キース・ジャレットのコンサートは、トリオでもソロでも、いつも聴き手に心地よい緊張感を与えてくれます。昨夜(10月20日)、池袋の東京芸術劇場で聴いた彼のソロ・パフォーマンスも、緊張感の中にぬくもりが感じられる素晴らしい内容でした。
ビル・エヴァンスと比較されることの多いキースです。しかしキースが決定的に違うのは、同じ美しさでも、エヴァンスの繊細で触れれば冷凍したバラが粉々に砕け散るようなあやうい美しさに対して、強く触れてもびくともしない力強さを伴っている点でしょうか。
キースのソロ・コンサートは、ほとんど純粋なインプロヴィゼーションです。ときには途切れることなく、1回のステージの中でさまざまな表情を見せながら演奏が進行していきます。しかし今回は1曲が5分前後と、比較的短い曲を各ステージで7~8曲演奏したでしょうか。
穏やかな表情のもの、激しいパッションを感じさせる演奏。ゴスペル調の曲を演奏したときは、中腰姿勢で足を踏み鳴らし、リズムを取っていました。クラシックに通ずる荘厳な演奏も定番です。万華鏡のように、ひとつひとつの曲が多彩な表情を持っています。
曲が終わると、ひと呼吸おき、あるいはグラスの水をひとくち飲んで、すぐ次の曲に向かいます。その間に新たな創造の心や力を得るのでしょうか? 曲間のインターヴァルがちょっと短い気もしたのですが、それだけいまのキースは音楽に没頭しているのか、創造性に溢れているのでしょう。
ただしぼくだけかもしれませんが、その素早い気持ちの転換にときとしてついて行くことができなかったのも事実です。これは否定的な意味ではありません。それだけ、彼とぼくの音楽的なレヴェルが違うことを痛感した次第です。
その場でキースの素晴らしい音楽に触れていたことは間違いありません。しかし、自分の理解力不足で彼の音楽がリアルタイムでは咀嚼できないもどかしさも同時にひしひしと感じました。音楽の奥深さ、そしてキースの常に前進している姿に、いろいろな意味でショックを受けたのです。
考えてみると、初来日した1974年以来、ぼくはキースのライヴを30年以上にわたってコンスタントに観てきました。これだけ長い間、平均すれば数年に一度の割合になるかと思いますが、コンスタントにひとりのアーティストを観続けてきた例はあまりありません。
マイルスにしたって、途中で6年の隠居時代がありますし、多くのアーティストはいつの間にか音沙汰がなくなってしまいました。そんな中で、キースはいつも素晴らしい音楽や演奏を聴かせてくれています。その彼の音楽にこれほど距離感を覚えたことは初めてでした。
キースの演奏は、明らかにジャズ・クラブや気楽な場所で寛いで聴くジャズとは違います。コンサート・ホールのようなフォーマルな場所で聴く音楽です。一概には言えませんが、ジャズ・クラブで演奏されるものをエンタテインメントとするなら、昨日聴いたキースの演奏はアートに近いものでした。
言葉で音楽をジャンルわけするのは本意でありません。しかし、例えば「ブルーノート」で聴くハービー・ハンコックやチック・コリアの音楽とはまったく質が違います。エンタテインメントとしてのジャズ。こちらにジャズの本質があるのかもしれません。それに比べると、キースの音楽は本来的なジャズとはかなり異なっています。
しかしジャズが誕生して100年。この間にさまざまな革命的発展がありました。そして、その中でキースは自分なりに最高の創造性を凝縮させることで独自の音楽を確立したのです。
帰りに、ぼくはこれまでに聴いたキースのコンサートの数々、そしてさまざまな作品に思いを巡らせていました。とても池袋から田町までの時間では追いかけきれません。それで家に帰ってからも、明け方近くまで彼の作品を聴きながら、いろいろな場面を思い返していました。
コンサートを聴いて何に触発されたのか。それは自分にもよくわかりません。しかし、これほどそのひとの音楽のことを考えてみたいという衝動にかられたことは滅多にありません。そんな反応を起こした自分にびっくりもしました。
多分、ぼくは悔しかったのでしょう。そしてそれ以上に嬉しかったのです。キースの音楽についていけなかったことが。40年間本気でジャズを聴いてきても、まだ未知の部分があるということです。
これが斬新な音楽や突拍子もない方法論で成された演奏なら、これほどの衝撃は受けなかったと思います。そんなものなのね、で終わったかもしれません。ところが、キースはぼくが慣れ親しんできた手法で、こちらの想像をはるかに上回る演奏をしてみせたのです。
思えば、ニューヨークに住んでみたのも、その直前に菊地雅章とギル・エヴァンスの対談を読んで、彼らの話していることがさっぱり理解できなかったのが発端でした。ニューヨークで彼らが体験していることを知らなければ、ふたりの話は理解できない。そして、ぼくは彼らの話についていけるようになりたかった。それが、いくつかある留学した理由のひとつです。
いま、ぼくはあのときと似た気持ちを感じています。次にキースがソロ・コンサートをするときまでに、何とか彼のレヴェルに達していたい。しかしキースはさらに先を行っていることでしょう。この追いかけっこを、ぼくはしばらく楽しみたいと思います。