大学でお世話になった○○です。” “○○君?・・・” そうだ。やっと思い出した。栃木県からお母さんに連れられて、赤ん坊のころから半年に一度治療に見えた。退官した頃もまだ小さな子供だったので、名前を言われても,すぐにはわからなかったのはいたしかたない。 “あれから東京に出てきて、今はこうして働いています。” 立派になったなあ、おめでとう。 声をかけてくれて僕は本当にうれしかった。 医者と患者は一生の付き合いである。 ことに形成外科医の場合、相手が子供の場合は手術が終わっても、やはり学校を卒業し、就職、結婚するまで、自分の子供のように気になるものである。何かそこまで見届けないと、治療が終わった気になれない。 いまでもわずかだが、年に一度は診させてもらっている方もいる。また、季節の便りを毎年くださる方も多い。 実は退官して数年たったころ、過去の40数年の患者さんすべてに連絡を取って、その後の様子をお聞きし、修正手術が必要な方は責任をもって、適当な専門医にご紹介できればと考えたことがある。 全部の患者さんの記録は自分なりに保存はしてあった。しかし、コンピューターの時代と違い作業は膨大で、また、自分のクリニックがないともままならぬので、そのままになってきた。 このようにいつまでも昔の患者さんが気になるのは、一つには手術というものも“人の技”で、完璧というのはあり得ないし、どれだけ仕上げが巧くいったかよりも、どれだけいたらぬ部分が残っているかに悩むのが、“形成外科医の業(ごう)”だからである。 その故に、こうして昔の患者さんから声をかけてもらうと、ああ、この俺でも少しは人の役に立ったのだと、あらためて嬉しく思うのである。
昨日インターン時代のことを書いたせいか、半世紀前の留学生活のことがあれこれ思いだされてくる。
たった8年間のアメリカ生活である。もうそれからその5、6倍の年月がたっているのに、それよりもはるかに長く感ぜられるのは、年をとると時の進みが加速されるからか、それともその8年が一番充実した時期だったからだろうか。 アメリカに残された唯一の奴隷制度と言われた過酷な研修期間だったが、新鮮な刺激に満ちた毎日であった。 いろいろな患者との出会いもあった。 中でも一番印象に残ったのは、僕が両足を切断した、ターナー氏である。 元空軍パイロットのターナー氏は、動脈硬化による両下腿の壊疽で、両足とも膝の上で切断を余儀なくされた。 手術はチーフレジデントの僕が執刀し、70歳の高齢にもかかわらず、幸い回復は順調だった。 さすが元空軍将校だけあって、筋骨はがっちりしていた。 当然ながら義肢が必要となる。本人もそれを切望した。 このような場合アメリカの病院では、外科のほかに整形外科、リハビリ、看護部など関連各科が集まり、方針を討議する。義肢は整形、リハビリの分野である。 このようなカンファランスでは、各人が闊達に自分の意見を言う。 整形外科の部長はもう定年間近のせいか退嬰的で、何についても消極的であり、この時も高齢を理由に、両足の義肢はかえって危険を伴うと反対した。 その時である。もっと若い外科部長から雷が落ちた。 “本人がそれだけ自立する意欲があるのに、それを助けようとしないのは、あんたはそれでも医者か!” このような場では、相手のメンツよりも患者のための正論が優先する。 年かさの整形外科部長は顔をしかめて、リハビリの担当者に対応を命じた。 立派に完成した義肢を装着し、リハビリ訓練も完了したところで、ターナー氏はバーモントの自宅に無事戻った。 数カ月して、我々夫婦はターナー氏に招待を受け、バーモントの山間の自宅を訪問した。 両下肢に義肢を付けたターナー氏は、時には車いすを使い、時には松葉づえを操りながら、家じゅうを自由に動き回る。 食後、我々を見送りがてら外に出た氏は、愛車を見せてくれた。 フォルクスワーゲンを改造して、足を使わず両手だけで操作できるようになっている。 一人で器用に飛び乗って、エンジンをスタートさせ、我々を街道筋まで送ってくれた。 医者が病気を治すのではない、我々にできるのは患者本人の治癒能力をさまたげず、その生きる力を後押しすることだけだと、深く感じさせられた一日だった。
近畿大学の名誉教授の上石君が本を出版した。
「頭蓋顎顔面外科 術式選択とその実際」という、難しい名前の教科書である。 ![]() 頭蓋顎顔面外科とは英語ではクラニオフェーシャルサージャリーと言い,奇形や外傷で変形した顔や頭蓋骨をバラバラにほぐして形を復元する、最先端の形成外科である。 20世紀の中頃、フランスの天才的形成外科医、テシェによってはじめられ、現在では、微小血管をつなぐマイクロサージャリーとともに、形成外科の二大柱の一つになっている。 そして上石君はその両方の名手である。 いささか長くなるが、僕の『推薦のことば』お読みください。 「上石先生が頭蓋顎顔面外科のテキストを書かかれた。 内容は美容外科、腫瘍、外傷、発育異常、先天異常と5部門からなり、クラニオフェーシャルサージャリーから唇裂口蓋裂まで、およそ頭蓋顎顔面すべてをカバーした大著である。 上石先生は当代随一の形成外科医であり、こと頭蓋顎顔面外科関しては彼の右に出るものはいないと信じている。 彼は歯科と医科のダブルライセンスの持ち主であるが、かつてアメリカで最初の形成外科学会(アソシエーションと呼ばれる)ができたとき、歯科と医科のダブルライセンスの所持が必要条件とされた。それほど形成外科では、歯科の知識と技術が重要視された。 その後情勢が変わり、この伝統の維持は不可能になったが、ダブルライセンス保持者の優位さには変わりはない。 そして彼の学問と診療、手術に対する執念は並々ならぬものがあり、天性の器用さも兼ね備えている。彼との長い付き合いの仲で、僕はどれほど彼から学んだことだろう。 上石先生がレジデントとしてこられて間もなくの頃、ロテーション先の県立子供病院の形成外科部長だった前田華朗先生に僕はこういわれた。 “すごいですよ、今度の上石君は。” 傷跡がキレイに治るんですよ、唇裂でも何でも “ “でもそれは形成外科なら当たり前じゃない?” “いや其のキレイさがぜんぜん違うんですよ” 大学に戻って改めて彼の手術に立ち会うと前田先生の言うとおりであった。 そしてレジデントのうちから唇裂・口蓋裂外来を任され、チーフを終える頃には其の頃台頭し始めていたクラニオフェーシャルサージャリーに取り組み始めていた。当時平行して誕生したマイクロサージャリーも、彼にとっては苦もない操作であった。神奈川県下での最初の切断指の再接着は彼の手で行われた。 “形成外科とは美と血流との相克である”、と先達ミラードは喝破した。 形を整えるためには、ぎりぎりまで血流に切り込まねばならぬ。 やりすぎれば皮膚壊死を起こすが、遠慮しすぎると形がもたつく。 同様のことは顎顔面の骨切り術にもいえる。やりすぎたときの骨壊死の被害は、皮膚壊死の場合より遥かに深刻である。 その意味で形成手術は、絶対に足を踏み外せぬ“綱渡り”といえる。 なにによらず軸となる基本方針は重要である。 だが、形成外科の手術は一例一例がすべて応用問題である。マニュアル人間では勤まらない。 このテキストで彼が症例ごとの説明の展開にこだわるのは、原則をいかに現実に合わせるかのコツを示したいからであろう。 その意味で、本書は形成外科に携わるものの必読の書と行っても過言でない」 もし興味がおありでしたら、ちょっと覗いてください。 イラストは明快で、記述は簡にして要を得ている。 ただ、フォトは生々しいので、一般の方は気つけ薬のご準備を。 ともかくハチャメチャな男である、このジョン・ハンターと言う奴は。医学に多少とも関わっている方で、ジョン・ハンターを知らない方はいないだろう。 18世紀のイギリスの解剖学者、そして外科医。 僕はちょうど、アメリカならボストンのビーコンストリートあたりにオフィスを構えたハーバードのスタッフにも通ずる、気取った英国紳士をなんとなくイメージしていた。 とんでもない。社交界だけではない、医学界の慣習をまったく無視して、ひたすら解剖と手術に没頭した、型破りの男のようである。 実は今朝から「解剖医 ジョン・ハンターの数奇な生涯」を読みふけっている。後100ページだが、このまま読み続けると、夜を徹することになり、ブログにアナがあくので、小休止。 初めて聞く話ばかりで、ただ、唖然としている。 むこうは土葬である。外科医の修行や研究には遺体が必要だ、それもなるべく新鮮な奴がいい。 そこで外科医は闇社会と結託して、昼間埋葬された遺体をよる盗掘する。 ジョンにはやはり外科医のウィリアムという兄がいた。其の手先として長年遺体を調達し、また其の腕を買われて、兄の解剖学教室の手助けをする。 まだ外科医は内科医からは医師とみななされず、床屋と同列に置かれていた時代である。 勿論、麻酔も無菌法もない時代である。 当然手術は無麻酔で、素手で行われ、患者の大半は、痛み、出血、感染で死亡した、想像を絶する時代である。 内科医にしても、やることといえば、瀉血、下剤、そして嘔吐剤の三つしかなかった。 ハンターの偉いところは、既成の概念にとらわれず、自分で観察し、理詰めで対処法を考えたことである。 正統な教育を受けていなかったことも幸いしていた。(ちなみに僕も学校は大嫌いだった。もし学校教育で芽を摘まれなかったら、もっとましなことが出来てた筈だと、いまだに確信している。) 彼が近代外科学の父といわれるゆえんである。 何事でも、いつの時代でもパイオニアーは迫害を受け、イカサマ呼ばわりをされる。 僕もずいぶんこれまで、医者ともあろうものがといわれてきた。 形成外科を始めたときでも、美容外科に手を出したときも、そしてまたエステに関わったときも。さらにはアンチエイジングですら。 だが、ハンターの伝記を読むと、もっと罵声を浴びるようにならなければ、一人前とはいえないようだ。 今からでも遅くはない、これからは顰蹙を恐れず頑張ろう。 (配偶者曰く:顰蹙をかえばパイオニアーになれるわけじゃありませんよ!)
ところでより腕の良い“魔法使い”になるために、1973年に北里大学で形成外科を始めるに当たって、僕はまず次のことを試みた。
それは皆でデッサンを勉強することである。といっても、絵が上手になるのは必ずしも目的でない。 カルテに患者さんの顔や、手術操作をスケッチするから、絵はうまいにこしたことはないが、目的は観察眼の養成にある。言葉を変えれば、如何に自分の目が不正確かをしってもらうことにある。 そして、多少なりとも美的センスが養われれば、それに越したことはない。 週に一晩、専門家に指導を仰ぐ。これを三カ月続けると、結構デッサン力がつく。始めは静物画、そして最後は自画像で締めくくる。 これを毎年続けるうち、副産物として面白いことを発見した。自画像がその人の性格を暴露するものである。例えば性格的にバランスのとれた男は、やはりバランスのとれた顔を描く。ある時、頭はキレルが、はらはらするような手術ばかりする男がいた、その自画像はゴッホそっくりだった。 よし、これからは採用試験の面接に、自画像描きを入れようという話にまでなった。
美容外科を受けようかと思い悩む方達の迷いの一つに、後ろめたさという思いがあるようだ。
医師の側でも、これは医療だろうか、医師のやるべきことだろうかと、未だ割り切れぬ感じを抱く者もある。 「身体髪膚これ父母に受く」 この孔子の言葉にずいぶんと我々は邪魔をされてきた様な気がする。 「あえて毀傷せざるは孝の始めなり」、と来るからかなわない。 だから、“メスで傷を付けるのは邪道である”、という短絡的な昔の内科医の発想に繋がるからである。 元来は、親からもらったこのからだ、大事にしなさいよという至極当たり前の教えのはずなのだが。 ぼくの父も内科医として、その外科に対する偏見は共有していた。 医学部に最初の夏休み、しきたりにしたがって僕は無銭旅行に出掛けた。 二週間の放浪を終えて、帰宅すると、どうも家の中の様子がおかしい。お通夜でもないが、薄暗く静まり返っている。 すると母が出てきて、実は “お父さんが盲腸炎で危ないとこだったのよ” という。 手遅れで穿孔して腹膜炎を起こし、やっと峠を越したところだという。 “なあ、お前。今度は俺も降参したよ。” と青白い顔をして、ベッド寝たまま、うめいている。 やっと腹膜炎おさまったところで、そのころ煙突と称していた、細いゴムの管が腹に未だ刺さっていた。 そこまで手術を敬遠したわけではないだろう。唯、診療に追われ、自分のからだまで手が回らなかっただけとはよくわかったが。 父も内科医として、必要あれば抜かりなく、外科医に患者をゆだねていたわけだから。 しかし内科にとって、外科に廻すというのは、自分の治療の敗北という感じが、全くないとは言えないようだ。 その気持ちも、わからないではない。 最近では、もうそこまでかたくなに“孔子の教え”を拡大解釈する人は居ないだろう。 たとえ命に別条なくとも、機能を回復する手術も盛んに、幾らでも認められている。骨関節の手術、耳鼻科眼科、泌尿器等、癌でなければ、ほとんどが機能改善の手術と言える。 だが、形のために、つまり見栄えのために、あえて危険をおかしてまで手術を何故するかという考えは、残念だが未だ未だ多い。 それも、火傷や交通事故の傷なら兎も角、全く正常なからだにメスを入れるとは、それも虚栄心のために、けしからん話しだと考える人が未だ多いのではないか。 こうした疑問に対して、自分なりに納得の行く回答を模索をし続けてきた。 そして得た答えが、次に述べる“魔法使い論”である。 もし僕が魔法使いで、杖で一寸触って呪文を唱えれば、たちどころに美女に変身するのなら、おそらくその力を行使するのに何の躊躇もしないだろう。 ならば、魔法使いと美容外科医の違いはなんだろう。と考えた。 当たり前のことだが、我々の手術は魔法ではない。痛みは伴うし、傷は付けるし、そして結果も何時も100%とはいかない。せいぜいのところ、7、80%といったところだろうか。 とすれば、もし“変身願望”を認めるなら、そしてメスでコンプレックスを解消するのが医療としての美容外科なら、なにも疚しさはないはずだ。 その不完全さだけが問題で、それをより完全に近くすべく努力するのが務めである、とこういうことになる。 ぼくはこうして自分のしていることに懐疑的になるたびに、“魔法使い論”に立ち戻って、躊躇う心にむち打ってきた。だが正直なところ今でも、完全に納得したわけではない。
僕はブログのほかに、NPO法人アンチエイジングネットワークと、これもNPO法人創傷治癒センターの二つのサイトを管理している。
両方とも一番アクセスが多いのはFAQとカウンセリングであるが、一番の悩みはネット上のカウンセリングの限界である。 一般的な質問なら良いが、多くの場合は患者の個人的な問題が多い。つまり拝見しなければ具体的な答えはしにくく、回答は一般的なものにとどまり、その先は専門医の診察を受けてというコメントになってしまう。 もっと困るのは、明らかに医師の不手際か、不勉強とおもわれる場合である。 自分が診察しないで、口出しするのははばかれるし、何かそれなりの理由もあったかもしれない。 だが多くの場合、それなりの理由というのは、別の日本語に置き換えると医師の不勉強になることが多い。 しかも常識的に考えれば、明らかに患者に不利な状況も起こりうるといった場面にときおり遭遇する。 その一つが、傷を縫った後の抜糸の時期である。 通常は四肢や躯間の場合は7日間だが、顔の場合は4,5日で抜糸すべきである。 それ以上縫合糸を残すと、糸の刺激で縫い跡が残ることがある。最近はナイロンなどの合成糸を使うので、昔ほど刺激は少なくなったが、それでも、不必要に糸を残す必要はない。もしそれで傷が開くようなら縫い方に問題がある。 何故われわれ形成外科医がこれほど抜糸の時期にこだわるか? たとえ抜糸が早すぎて傷が開き幅広い目立つ傷跡が残っても、その修正は比較的簡単で、また可能である。 だが、傷と直角に、数本、数十本の縫い後が残った場合は、すべて含め広範囲に切り取って縫い寄せる修正が必要になる。 現在の常識で、もし縫い跡を残した場合は、術者の責任が問われても仕方がない。 でもケロイド体質ならしょうがないのでは? まず、本当のケロイドというのはごくまれである。また、ケロイド体質ならなおさら早めに抜糸して、絆創膏固定で逃げたほうが無難である。 要約すれば,顔のキズを縫った場合 ①抜糸は4,5日で行う ②後は一月から三月ほど3Mテープでの固定が望ましい。 これが原則である。 もし正当な理由、つまりそれなりの理由がないのに上記のことが守られないならば、並みの外科医なら不勉強として許されても、もし形成外科を名乗っているなら失格といわざるをえない。 そしてわが国では、患者や看護師の指摘で、おのが無知を悟らされた場合、突如猛り狂う"偉い先生"がまだまだ多いのが実情である。 < 前のページ次のページ >
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![]() 塩谷信幸
1931年生まれ
東京大学医学部卒業 北里大学名誉教授 北里研究所病院形成外科・美容外科客員部長 AACクリニック銀座 名誉院長 NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長 見た目のアンチエイジング研究会代表世話人 東京米軍病院でのインターン修了後、1956年フルブライト留学生としてアメリカに渡り、オルバニー大学で外科を学ぶうちに形成外科に魅了される。数年の修業の後、外科および形成外科の専門医の資格を取得。 1964年に帰国後、東京大学形成外科勤務を経て、1968年より横浜市立大学形成外科講師。1973年より北里大学形成外科教授。 1996年に定年退職後も、国際形成外科学会副理事長、日本美容外科学会理事として、形成外科、美容外科の発展に尽力している。 現在は、北里研究所病院美容医学センター、AACクリニック銀座において診療・研究に従事している。 >>アンチエイジングネットワーク >>NPO法人創傷治癒センター >>医療崩壊 >> 過去のブログはこちら(2005年5月26日~2006年5月26日) by n_shioya 以前の記事
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