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川隆夫の JAZZ BLOG
Profile

©Kozocom (photo by Shuichi Kasahara)
職業:JAZZジャーナリスト、整形外科医、DJ

ニューヨーク大学の大学院在学中にアート・ブレーキーやマルサリス兄弟など数多くのミュージ シャンと知り合う。帰国後、JAZZを中心に約3000本のライナーノーツを手がけると共にJAZZ関連 の著書を多数出版。ブルーノートの完全コレクターとしても有名。その他、マイルス・デイヴィ スやブルーノートの創始者アルフレッド・ライオンの来日時の主治医を勤めるなど、現役の整形 外科医としても第一線で活躍中。

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カテゴリ:愛しのJazz Man
  • 2010-05-26 生きていれば
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  • 2009-01-10 フレディは憎めないひとでした
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  • 2008-12-30(1) 悲しいですね
    [ 2009-01-01 06:10 ]
  • 2008-12-13 ジョアン・ジルベルト公演中止
    [ 2008-12-13 09:15 ]
  • 2008-10-19 W. クラクストンが遺してくれたもの
    [ 2008-10-19 11:37 ]
  • 2008-09-12 追悼ジョニー・グリフィン
    [ 2008-09-12 10:01 ]
  • 2008-06-18 久々に「愛しのジャズマン」
    [ 2008-06-18 20:18 ]
  • 2008-01-12 追悼 オスカー・ピーターソン
    [ 2008-01-12 10:02 ]
  • 2007-10-18 愛しのジャズ・マン~ハービー・ハンコック
    [ 2007-10-18 16:25 ]
  • 2007-08-22 ミスター・ハイハットは永遠なり
    [ 2007-08-22 00:32 ]
 今日で84歳の誕生日を迎えるマイルス。考えてみると、ぼくがマイルスと会うようになったのは1985年のことですから、彼が59歳と9ヶ月のとき。いまのぼくとまったく同じです。ぼくもあと3ヶ月で60歳ですから。この違い。ウーン。

 って、帝王と自分とを比較するのはおこがましいですよね。でも、何か感慨深いものを覚えます。そうか、このあと5年であの世に行ってしまったのか。ウーン。

 あのときのマイルスは、いまのぼくよりぜんぜん元気でしたし、迫力がありました。アーティスト、あるいはクリエイターならではの前向きの姿勢がビシバシと伝わってきたものです。24歳年上の彼に何度触発されたことでしょうか? ぼくにとっては、本当に得がたい出会いでした。

 それで、今日は久々に「愛しのジャズマン」としてマイルスを。

『ジャズ楽屋噺~愛しきジャズマンたち(東京キララ社)』より~

 ぼくは自虐的な人間なのだろうか? マゾっけはないつもりだが、怒られたのに嬉しく思った経験がある。マイルス・デイヴィスと会っていたときだ。彼と会っているときはいつも細心の注意を払うようにしていた。しかしマイルスの口から飛び出してくる話はいつだって面白いし、興味深い。彼は問わず語りの名人だから、途中で余計な口を挟まないほうがいい。しばし沈黙の時間が流れても、そういうときはなにかを考えたり思い出したりしているのだから、先をうながしてはいけない。そのことはいつも肝に銘じていた。話したいように話してもらうのが一番だ、と。

 マイルスと会うときは長時間におよぶことが大半だった。10時間以上というのもざらだ。昼に会って明けがたまで宿泊していたホテルにいたこともあれば、午後に家を訪ね、夕方一緒にコンサート会場に行き、終了後に車に同乗して家まで戻り、そのまま5時間以上つき合ったなんてこともある。

 インタヴューをするわけじゃない。ただ、だらだらと時間がすぎていく。マイルスはその間になにか食べたり、絵を描いたり、音楽を聴いたり、誰かに電話をしたりと、普通のことをやっている。ぼくは透明人間になったつもりで、邪魔をしないようひたすら務める。それでなにかを話したくなれば、勝手に話が始まる。そのときにぼけっとしていてはいけない。話しそうになったときは、それを察知し、すぐ聞き役に回れるよう構えるのがこつだ。

 最初はこのペースというか空気に戸惑ったが、マイルスはマイルスでそうやって時間をすごすのを楽しんでいるようだった。まったく無視をするわけじゃない。かといって、気を遣っているそぶりもない。ぼくはひたすらマイルスがいる空間に溶け込む。そのことに集中していた。それでも彼はときどきこちらを喜ばせようと思うのか、勝手に昔話をしたり、ぼくが聞きたそうなことについて話し出したりする。
 こちらはそれをひたすら聞いて、相槌を打つか、褒めちぎるか、羨ましがるか。まあ褒め殺しのようなことをするのだが、するとマイルスはますます気分がよくなるようで、思わぬエピソードを披露してくれたことも再三だった。

 そんなあるとき、つい調子に乗ってギル・エヴァンスについて質問をしてしまった。たまたま、彼と共演した『クールの誕生』(キャピトル)の話をマイルスがしていたときだ。
「ギルが書くアレンジは、その時点のレヴェルからいってかなり高度なものだったんでしょうか?」
 そんなことを口にしてしまったのだが、いいながら同時にぼくは後悔もしていた。マイルスが話をしているときに、腰を折るようなことは絶対してはいけない。このときはちょっと気が緩んでいたのだろう。そのとたん、彼がこちらを睨んでひとことこういった。

 So What?

 マイルスの口癖である。
「だからなんだっていうんだ?」
 マイルスにこういわれてすくみあがらないひとはいないだろう。これで、あるかないかわからないようなものだけれど、ガラスみたいにもろい信頼関係も崩れてしまった。すべてが不用意なひとことで終わってしまった。彼の機嫌を損ねて部屋から追い出されたインタヴューアーが何人もいることは知っている。ついに、ぼくもそのひとりになったか。

 I'm so sorry.

 と蚊の泣くような細い声で答えるのが精いっぱいである。あとは、こうべを垂れて、次にマイルスからどういわれるかを待っていた。しばしの沈黙。時間にしたら5秒も経っていなかっただろうが、そのときは永遠に続く沈黙のように感じられた。

 Very hard, It was very hard of Gil's chart, so what I didn't care because of fantastic  music.

 正確には覚えていないが、マイルスは何事もなかったかのように、こんな言葉であとを引き継ぎ、そのままぼくの質問に答えつつ、ギルのアレンジについての特徴を語ってくれた。しかし、あのときはたしかに怒られたと思う。

 それにしても怖かった。だけど、絶体絶命の心境に陥りながらも、心の片隅では嬉しさもこみあげていた。マイルスから、有名な口癖のSo what? をいってもらえた。そんな日本人が何人いるだろう? こんな風に考えるぼくは、やっぱりマゾヒスティックな人間だろうか?

 しかし、同じように感じていたひとをぼくは知っている。ハービー・ハンコックだ。彼もマイルスからSo what? といわれ、ちぢみあがった口だ。
「でも嬉しかったよね」
 感じることは同じなのだ。

 内山さん、写真いろいろ無断借用しました。ゴメンナサイ。でも、宣伝になるかも。
by jazz_ogawa | 2010-05-26 10:25 | 愛しのJazz Man | Trackback(1) | Comments(12)
 今日は『愛しのジャズマン 2』に書いたエピソードを紹介することで、先月の29日にこの世を去ったフレディ・ハバードを偲びたいと思います。

 ジャズの世界で遅刻の常習者といえばフレディ・ハバードである。ところが時間に遅れてステージがキャンセルになった話は、知る限りで一度も聞いたことがない。だから彼のことをよく知っているひとは、少しぐらい到着が遅れても鷹揚に構えている。
 たとえば1985年にニューヨークで開催された「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」コンサート。このときは2日前からミッドタウンのスタジオでリハーサルが行なわれていた。フレディはハービー・ハンコックのクインテットとオールスター・メッセンジャーズに入って演奏する予定で、両日ともスタジオに来るはずだった。
 ところが初日は無断欠席である。プロデューサーのマイケル・カスクーナによれば、ホテルにもチェックインしていないとのことだった。
「いつものことだし、フレディならリハーサルをやらなくても大丈夫」
 あまり気にしていない様子だ。ほかのメンバーも「フレディだからね」みたいな顔をして、誰も文句をいわない。
 それで2日目になった。カスクーナは「まだチェックインしていないが、たぶん来ると思うよ」と落ち着いている。ぼくはひとごとながら、「そんなことで大丈夫なの?」と心配していた。そしてオールスター・メッセンジャーズのリハーサルが始まった。それを見計らうかのように、旅行用のトランクを引きずりながらフレディがスタジオに入ってきた。
「雪で飛行機が飛ばなくてね」
 誰も信じていないが、お構いなしでフレディはリハーサルに加わった。その途中である。ロビーがざわめき始めた。覗いてみると、小柄な老人がミュージシャンに取り囲まれている。それがブルーノートを創立したアルフレッド・ライオンであることを教えてくれたのはカスクーナだ。

 青春時代のすべてを懸けて集めてきたブルーノートのレコード。その名盤の数々をプロデュースした人物がそこにいる。リハーサルを観るのはやめにして、ぼくもその一群に加わろうとロビーに出た。するとぼくより素早くライオンのそばに駆け寄った人物がいた。
 こういうときのフレディは動きが早い。大きな体でライオンに抱きつき、涙を流さんばかりに再会を喜んでいる。実際、フレディの目には涙が浮かんでいるように見えた。それもそうだ。彼にとって、ライオンはジャズ界で最大の恩人である。
 フレディは、故郷のインディアナポリスでかなりの悪童として名を轟かせていた。そのままいけば、誤った道に進んだかもしれない。そんな彼に対し、ライオンは最初からリーダー作を作りたいと申し出たのである。ほとんど実績もない彼に向かってそう提案したのだから、よほど才能を買っていたのだろう。
「リーダー作を吹き込むにあたり、アルフレッドはわたしにひとつだけ条件を出してきた。それはクリーンな生活をすることだった」
 フレディは、ライオンの心情に触れて一念発起する。誘惑を断ち切り、演奏に精を出し、恵まれた才能を伸ばしていった。それが彼にとってのブルーノート時代だ。久々にライオンと再会して、フレディの胸にはどんな思いがよぎったのだろう?

 遅刻の常習犯であることに話を戻そう。ドラマーのエルヴィン・ジョーンズがジョン・コルトレーンにトリビュートするコンサートを開いたときだ。前日に宿泊先のホテルで関係者を招き、ジョーンズ夫人のケイコさんが記者会見+パーティを主催した。
 壇上にはフレディの姿だけない。記者会見はそのまま進行し、その後は何曲か演奏されることになっていた。その演奏直前に、トランペットを小脇に抱えてステージに駆けあがったのがフレディである。
 あとでケイコさんに大目玉をくらったというが、そんなことでめげる男ではない。翌日の本番はヴィデオ収録のため、サウンド・チェックのほかにカメラ・テストもあった。それで集合時間も早かったが、フレディはやはり姿を現さない。結局本番10分くらい前に、タクシーに乗ってやってきた。
 こういう場面には何度も遭遇したが、時間にルーズとは違うように思われる。
「演奏さえよければ文句はないだろう」
 フレディの行動からはこんな主張が聞こえてくるようだ。性格もその演奏を生み出す要素になっている。だから、周りのひとにとっては迷惑かもしれないが、彼にはこのままでいてほしい。関係者もミュージシャン仲間もそう思っているからこそ、ゆったりと構えているのではないだろうか。

 遅れてくるのがフレディの流儀なら、この世を去るのも遅刻してほしかった。これがぼくの偽らざる心境です。やんちゃ坊主がそのまま大人になったようなフレディ。我もひと一倍強かったけれど、気持ちもひと一倍温かいひとでした。あのキャラクターに接することがもうできないとは、なんと寂しく、悲しいことでしょう。いまごろは、天国の門の前で「オープン・セサミ」と怒鳴っているかもしれませんね。
by jazz_ogawa | 2009-01-10 08:45 | 愛しのJazz Man | Trackback | Comments(14)
 ある方から、フレディ・ハバードの話と食事ブログを一緒にするのはどうなんでしょう? とのご指摘を受けました。いわれてみればその通りなので、別々にアップすることにしました。軽率なぼくにはこういうご指摘とても有り難いです。そういうわけで、以下はフレディ・ハバードの部分です。

それに伴い、Tonyさん、Isisさん、それとFさんのコメントが消えてしまいました。お三方には本当に申し訳ありません。どうかお許しください。

 sou-unさんのコメントにもありましたが、フレディ・ハバードが心不全で12月29日にカリフォルニアの病院で亡くなりました。11月30日から入院していて、1週間くらい前ですか、重態のニュースが伝えられていただけに、持ち前の不屈の精神を発揮することなくこの世を去ってしまいました。

 写真は25年前に写したものです。遅刻の常習犯で身勝手なところのあったフレディですが、それでも天真爛漫な彼を多くのひとが受け入れ、愛していました。会えば、いつも向こうから人懐っこい笑顔で「元気ですかぁー」と日本語で声をかけてくれた優しさを思い出します。

 アルフレッド・ライオンが「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」のリハーサルをしているスタジオに現れたときは、真っ先にその姿を見つけ、一目散に駆けよったのがフレディでした。そして抱きつくやいなや、あのぎょろりとした目をむき出しにして大粒の涙を浮かべていた姿が忘れられません。このときのライオンは、15年ぶりくらいにニューヨークにやってきたはずです。

 やがて、その場にぼくがいるのに気がつき「恩人のミスター・アルフレッド・ライオンだよ」と紹介してくれ、ライオンには「本当にボスですよね?」と、今度は茶目っ気を発揮しておどけてみせた姿も脳裏に焼きついて離れません。
by jazz_ogawa | 2009-01-01 06:10 | 愛しのJazz Man | Trackback | Comments(4)
 
ほんと、残念でした。11月の来日が延期になって、それが今日と明日に振り替えられていたのですが、結局、腰痛が治らなかったため、コンサート自体が中止になってしまいました。

 1931年生まれのジョアンですから、ブラジルからの長旅は無理だったのでしょう。これが最後と思っていましたので、次回があるかどうか。今週の初めにはプロモーター・サイドからの「今回は大丈夫そう」という話をレコード会社経由で聞いていましたし、知り合いのお嬢さんが偶然ですがジョアンの通訳ということで、ブラジルから先乗りで日本に着いていました。

 実際、出発直前までは問題がなかったそうです。長旅になるので、ニューヨークで数泊してから日本に来るスケジュールが組まれていました。その出発当日だか前日だかに風邪を引き、腰痛が再発したとのことです。それでドクターストップになりました。

 コンサート3日前の中止です。ぎりぎりまで関係者は来日の可能性を模索していたのでしょう。しかし、高齢であることを考えれば無理はしないほうが無難です。公演のキャンセルによって各方面にいろいろな迷惑や損害もかかることでしょうが、人間相手の商売ではこういうことはつきものです。かなりいい席のチケットが取れていたのですが、そういうことなら仕方ありません。

 そこで、今日は、以前観たライヴの思い出を『愛しのジャズマン』から紹介して、ジョアンのコンサートに行った気分になろうと思います。

 灼熱の太陽と熱狂的なサンバのリズム。ブラジルについて思い浮かぶのがこれらふたつである。ぼくの場合はそこにボサノヴァも加わる。
 中学2年のときに聴いた『ゲッツ=ジルベルト』でこの音楽を知って以来、ジョアン・ジルベルトはかたときも忘れることができないアーティストのひとりになった。そして、スタン・ゲッツ。その時点で、彼がジャズ界を代表するテナー・サックス奏者であることなど知るよしもない
 ボサノヴァを代表するシンガーでギタリストでもあるジョアンと、白人テナー・サックスの大スターになっていたゲッツ。ふたりが共演したレコードに合わせて見様見真似でギターを弾いていた中学時代を、古ぼけたアルバムに貼った懐かしい写真を見るような思いで振り返ることがある。そのジョアンがとうとう日本にやってきた。

《最後の大物、奇跡の来日!》
 何度も見かけたようなキャッチ・コピーが、今回はどれだけ胸に迫ってきたことか。

 2003年9月、わくわくする気持ちを落ち着かせようと、普段は早歩きをするぼくがわざとゆっくり歩いて会場の「東京国際フォーラム」に向かった。
 コンサートがスタートする7時近くになっても、暑い日ざしは和らぐことがない。これからジョアンのライヴに接することができるという興奮。ほんのときたま頬をかすめる爽やかな風が、その思いを現実に引き戻してくれる。
 しかしこちらの思いなどとは無関係に、ジョアンはあくまでもマイ・ペースだった。72歳になるマエストロは、開演時間の7時になっても宿舎のホテルを出発していない。到着の遅れが場内に伝えられ、すでに超満員になっていた客席からため息ともどよめきともつかない声が漏れる。ホールでは「出演者の意向で空調装置は切っております」のアナウンスもあって、そろそろ汗が滲むようになってきた。
「ひょっとしてコンサートはキャンセル?」
 そんな囁き声も周囲から聞こえるようになった。なにしろ気まぐれなマエストロである。しかしその後、「ただいまホテルを出発しました」、「あと5分ほどで会場に到着します」、「ただいま楽屋に入りました」、「間もなく開演です」
 まるで実況中継のように、動向が場内アナウンスで報告される。こちらの心配を察しての主催者側による配慮だ。

 そして、直後に場内のライトが落とされた。5000人の熱い拍手に迎えられたジョアンが、気負うことなくギターを手に、なんの装飾も施されていないシンプルなステージの真ん中にぽつんと置かれた椅子にすわる。そしてそれからの2時間半。いっさいの休憩を挟まずに、あの『ゲッツ=ジルベルト』で耳に馴染んできた歌声とギター・プレイを淡々とした風情で聴かせてくれた。

 ジョアンの来日は不可能といわれていた。本人は、地球の裏側にある東洋の国へ行くことを渋っていた。しかし関係者の熱い説得によって、伝説の彼方に消えようとしていたボサノヴァの創始者が重い腰をあげる。
 長年憧れ続けてきたこの巨匠の姿をひとめ見たい。その思いで会場に足を運んだひとたちが、コンサートを終えたあとは不思議な連帯感で心が結ばれていた。最初で最後の来日になる。誰もがそう思ったに違いない。
 初来日では連日盛大な拍手を持ってジョアンは迎えられた。そして不可能な来日を可能にした奇跡は次なる奇跡を生み出す。
 ジョアンが翌年も元気な姿をぼくたちの前に示してくれたのだ。最終日には45曲、3時間45分におよぶステージを披露。終盤には即興でポルトガル語とフランス語を交え、「ジャパォン、ジャパォン、メウ・コラサォン(日本、日本、あなたを愛しています。日本、わたしの心)」と歌い始めたのだった。
 そして愛する国の熱心なファンのために、2006年にも3度目の来日を果たす。2度目の来日後、ジョアンはいっさいひと前で歌っていない。彼にとってかけがえのない国となった日本で歌うこと。創造の神は、この巨匠に最後の使命を与えたのかもしれない。(この文章は2006年に書いたものです)
by jazz_ogawa | 2008-12-13 09:15 | 愛しのJazz Man | Trackback | Comments(6)
 日本では報道されなかったかもしれませんが、11日に高名なジャッズ・フォトグラファーのウィリアム・クラクストンがロスの病院で亡くなりました。ジャズ・フォトグラファーといえばブルーノートのフランシス・ウルフが有名ですが、彼を東海岸の横綱だとすれば、西海岸の横綱がクラクストンです。
 パシフィック・ジャズの創立時からジャケット写真の多くを担当し、1960年代にはファッション写真にも進出し、こちらはポップな感覚で独特の作品を多数生み出しました。中でも奥さんをモデルにした(モデルを奥さんにしたのかもしれませんが)写真が有名です。

 奥さんが手にしているジャケットは、自身がモデルになったルー・ドナルドソンの『ミスター・シンガリング』(ブルーノート)ですが、有名な『アリゲイター・ブーガルー』も彼の手によるものです。

 このジャケットですね。

 パシフック・ジャズのジャケットにはこんなものがあります。

 クラクストンをテーマにしたドキュメンタリー映画『JAZZ SEEN カメラが聴いたジャズ』(監督:ジュリアン・ベネディクト)の公開に合わせて日本で彼の写真展が開催されたのは2001年のことでした。そのときのインタヴューを以下に紹介して、彼の冥福を祈りたいと思います。

 この世界に踏み込んだきっかけから話そうか。「ヘイグ」にジェリー・マリガンが出演したときのことだ。1951年だった。東海岸からロスに彼は移ってきて、カルテットを結成したんだよ。チェット・ベイカーが加わったピアノレスのカルテットだ。ジャズ・ファンだったわたしはまだUCLAの学生で、写真で生計を立てようと考えていた。

 それで彼らの写真を撮ろうと思ったんだね。父親の車を借りて、機材一式と助手を乗せて「ヘイグ」に行ったんだ。事前に交渉なんかしていないから、店に乗りつけて初対面のマリガンに写真を撮らせて欲しいと頼んだのさ。彼は気難しいところもあるんだけれど、このときは気さくにOKしてくれた。

 それで演奏中の写真やバック・ステージの写真を撮っていたら、ひとりの青年が自己紹介してきた。それがリチャード・ボックだった。パシフィック・ジャズのオーナーになるひとだ。もうすぐレコード会社を作ってマリガン・グループのレコーディングをする予定だっていうじゃないか。それで、その日の写真をジャケットに使わせて欲しいという依頼だった。こちらとしては願ってもないことなんで、その場でOKしたよ。結果として、これが最初の仕事になった。ギャラはたいしたことがなかったけれど、当時の学生には悪くなかった。“ヤッタネ”という気持ちだったよ。それからパシフィック・ジャズで仕事をするようになったんだ。

 このときにチェットとも知り合って、彼とは公私共によく付き合った。チェットは上の歯が一本欠けていたんだ。笑うと漫画のグーフィーみたいだった。だからわたしたちの間ではグーフィーって呼ばれていた。歯が欠けていたのは本人も気にしていたんだろうね。当時の写真で笑っているのはほとんどないんだよ。ウエスト・コースト周辺で演奏すときは、よくわたしの車で店まで行ったっけ。

 わたしはガーシュインやコール・ポーターなんかが書いたいわゆるショウ・チューンが大好きで、車の中ではいつもラジオでそういう曲を聴いていた。チェットはあんまりそういう曲を知らなかったけれど、車の中でそれらのスタンダードを沢山覚えたんだよ。彼は耳が良かったから、大抵の曲は一度か二度で覚えてしまった。彼がヴォーカル・アルバムを初めて吹き込んだときは、だからわたしの車の中で覚えた曲ばかりがレパートリーになっていた。

 それにしてもチェットは女性にもてたね。2時間か3時間毎にガール・フレンドが変わっていたっていうのはオーバーにしても、本当にいつも違う女性とつき合っていた。だからマリガンのグループから独立したときは、ピアニストのラス・フリーマンがマネージャーも兼ねて彼のグループに参加したんだ。チェットは自分じゃビジネスのことは何もできなかったからね。女性のことで忙しかったし(笑)。

 ジャケット写真で面白かったのはソニー・ロリンズの『ウェイ・アウト・ウエスト』だ。ソニーがカウボーイの恰好をしているヤツだよ。あれは彼のアイディアだった。ソニーは無類のウエスタン映画ファンでね。一度ああいう恰好がしたかったらしい。それで貸衣装屋に行ってカウボーイの服を一式借りてあの写真を写したのさ。黒人のカウボーイなんて実際はほとんどいなかったから、ひょっとしたら物議をかもすかな? とも思ったけれど、そんなことはなかった。あれは「タイム」や「ニューズウィーク」でも紹介されて概して好評だったね。

 クラクストンは気さくで、いかにも「西海岸のひと」といった印象を覚えました。だから多くのミュージシャンと気が合い、信頼されていたんでしょう。そんな彼の冥福を心からお祈りします。
by jazz_ogawa | 2008-10-19 11:37 | 愛しのJazz Man | Trackback | Comments(12)
 1ヶ月ほど前のことですが(8月6日)、ぼくの大好きなテナー・サックス奏者のひとりジョニー・グリフィンがこの世を去りました。今日は『いとしのジャズマン 2』で紹介したエピソードをここに掲載することで、ぼくなりに彼の冥福を祈りたいと思います。


 1960年代は多くのミュージシャンがアメリカを脱出してヨーロッパに住みついた。中でも成功したひとりがジョニー・グリフィンだ。《リトル・ジャイアント》のニックネームどおり小柄だが、体に似合わず精力的なプレイをするテナー・マンである。

 このひと、テナー・サックス奏者のデクスター・ゴードンとヨーロッパ中を暴れまくり、ついにはフランスで由緒正しきお城を購入してしまった。広大な庭では葡萄を栽培してワインも作っているなんて噂もあり、洒落者で知られるこの大ヴェテランはいまや生活も悠々自適(?)らしい。仕事は半年しかせず、残りは寝て暮らしているのかと羨んだが、現実はどうも違ってそれなりに厳しいようだ。

 グリフィンによればこういうことになる。

「家にいるときは庭の手入れや城の修理に追われている。土地は広いし、城は古い。そのため、仕事は年に半分しかできない。これならよっぽどツアーに出るほうが楽だ」

 そんなぼやきとも自慢ともつかない話が聞けたのは、親友のゴードンが住むニューヨークのアパートでのこと。

 マンハッタンの43丁目と9番街から10番街にかけてのワン・ブロックには大きなアパートが2棟そびえ立つ。このマンハッタン・プラザはニューヨークに住むパフォーミング・アーティスト用に運営され、家賃は年収に応じて決まる。稼ぎが少なければ家賃は安い。収入が多くても、上限が決まっているためそれほどの金額にはならない。そのひとつに、デクスター・ゴードンがオランダ航空でスチュワーデスを務めるオランダ人の奥さんと住んでいた。

 ここは普通のアパートとして建設された。しかしタイムズ・スクエアに近く、《ヘルズ・キッチン(地獄の台所)》と呼ばれる物騒な地域にある。そのため入居者が少なく、市と州で予算を出し合い、アーティスト用のアパートにしたのである。75年のことだ。

 入居できるのがパフォーミング・アーティストに限られるから、写真家や画家は住むことができない。パフォーミング・アーティストとは、ミュージシャンやダンサーなどのことである。大道芸をしているジャグラーやマジシャンも住んでいたから、彼らもパフォーミング・アーティストとして認められているようだ。

 家賃は年収の3分の1という取り決めで、したがって極端な話、年収ゼロならただでいい。高収入を得た場合でも、ワン・ベッド・ルーム(日本でいうなら1DKか)で当時(80年代半ば)は毎月750ドルが上限になっていた。このくらいのスペースをその時代にマンハッタンで借りたなら1500ドルはくだらない。

 アパートの地下にはアスレチック・クラブやリハーサル・ルームもあり、デューク・エリントンにちなんで名づけられた多目的室の「エリントン・ルーム」もある。ここでは、アパートに住むミュージシャンのコンサートもたまに行なわれていた。エリントンの末娘でダンサーのメレディス・エリントンもここの住人で、この「エリントン・ルーム」を案内してくれたこともいい思い出だ。

 ゴードンはマンハッタン・プラザの中でも一番広い2ベッド・ルームに住んでいた。そこに遊びに行ったあるとき、たまたまニューヨークに戻っていたグリフィンが訪ねてきた。免税店で買ってきたという、ゴードンの大好物レミー・マルタンと、自分用にフランス産の赤ワインを携えて。

 ぼくは強いお酒が苦手なので、このときはグリフィンのワインをご相伴にあずかった。ゴードン夫人も交えてのお酒は賑やかだ。グリフィンとは初対面でなかったものの、それ以前はインタヴューで数度顔を合わせたにすぎない。そういうわけで、素顔の彼にお目にかかれたのはこのときが初めてだ。

 グリフィンはかなりのワイン通である。このときも、持ってきたワインの自慢をひとしきりゴードンに話している。記憶があいまいだが、そのワインは82年のボルドー産で、この年は葡萄の出来がいつになくよかったとか。その中でもかなり高いワインだといいながら、ぼくのグラスにたっぷりと注ぐグリフィンの目は早くも少しとろんとしていた。

「この男は、たぶんホテルで一本飲み干してからわたしのところに来たんだろうよ」

 そういうゴードンの口調も怪しくなってきた。そんなときにお城の話が出たから、真偽のほどはわからない。老境に差しかかった男ふたりが仲よさそうに酒を汲み交わしている。ぼくも彼らみたいな歳の取り方がしたい。そんなことを思いながら、マンハッタンの夜は更けていった・・・。


 酔いに任せて、「そのうち庭の手入れを手伝いに行きますよ」といった約束は果たせないまま終わってしまいました。そしてもうひとりの敬愛するテナー・マン、ゴードンもしばらくしてあの世に去っています。ぼくにとって、彼の置き土産は主演した映画の『ラウンド・ミッドナイト』でした。その映画でも、ゴードン演じるところのサックス奏者デイル・ターナーが最後にこの世を去っています。

 グリフィン死去のニュースに触れた数日後にこの映画を見直し、彼とゴードンのことに思いを馳せました。仕方のないことですが、周りから少しずつひとが去っていきます。そんなこともあって、このところちょっと感傷的になっているかもしれません。
by jazz_ogawa | 2008-09-12 10:01 | 愛しのJazz Man | Trackback(1) | Comments(2)
 3部作も書き終わってしまい、このシリーズ、とりあえず続編を出すつもりはありません。しかし、暇を見つけてはしつこく書き続けています。というか、昔の原稿をあさっては、この本の書式にのっとってまとめているのが本当のところですが。いつか、ある程度の本数になれば一冊になるかもしれませんし。
 そういうわけで、眠っている記憶を呼び覚ますべく、別に暇じゃないんですが、ちょっと1本書いてみました。今回はセルジオ・メンデスで、元ネタは『スイングジャーナル』(だったかな?)で発表したインタヴュー記事です。

「ブラジル '66で人気者にはなれたけれど、わたしとしてはそれ以前にやっていた音楽にも強い誇りを持っている。とくにアメリカに出て、アトランティックのネスヒ・アーティガンに勇気づけられたことは忘れられない」
 そもそもの始まりは、一九六一年にハービー・マンがブラジルにわたり、アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトたちとレコーディングを行なったことだ。そうしたセッションのひとつに若き日のセルジオも起用されたのだった。そのレコーディングがアメリカでアトランティックから発売され、それが切っかけで翌年には「カーネギー・ホール」で初の本格的なボサノヴァ・コンサートが開催された。
「そこにわたしも呼ばれて、すっかりアメリカが気に入ってしまった。その後はブラジルの文化使節として世界中を回り、日本にも六四年に来ている。そのときのグループがボサリオ・セクステットで、世界ツアーが終わったこの年、アメリカにグループで移り住むことにした。当初はボサリオ・セクステットで活動していたんだが、アトランティックの肝入りでニュー・グループを結成することになった。それがブラジル '65だ。メンバーはオーディションで選んだり、以前の仲間だったりで、ボサノヴァをできるだけ多くのひとに広めたいというのがグループ結成の動機のひとつだ。ネスヒも全面的にバックアップしてくれて、それでニューヨークからサンフランシスコまで、各地のクラブをサーキットした。最終地のサンフランシスコでは「エル・マタドール」でライヴ・レコーディングも行なった」

『エル・マタドールのブラジル '65』がそのアルバムだ。この時点で、セルジオの音楽はまだオセンティックなボサノヴァ・サウンドを追求するものだった。翌年に結成されたブラジル '66のポップなサウンドとはかなり様相を異にしている。
「ブラジル '66はレコード会社の意見を取り入れて、ああいうサウンドになった。お陰で大ヒットはしたけれど、自分の求めていた音楽とは違ったんで、それほどハッピーになれなかった。それよりアトランティック時代のほうがやりたいことをした充実感がある。わたしは本質的にはジャズ・ピアニストだと思っている。だから『マイ・フェイヴァリット・シングス』が吹き込めたことを誇りにしている。それとイージー・リスニング・ジャズ的な内容ではあるけれど、『グレイト・アライヴァル』も録音できてよかった。ゴージャズなオーケストラをバックにピアノが弾けるチャンスなんて、めったにないことだからね」
 メンデスは遠い昔を懐かしむように、アトランティック時代のことを問わず語りで話してくれた。こちらが持参した当時のアルバム・ジャケットを見て、さっそく隣室のメンバーにそれを自慢しにいく。そんな彼は、本当にアトランティック時代のことを快く思っているのだろう。六〇年代に五枚のリーダー作をこのレーベルで残したあとのセルジオは、ご承知のようにブラジル '66で大ブレークした。その彼が一度だけ古巣のアトランティックでレコーディングを行なうことになった。それが七七年に吹き込んだ『ペレ』だ。

「あれはペレが作った映画のサウンドトラックだ。彼とは昔からの知り合いで、あるとき直接電話がかかってきた。自分の映画に音楽をつけてくれないか? ってね。ペレからなにか頼まれて断れるひとがいるかい? あれはハッピーな仕事だったね。しかも、その中からヒット曲も生まれたんだからラッキーだ。ハッピーでラッキー。このふたつがあれば最高だ。あのときもネスヒが陰でずいぶん協力してくれた。本当に彼はわたしの恩人だ。アトランティックでの仕事は、だからいつも楽しいものになる。いい思い出しか残っていない。しかも今度は日本のアトランティックがあの時代の作品を全部CDで発売してくれるっていうんだからまたまたハッピーじゃないか。本当に気分がいいよ。なんなら、日本のファンのためにスペシャル・レコーディングをしてもいい。幸いレコーディングの契約がいまは切れているからね」
 と、話があらぬ方向に進んでしまったが、セルジオはアトランティック時代を振り返って、これまでで一番自分の気持ちに忠実な形でアルバムが作れたことを強調していた。当時の作品をいま聴いてみると、たしかに無名の新人だった彼に、このレーベルはさまざまなセッティングでの吹き込みをさせている。それだけ期待が大きかったのだろう。

「ボサノヴァが誕生しなかったら、わたしはどんな人生を送っていたかわからない。アントニオ・カルロス・ジョビンとたまたま知り合っていたのもラッキーだった。彼から影響を受けて、わたしは自分のスタイルや音楽性を発展させることができた。それをアメリカに持ち込んだだけの話だからね。時代も味方してくれたんだろう。さまざまな条件がわたしをいい方向に導いてくれた。そうして今日のわたしがここにいる。考えてみれば、面白い人生を送ってきたものだ」

 このあと、本ではアルバム紹介が入ります。ここは、高校時代にさんざん聴いたブラジル '66の2作目『分岐点』で決まりでしょう。
by jazz_ogawa | 2008-06-18 20:18 | 愛しのJazz Man | Trackback(1) | Comments(11)
 昨年末のことですが、ニューヨーク滞在中にオスカー・ピーターソンの訃報を聞きました。その前の年はジェームス・ブラウンがこの世を去り、たまたま「アポロ劇場」でPublic Viewingが行なわれたので、遺体に対面することができました。数年前には、たしかグローヴァー・ワシントン・ジュニアも年末になくなったんじゃなかったかしら。どうも、年の瀬は音楽家にとって鬼門のようです。

 みなさんもそうでしょうが、オスカー・ピーターソンの演奏には随分と楽しまさせてもらいました。一番好きなアルバムは『プリーズ・リクエスト』(原題は『We Get Request』)。前にもブログのコメントに書きましたが、このアルバムを買って家で聴いたところ、カーテンが振動してびっくりしたことがあります。レイ・ブラウンのベース・サウンドが振動を引き起こしたんですね。ピアノの音にも素晴らしいものがあり、以来このレコードはステレオを買うときなどのサウンド・チェック用に使ってきました。以下の文章は『愛しのジャズメン』からこのブログ用に書き直したものです。

 カナダ生まれのピーターソンが、偶然のことから名プロデューサーのノーマン・グランツに見いだされ、「カーネギー・ホール」で開かれたコンサートにフィーチャーされて大きな話題をさらったのが1949年のことです。以来、彼は60年近くにわたって世界中で大きな人気を獲得してきました。
 ピーターソンといえば優れたピアニストであることはジャズ・ファンなら誰でもご存知でしょう。ところが彼は、それ以前に弾き語りのプレイヤーとしても活動していました。渋いのどにも定評があったのですが、それに見切りをつけてピアニストに専念するようになった理由はなんでしょう? あるとき、本人に聞いてみました。
「ナット・キング・コールと約束したんだよ。彼もわたしと同じで弾き語りが得意だった。プレイのスタイルも似ていたし、声もそっくりだ。これじゃあ仕事がバッティングしてしまう。お互いにそう考えていたんだね」
 コールといえば、《クルーナー》と呼ばれる深いバリトン・ヴォイスが魅力の人気シンガーです。ピアニストとしても一流で、ポピュラー・シンガーとして人気を爆発させる前は、こちらも弾き語りの名手で知られていました。
「知り合ったのはニューヨークに出たあとだから、1950年代の初めだった。ピアノ・トリオといえば、ピアノにベースにドラムスの編成が一般的だが、わたしたちのトリオはドラムスではなくギターを入れた編成だった。これは少し前に流行っていた組み合わせなんだ。あの時代にギター入りのピアノ・トリオは珍しいものになっていた。だから、それが共通しているのも互いのマイナス・ポイントになると思った」(ピーターソン)
 コールもピアノを弾かせれば相当なテクニシャンで売っていましたし、ピーターソンも歌をうたわせればやはりクルーナー系の渋いのどに特徴があります。つまり、ふたりはそっくりさんでした。そこであるとき話し合いがもたれます。
「どちらが提案したのか忘れたが、なんとなくこのままじゃまずいという雰囲気になっていた。そこでナットと会ったときに、これからはどちらかがピアニストでどちらかがシンガーに絞って活動しないかという話になった」
 ピーターソンはかなりの巨体です。お相撲さんもそうですが、体の大きなひとには美声の持ち主が多いみたいですね。彼の話し声も低音で、あたたかい響きが実に魅力的です。しかも黒人特有のなまりがほとんどありません。これはカナダ生まれが理由かもしれないですが。
「それでナットのほうが年上だから、彼に決めてもらうことにした。ナットはシンガーでいきたいというので、それならわたしはピアニストで、ということになった」

 どちらの選択も正しかったようです。ピーターソンはのちにノーマン・グランツが経営するレコード会社(クレフ、ノーグラン、ヴァーヴ、パブロ)で優れたピアノ・アルバムを連発して、ジャズ・ピアノの最高峰にのぼりつめます。コールはコールで1956年からテレビ番組の『ナット・キング・コール・ショウ』をスタートさせ、それによってジャズの世界を飛び出して国民的な人気者になりました。
「しまったと思ったのがそのころだ。シンガーのほうが一般的にアピール度は高い。そちらを選べばよかったと何度思ったことか」
 後悔したとピーターソンはいいますが、その顔を見れば本気でないこともわかります。彼はピアニストとしてキャリアを積んできたことに誇りを感じ、充分に満足していました。それは次のひとことからもわかります。
「同じころ(1956年)からわたしは多くのチャンスをもらうようになった。大物ミュージシャンとの録音やさまざまなシンガーのバックも務めるようになった。その合間に自分の吹き込みもしていたし、ツアーで世界中を回るようにもなった。こんなに充実していていいのだろうか? 恵まれたポジションを与えられたことに感謝したものだ」
 こう語るときのピーターソンは、過去を懐かしむように目を細め、笑顔を浮かべていました。慈愛に溢れた微笑みはアルバム・ジャケットで何度も目にしていたものと同じです。コールとは生涯の友だったことも教えてくれました。だから、彼が1965年にこの世を去ったときは強いショックに見舞われたといいます。
「肉親の死と同じくらい悲しかった。それであのトリビュート・アルバムを作ったんだ。尊敬の気持ちを表したくてね」

 それがピーターソンの弾き語り作品『ウィズ・リスペクト・トゥ・ナット』(ライムライト)です。コールのおはこをピーターソンが歌う。そのヴォーカルは、声も含めて節回しまでまさにコールそっくりです。これなら、別々の道を歩もうと決めたことも理解できるんじゃないでしょうか。
 ただし、ピーターソンはこれを最後にヴォーカル・アルバムは長いこと封印していました。
「それがナットに対してわたしが示せる敬慕の念というものだよ。ヴォーカル作品を出してほしいというリクエストはいまもある。でも、わたしはナットとの約束を大切にしたい」
 ピーターソンの冥福も心からお祈りします。
by jazz_ogawa | 2008-01-12 10:02 | 愛しのJazz Man | Trackback | Comments(6)
 THE QUARTETの演奏を聴いて気分が盛り上がってきたので、明日のコンサートに弾みをつけるため、ハービー・ハンコックについてのエピソードをひとつ。これは、来春発売する『愛しのジャズメン パート3』に掲載予定の原稿です。
 どうしてハービーからこの話を聞いたかのいきさつは端折ります。気になる方は、拙著発売の暁にお読みください、と、これは前宣伝です、早すぎますが。

「わたしはマイルスのバンドに5年と少し在籍したが、毎回クビになるんじゃないかと思って演奏していた」
 ハンコックがマイルスのクインテットに抜擢されたのは1963年5月のこと。当時、マイルスはグループの再編に取りかかっていた。2ヵ月前にはベースのロン・カーターを迎えたし、ハンコックが加入する直前に参加したのが17歳のドラマー、トニー・ウィリアムスだった。テナー・サックス奏者だけが以前からのジョージ・コールマンで、マイルスのクインテットはこのメンバーで新たなスタートを切る。
「1年ほど前にドナルド・バードがわたしをマイルスの家に連れていってくれた。そのときに弾いたピアノが、マイルスの心にずっと残っていたんだろう。それもあって、ロンとトニーを得ていた彼は、このリズム・セクションに一番フィットするのがわたしと考えてくれたようだ。そこでわたしたち3人を家に呼んで、リハーサルをすることになった」
 ところが、マイルスはなんの注文も出さない。ハンコックにしても残りふたりにしても、どうやったらいいのか、皆目見当がつかない。
「3~4日、マイルスの家でリズム・セクションだけの演奏をした。最後にマイルスも加わって、少しだけ一緒にプレイしたのかな? それで“明日レコーディングするからスタジオに来い”っていわれた。わたしが、“それはあなたのグループのメンバーになるってことですか?”って聞くと、マイルスに“レコーディングするのかしないのか”ってムッとされた」
 ハンコックは、どうしていいのかわからないので前任者のウイントン・ケリーやビル・エヴァンスのプレイを見習い、同じように演奏していたという。それを2~3ヵ月続けていたら、どうにもフラストレーションが溜まってきた。
「出身地のシカゴで演奏したときに、溜まりに溜まったものが爆発して、自分のやりたいように弾いてしまった。これでクビだなと思いながら楽屋に戻ると、マイルスは“どうしていままでそういう風に演奏しなかったんだ”といってくれた。彼は、誰のコピーでもない、わたしにしかできないプレイが聴きたかったのさ」
 それでも、ハンコックはグループを去るまで試行錯誤を続けていた。マイルスの音楽はいつも進化していたからだ。それに追いついていけなければ、即刻クビになる。その恐怖心が常につきまとっていたから、緊張感のある演奏が維持できたと振り返る。名盤と呼ばれる『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』をライヴ・レコーディングしたときも、ハンコックは大きなミスをしたそうだ。
「タイトル曲のイントロを、うっかりして、打ち合わせとはまったく違うスタイルで弾いてしまった。録音テープは回っているし、途中でやめるわけにいかない。それでこのときもクビを覚悟して、コンサートが終わるまで、あとはいつも以上に緊張して演奏した」
 ところがこのときもマイルスは褒めてくれた。その話を聞いたせいか、以来このアルバムを耳にすると、マイルスとハンコックの間に漂ういつにないぴりぴりした緊張感が感じられるようになった。気のせいかもしれないが。
 しかし、やがてハンコックにもマイルスのグループを去る日がやってくる。ミスをしたからではない。病気で仕事に穴を開けてしまったのが理由だ。その穴を埋めたチック・コリアが、そのまま後任としてマイルスのクインテットに加わることになった。
「世の中、そういうものだよ。マイルスからは大きなレッスンを受けた気持ちだった。常に自分であれ。そういう感じで、わたしたちにはやりたいようにやらせてくれた。責任は自分が取るから、といった態度でね。その姿勢をわたしも見習っている」

 さて明日のTHE QUARTET。このような緊張感とは別種でしょうが、やはりある種の緊張感が漂うものになるんじゃないでしょうか? 4人の思いは知るよしもありません。しかしいつもと違う気持ちで演奏することだけは、何となく察せられます。いやぁ、楽しみになってきました。
by jazz_ogawa | 2007-10-18 16:25 | 愛しのJazz Man | Trackback | Comments(16)
 偉大なドラマーのマックス・ローチが去る8月15日に亡くなりました。享年83歳。
 ローチといえば、ぼくには硬骨漢のイメージがあります。1960年に発表した『ウィ・インシスト』(キャンディド)のイメージが強いからでしょう。人種差別に真正面から音楽で抗議した作品です。ジャケット写真がとても鮮烈でした。なにしろお客さんが黒人で、店員が白人なんですから。このジャケットは、タイトルや収録された「Freedom Now Suite」と共に当時は大きな物議をかもしたようです。
 人種差別が社会問題として盛り上がっていた時代です。一部の黒人ミュージシャンも音楽を通して自己主張をするようになっていました。チャールズ・ミンガスと共にその先端に立っていたのがローチです。

「表面的には人種差別も少なくなり、どこの高校や大学でも黒人が入学するのに拒否されることはなくなった。けれど30年足らず前には人種差別に端を発した事件がそこらじゅうで起こっていた。30年も経っていない最近の話だということを忘れないでほしい」
 ローチがこの話をしてくれたのは20年ほど前のことです。彼の口癖は《イコール・オポチュニティ(機会均等)》。口調は穏やかでも、主張は明確でした。そこに、激しい人種差別の時代を生き抜いてきたひとの確たる信念がうかがえます。

 過激な抗議をする一方で、ローチは先輩を敬う気持ちもひと一倍強い人物でした。83年のことです。モダン・ドラミングの始祖と呼ばれるドラマーのジョー・ジョーンズを救済するベネフィット・コンサートがニューヨークの「ヴィレッジ・ゲイト」で開かれました。しばらく前から心臓病を患っていた彼の療養費を集めるのが目的のコンサートです。
 そのとき、来場したジョーンズに寄り添い、甲斐甲斐しく面倒を看ていたローチの姿を、居合わせたすべてのひとは忘れないでしょう。ジョーンズの乗った車椅子を、用意された席まで押して、抱きかかえるようにゆったりとした椅子に座らせた彼。その後は、食べものや飲みもの、時間が来れば薬も飲ませるなど、親身になって世話をしていた姿が目に焼きついています。
 コンサートは昼夜を通して行なわれたのですが、ジョーンズが会場にいたのは2時間ほどでしょうか。そして家に戻る時間がきました。帰り間際に、どうしてもひとことお礼がいいたいといい、席に座ったままで彼がマイクを手にします。

「来てくれたみなさんにありがとうといわせてください。ジャズは本当に素晴らしい音楽です。その素晴らしい音楽がわたしたちを結びつけています。肌の色も宗教も、年齢も男女の差もなく、ジャズは心をひとつにしてくれます。わたしはここにいるマックスよりずいぶん年上ですが、そのことを彼から教えられました。まさしく、今日、みなさんがこの会場にいらっしゃったことがその証拠です。みなさんとマックスに幸がありますように。どうもありがとう」
 ローチがハイハットをジョーンズのところまで運んできました。そして彼に聴いてもらおうと、ハイハットだけの演奏を始めます。ジョーンズが《オール・アメリカン・リズム・セクション》と呼ばれていた時代に評判を呼んだ<ミスター・ハイハット>。ハイハットをさまざまな奏法で叩くことによってひとつの曲にしてしまう名人芸です。
 それを聴きながら、ジョーンズがおぼつかない手で、ローチから予備のスティックを受け取りました。思わぬ共演の始まりです。ローチがテンポを落として、ジョーンズのペースに合わせます。演奏しながらローチがハイハットの高さを、椅子に座っているジョーンズに合わせました。その間にもジョーンズは調子を確かめるようにしてハイハットを叩いています。そして一瞬のブレーク。
 驚く光景を目撃したのは次の瞬間でした。ジョーンズがローチを脇にやり、ひとりでハイハットを叩き始めたではないですか。テンポも元に戻っています。目にも見えぬ鮮やかなスティックさばきで次々とフレーズを重ねていきます。絶好調を取り戻したかのように淀みがありません。ドラムスの神様が乗り移ったかのようです。ぼくの目にはそう映りました。
 そのときのことを何年もあとになってローチに聞いてみました。
「あのときは本当に目の前に神様がいた。正しい機会さえあれば、誰でも実力が発揮できる。そのことをパパ・ジョーからは改めて教えてもらった気がする」

 ローチには、マイルス・デイヴィスのことやクリフォード・ブラウンのことについて何度も話を聞かせてもらいました。いつも紳士然とした態度が印象に残っています。しかしひとたび人種差別に話題を向けると、いつも熱い口調で自分たちの立場についてを語ってくれました。
 ジョーンズも、そして最後まで人種問題に心を痛めていたローチもいまはいません。天国でふたりして<ミスター・ハイハット>の続きを楽しんでいるのじゃないでしょうか。
by jazz_ogawa | 2007-08-22 00:32 | 愛しのJazz Man | Trackback(3) | Comments(10)
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