1983年7月26日 帰国。
サンフンシスコ空港早朝。
早朝にもかかわらず、地元で知り合ったファンの人達が空港まで見送りに来ていた。
とても嬉しかった。
日本のロックファンが外タレの追っかけをして空港まで出迎えたり、見送りをしたり、こういう事は日本人ファンの専売特許と思っていたけれど、アメリカ人も同じことをするとは驚きだった。
もっとも、日本の追っかけの場合は多くが女の子であったりするのだけれど、ことメタルバンドに関してはアメリカやヨーロッパでは男性ファンの人達が熱心に追っかけをするようだ。
飛行機の離陸時間が変更になり、離陸までまだ5時時間以上あった。
離陸時間まで空港のレストランで待機することになった。
一緒にファンの人達もレストランまで移動。
さすがに朝が早いので彼らも疲れているようだったけれど・・・。
彼らも何か色々と話しかけてくれるのだが、いかんせん英語が通じないので気の毒だった。
彼らと会話らしい会話も出来ないまま、レストランでじっとお互い無言のまま時間を潰した。
それにしても飛行機の搭乗時間までずっと一緒にいてくれて本当に恐縮した。
いよいよ飛行機に搭乗する時間が来て、「又、絶対にアメリカに戻って来てくれよ!!」と言う彼等の切なる気持ちが痛いほど分かった。
いつまでも彼等は手を振ってくれた、僕達が見えなくなるまで・・・。
兎にも角にも、LOUDNESS初めての海外公演が終わった。
当時23歳だった僕にとって、この海外公演の経験はミュージシャンとしてとても大きく成長させたと思う。
勿論、一人の人間としてもこの貴重な体験は僕を大きく成長させたことは間違いない。
人から何百時間、話として教わっても決して得ることの出来ない大事な何かを体験できたのだ。
こういう体験をさせてくれたあらゆる人々に感謝の気持ちで一杯だった。
飛行機の窓からサンフランシスコの町を眺めながら、絶対にまたアメリカに戻って来るぞと何度も自分に言い聞かせた。
この時、LOUDNESSが再びアメリカに戻ってライブが出来る確たる根拠は無かったけれど、心のどこかでLOUDNESSは当然アメリカに再び戻ってくると信じきっていた。
LOUDNESSにとって、アメリカでどんな未来が待っているのか当然知る由も無かったけれど、確固たる信念と夢がこのバンドにはあった。
そう言う熱い気持ちがすべて将来の地図を書き換えるのだ。
決して夢は諦めてはいけない、捨ててはいけないのだ。
揺らぎの無い気持ちがあれば、自分の未来はその実現に向かってどんどん進む。
揺らぎの無い気持ちがあれば、すべての状況が整い始め、夢実現へと運命は変化進化していくものだ。
LOUDNESSはまさにそれを証明していたと思う。
沢山の出会い、貴重な体験を胸に僕達はこの国を後にした。
帰りの飛行機は長かった・・・・。
アメリカから帰ってきて一息つくまもなく、8月31日には大阪の野外ロックイヴェントに出演。
夏の野外イヴェントだったけれど、あまりの暑さと時差ボケで夢遊病者のような状態でライブをやってしまい、後でマネージェーにこっぴどく怒られた・・・。
時差は日本に戻ってきてからのほうがキツイようだった。
このライブ終了後、すぐさま「ロードレーサー」「蜃気楼」のシングルレコードのレコーディングのために数日スタジオに入った。
ちなみに、「ロードレーサー」はレース番組のテーマ曲として注文が来ていたので作りやすかった。
一つ具体的なテーマがあれば楽曲が作りやすいと言うことを知り、次のアルバムではこの手法で行こうとタッカンと話たりもした。
結局、そんな方法では次のアルバムは作らなかったけれど・・・。
レコーディングをしながら雑誌などのメディア取材を受ける。
アメリカ公演直後ではあったけれど、その話題が出るのはロック雑誌ぐらいなもので、まだ一般誌に取り上げられる程ほどではなかった。
シングルレコーディング後には、すぐに始めてのヨーロッパ公演も間近に迫り、尚且つ、そのツアー直後には4枚目のアルバムのレコーディングがイギリスはロンドンで待っていた。
僕達はシングルの曲を作りながらも、次のアルバム「ディスイリュージョン」の楽曲も作ることになっていた。
まさにてんやわんや状態であった。
タッカンはいつ曲を作っているのかと思っていたけれど、アイデアは溢れていた。
まさに神が降りていた。
スタジオでは相変わらず爆音セッションで曲作りをやってはいたけれど、タッカンの歌メロディーや各楽器のアレンジの具体的な指定が顕著になった。
プログレシッブ度が高まり、複雑な楽曲アレンジを積極的に挑戦した。
この頃、アメリカ公演でバンドは益々一体感を増して、絆も強くなったと思う。
怒涛の勢いは誰にも予測できないほどに凄まじいものとなった。
そんな日々を送っていたある日、くたくたになって自分のアパートに戻ってポストの中を見るとエアーメールが届いていた。
(わっ!海外から手紙や・・・)
封筒に、”Michele”と言う名前が書いてあった。
僕は何度も何度も封筒を見た。
嬉しくって手が震えた・・・・。
サンフンシスコ空港早朝。
早朝にもかかわらず、地元で知り合ったファンの人達が空港まで見送りに来ていた。
とても嬉しかった。
日本のロックファンが外タレの追っかけをして空港まで出迎えたり、見送りをしたり、こういう事は日本人ファンの専売特許と思っていたけれど、アメリカ人も同じことをするとは驚きだった。
もっとも、日本の追っかけの場合は多くが女の子であったりするのだけれど、ことメタルバンドに関してはアメリカやヨーロッパでは男性ファンの人達が熱心に追っかけをするようだ。
飛行機の離陸時間が変更になり、離陸までまだ5時時間以上あった。
離陸時間まで空港のレストランで待機することになった。
一緒にファンの人達もレストランまで移動。
さすがに朝が早いので彼らも疲れているようだったけれど・・・。
彼らも何か色々と話しかけてくれるのだが、いかんせん英語が通じないので気の毒だった。
彼らと会話らしい会話も出来ないまま、レストランでじっとお互い無言のまま時間を潰した。
それにしても飛行機の搭乗時間までずっと一緒にいてくれて本当に恐縮した。
いよいよ飛行機に搭乗する時間が来て、「又、絶対にアメリカに戻って来てくれよ!!」と言う彼等の切なる気持ちが痛いほど分かった。
いつまでも彼等は手を振ってくれた、僕達が見えなくなるまで・・・。
兎にも角にも、LOUDNESS初めての海外公演が終わった。
当時23歳だった僕にとって、この海外公演の経験はミュージシャンとしてとても大きく成長させたと思う。
勿論、一人の人間としてもこの貴重な体験は僕を大きく成長させたことは間違いない。
人から何百時間、話として教わっても決して得ることの出来ない大事な何かを体験できたのだ。
こういう体験をさせてくれたあらゆる人々に感謝の気持ちで一杯だった。
飛行機の窓からサンフランシスコの町を眺めながら、絶対にまたアメリカに戻って来るぞと何度も自分に言い聞かせた。
この時、LOUDNESSが再びアメリカに戻ってライブが出来る確たる根拠は無かったけれど、心のどこかでLOUDNESSは当然アメリカに再び戻ってくると信じきっていた。
LOUDNESSにとって、アメリカでどんな未来が待っているのか当然知る由も無かったけれど、確固たる信念と夢がこのバンドにはあった。
そう言う熱い気持ちがすべて将来の地図を書き換えるのだ。
決して夢は諦めてはいけない、捨ててはいけないのだ。
揺らぎの無い気持ちがあれば、自分の未来はその実現に向かってどんどん進む。
揺らぎの無い気持ちがあれば、すべての状況が整い始め、夢実現へと運命は変化進化していくものだ。
LOUDNESSはまさにそれを証明していたと思う。
沢山の出会い、貴重な体験を胸に僕達はこの国を後にした。
帰りの飛行機は長かった・・・・。
アメリカから帰ってきて一息つくまもなく、8月31日には大阪の野外ロックイヴェントに出演。
夏の野外イヴェントだったけれど、あまりの暑さと時差ボケで夢遊病者のような状態でライブをやってしまい、後でマネージェーにこっぴどく怒られた・・・。
時差は日本に戻ってきてからのほうがキツイようだった。
このライブ終了後、すぐさま「ロードレーサー」「蜃気楼」のシングルレコードのレコーディングのために数日スタジオに入った。
ちなみに、「ロードレーサー」はレース番組のテーマ曲として注文が来ていたので作りやすかった。
一つ具体的なテーマがあれば楽曲が作りやすいと言うことを知り、次のアルバムではこの手法で行こうとタッカンと話たりもした。
結局、そんな方法では次のアルバムは作らなかったけれど・・・。
レコーディングをしながら雑誌などのメディア取材を受ける。
アメリカ公演直後ではあったけれど、その話題が出るのはロック雑誌ぐらいなもので、まだ一般誌に取り上げられる程ほどではなかった。
シングルレコーディング後には、すぐに始めてのヨーロッパ公演も間近に迫り、尚且つ、そのツアー直後には4枚目のアルバムのレコーディングがイギリスはロンドンで待っていた。
僕達はシングルの曲を作りながらも、次のアルバム「ディスイリュージョン」の楽曲も作ることになっていた。
まさにてんやわんや状態であった。
タッカンはいつ曲を作っているのかと思っていたけれど、アイデアは溢れていた。
まさに神が降りていた。
スタジオでは相変わらず爆音セッションで曲作りをやってはいたけれど、タッカンの歌メロディーや各楽器のアレンジの具体的な指定が顕著になった。
プログレシッブ度が高まり、複雑な楽曲アレンジを積極的に挑戦した。
この頃、アメリカ公演でバンドは益々一体感を増して、絆も強くなったと思う。
怒涛の勢いは誰にも予測できないほどに凄まじいものとなった。
そんな日々を送っていたある日、くたくたになって自分のアパートに戻ってポストの中を見るとエアーメールが届いていた。
(わっ!海外から手紙や・・・)
封筒に、”Michele”と言う名前が書いてあった。
僕は何度も何度も封筒を見た。
嬉しくって手が震えた・・・・。
楽屋に戻ってもしばらくアンコールの叫び声は収まらなかった。
むしろ歓声は大きくなっているようだった。
「あっという間やったな・・・」
僕は独り言をつぶやいた。
楽屋で汗を拭きながら、メンバーが無事LA公演が終わってほっとしているところへ、マネージャーが来た。
「早く着替えて、関係者が来ているから顔を出せよ!」
マネージャーは走り回っているようだった。
「アンコールやってあげれば?みんな待っているわよ!」
いつのまにか、着替えている我々の楽屋にウエンディーディオ来ていて、彼女が微笑みながらそう言った!
気がつけば、ウエンディーだけでなく、様々なメディアやバンド関係の人が大勢楽屋に来ていた。
みな興奮して握手を求めてきた。
沢山のミュージシャンと思われる人達が、次々と矢継ぎ早に早口でまくし立てる。
「凄く良かった!!素晴らしいショーだった!」
メンバーはライブ直後で、頭がボーっとしたまま愛想笑いをするのがやっとだった。
ライブと言う夢のような世界から、現実の時間へのシフトが出来なままでいたのだ。
別の部屋で関係者との顔合わせだったけれど、我々の楽屋がそのまま懇談の場となった。
後年、色んなミュージシャンが「LOUDNESS初めてのLAのライブ観たんだぜ」と教えてくれた。
きっと彼等とも、あの楽屋で顔を会わしていたのだろうけれど、その時は誰が誰だか分からなかったのが悔やまれる・・。
80年代のLAメタルが大爆発する直前のLAロックシーンは、皆ギラギラした輝きがあり、その情熱に火傷しそうだった。
「俺たちがアメリカのロックを変えてやる」と言う空気に満ちていた。
アメリカがこれほどメタルに熱くなっているなんて想像できなかったけれど、あの楽屋で会った人々は大きな夢を持ち、後に新たなアメリカ発のメタルムーブメントに大きく貢献しのだ。
LAの街は本当に美しかった。
ただ街が美しかったのではない、ロックの夢を胸に抱いた溢れんばかりの若者の生き生きとした血潮が美しかったのだ。
僕は今でもハリウッド通りに行くとその時にフラッシュバックする。
そしてあの時に味わった甘酸っぱい感動を思い出すのだ。
ヘビーメタルに青春と言うものがあるなら、僕にとってLAは青春の地である。
ロックと言う世界において、LAは自分にとっての第二の故郷のようにも思えるのだ。
LAで知り合った友人達、恋人、仕事仲間、すべてが僕の人生にとって重要な部分を占める。
多くを学び、多くに涙し、多くに喜びを感じ、大変な辛い失望も経験した場所・・・LAである。
LA公演の後、次のサンフランシスコ公演まで1週間ほどの自由時間があった。
数日、ラスベガスへ繰り出した。
僕は基本的にギャンブルをしないのでラスベガスにいる間は暇だったけれど、ひぐっつあんやマー君はかなりはまったようだ。
マネージャーがダントツにギャンブルが強く、お陰でマネージャーのおごりでご馳走にありつけた!
ラスベガスの圧倒的なネオンが印象的だったけれど、人々のあまりの強欲むき出しな表情にすこし怖じけた。
ギャンブルをしない者にとって、ラスヴェガスほど退屈な街は他には無いだろう・・・・。
数日ラスベガスで過ごし、サンフランシスコに戻ってきた。
サンフランシスコでも数日オフ日があったので、始めて観光らしいことをやった。
そう言えば、LOUDNESSがデビューして以来、こんなにゆっくり過ごした時間は無かったかもしれない。
ありがたい休日となった。
ある晩、クワイエット・ライオットのライブに招待されて観にいった。
アメリカで始めて観るメタルライブだった。
僕がアメリカで始めて体験したロックバンドのライブが、クワイエット・ライオットと言うことになる。
アメリカでライブを観るより、ライブをやる方が先になったのもよくよく考えると面白い。
もし、ライブを観てから、ライブをやっていたら緊張度はもっと高かったかもしれない。
余計な予備知識が無いままライブが出来たのはラッキーだったかもしれない。
クワイエット・ライオットのライブは凄まじい大音量で僕はしばし具合が悪くなった。
会場は2000人ぐらいの大きさの野外会場だった。
会場はほぼ満員で、僕はクワイエット・ライオットのライブを観るよりオーディエンスを観ている方が楽しかった。
日本人とは違うロックの楽しみ方と言うのか?それを見ている方が面白かった。
日本では確実に捕まる「天国へ誘うハーブの煙」を、ライブを観ながらお客同士で回し呑み(吸い?)しているのを発見した時には大変なカルチャーショックを受けた。
ビールをぐいぐい煽り、メタルの轟音に身も心もゆだねている様が異様であった。
日本にあるロック文化の違いを痛感したのだ。
(日本のロックシーンはまだまだ可愛いものだな・・・)とその時は思った。
肝心のクワイエット・ライオットのライブの方は、ヴォーカルの人の強烈なハイトーン炸裂にしばし唖然としたが、演奏は可も無く不可もなくだと思った。
如何せん、PAの音が割れまくっていて音が最悪だったのが残念であった。
それにしても、ベースのルーディーサウゾーが物凄く格好良くて、マー君がしばらくルーディーの物まね(弾きまね)をしていたのを良く覚えている。
サンフランシスコでは7月22日23日24日と3夜連続でライブをやった。
毎晩、各会場には沢山のメタルキッズで溢れた。
ある会場では、演奏中にオーディエンスが渦巻状に暴れだし、挙句の果てには鋲のついたリストバンドを使って十人ぐらいで殴り合いが始まり凄まじい光景を目の当たりにしてステージ上で凍りついた。
ある会場では、地元の高校生バンドが前座だった。
彼等の演奏はいわゆる高校生レベルではあったけれど、そのバンドのヴォーカリストはスティーブンタイラーが乗り移ったのかと思うほどに声やパフォーマンスがそっくりで驚いた。
歌も素晴らしく、アメリカのロックの裾野の広さを垣間見た瞬間であった。
また、ある会場ではオーディエンスの間を歩いてステージに上がり、終わったら再びオーディエンスの間を歩いて会場に出るという所があった。
この会場でライブが終わり、メンバーがお客さんの間を歩いているとあちこちから”
LOUDNESS!!You guys are really BAD!!!”と言う声が聞こえた。
タッカンが「おい!こいつら"バッド"って言うてんで!!」と歩きながらマー君に言った。
「うわ!ほんまや・・・"バッド"って"悪い"って意味やんな??」マー君が驚いた。
会場の外に出て、車に乗りダニーに「俺ら、今日のライブあかんかったんか?」と僕が聞いた。
「どうして?凄く盛り上がってみんな楽しんでいたよ!」とダニーが笑顔で言ってくれた。
「でも、何人か"バッド"って言うてたで・・」とタッカンが言った。
するとダニーが「あぁ~あれね・・英語の”BAD”ってね、スラングで”素晴らしい”って意味もあるんだよ!」と教えてくれてメンバー一同安堵したのだ。
ある会場で、会場からの帰り際、ある女性と出会った。
彼女は背が155cmほどのアメリカ人にしてはとても小柄で、ブロンドヘアーに目がブルーのとてもチャーミングな女性だった。
数人の女の子とライブに来ていたようだ。
(なんて可愛いお人形さんみたいな女性なんだ!)
勿論、それまでに日本人以外の女性と付き合ったことも無ければ、友達でもいなかった。
完全に僕の一目惚れだった。
僕は勇気を振り絞って声をかけてみた。
拙い英語で・・・。
“What’s your name?”
“Why?”
“’ ’cause,you are very cute!”
“You’re funny! Thanks anyway, what’s yours?”
“ Minoru”
“Michele”
僕たちは明日日本に帰らなければならなかった。
とても短い会話をして、別れ際に「日本から手紙を書いて良いか?」と聞いた。
「勿論!」と彼女は笑いながら言った。
まだインターネットもメールも無かった時代だ。
その夜から、僕はミッシェルのことで頭が一杯になった・・・。
そして、”Air-Mail”と言うロマンチックな文通が始まった。
むしろ歓声は大きくなっているようだった。
「あっという間やったな・・・」
僕は独り言をつぶやいた。
楽屋で汗を拭きながら、メンバーが無事LA公演が終わってほっとしているところへ、マネージャーが来た。
「早く着替えて、関係者が来ているから顔を出せよ!」
マネージャーは走り回っているようだった。
「アンコールやってあげれば?みんな待っているわよ!」
いつのまにか、着替えている我々の楽屋にウエンディーディオ来ていて、彼女が微笑みながらそう言った!
気がつけば、ウエンディーだけでなく、様々なメディアやバンド関係の人が大勢楽屋に来ていた。
みな興奮して握手を求めてきた。
沢山のミュージシャンと思われる人達が、次々と矢継ぎ早に早口でまくし立てる。
「凄く良かった!!素晴らしいショーだった!」
メンバーはライブ直後で、頭がボーっとしたまま愛想笑いをするのがやっとだった。
ライブと言う夢のような世界から、現実の時間へのシフトが出来なままでいたのだ。
別の部屋で関係者との顔合わせだったけれど、我々の楽屋がそのまま懇談の場となった。
後年、色んなミュージシャンが「LOUDNESS初めてのLAのライブ観たんだぜ」と教えてくれた。
きっと彼等とも、あの楽屋で顔を会わしていたのだろうけれど、その時は誰が誰だか分からなかったのが悔やまれる・・。
80年代のLAメタルが大爆発する直前のLAロックシーンは、皆ギラギラした輝きがあり、その情熱に火傷しそうだった。
「俺たちがアメリカのロックを変えてやる」と言う空気に満ちていた。
アメリカがこれほどメタルに熱くなっているなんて想像できなかったけれど、あの楽屋で会った人々は大きな夢を持ち、後に新たなアメリカ発のメタルムーブメントに大きく貢献しのだ。
LAの街は本当に美しかった。
ただ街が美しかったのではない、ロックの夢を胸に抱いた溢れんばかりの若者の生き生きとした血潮が美しかったのだ。
僕は今でもハリウッド通りに行くとその時にフラッシュバックする。
そしてあの時に味わった甘酸っぱい感動を思い出すのだ。
ヘビーメタルに青春と言うものがあるなら、僕にとってLAは青春の地である。
ロックと言う世界において、LAは自分にとっての第二の故郷のようにも思えるのだ。
LAで知り合った友人達、恋人、仕事仲間、すべてが僕の人生にとって重要な部分を占める。
多くを学び、多くに涙し、多くに喜びを感じ、大変な辛い失望も経験した場所・・・LAである。
LA公演の後、次のサンフランシスコ公演まで1週間ほどの自由時間があった。
数日、ラスベガスへ繰り出した。
僕は基本的にギャンブルをしないのでラスベガスにいる間は暇だったけれど、ひぐっつあんやマー君はかなりはまったようだ。
マネージャーがダントツにギャンブルが強く、お陰でマネージャーのおごりでご馳走にありつけた!
ラスベガスの圧倒的なネオンが印象的だったけれど、人々のあまりの強欲むき出しな表情にすこし怖じけた。
ギャンブルをしない者にとって、ラスヴェガスほど退屈な街は他には無いだろう・・・・。
数日ラスベガスで過ごし、サンフランシスコに戻ってきた。
サンフランシスコでも数日オフ日があったので、始めて観光らしいことをやった。
そう言えば、LOUDNESSがデビューして以来、こんなにゆっくり過ごした時間は無かったかもしれない。
ありがたい休日となった。
ある晩、クワイエット・ライオットのライブに招待されて観にいった。
アメリカで始めて観るメタルライブだった。
僕がアメリカで始めて体験したロックバンドのライブが、クワイエット・ライオットと言うことになる。
アメリカでライブを観るより、ライブをやる方が先になったのもよくよく考えると面白い。
もし、ライブを観てから、ライブをやっていたら緊張度はもっと高かったかもしれない。
余計な予備知識が無いままライブが出来たのはラッキーだったかもしれない。
クワイエット・ライオットのライブは凄まじい大音量で僕はしばし具合が悪くなった。
会場は2000人ぐらいの大きさの野外会場だった。
会場はほぼ満員で、僕はクワイエット・ライオットのライブを観るよりオーディエンスを観ている方が楽しかった。
日本人とは違うロックの楽しみ方と言うのか?それを見ている方が面白かった。
日本では確実に捕まる「天国へ誘うハーブの煙」を、ライブを観ながらお客同士で回し呑み(吸い?)しているのを発見した時には大変なカルチャーショックを受けた。
ビールをぐいぐい煽り、メタルの轟音に身も心もゆだねている様が異様であった。
日本にあるロック文化の違いを痛感したのだ。
(日本のロックシーンはまだまだ可愛いものだな・・・)とその時は思った。
肝心のクワイエット・ライオットのライブの方は、ヴォーカルの人の強烈なハイトーン炸裂にしばし唖然としたが、演奏は可も無く不可もなくだと思った。
如何せん、PAの音が割れまくっていて音が最悪だったのが残念であった。
それにしても、ベースのルーディーサウゾーが物凄く格好良くて、マー君がしばらくルーディーの物まね(弾きまね)をしていたのを良く覚えている。
サンフランシスコでは7月22日23日24日と3夜連続でライブをやった。
毎晩、各会場には沢山のメタルキッズで溢れた。
ある会場では、演奏中にオーディエンスが渦巻状に暴れだし、挙句の果てには鋲のついたリストバンドを使って十人ぐらいで殴り合いが始まり凄まじい光景を目の当たりにしてステージ上で凍りついた。
ある会場では、地元の高校生バンドが前座だった。
彼等の演奏はいわゆる高校生レベルではあったけれど、そのバンドのヴォーカリストはスティーブンタイラーが乗り移ったのかと思うほどに声やパフォーマンスがそっくりで驚いた。
歌も素晴らしく、アメリカのロックの裾野の広さを垣間見た瞬間であった。
また、ある会場ではオーディエンスの間を歩いてステージに上がり、終わったら再びオーディエンスの間を歩いて会場に出るという所があった。
この会場でライブが終わり、メンバーがお客さんの間を歩いているとあちこちから”
LOUDNESS!!You guys are really BAD!!!”と言う声が聞こえた。
タッカンが「おい!こいつら"バッド"って言うてんで!!」と歩きながらマー君に言った。
「うわ!ほんまや・・・"バッド"って"悪い"って意味やんな??」マー君が驚いた。
会場の外に出て、車に乗りダニーに「俺ら、今日のライブあかんかったんか?」と僕が聞いた。
「どうして?凄く盛り上がってみんな楽しんでいたよ!」とダニーが笑顔で言ってくれた。
「でも、何人か"バッド"って言うてたで・・」とタッカンが言った。
するとダニーが「あぁ~あれね・・英語の”BAD”ってね、スラングで”素晴らしい”って意味もあるんだよ!」と教えてくれてメンバー一同安堵したのだ。
ある会場で、会場からの帰り際、ある女性と出会った。
彼女は背が155cmほどのアメリカ人にしてはとても小柄で、ブロンドヘアーに目がブルーのとてもチャーミングな女性だった。
数人の女の子とライブに来ていたようだ。
(なんて可愛いお人形さんみたいな女性なんだ!)
勿論、それまでに日本人以外の女性と付き合ったことも無ければ、友達でもいなかった。
完全に僕の一目惚れだった。
僕は勇気を振り絞って声をかけてみた。
拙い英語で・・・。
“What’s your name?”
“Why?”
“’ ’cause,you are very cute!”
“You’re funny! Thanks anyway, what’s yours?”
“ Minoru”
“Michele”
僕たちは明日日本に帰らなければならなかった。
とても短い会話をして、別れ際に「日本から手紙を書いて良いか?」と聞いた。
「勿論!」と彼女は笑いながら言った。
まだインターネットもメールも無かった時代だ。
その夜から、僕はミッシェルのことで頭が一杯になった・・・。
そして、”Air-Mail”と言うロマンチックな文通が始まった。
みなさん、なかなか更新出来なくてすみません!
実は、近々ある諸々のライブやらと、ちょこちょこある色んなレコーディングの準備やらで、なかなか落ち着いて続きを書く時間が取れませんですぅ・・。
まことに恐縮です!!!
なんとか更新できるようにがんばります!!
実は、近々ある諸々のライブやらと、ちょこちょこある色んなレコーディングの準備やらで、なかなか落ち着いて続きを書く時間が取れませんですぅ・・。
まことに恐縮です!!!
なんとか更新できるようにがんばります!!
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