- モッタイナイはクリエイティブ/文:char[ 2008-08-11 12:14 ]
- 音を出さないかっこよさ/文:char[ 2008-07-29 15:15 ]
- こころで感じる音/文:char[ 2008-07-08 13:48 ]
- ネタの合間にギターを弾くBAHOライブ/文:char[ 2008-03-28 14:56 ]
- 音楽はやっぱりライブ!/文:char[ 2008-02-15 16:15 ]
- 自宅のリフォーム計画のその後/文・char[ 2008-02-05 12:13 ]
- 使い捨てられるCD-R /文:char[ 2007-11-13 16:34 ]
- どうしても捨てられないもの / 文:char[ 2007-11-05 11:53 ]
- もったいないお言葉 / 文:char[ 2007-10-16 13:03 ]
- お茶を買う?水を買う? / 文:char[ 2007-10-06 19:16 ]
カテゴリ:char
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モッタイナイはクリエイティブ/文:char
日本には四季があるから、常夏の島みたいに一年中同じファッションではいられない。
季節に応じてファッションも変えていくわけだけど、そこで「どうせだったら四季それぞれにおしゃれして楽しもう」って考えるのは、人間の知恵だと思うんだな。
だからおしゃれの本質みたいな部分はやっぱり気候や用途に合わせた機能性だろうし、逆に機能を追求していくと自然とおしゃれになる。
ファッションに限らずデザインっていうのはそういうものだと思うよ。
過去を振り返れば機能性を無視したデザインが濫造された時代や、デザインよりもブランドネームが価値を持った時代もあったけど、現代はモッタイナイやエコロジーへの関心が高いから、見た目だけじゃなくてどれだけ無駄が少ないか、自然や環境に優しいか、ということがデザインの大きな目標になっているよね。
何年か前に、うちの奥さんに教えてもらったイタリアのブランドなんだけど、そこは一度作った生地や素材を、その服の流行が終わっても捨てずに取っておくんだな。
そして何年後かに、その生地を使って今度はバッグや靴なんかの小物を作るんだ。
そうすると、例えば3年前に買った服も最近は飽きちゃって着てないな、という人がそれを見つけて、この小物に合わせてまたあの服を着てみようかな、という気になる。
毎年々、一回売り出して終わりだと、作りすぎたものや売れ残ったものが無駄になっていくだけだけど、こうやって前とは違う形でリバイバルさせていくと、使う側の我々も手に入れたものは長く使おうという風に思うようになるよね。
さすがイタリア人。うまいこと考えるなあって思った。
それはきっと長い歴史をひとつのブランドとしてつないでいる強さだよね。
ただ、どの素材でももリバイバルやリサイクルに向いているわけではないと思うんだ。この生地でバッグは作れないとか、今の流行にこのデザインはあわないとかね。
でも、そういう条件とか制約がある中でいろいろ知恵を絞っていくと、思わぬ工夫や斬新なデザインが思いついたりするんだよ。
そうして新しいものが生み出されていく。
モッタイナイっていうと倹約、節約っていうイメージばかりだけど、いかにしてモノを無駄なくうまく使っていくかっていう、実はものすごくクリエイティブな発想や活動なんだと思う。
それが基本だし、それ以外の何物でもないと思うよ。
季節に応じてファッションも変えていくわけだけど、そこで「どうせだったら四季それぞれにおしゃれして楽しもう」って考えるのは、人間の知恵だと思うんだな。
だからおしゃれの本質みたいな部分はやっぱり気候や用途に合わせた機能性だろうし、逆に機能を追求していくと自然とおしゃれになる。
ファッションに限らずデザインっていうのはそういうものだと思うよ。
過去を振り返れば機能性を無視したデザインが濫造された時代や、デザインよりもブランドネームが価値を持った時代もあったけど、現代はモッタイナイやエコロジーへの関心が高いから、見た目だけじゃなくてどれだけ無駄が少ないか、自然や環境に優しいか、ということがデザインの大きな目標になっているよね。
何年か前に、うちの奥さんに教えてもらったイタリアのブランドなんだけど、そこは一度作った生地や素材を、その服の流行が終わっても捨てずに取っておくんだな。
そして何年後かに、その生地を使って今度はバッグや靴なんかの小物を作るんだ。
そうすると、例えば3年前に買った服も最近は飽きちゃって着てないな、という人がそれを見つけて、この小物に合わせてまたあの服を着てみようかな、という気になる。
毎年々、一回売り出して終わりだと、作りすぎたものや売れ残ったものが無駄になっていくだけだけど、こうやって前とは違う形でリバイバルさせていくと、使う側の我々も手に入れたものは長く使おうという風に思うようになるよね。
さすがイタリア人。うまいこと考えるなあって思った。
それはきっと長い歴史をひとつのブランドとしてつないでいる強さだよね。
ただ、どの素材でももリバイバルやリサイクルに向いているわけではないと思うんだ。この生地でバッグは作れないとか、今の流行にこのデザインはあわないとかね。
でも、そういう条件とか制約がある中でいろいろ知恵を絞っていくと、思わぬ工夫や斬新なデザインが思いついたりするんだよ。
そうして新しいものが生み出されていく。
モッタイナイっていうと倹約、節約っていうイメージばかりだけど、いかにしてモノを無駄なくうまく使っていくかっていう、実はものすごくクリエイティブな発想や活動なんだと思う。
それが基本だし、それ以外の何物でもないと思うよ。
音を出さないかっこよさ/文:char
音楽について最近感じているのは、音を出さないかっこよさが分かってきたってこと。
若い頃はとにかくエネルギーの高い方向に目線が行くから、こいつの早弾きはすげえとか、この音の厚みがいいとか、すぐ目につくようなところばかり見ている。
それがだんだん年齢を重ねてくると、例えば誰かのギターソロを聴いていて「どうしてここの音を弾かないんだろう」と感じたときに、それが「ははあん、なるほど」って合点がいくことがある。
「間」というか、あえて音を出さないかっこよさというのかな。
そういうことを思うのは自分が日本人だからということも関係してるんだと思うよ。
西洋音楽っていうのは基本的に拍子があって、演奏者同士でカウントを取りながら「せーの」って始まるんだけど、日本の雅楽は何もないところから「・・・ん、ふわー」っと始まって「ふわー、ん・・・」と終わる。「無」という原点から出でて、また帰るという感じだよね。
そういう「音がない」っていうことを、我々日本人は敏感に感じてるんじゃないかな。サウンド・オブ・サイレンスというかね。
音楽の中にもそういう日本の日本たる文化があるんだから、もっと学校でも子どもたちに教えてあげればいいのにね。ビバルディだベートーヴェンだって、自分たちとまるで違う習慣の国のことを教えるのもいいけどさ。
もったいない・・・
っと、なんとなくオチがついたかな。
若い頃はとにかくエネルギーの高い方向に目線が行くから、こいつの早弾きはすげえとか、この音の厚みがいいとか、すぐ目につくようなところばかり見ている。
それがだんだん年齢を重ねてくると、例えば誰かのギターソロを聴いていて「どうしてここの音を弾かないんだろう」と感じたときに、それが「ははあん、なるほど」って合点がいくことがある。
「間」というか、あえて音を出さないかっこよさというのかな。
そういうことを思うのは自分が日本人だからということも関係してるんだと思うよ。
西洋音楽っていうのは基本的に拍子があって、演奏者同士でカウントを取りながら「せーの」って始まるんだけど、日本の雅楽は何もないところから「・・・ん、ふわー」っと始まって「ふわー、ん・・・」と終わる。「無」という原点から出でて、また帰るという感じだよね。
そういう「音がない」っていうことを、我々日本人は敏感に感じてるんじゃないかな。サウンド・オブ・サイレンスというかね。
音楽の中にもそういう日本の日本たる文化があるんだから、もっと学校でも子どもたちに教えてあげればいいのにね。ビバルディだベートーヴェンだって、自分たちとまるで違う習慣の国のことを教えるのもいいけどさ。
もったいない・・・
っと、なんとなくオチがついたかな。
こころで感じる音/文:char
長らくごぶさたしてしまいました。
ちょうど、このMOTTAINAI Labの中に「MOTTAINAI sound~未来の子どもたちへ」というコンテンツがあって、海や山やいろいろな場所で採集された音を聞けるようになっているので、今回は「音」について書いてみます。
俺はミュージシャンだけど、だからってギターの音を始終ガンガン聞いていたいわけじゃない。海辺でのんびりしながら水平線に沈んでいく夕日なんか眺めているときには、もう波の音さえあれば十分。他には何もいらないね。
そして、それから日が落ちて辺りが暗闇になると、一層静けさが増したようになって、遠くにいる動物の息づかいや夜空をシューッと横切る流れ星の音もはっきり聞こえたように感じる。耳には聞こえてないはずなのに、どこかで感じているんだろうね。
元来、音楽っていうのは、そうした自然界にある音を模倣したものだと思うんだ。
獣の吠える声とか川を水が流れる音、じわじわと盛り上がってくる海鳴りの音とか、そういう音を人間が口まねや楽器を使って再現しようとしたところから音楽は始まったんじゃないかな。だから、所詮人間が作り出す音楽は擬似的なものでしかないし、自然が織りなす音にはどうしたってかなわないと思うよ。
不思議なことに人間っていうのは、そういう音を聞き分けられる感性を持っているんだな。こういう音は危険な感じ、こういう音は安らぐ、こういう音の近くには何かいいものがあるかもしれない、とか。それはこの地球上で生き抜くために、長い時間をかけてDNAに刻まれた本能かもしれない。
そして、人間にはいろんな民族があって遺伝的にも文化的にも違っているのに、その感性っていうのはだいたい一致しているっていうのも面白いね。
だから世界中どこに行って演奏しても、楽しい歌は楽しい歌として、悲しい歌は悲しい歌としてちゃんと伝わる。
よく言われることだけど、音楽は人類に共通の、言語を超えた言語なんだなあと実感するよ。
ちょうど、このMOTTAINAI Labの中に「MOTTAINAI sound~未来の子どもたちへ」というコンテンツがあって、海や山やいろいろな場所で採集された音を聞けるようになっているので、今回は「音」について書いてみます。
俺はミュージシャンだけど、だからってギターの音を始終ガンガン聞いていたいわけじゃない。海辺でのんびりしながら水平線に沈んでいく夕日なんか眺めているときには、もう波の音さえあれば十分。他には何もいらないね。
そして、それから日が落ちて辺りが暗闇になると、一層静けさが増したようになって、遠くにいる動物の息づかいや夜空をシューッと横切る流れ星の音もはっきり聞こえたように感じる。耳には聞こえてないはずなのに、どこかで感じているんだろうね。
元来、音楽っていうのは、そうした自然界にある音を模倣したものだと思うんだ。
獣の吠える声とか川を水が流れる音、じわじわと盛り上がってくる海鳴りの音とか、そういう音を人間が口まねや楽器を使って再現しようとしたところから音楽は始まったんじゃないかな。だから、所詮人間が作り出す音楽は擬似的なものでしかないし、自然が織りなす音にはどうしたってかなわないと思うよ。
不思議なことに人間っていうのは、そういう音を聞き分けられる感性を持っているんだな。こういう音は危険な感じ、こういう音は安らぐ、こういう音の近くには何かいいものがあるかもしれない、とか。それはこの地球上で生き抜くために、長い時間をかけてDNAに刻まれた本能かもしれない。
そして、人間にはいろんな民族があって遺伝的にも文化的にも違っているのに、その感性っていうのはだいたい一致しているっていうのも面白いね。
だから世界中どこに行って演奏しても、楽しい歌は楽しい歌として、悲しい歌は悲しい歌としてちゃんと伝わる。
よく言われることだけど、音楽は人類に共通の、言語を超えた言語なんだなあと実感するよ。
ネタの合間にギターを弾くBAHOライブ/文:char
2月からBAHOツアー2008が始まり、それから1ヶ月と少しの間、ギター片手に全国津々浦々を回ってきた。
このBAHOでは、全国各地の会館等が独自にイベントを企画する、いわゆる「会館自主事業」というやつでお呼びがかかることが多い。
今どきは日本全国どこへ行っても、新幹線の停車駅があるような街の近郊には、必ずと言っていいほど最新設備の立派な会館がこさえられている。
そういうところの年間スケジュールを見ると、大体がクラシックとか軽音楽、コーラスなんかのコンサートで、ロックバンドなんてまずあり得ないだろうって感じなんだけど、そういう意味ではBAHOはしゃべりあり、ネタあり、合間に演奏ありという、いわゆる「演芸」だからね。
それで会館の方でも「いっちょやってみっか」ということになるんじゃないかな。きっと。
俺がまだ人のバックで演奏していた三十数年前は、ツアーで地方に行くと女子高生はロングスカートのセーラー服にお下げ髪、男子は丸刈り頭、ほっぺたは真っ赤っかってのが当たり前の時代だったから、いざライブが始まっても客席は鳩に豆鉄砲みたいな顔していてね。
どうしてなかなかロックが日本で売れないのか、そのとき直観した気がしたよ。
今では東京と地方の格差は無くなってきているけれども、お客さんの反応っていうのは様々で、ライブが始まってみないと本当に分からない。
ある時、畑の真ん中にぽつんと建っているような会館でライブをやって、いきなりお客さんを驚かしちゃいけないから様子を見ながら、なんて思っていたら、もう音が聞こえた瞬間に拳を突き上げてこれモンで飛び跳ねちゃってね。
どうしよう?これ?って、バンドと顔を見合わせた。
ちょっと待ってよ、俺たちを置いていくなよ、って。
そうかと思えば、ときには正反対の場合もあるしね。
そういえば昔、Creedence Clearwater Revivalっていうバンドが来日したときに武道館へ見に行ったことがある。
ところが日本人ってPoliteな民族だから、向こうが一生懸命やればやるほどお行儀よく拍手で応えちゃうんだ。
いつもはビールとかバーボン片手に酔っぱらって彼女といちゃいちゃしながら、イエーイ!って盛り上がってるような奴らを相手にしているバンドだから、客席の反応を見て「自分たちは受けてない」と思ったんだろうね。
拍手喝采の中、アンコールもやらずに帰っちゃったんだよ。
そうしたら客がみんな怒っちゃって、窓を割る、火を放つ、機動隊が出るの大騒ぎ。そのエネルギーを最初から出しておけばいいのにね。
演奏は最高だったんだけど、ステージと客席の気持ちがすれ違っちゃう。そういうのを目の当たりにして、アウェーでやるのって難しいもんだなと学んだ気がしたね。
俺はライブっていうのは宴会と一緒だと思っているんだ。
最初は緊張してぎくしゃくしていても、最後にはもう誰も彼もなく打ち解けていくところが楽しい。そうじゃない?
だから例えばフェスティバルで持ち時間30分とか決められていると、こっちの作戦の立て方も変わってくる。
お客さんの雰囲気とか、出番が昼か夜かとか、いろんなことを考えるしね。
そういうステージと客席の駆け引きは、三十何年やってきてもまったく変わりがない。相変わらず緊張感は高いし、また楽しみなところでもあるんだ。
でも、石田長生という関西人と十数年BAHOをやってきて、鍛えられたなあと感じることがある。
俺はMCでもあまりしゃべる方じゃなかったし、オマエらこのサウンドを聴け、みたいな感じだったんだけど、石やんは当たり前のように客席とボケツッコミしてる。
お客さんが「石や~ん、石や~ん」ってしつこく呼んでいたら、「誰が漬物屋の大将やねん」って返して。
俺はそういうことに慣れてないから、そのときは「こいつ何言ってんだ」と思ったね。もうDNAに演芸が刻み込まれているんじゃないかと思った。
関西のお客さんっていうのは、ステージの上の俺にどんどん話しかけてくるし、ライブが終わるとステージに上がってきて「この服かっこいいやん。どこで買うてん。」とか訊いてくる。
最初の頃は面食らって「演奏の話じゃないのかよ。」とか思ってたんだけど、だんだん慣れて「かっこいいやろ?既製品ちゃうでえ。」なんて受け答えができるようになってきた。
だから石やんとBAHOをやるようになって、コール&レスポンスとか会場の雰囲気を読むのが得意になっちゃったね。残念ながら。
ただ、未だに苦手なことがあって、それはギターを持たずに人前に立つこと。
以前もギターの弦が切れたときに、スタッフが演奏中にそれを持ってどこかへ行っちゃったことがあって、しばらくの間ギターなしでマイクの前に立ちつくすしかなかった。もうどうしていいか分からなかったな。
あるべきものがあるべきところに無くて、裸で人前に出された気分だった。ギターじゃなくてもいいから、その辺にいる犬でも何でも抱きかかえたかったよ。
結婚式の乾杯のあいさつでさえも、やっと最近できるようになってきたくらいで、それも長い時間は無理。とんでもない。
もうそれだけギター持っているのが当たり前だし、マイク一本でスポットライト浴びるなんて想像しただけでも恥ずかしいよ。本当に考えられない。
でももし、見たいっていうリクエストがたくさん集まったら、やってみてもいいかな。
Charがギターを弾かないライブ。
え?お呼びでない?
そらまた失礼しました。
テケテンテンテン・・・
このBAHOでは、全国各地の会館等が独自にイベントを企画する、いわゆる「会館自主事業」というやつでお呼びがかかることが多い。
今どきは日本全国どこへ行っても、新幹線の停車駅があるような街の近郊には、必ずと言っていいほど最新設備の立派な会館がこさえられている。
そういうところの年間スケジュールを見ると、大体がクラシックとか軽音楽、コーラスなんかのコンサートで、ロックバンドなんてまずあり得ないだろうって感じなんだけど、そういう意味ではBAHOはしゃべりあり、ネタあり、合間に演奏ありという、いわゆる「演芸」だからね。
それで会館の方でも「いっちょやってみっか」ということになるんじゃないかな。きっと。
俺がまだ人のバックで演奏していた三十数年前は、ツアーで地方に行くと女子高生はロングスカートのセーラー服にお下げ髪、男子は丸刈り頭、ほっぺたは真っ赤っかってのが当たり前の時代だったから、いざライブが始まっても客席は鳩に豆鉄砲みたいな顔していてね。
どうしてなかなかロックが日本で売れないのか、そのとき直観した気がしたよ。
今では東京と地方の格差は無くなってきているけれども、お客さんの反応っていうのは様々で、ライブが始まってみないと本当に分からない。
ある時、畑の真ん中にぽつんと建っているような会館でライブをやって、いきなりお客さんを驚かしちゃいけないから様子を見ながら、なんて思っていたら、もう音が聞こえた瞬間に拳を突き上げてこれモンで飛び跳ねちゃってね。
どうしよう?これ?って、バンドと顔を見合わせた。
ちょっと待ってよ、俺たちを置いていくなよ、って。
そうかと思えば、ときには正反対の場合もあるしね。
そういえば昔、Creedence Clearwater Revivalっていうバンドが来日したときに武道館へ見に行ったことがある。
ところが日本人ってPoliteな民族だから、向こうが一生懸命やればやるほどお行儀よく拍手で応えちゃうんだ。
いつもはビールとかバーボン片手に酔っぱらって彼女といちゃいちゃしながら、イエーイ!って盛り上がってるような奴らを相手にしているバンドだから、客席の反応を見て「自分たちは受けてない」と思ったんだろうね。
拍手喝采の中、アンコールもやらずに帰っちゃったんだよ。
そうしたら客がみんな怒っちゃって、窓を割る、火を放つ、機動隊が出るの大騒ぎ。そのエネルギーを最初から出しておけばいいのにね。
演奏は最高だったんだけど、ステージと客席の気持ちがすれ違っちゃう。そういうのを目の当たりにして、アウェーでやるのって難しいもんだなと学んだ気がしたね。
俺はライブっていうのは宴会と一緒だと思っているんだ。
最初は緊張してぎくしゃくしていても、最後にはもう誰も彼もなく打ち解けていくところが楽しい。そうじゃない?
だから例えばフェスティバルで持ち時間30分とか決められていると、こっちの作戦の立て方も変わってくる。
お客さんの雰囲気とか、出番が昼か夜かとか、いろんなことを考えるしね。
そういうステージと客席の駆け引きは、三十何年やってきてもまったく変わりがない。相変わらず緊張感は高いし、また楽しみなところでもあるんだ。
でも、石田長生という関西人と十数年BAHOをやってきて、鍛えられたなあと感じることがある。
俺はMCでもあまりしゃべる方じゃなかったし、オマエらこのサウンドを聴け、みたいな感じだったんだけど、石やんは当たり前のように客席とボケツッコミしてる。
お客さんが「石や~ん、石や~ん」ってしつこく呼んでいたら、「誰が漬物屋の大将やねん」って返して。
俺はそういうことに慣れてないから、そのときは「こいつ何言ってんだ」と思ったね。もうDNAに演芸が刻み込まれているんじゃないかと思った。
関西のお客さんっていうのは、ステージの上の俺にどんどん話しかけてくるし、ライブが終わるとステージに上がってきて「この服かっこいいやん。どこで買うてん。」とか訊いてくる。
最初の頃は面食らって「演奏の話じゃないのかよ。」とか思ってたんだけど、だんだん慣れて「かっこいいやろ?既製品ちゃうでえ。」なんて受け答えができるようになってきた。
だから石やんとBAHOをやるようになって、コール&レスポンスとか会場の雰囲気を読むのが得意になっちゃったね。残念ながら。
ただ、未だに苦手なことがあって、それはギターを持たずに人前に立つこと。
以前もギターの弦が切れたときに、スタッフが演奏中にそれを持ってどこかへ行っちゃったことがあって、しばらくの間ギターなしでマイクの前に立ちつくすしかなかった。もうどうしていいか分からなかったな。
あるべきものがあるべきところに無くて、裸で人前に出された気分だった。ギターじゃなくてもいいから、その辺にいる犬でも何でも抱きかかえたかったよ。
結婚式の乾杯のあいさつでさえも、やっと最近できるようになってきたくらいで、それも長い時間は無理。とんでもない。
もうそれだけギター持っているのが当たり前だし、マイク一本でスポットライト浴びるなんて想像しただけでも恥ずかしいよ。本当に考えられない。
でももし、見たいっていうリクエストがたくさん集まったら、やってみてもいいかな。
Charがギターを弾かないライブ。
え?お呼びでない?
そらまた失礼しました。
テケテンテンテン・・・
音楽はやっぱりライブ!/文:char
ブログに付けてくれたコメントを見るのを、いつも楽しみにしています。
みんな、どうもありがとう。
茶箱の話で、「お母さんのウェディングドレスが真っ白なまま出てきてびっくり!」というコメントがあったけど、本当にその気持ちよく分かる!
うちでも無造作に裸で入れてあった写真や雑誌が、紙同士がひっついたりすることなく当時のままの状態に保たれていて、そのときは我が目を疑ったよ。
やっぱり古くから使われているだけあって、茶箱の素材や形が日本の気候にちょうどよく合っているんだろうね。
俺の棺桶も茶箱で作ってほしいくらいだ。すっごく綺麗なミイラができるんだろうな。(笑)
野音の話に対するコメントを読んでいて思ったのは、今の日本って大人が生の音楽を楽しもうとすると、「さあ、おしゃれな服を着て。さあ、高級な料理を食べて。」って、そんな店ばかりなんじゃねえの?ってこと。
イギリスやアメリカでは、普段飲みに行くようなパブとかカフェとかにバンドが入っていて、ライブをやってるところが多いんだよ。
常連達がぶらっと遊びに来たついでに演奏を聴いているようなね。
大人も若者も関係なく日常の暮らしの身近なところに音楽があるし、そういう風に楽しむのが本来の音楽なんじゃないかな。
文化の違いかも知れないけど、日本はライブっていうとすぐにミニコンサートみたいなノリになっちゃうし、それが野音くらいの大きさになると本当に音楽を聴くためだけに出かけていくという感じになる。
もし大人達の遊び場に、いつでも気軽に来れてお金もかからないで演奏が聴けるような場所があったら、きっと若い人達だって集まってくると思うよ。
俺の仲間同士で「じゃあ渋谷でも遊びに行こうか」ってことになっても、若者向けの店だと25時とか26時スタートなんてところが多くて、俺たちの世代じゃついていけないところがある。それで結局いつも居酒屋ばかりになっちゃうんだよな。
おじちゃん・おばちゃんと、兄ちゃん・姉ちゃんが、同じひとつの事で盛り上がれるような場が、もっともっとあってもいいのにね。
ライブって言えば、最近は衛星放送やケーブルテレビでも音楽専門チャンネルが増えてきて、それはそれでいいことだと思うんだけれど、中身はというとPV流すばかりでライブの映像がほとんどない。
予算的な問題もあるかも知れないけど、それだったら逆に、まだCDも出せないような駆け出しのバンドを集めてきて、スタジオで演奏させて放送すればいいと思うよ。
今時はCDでもPVでも、パソコン使ってアマチュアがそれなりのものを作れちゃうから、そういうメディアからは本当の姿が見えてこないというか、違いが表に出にくいよね。パソコンさえ上手くいじれれば、いくらでも演出できちゃうからね。
音楽番組なんかで同じステージにいろいろなバンドが集まれば、「あいつはすごい」とか「あいつには負けねえ」っていう気持ちが出てきて、それでまた一生懸命に練習に励んだりするもんだよ。
東京にはすっごい数のライブハウスがあるから、毎日毎晩、何十というバンドがライブやってるんだろうけど、100とか200程度のキャパを埋めることができて、CDも自分達で作ってライブハウスやネットでそこそこの数を売って、そういうことで終始しちゃってんじゃないのかな。
ライブハウスやバンドも多いし情報も溢れるほど多いから、逆に「ちょっとすごいやつがいるらしいぜ」なんていう噂も、それに埋もれちゃって隅々までは伝わらないっていう面があると思う。
やる方も聴く方も細分化しちゃってて、大きいムーブメントは起こりにくいよね。
最近は、東京、大阪、名古屋だけじゃなくて、いわゆる地方に面白いやつらが多いと思うよ。俺達みたいにロックを聴いて青春期を過ごした世代が、今では地方でそれなりの地位を得て政治や行政の中心にいたりして、そういう人達が地域活性化の一環とかで立派なホールを造ったり若いやつら集めてイベントを催したりしているんだ。
固定ファンの割合が多い東京のライブハウスなんかと違って、お客さんも老若男女いろんな人が来るし、どこのバンドに誰がいるっていう情報もすぐに広まるからライバル心も育ちやすい。そういう環境で生き残っていくには、個性やプロ意識を強く持ち続けていないとだめだろうね。だから地方で人気のあるやつは、誰しも光るものがあるよ。
それに加えて本当にうらやましいと思うのは、練習する場所が探せばいくらでもあるってこと。昼間から深夜まで大音響で楽器鳴らしても、お隣さんは1キロ先だから苦情も来ない、なんていうのも珍しくないだろうからね。
この数年、レコード会社がこぞって沖縄に新人バンドを探しに行っているのも、そういう環境が沖縄にはそろっているからなんじゃないかな。
東京でも俺達の世代を含めた縦のつながりとバンド同士の横のつながりをもっと強くして、才能のあるやつがちゃんと見いだされて上に行けるような環境を作っていってほしいよね。
それにはレコード会社や放送局も含めて、俺達大人が下地を作っていかなければいけないんだろうな。
みんな、どうもありがとう。
茶箱の話で、「お母さんのウェディングドレスが真っ白なまま出てきてびっくり!」というコメントがあったけど、本当にその気持ちよく分かる!
うちでも無造作に裸で入れてあった写真や雑誌が、紙同士がひっついたりすることなく当時のままの状態に保たれていて、そのときは我が目を疑ったよ。
やっぱり古くから使われているだけあって、茶箱の素材や形が日本の気候にちょうどよく合っているんだろうね。
俺の棺桶も茶箱で作ってほしいくらいだ。すっごく綺麗なミイラができるんだろうな。(笑)
野音の話に対するコメントを読んでいて思ったのは、今の日本って大人が生の音楽を楽しもうとすると、「さあ、おしゃれな服を着て。さあ、高級な料理を食べて。」って、そんな店ばかりなんじゃねえの?ってこと。
イギリスやアメリカでは、普段飲みに行くようなパブとかカフェとかにバンドが入っていて、ライブをやってるところが多いんだよ。
常連達がぶらっと遊びに来たついでに演奏を聴いているようなね。
大人も若者も関係なく日常の暮らしの身近なところに音楽があるし、そういう風に楽しむのが本来の音楽なんじゃないかな。
文化の違いかも知れないけど、日本はライブっていうとすぐにミニコンサートみたいなノリになっちゃうし、それが野音くらいの大きさになると本当に音楽を聴くためだけに出かけていくという感じになる。
もし大人達の遊び場に、いつでも気軽に来れてお金もかからないで演奏が聴けるような場所があったら、きっと若い人達だって集まってくると思うよ。
俺の仲間同士で「じゃあ渋谷でも遊びに行こうか」ってことになっても、若者向けの店だと25時とか26時スタートなんてところが多くて、俺たちの世代じゃついていけないところがある。それで結局いつも居酒屋ばかりになっちゃうんだよな。
おじちゃん・おばちゃんと、兄ちゃん・姉ちゃんが、同じひとつの事で盛り上がれるような場が、もっともっとあってもいいのにね。
ライブって言えば、最近は衛星放送やケーブルテレビでも音楽専門チャンネルが増えてきて、それはそれでいいことだと思うんだけれど、中身はというとPV流すばかりでライブの映像がほとんどない。
予算的な問題もあるかも知れないけど、それだったら逆に、まだCDも出せないような駆け出しのバンドを集めてきて、スタジオで演奏させて放送すればいいと思うよ。
今時はCDでもPVでも、パソコン使ってアマチュアがそれなりのものを作れちゃうから、そういうメディアからは本当の姿が見えてこないというか、違いが表に出にくいよね。パソコンさえ上手くいじれれば、いくらでも演出できちゃうからね。
音楽番組なんかで同じステージにいろいろなバンドが集まれば、「あいつはすごい」とか「あいつには負けねえ」っていう気持ちが出てきて、それでまた一生懸命に練習に励んだりするもんだよ。
東京にはすっごい数のライブハウスがあるから、毎日毎晩、何十というバンドがライブやってるんだろうけど、100とか200程度のキャパを埋めることができて、CDも自分達で作ってライブハウスやネットでそこそこの数を売って、そういうことで終始しちゃってんじゃないのかな。
ライブハウスやバンドも多いし情報も溢れるほど多いから、逆に「ちょっとすごいやつがいるらしいぜ」なんていう噂も、それに埋もれちゃって隅々までは伝わらないっていう面があると思う。
やる方も聴く方も細分化しちゃってて、大きいムーブメントは起こりにくいよね。
最近は、東京、大阪、名古屋だけじゃなくて、いわゆる地方に面白いやつらが多いと思うよ。俺達みたいにロックを聴いて青春期を過ごした世代が、今では地方でそれなりの地位を得て政治や行政の中心にいたりして、そういう人達が地域活性化の一環とかで立派なホールを造ったり若いやつら集めてイベントを催したりしているんだ。
固定ファンの割合が多い東京のライブハウスなんかと違って、お客さんも老若男女いろんな人が来るし、どこのバンドに誰がいるっていう情報もすぐに広まるからライバル心も育ちやすい。そういう環境で生き残っていくには、個性やプロ意識を強く持ち続けていないとだめだろうね。だから地方で人気のあるやつは、誰しも光るものがあるよ。
それに加えて本当にうらやましいと思うのは、練習する場所が探せばいくらでもあるってこと。昼間から深夜まで大音響で楽器鳴らしても、お隣さんは1キロ先だから苦情も来ない、なんていうのも珍しくないだろうからね。
この数年、レコード会社がこぞって沖縄に新人バンドを探しに行っているのも、そういう環境が沖縄にはそろっているからなんじゃないかな。
東京でも俺達の世代を含めた縦のつながりとバンド同士の横のつながりをもっと強くして、才能のあるやつがちゃんと見いだされて上に行けるような環境を作っていってほしいよね。
それにはレコード会社や放送局も含めて、俺達大人が下地を作っていかなければいけないんだろうな。
自宅のリフォーム計画のその後/文・char
“俺の自宅をリフォームするために、今は亡き両親の荷物を整理している。”
という話を昨年の9月に書きました。
一体どれだけの量の物があるのか、文字通り“先の見えない闘い”に覚悟を決めて挑んだわけだけれど、「この苦労は息子であるジェシーにも身をもって味わわせておかねばならぬ!」と、自宅へ呼び出して手伝わせることにしたんだ。
今ここで俺が何をしてるかっていうことを、見て知っておいてもらいたいと思ってね。
少しずつ部屋から物を運び出して片付けを進めていくと、今まで部屋の奥に隠れていた空間から、見覚えのある箪笥が現れた。
昭和ではなく、大正や明治の時代を強く感じさせる趣の箪笥だ。
そこにしまわれた物に陽の光が当たるのも恐らく50年ぶりくらいなので、引き出しを開ける時には「いざ御開帳!」なんて気分だったね。
その中からは、俺が子どもの時に目撃したきり所在不明になっていた8ミリの映写機や、その当時の懐かしい物が色々と出てきたよ。
息子はこの状況を目の当たりにして「これはトレジャーハンティングだ!」なんて面白いこと言ってたね。
息子にとっては、自分のおじいちゃんやおばあちゃん、果ては曾じいちゃんや曾ばあちゃんの時代の物ばかりなわけで、それはまるで映画で見る遺跡の発掘や海賊の宝探しのような体験だったんじゃないかな。
それが自分のご先祖様とはいっても、まるで現実感はなかっただろうね。
そんなこんなで何とか片付けも一段落したんだけど、何といっても大変だったのは写真の整理だった。
俺の兄弟なんかは「どうせ誰も見ないんだから捨てちゃえよ」なんて軽く言うんだけど、その写真にまつわる旅行の思い出話を親父やお袋から散々聞かされていたから、やっぱりなかなか踏ん切りがつかないんだよ。
でも、軽く二、三百冊はあるアルバムをそのまま残しておくわけにもいかないから、“風景や景色だけで親父もお袋も写っていない写真は有無を言わず捨てる。”とルールを決めた。それから、あまり表情が良くないのもどんどん捨てていった。
いつか息子や、もしかしたら孫がこの写真を見たときに、「自分のじいちゃん、ばあちゃんってこんな人だったんだ、こんな顔してたんだ。」っていう感じで何気なく楽しんでもらえたらいいなと、そんなことを考えながら、残す写真を選んでいったんだ。
今回、自宅をリフォームすることになって、建築や内装工事の専門家から話を聞いたり、打ち合わせをする機会が多くなった。
そういう話をするのは二十数年ぶりなんだけど、もうその頃とは使う資材や材料がずいぶん変わっているのに驚いたね。
ちょっとした壁とか床とかの素材とか、電気製品もそうだけど、エコとか節約という考え方が当たり前のように採り入れられている。
リフォームには内装、電気、家具、左官、その他にもいろいろな業種の人が関わるけど、その人達がそれぞれの職業の中で「エコロジー」や「もったいない」を考えていて、みんなでひとつのものを形作ろうとするときには、共通言語としてまずそれが出てくるんだ。
例えば湿気や臭いを吸収してくれる壁紙があって、余分なエネルギーを消費することなく生活に役立つ機能を果たしてくれたり・・・。
エアコンも最新型は消費電力が大幅に低くなっているし、それからトイレもすごい。30年前は一回あたり20リットルの水を流していたそうだけど、最新のトイレはその3分の1とか4分の1の水で同じようにキレイに流しちゃう。
そういうことを知ると、今までいかに無駄な生活をしていたかって思うよ。
日本が好景気に浮かれていた時代には、何かモノを選ぶときには色とか形とか、そんな外見ばかりを考えていたんだけど、虚飾を廃して機能性を追求していくとモノは自然とかっこよくなるんだなって思った。
無駄がないっていうのはカッコイイことだよね。
「人間も自然の恵みを享受するだけじゃなくて、共存していくことを考えなければ未来はない、」という状況が差し迫っていると思うし、それを進めていけば自然との共生につながっていくと思う。
つまり自然から何かを得ようとするなら、ほかの何かを我慢する、または保護する。そして人間から自然へも還元する。
そういう人間と地球の“持ちつ持たれつの関係”を作り上げて、その中でいい循環を作っていかないと、本当に今の地球環境の問題に未来はないと思うんだ。
もちろん現代生活の利便性は、にわかに手放せるものではないし、日々それにまみれて生きている自分がいるわけだけど、これからのライフスタイルは産業が発展する以前の「のどかな日本」の時代に近づいていくと思うし、そうしたいね。
という話を昨年の9月に書きました。
一体どれだけの量の物があるのか、文字通り“先の見えない闘い”に覚悟を決めて挑んだわけだけれど、「この苦労は息子であるジェシーにも身をもって味わわせておかねばならぬ!」と、自宅へ呼び出して手伝わせることにしたんだ。
今ここで俺が何をしてるかっていうことを、見て知っておいてもらいたいと思ってね。
少しずつ部屋から物を運び出して片付けを進めていくと、今まで部屋の奥に隠れていた空間から、見覚えのある箪笥が現れた。
昭和ではなく、大正や明治の時代を強く感じさせる趣の箪笥だ。
そこにしまわれた物に陽の光が当たるのも恐らく50年ぶりくらいなので、引き出しを開ける時には「いざ御開帳!」なんて気分だったね。
その中からは、俺が子どもの時に目撃したきり所在不明になっていた8ミリの映写機や、その当時の懐かしい物が色々と出てきたよ。
息子はこの状況を目の当たりにして「これはトレジャーハンティングだ!」なんて面白いこと言ってたね。
息子にとっては、自分のおじいちゃんやおばあちゃん、果ては曾じいちゃんや曾ばあちゃんの時代の物ばかりなわけで、それはまるで映画で見る遺跡の発掘や海賊の宝探しのような体験だったんじゃないかな。
それが自分のご先祖様とはいっても、まるで現実感はなかっただろうね。
そんなこんなで何とか片付けも一段落したんだけど、何といっても大変だったのは写真の整理だった。
俺の兄弟なんかは「どうせ誰も見ないんだから捨てちゃえよ」なんて軽く言うんだけど、その写真にまつわる旅行の思い出話を親父やお袋から散々聞かされていたから、やっぱりなかなか踏ん切りがつかないんだよ。
でも、軽く二、三百冊はあるアルバムをそのまま残しておくわけにもいかないから、“風景や景色だけで親父もお袋も写っていない写真は有無を言わず捨てる。”とルールを決めた。それから、あまり表情が良くないのもどんどん捨てていった。
いつか息子や、もしかしたら孫がこの写真を見たときに、「自分のじいちゃん、ばあちゃんってこんな人だったんだ、こんな顔してたんだ。」っていう感じで何気なく楽しんでもらえたらいいなと、そんなことを考えながら、残す写真を選んでいったんだ。
今回、自宅をリフォームすることになって、建築や内装工事の専門家から話を聞いたり、打ち合わせをする機会が多くなった。
そういう話をするのは二十数年ぶりなんだけど、もうその頃とは使う資材や材料がずいぶん変わっているのに驚いたね。
ちょっとした壁とか床とかの素材とか、電気製品もそうだけど、エコとか節約という考え方が当たり前のように採り入れられている。
リフォームには内装、電気、家具、左官、その他にもいろいろな業種の人が関わるけど、その人達がそれぞれの職業の中で「エコロジー」や「もったいない」を考えていて、みんなでひとつのものを形作ろうとするときには、共通言語としてまずそれが出てくるんだ。
例えば湿気や臭いを吸収してくれる壁紙があって、余分なエネルギーを消費することなく生活に役立つ機能を果たしてくれたり・・・。
エアコンも最新型は消費電力が大幅に低くなっているし、それからトイレもすごい。30年前は一回あたり20リットルの水を流していたそうだけど、最新のトイレはその3分の1とか4分の1の水で同じようにキレイに流しちゃう。
そういうことを知ると、今までいかに無駄な生活をしていたかって思うよ。
日本が好景気に浮かれていた時代には、何かモノを選ぶときには色とか形とか、そんな外見ばかりを考えていたんだけど、虚飾を廃して機能性を追求していくとモノは自然とかっこよくなるんだなって思った。
無駄がないっていうのはカッコイイことだよね。
「人間も自然の恵みを享受するだけじゃなくて、共存していくことを考えなければ未来はない、」という状況が差し迫っていると思うし、それを進めていけば自然との共生につながっていくと思う。
つまり自然から何かを得ようとするなら、ほかの何かを我慢する、または保護する。そして人間から自然へも還元する。
そういう人間と地球の“持ちつ持たれつの関係”を作り上げて、その中でいい循環を作っていかないと、本当に今の地球環境の問題に未来はないと思うんだ。
もちろん現代生活の利便性は、にわかに手放せるものではないし、日々それにまみれて生きている自分がいるわけだけど、これからのライフスタイルは産業が発展する以前の「のどかな日本」の時代に近づいていくと思うし、そうしたいね。
使い捨てられるCD-R /文:char
パソコンっていうのは今や、学校にも職場にも家庭にも入り込んできていて、必要不可欠なものになっているよね。
そのデータをやり取りするときに便利なのがCD-Rというやつだ。
もちろん音楽業界でも、日々、大量のCD-Rがあっちこっちで飛び交っていているわけなんだけど、こいつがまた一度焼いたデータは二度と消せないという代物だから、データを消去して再利用という使い方ができない。
用が済んだらゴミ箱に捨てるしかなくて、本当にもったいねえ。
たった今レコーディングした音をその場でCDにできて、完成品のCDと変わらないクオリティで聴ける。なおかつ値段も安い、と便利で手軽なのは分かるんだ。
でも明日になればまた、別のテイクを録音して新しくCD-Rを焼く。ギターソロだけ録り直したらまたCD-Rも作り直す。そしてその都度バンドメンバーやエンジニア、事務所、レコード会社、その他諸々の人数分のCD-Rを焼くんだから、一曲作るにも、ものすごい数が消費されていることになる。それがアルバム一作分となったら・・・本当に途方もない。
そして何度も繰り返し聴かれることもなく、ひょっとしたら一度も聴かれないまま使い捨てられていく。そういう使われ方では、モノとしての寿命があまりにも短いと思うよ。
だから俺は、レコーディングした音を家でチェックするのにもMDを愛用しているんだ。MDなら何度でも消去して新しいデータを入れられるからね。
昔々その昔は音が劣化するのを覚悟の上で1本の120分カセットテープを使い回してたんだ。それに比べれば、MDはデジタルで基本的に音が劣化しないから何の不満もない。俺は別にオーディオマニアじゃないから、音をチェックするのだってクルマの中だったり、何でもない普通のCDコンポだったりする。MDで必要にして十分だよ。
「物を捨てない」ということももちろんだけど、「捨てるような物はなるべく作らない」ことも、「もったいない精神」のひとつなんじゃないかな。
レコード業界も、今これだけケータイやPCでネットから音楽を買うことが広まってきているのだから、もう音楽をCDでセールスすることにこだわらない方がいいよね。
音だけ欲しいという人には音だけダウンロード販売すればいいし、ジャケットや歌詞や解説を含めてアルバムを手元に持ちたいという人には、例えばLPレコードサイズのブックレットを付けるとか、値は張っても本当に満足してずっと手放さないと思ってもらえるくらいの物を提供すればいい。
実のところ、ジャケットもサウンドも何ヶ月もかかって一生懸命に作っているのにできあがった物がCDのあのサイズだと、これだけかよ?ってちょっとがっかりするんだよね。やっぱり。
************************************
MOTTAINAI-Labスタッフからのお知らせ
『使い捨てられるCD-R』。みなさんは、もったいないと思いますか?
コレってMOTTAINAI?では、アンケート実施中です。
charさんからのお題<No,025:1回使うだけのCD-R>のYes/Noにぜひ参加してください。
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そのデータをやり取りするときに便利なのがCD-Rというやつだ。
もちろん音楽業界でも、日々、大量のCD-Rがあっちこっちで飛び交っていているわけなんだけど、こいつがまた一度焼いたデータは二度と消せないという代物だから、データを消去して再利用という使い方ができない。
用が済んだらゴミ箱に捨てるしかなくて、本当にもったいねえ。
たった今レコーディングした音をその場でCDにできて、完成品のCDと変わらないクオリティで聴ける。なおかつ値段も安い、と便利で手軽なのは分かるんだ。
でも明日になればまた、別のテイクを録音して新しくCD-Rを焼く。ギターソロだけ録り直したらまたCD-Rも作り直す。そしてその都度バンドメンバーやエンジニア、事務所、レコード会社、その他諸々の人数分のCD-Rを焼くんだから、一曲作るにも、ものすごい数が消費されていることになる。それがアルバム一作分となったら・・・本当に途方もない。
そして何度も繰り返し聴かれることもなく、ひょっとしたら一度も聴かれないまま使い捨てられていく。そういう使われ方では、モノとしての寿命があまりにも短いと思うよ。
だから俺は、レコーディングした音を家でチェックするのにもMDを愛用しているんだ。MDなら何度でも消去して新しいデータを入れられるからね。
昔々その昔は音が劣化するのを覚悟の上で1本の120分カセットテープを使い回してたんだ。それに比べれば、MDはデジタルで基本的に音が劣化しないから何の不満もない。俺は別にオーディオマニアじゃないから、音をチェックするのだってクルマの中だったり、何でもない普通のCDコンポだったりする。MDで必要にして十分だよ。
「物を捨てない」ということももちろんだけど、「捨てるような物はなるべく作らない」ことも、「もったいない精神」のひとつなんじゃないかな。
レコード業界も、今これだけケータイやPCでネットから音楽を買うことが広まってきているのだから、もう音楽をCDでセールスすることにこだわらない方がいいよね。
音だけ欲しいという人には音だけダウンロード販売すればいいし、ジャケットや歌詞や解説を含めてアルバムを手元に持ちたいという人には、例えばLPレコードサイズのブックレットを付けるとか、値は張っても本当に満足してずっと手放さないと思ってもらえるくらいの物を提供すればいい。
実のところ、ジャケットもサウンドも何ヶ月もかかって一生懸命に作っているのにできあがった物がCDのあのサイズだと、これだけかよ?ってちょっとがっかりするんだよね。やっぱり。
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MOTTAINAI-Labスタッフからのお知らせ
『使い捨てられるCD-R』。みなさんは、もったいないと思いますか?
コレってMOTTAINAI?では、アンケート実施中です。
charさんからのお題<No,025:1回使うだけのCD-R>のYes/Noにぜひ参加してください。
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どうしても捨てられないもの / 文:char
捨てるに捨てられない思い出の品というのは、誰しもひとつやふたつは持っているだろう。もう二度と使うことなんてないだろうに、後生大事にとってあるアレだ。
俺の場合はジーンズとレコードがそれ。
ジーンズは、若い頃にアメリカを旅したときに田舎町のフリーマーケットで見つけたリーバイス517のオリジナル。それは旅の思い出でもあるし、自分のアルバムのジャケットだとかスチールなんかの撮影でもよく履いていたから、自分の過去の本当に多くの場面を一緒に過ごしたジーンズなんだ。
もう今では、悪い病気にでもならなければあの頃の体型には戻れないだろうから、もう一度それを身に着けるという可能性はほとんどない。
でも、それを不要物だとかゴミだとかという風には思えないね。絶対。
ジーンズって素材自体が丈夫だし、すり切れたり穴が開いたりしても、モノとしての存在感とか味わいは一層深まるものだと思う。そういう質実剛健なところが、戦後を生きてきた俺らの世代を象徴しているような気がするしね。だからジーンズという存在そのものにも愛着とか思い入れがあるんだろうな。きっと。
うちの奥さんが趣味で洋裁やパッチワークをやっているんだけど、その素材になるような古着や端切れをいつも探しているんだ。だから俺のジーンズもいつかは奥さんの手で、買い物バッグやクッションにされてしまうんだろうと思ってるよ。
「これいらないなら使うわよ?」と言われても、最初は頑なに拒否するけど、「あの世まで持って行くつもりなの?」なんて迫られたら「はい、どうぞ」って差し出しちゃうかもね。
レコードは数は多くないけど、俺にとってはまさに教本だったもの。
当時の自分にとってはLPって高価なものだったから、本当に欲しいものだけしか買えなかった。だから一枚のLPを何万回繰り返し聞いたか分からない。
しかも「クラプトンのここのソロ」とか「ここの間奏から」って感じで、同じフレーズばかりリピートして一生懸命に耳コピしていたから、そこだけ溝がすり減って針が飛ぶようになっちゃった。
そういうレコードだからていねいには扱ってないし、傷だらけでコレクター的な価値なんて皆無だけど、俺にとっては青春のすべてを注いだ歴史の記録であり、本当に大切な思い出なんだよね。
思い出は心から消えることはないけど、その当時のモノを目にすれば一瞬にしてそのときの感情や気分が呼び覚まされる。思い出の品ってそういうもんなんだよね。
だから、どんな取るに足らないようなモノでも、もったいなくて捨てられないんだな。
俺の場合はジーンズとレコードがそれ。
ジーンズは、若い頃にアメリカを旅したときに田舎町のフリーマーケットで見つけたリーバイス517のオリジナル。それは旅の思い出でもあるし、自分のアルバムのジャケットだとかスチールなんかの撮影でもよく履いていたから、自分の過去の本当に多くの場面を一緒に過ごしたジーンズなんだ。
もう今では、悪い病気にでもならなければあの頃の体型には戻れないだろうから、もう一度それを身に着けるという可能性はほとんどない。
でも、それを不要物だとかゴミだとかという風には思えないね。絶対。
ジーンズって素材自体が丈夫だし、すり切れたり穴が開いたりしても、モノとしての存在感とか味わいは一層深まるものだと思う。そういう質実剛健なところが、戦後を生きてきた俺らの世代を象徴しているような気がするしね。だからジーンズという存在そのものにも愛着とか思い入れがあるんだろうな。きっと。
うちの奥さんが趣味で洋裁やパッチワークをやっているんだけど、その素材になるような古着や端切れをいつも探しているんだ。だから俺のジーンズもいつかは奥さんの手で、買い物バッグやクッションにされてしまうんだろうと思ってるよ。
「これいらないなら使うわよ?」と言われても、最初は頑なに拒否するけど、「あの世まで持って行くつもりなの?」なんて迫られたら「はい、どうぞ」って差し出しちゃうかもね。
レコードは数は多くないけど、俺にとってはまさに教本だったもの。
当時の自分にとってはLPって高価なものだったから、本当に欲しいものだけしか買えなかった。だから一枚のLPを何万回繰り返し聞いたか分からない。
しかも「クラプトンのここのソロ」とか「ここの間奏から」って感じで、同じフレーズばかりリピートして一生懸命に耳コピしていたから、そこだけ溝がすり減って針が飛ぶようになっちゃった。
そういうレコードだからていねいには扱ってないし、傷だらけでコレクター的な価値なんて皆無だけど、俺にとっては青春のすべてを注いだ歴史の記録であり、本当に大切な思い出なんだよね。
思い出は心から消えることはないけど、その当時のモノを目にすれば一瞬にしてそのときの感情や気分が呼び覚まされる。思い出の品ってそういうもんなんだよね。
だから、どんな取るに足らないようなモノでも、もったいなくて捨てられないんだな。
もったいないお言葉 / 文:char
プロ野球選手の胸元に光るネックレス。
ビジュアル系ミュージシャンの天に向かって一直線に逆立った髪の毛。
今でこそテレビで当たり前のように流れている一場面だけれども、三十数年前は放送中にガムをかんでいただけで視聴者からクレームが押し寄せる、という時代だった。だから俺も、しょっちゅう局のお偉いさんにしかられてたね。
若さ故というか、何か気に入らないことがあったりすると態度や行動に出さずにはいられなかったし、目立ちたい、人と違うことをしたい、という気持ちも強かったからね。
ある時、現場のスタッフと意見がぶつかって腹の虫が治まらなかったんで、テレビカメラが自分の手元をアップにしたときに写るように、ちょっとアレな英語のフレーズをギターに書いておいたんだ。いたずら心でね。
当時はそんな言葉を誰も知らないから、そのまま気づかれずに放送されたんだけど、俺は心の中でほくそ笑んでいたよ。番組を見た外人には結構うけて、「お前、あれ最高だったよ!」なんて言われてた。
またある時は、ゴムぞうり姿で生放送に出たら「あれはけしからん」みたいな電話がジャンジャンかかってきて、局の人に呼び出されてしかられた。俺も反発して「どこにゴムぞうり禁止って書いてあんの?」なんて屁理屈をこねてたな。
そんなこんなで、当時の俺は言いたいことは言う、気に入らないことはしない、という若造だったので、それを見かねた某ラジオ放送局の社長が「そういう態度なら出す人出すぞ。覚悟しろよ。」と言って、俺をとあるところに連れて行った。
誰が出てくるのかと思ったら、ミュージシャンの間では親分的存在の大先輩の某氏が現れたんだ。その人は俺の言うことにも耳を傾けてくれて、それなりに理解もしてくれたんだけど、そのときに言われた言葉は今でも忘れられない。
「お前はスターになりたいのか?スターっていうのは「星」だ。現実に存在するけれども遠く手が届かないものだ。お客さんというのは、そういう偶像を求めているのだし、そういうところに夢を見ているんだ。お前がそうやって思うまま、感じるままを態度に表すのも悪いことじゃない。でもそれはある個人の実像でしかない。空に輝く星のように現実と幻想の姿を併せ持つ者、その間を上手に行き来できる者だけが、本物のスターになれるんだ。」
そのとき俺は目から鱗が落ちたような気がして、心の底からの感謝の気持ちで「ありがとうございました」と頭を下げた。プロとしてやっていく上での大事なことを学んだという気持ちだった。
今から思うと、その大先輩が語ってくれたのは、若造だった俺にとっては本当に「もったいないお言葉」だったのかもしれないね。
ビジュアル系ミュージシャンの天に向かって一直線に逆立った髪の毛。
今でこそテレビで当たり前のように流れている一場面だけれども、三十数年前は放送中にガムをかんでいただけで視聴者からクレームが押し寄せる、という時代だった。だから俺も、しょっちゅう局のお偉いさんにしかられてたね。
若さ故というか、何か気に入らないことがあったりすると態度や行動に出さずにはいられなかったし、目立ちたい、人と違うことをしたい、という気持ちも強かったからね。
ある時、現場のスタッフと意見がぶつかって腹の虫が治まらなかったんで、テレビカメラが自分の手元をアップにしたときに写るように、ちょっとアレな英語のフレーズをギターに書いておいたんだ。いたずら心でね。
当時はそんな言葉を誰も知らないから、そのまま気づかれずに放送されたんだけど、俺は心の中でほくそ笑んでいたよ。番組を見た外人には結構うけて、「お前、あれ最高だったよ!」なんて言われてた。
またある時は、ゴムぞうり姿で生放送に出たら「あれはけしからん」みたいな電話がジャンジャンかかってきて、局の人に呼び出されてしかられた。俺も反発して「どこにゴムぞうり禁止って書いてあんの?」なんて屁理屈をこねてたな。
そんなこんなで、当時の俺は言いたいことは言う、気に入らないことはしない、という若造だったので、それを見かねた某ラジオ放送局の社長が「そういう態度なら出す人出すぞ。覚悟しろよ。」と言って、俺をとあるところに連れて行った。
誰が出てくるのかと思ったら、ミュージシャンの間では親分的存在の大先輩の某氏が現れたんだ。その人は俺の言うことにも耳を傾けてくれて、それなりに理解もしてくれたんだけど、そのときに言われた言葉は今でも忘れられない。
「お前はスターになりたいのか?スターっていうのは「星」だ。現実に存在するけれども遠く手が届かないものだ。お客さんというのは、そういう偶像を求めているのだし、そういうところに夢を見ているんだ。お前がそうやって思うまま、感じるままを態度に表すのも悪いことじゃない。でもそれはある個人の実像でしかない。空に輝く星のように現実と幻想の姿を併せ持つ者、その間を上手に行き来できる者だけが、本物のスターになれるんだ。」
そのとき俺は目から鱗が落ちたような気がして、心の底からの感謝の気持ちで「ありがとうございました」と頭を下げた。プロとしてやっていく上での大事なことを学んだという気持ちだった。
今から思うと、その大先輩が語ってくれたのは、若造だった俺にとっては本当に「もったいないお言葉」だったのかもしれないね。
お茶を買う?水を買う? / 文:char
今どきはお茶や飲み水もペットボトルに入って売られているのが当たり前になったけど、それにはすごい違和感を感じるんだよね。
特に日本茶や麦茶というのは自分でお湯を沸かしていれるもんだと思っているから、工場で作られた出来合いのものを買ってくるなんて、余計なお金を払わされているようでもったいないよ。
自分が子どもの頃は、例えば麦茶でも家によって味が違うとか香りが違うとか、それぞれの家庭の味みたいなものがあった。それから、子どもたちは麦茶に砂糖を入れて甘くしたり、関西の方では冷やし飴っていう水飴を溶いた飲み物なんかで糖分を補給していたんだ。
カルピスが日本の夏を席巻する以前はね。
ペットボトルの日本茶や麦茶は確かにおいしいかもしれないけど、そういう家庭ごとのオリジナリティや工夫が感じられなくなって味気ない気もするかな。。
うちでは飲み水にもお茶にも、2リットルのペットボトルに汲み置きした水道水を使っていて、その中には備長炭を入れてある。ボトルが空になったら水道から水を足して冷蔵庫に一日置いておけば、それだけで十分においしい水になるよ。
備長炭っていうのは本当に優れもので、水や空気もきれいにするし、細かく砕いた備長炭を畳の下に敷いておくと湿気が取れていい、なんていう話も聞いたことがある。
昔ながらのもので最先端のハイテクでもなんでもないけど、備長炭のパワーには驚かされるし惚れ込んじゃうね。
もし、他のいろいろな活用法を知っていたら、ぜひ教えてください。

【うちでは水道水に炭を入れ、飲み水にしています】
水は毎日消費するものだから、ペットボトル一本は200円でも1ヶ月で考えたら結構馬鹿にならないお金になるし、ゴミだって増える。ペットボトルはリサイクルできるじゃん、とはいっても、それをするにも誰かがどこかでお金や熱エネルギーを消費しているんだよ。きっと。
そういう風に考えたら、やたらとお茶や水を買うのは、本当にもったいないと思うね。

【パソコン周りにも炭(赤と紺の袋)を置き、電磁波抑制しています】
特に日本茶や麦茶というのは自分でお湯を沸かしていれるもんだと思っているから、工場で作られた出来合いのものを買ってくるなんて、余計なお金を払わされているようでもったいないよ。
自分が子どもの頃は、例えば麦茶でも家によって味が違うとか香りが違うとか、それぞれの家庭の味みたいなものがあった。それから、子どもたちは麦茶に砂糖を入れて甘くしたり、関西の方では冷やし飴っていう水飴を溶いた飲み物なんかで糖分を補給していたんだ。
カルピスが日本の夏を席巻する以前はね。
ペットボトルの日本茶や麦茶は確かにおいしいかもしれないけど、そういう家庭ごとのオリジナリティや工夫が感じられなくなって味気ない気もするかな。。
うちでは飲み水にもお茶にも、2リットルのペットボトルに汲み置きした水道水を使っていて、その中には備長炭を入れてある。ボトルが空になったら水道から水を足して冷蔵庫に一日置いておけば、それだけで十分においしい水になるよ。
備長炭っていうのは本当に優れもので、水や空気もきれいにするし、細かく砕いた備長炭を畳の下に敷いておくと湿気が取れていい、なんていう話も聞いたことがある。
昔ながらのもので最先端のハイテクでもなんでもないけど、備長炭のパワーには驚かされるし惚れ込んじゃうね。
もし、他のいろいろな活用法を知っていたら、ぜひ教えてください。

水は毎日消費するものだから、ペットボトル一本は200円でも1ヶ月で考えたら結構馬鹿にならないお金になるし、ゴミだって増える。ペットボトルはリサイクルできるじゃん、とはいっても、それをするにも誰かがどこかでお金や熱エネルギーを消費しているんだよ。きっと。
そういう風に考えたら、やたらとお茶や水を買うのは、本当にもったいないと思うね。




































