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NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長が、『アンチエイジングな日々』を
軽快な筆致でつづります。 どうぞお気軽にコメントをお寄せください。 |
![]() ついに内田光子を聴くことができた。 素晴らしかった。 シューベルトの晩年のソナタ3曲。 ピアノというより、ステージから音楽が奔流の如く湧き出てくる感がある。 そう、シューベルトはピアノ曲も書いたのだ、と改めて思わされた。 こんな演奏はもう二度と聴けまい。 晩年のフィッシャー・ディスカウの「冬の旅」を聴いた時も、作者はあそこまでの深さを期待してたろうかと感じたことがあるが、今日の内田光子の演奏でも、また同じような思いをした。
久しぶりに「未完成」の生演奏を聴いた。
N響定期。指揮はブロムシュテット。 今更「未完成」などというのは、ちょっと気恥かしい気がしないでもない。丁度モーツアルトのアイネクライネといい勝負か。 だが、改めて聴くと、やはり楽しい音楽である。 というのは後半が、ブルックナーの第七だったからだ。 うんざりした。 ブルックナーは僕は苦手である。 ワグナーの弟子と聞いているが、そのワグナーも苦手である。 戦後間もなく、ヘレン・トラウべルというソプラノのワグナー歌手が来日して評判になったが、巨大な胸郭を共鳴板として、唯どうま声で吠えてるだけの感じで、辟易した覚えがある。 ではブルックナーは? 僕にとってはワーグナーをもっと退屈にしたにすぎない、ブロムシュテットに盛大な拍手を送り、ブラボー、アンコールと叫んでいたファンには申し訳ないが。 この年になると、ただ、ただ楽しい音楽が聴きたくなる。
ミタメに取りつかれていると、我々の日常、驚くほど見た目に左右されていることに気づく。
例えば車。 ま、性能は似たり寄ったりだからだろうが、やはりまず目に入るのはデザインである。 例えばアウディ。 今勢いがいいが、昔と違うのは斬新なデザインである。一般の人々は試乗して評価を下すわけではない。 BMWの人気もそうだ。もっともこれはデザインだけでなく宣伝が巧みである。40年前“sheer pleasure of driving(ひたすら楽しいドライビング)” というキャッチ・フレーズで性能を売り込んだ。だがその頃はまだ、メカの点では如何にも古臭く、ベンツの方がはるか先を行っていたにもかかわらず、先進的なデザインで、いかにも機能的にも優れているような印象を醸し出していた。 デザインが車のけん引力となったのは1955年あたりからだと思う。 ツウトンカラーが流行り、テールフィンが売りとなり、しかもだんだんに巨大になっていった。 そしてより長く、より優雅になっていく。 カーデザインは花形職業となり、デザイナーがメーカーでの出世街道を歩む時代が続いた。 でも考えてみれば、デザインはミタメ其のものの追及が使命である。デザイン優位ということは、我々がミタメに弱いということの表れである。 だが、オイルショックがこの傾向にとどめを刺し、かつては庶民の憧れだったキャデラックも、哀れなミニカーと堕してしまった。 車の魅力の一つがミタメすなわちデザインなのはわかる。 だが、モーターショウで展示される新車のそばに、なぜミニスカートの美女が立っていなければならないのか? 車のデザインにさらに華を添えるためか? 少なくも車の性能とは無関係の筈。 それとも同じ「乗り物」としての相乗効果?いやこれは失礼。 とまれ僕が言いたいのは、我々の生活は知ると知らざるにかかわらず、ミタメの影響なしには、一瞬も動かないということである。
宇山恵子女史が銀座に現れた。
彼女はいま旬の美容ジャーナリストで、講談社が社運をかけた美と健康の雑誌「HBR」の敏腕ライター兼エディターでもあり、着付けの大家でもあり、また書道は、某大学から講師として招かれるほどの腕前である。そのほかフランス語、再生医療、さらには男性籠絡術(おっと失礼)等々行くところ可ならざるところは無い。 いわゆるマルティタレントなど言う薄っぺらなものでなく、あえて言うならばマルティエキスパートまたはマルティプロフェッショナルというべきだろうか。 今日の話題は、もっぱら11月号の特集の美容医療についてだった。 美容医療を受ける患者の意識や、治療に踏み切る医師の判断基準など、何時もながら即答に窮する鋭い質問の連続だった。 そしてその後はお定まりのイタリアンをレストランヒロで。 ![]()
フリーペーパー「ミタメ」の編集にかかわって以来、「見た目、見た目」と気軽に使ってきたこの言葉、よく考えるといろいろな意味があることに気付いた。
それにひきかえ「見た目のアンチエイジング研究会」の場合は、アンチエイジングという言葉がついただけで焦点はぐっと絞られる。つまり、“見た目の若返り”、それも女性を主としたということで、事は簡単になる。 だが、唯「見た目」というと、 ①まず多少侮蔑的な意味合いを込めて、「見てくれ」、という意味合いがある。見てくれはいいが中身はどうも、といささか否定的に使われることが多い。 食材でも、最近のものは色や形はそろっているが、栄養素は昔の十分の一しかないものもあり、そこを狙ったのがサプリメント業界といえる。 ②また、性別、年齢にかかわらず「見かけ」という意味にもつかわれる。この場合は、善し悪しの価値判断は必ずしも伴わなくてもよい。 ③だが、「見かけによらず」となると、其の人の中味の方を好意的にとらえることが多いようだ。 ④そこで、第一印象である「見かけ」が、どこまで内面を捉えるかという問題があるが、僕は意外に第一印象を尊重する方である。 だからあなたはすぐ人を信じてしまう、と配偶者になじられることが多いが。 ⑤だが、「人を見る目」は全く別の意味の「見る目」であり、当人の鑑識眼であるから、この議論からは外しておこう。 ⑥そして「見た目」には素材である容姿のほかに様々な要素が関わるので、一筋縄ではいかない。 例えば、化粧、表情、服装、立ち居振る舞いなど、重要なファクターとなる。 ⑦そして最も大事なことは、「見た目」には当人の内面も映し出されているということだ。 この9月末に発行予定のフリーペーパー「ミタメ」も、外観の出来栄えだけでなく、内面からの輝きが胸を打つようなものになって欲しいと切に願う。
「美の迷宮」をさまよいながら、子供の頃のことをもい出した。
それは小学5年のとき、親父と一緒の富士登山の帰りに富士屋ホテルに泊まった時の話である。 あの髭のホテルマネジャーが、館内を案内してくれた。そして屋上のプール脇の温室で目にしたのは、溢れるばかりに咲き誇ったグロキシニアの鉢の大群だった。 赤、青、ピンクの覆輪。肉厚の葉。 グロキシニアを見るのは初めてだった。 これほど美しいものが世の中にあるとは、と感動したのを思い出す。 ![]() その後町の花屋でも見かけるようになったが、あの時の魂を奪われるような感じは生れてはじめてだった。 その後は? その後、どのようなものやことに美しさを感じたか?そしてその時の感じは。 こう考えるのは、今僕は美とは観るものと観られるものとの相互作用としてとらえようとしているからだ。 こうして僕の「失われた時を求める」旅が始まる。
ショックだった。
軽井沢のメルシャン美術館が今年で閉館になるという。 白樺の林に立つ二階建てのメルシャン美術館は、カミーユ・クローデル、シャガールそしてウィリアム・モリス等、これまでセンスある特別企画展で楽しませてくれた。 八ヶ岳の山小屋から片道約一時間半。山に滞在中に一度は訪れるのを楽しみにしていた。 美術館だけでなく、洒落たレストランもあり、即売所ではワインやウィスキーの試飲も可能である。 ![]() 最後となる今回の特別展示は、アンリ・ル。シダネルだった。 不明にも僕はこの、印象派から後期印象派にかけ、同時代に活躍したこの作家は知らなかった。 一言でいえば、ピサロの雰囲気を、今少し点描がかった手法で描き挙げたと言ってよいだろうか。 人物にしろ、風景にしろ、生物にしろ、非常に楽しい作品ばかりである。 これだけの作家がどうして今までわが国では紹介されなかったのだろう。 先週半ば過ぎ、横浜の猛暑から脱出した我々を待ちうけていたのは、八ヶ岳の豪雨であった。 丸五日間、降りこめられていた。 お陰さまで“思索”にふけるゆとりは十分すぎるほどだった。 そして何よりも、アンリ・ル。シダネルと知り合えたことは最大の収穫だった。 思索の結果は「美の迷宮」として、ブログにアップしていきたい。
背中に銀杏の彫り物をした男が“美しい=合理的”などと絡んできたので、以来、“美とは何ぞや”を考え続けている。
美とは分かりきったようで、いざ定義するとなると難渋する。 哲学者も “美そのものの定義は不可能であり、美はその属性によって定義する以外にない。”とさじを投げているようだ。 その属性とは、プリージングすなわち見る人を心地よくさせるものということになる。 さすが詩人のキーツは、“美しきものは永久の歓び”と、長編詩エンディミオンの冒頭で歌い上げている。 だが僕は近頃、アトラクティブの方がよりその属性を顕しているように思い始めた。 アトラクティヴ、魅力的の方がより能動的でもある。 例えば美女を前にした場合、唯眺めているだけで満足できますか。何かアクションと起こしたい、社会の規範に反しない限り。また相手のコンセントがあれば。 だが、花の場合はどうだろう。女性相手と違って眺めているだけで十分に魅力的で喜びを感ずることができる。 といっても、ゲーテの“野薔薇”は、比喩的に薔薇を女性に絡ませているので話はややこしくなる。 そしてまた、アトラクティブにはセックスアピールも含まれてくるので、事は簡単でなくなる。これに線引きは不可能であろう。 と、まず定義で躓いている。 そしてまた、美は見られるものには無くて、見る側にあるという考えもある。“Beauty is in the eyes of beholder”というセリフだ。 とすると、美は主観的なもので客観性は無いのではという議論に繋がる。 にもかかわらず、もし客観性があるなら、当然その基準がなければならないし、出来れば数値化したい。 ギリシャ人の考えたカノンはその一つの試みといえる。 僕の今の考えは、美とは観るものと観られる者との間の、「化学反応」だと思う。 化学反応、ケミストリーという言葉は、人の人との心のふれあいというか相互作用、特に男女間の心の通いに使われる言葉である。 次なる僕の興味は、この「化学反応」の結果がもちろん神経系を介してだが、文字通りの化学反応により神経伝達物質である、エンドルフィン、ドーパミンなどのかたちで出現するかである。勿論前段階で性ホルモンも関与していることは言うまでもないだろう。 僕は仮に、美の認識中枢と伝達経路と呼んでいる。 こうして僕はますます「美の迷宮」に迷い込んでいく。
ワシントンには何回か行ったはずなのに、ナショナル・ギャラリーは一度も訪れる機会がなかった。
9月5日で東京での展示も終わりと気付き、暑さで参ってはいたが、慌てて今日六本木の新国立美術館を訪れた。 その甲斐は充分あった。 そもそも印象派の作品はまずアメリカで認められ、はやくから蒐集されただけあって、このメロン財閥の寄付でスタートしたナショナル・ギャラリーは印象派、後期印象派の名作が豊富なことでしられている。 マネー、モネー、ゴッホなど、画集で観たことはおろか、その存在も知らなかった作品の数々に巡り合えた。 ![]() ![]() ![]() そう何よりもセザンヌの素晴らしいのがあった、コッピーが見当たらぬでアップできないが。 50年前、東大の医学部の学生運動が全国に飛び火して、ついには安田砦の攻防戦になったことを覚えてられるだろうか? その為、ある年は入学試験中止という異常事態になり、東大の解体論まで突出した。 そのさなか、ある学生の作ったポスターが評判を呼んだ。 僕も、こんな奴がいるならまだ東大も捨てたものではないと、安心したものである。 ![]() その学生、橋本治はどうなったかと思っていたが、その後作家となり、演劇、イラストなどでも多彩な活躍を展開してきたことを、つい最近、彼の著書『人はなぜ「美しいが」わかるのか』を目にしてしった。 10年前にちくま新書として出版されている。 さすが橋本である。 のっけから「美しい=合理的」という議論を吹っ掛けてくる。 その後も、判ったようなわからないような奇妙な論旨が展開するが、言わんとすることは何となく伝わってくる不思議な内容である。 ま、僕の素人としての理解では、そもそも「美」というものはそれ自体の定義が不可能で、その属性によって説明する以外にないようだ。それをイギリス圏では、プリージングという言葉で代表させている。 そこで彼の場合は、美の対象とそれを目にする我々との間で発生する、ある交流関係として解き明かそうとしているようだ、とかしか言えない。 不得要領で申し訳ないが。「ミタメ」を追求する以上、「美しい」は避けて通れないテーマなので、これからも模索は続く。 < 前のページ次のページ >
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![]() 塩谷信幸
1931年生まれ
東京大学医学部卒業 北里大学名誉教授 北里研究所病院形成外科・美容外科客員部長 AACクリニック銀座 名誉院長 NPO法人アンチエイジングネットワーク理事長 見た目のアンチエイジング研究会代表世話人 東京米軍病院でのインターン修了後、1956年フルブライト留学生としてアメリカに渡り、オルバニー大学で外科を学ぶうちに形成外科に魅了される。数年の修業の後、外科および形成外科の専門医の資格を取得。 1964年に帰国後、東京大学形成外科勤務を経て、1968年より横浜市立大学形成外科講師。1973年より北里大学形成外科教授。 1996年に定年退職後も、国際形成外科学会副理事長、日本美容外科学会理事として、形成外科、美容外科の発展に尽力している。 現在は、北里研究所病院美容医学センター、AACクリニック銀座において診療・研究に従事している。 >>アンチエイジングネットワーク >>NPO法人創傷治癒センター >>医療崩壊 >> 過去のブログはこちら(2005年5月26日~2006年5月26日) by n_shioya 以前の記事
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