X.Y.Z.-Aのイヴェント&ライブの為休刊します。
時間出来次第、続き書きます。
皆さんのメール、毎朝開けるのを楽しみにしています!
ありがとう!
沢山質問を頂いておりますが、このブログのお話の中で、ご質問の内容に触れることが出来るかもしれません。
お楽しみに!
では!
時間出来次第、続き書きます。
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ありがとう!
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お楽しみに!
では!
ご意見、ご感想、いつでも気軽にメール下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕の方から個人への返事はしませんが、よほど返信が必要と思われる方へは当然返事させてもらいます・・・。
これはと思うご意見、ご質問は、質問者は匿名の上、このブログ上でお答えさせてもらいます。
:::::::::::::::::::::::::::
1981年8月、車に揺られて、僕たち4人は三重県の山奥まで来た。
LOUDNESSデビューアルバムのレコーディングであり、僕にとっては生まれて初めてのレコーディングである。
レコーディングは三重県鈴鹿のチェストナットスタジオと言うところだった。
三重の山奥にあった合宿型スタジオだった。
「えらいまぁ・・・自然の中にまで来たねぇ・・」
そんなことを誰かが思わず口に出すほど大自然に囲まれたスタジオだった。
僕はオーディションの時にレコーディングスタジオを経験しているので、さすがに2度目となると少しは余裕があった。
とは言うものの、いったいレコーディングというものが、実際どんな風に行われるのか僕には謎だった。
中学生の時に、初めてレッドツェッペリンやピンクフロイド、ディープパープルなどのLPを聞いた時、そのステレオから出てくる圧倒的かつ超人的な演奏に「この人達は人間じゃない、どっか別の星から来た人達だ」と腰を抜かしていたのだが、今まさに自分がその別の星の人間になりかけているのだ。
いや・・本当に自分があんな風になれるのか・・スタジオに着いても半信半疑だった。
僕は異常なまでの興奮でまるでフワフワと空を飛んでいるような気分だった。
いよいよ、スタジオでレコーディングがスタートした。
レコーディングには大きく分けると二つの作業がある。
一つは「録音作業」、もう一つはミックスダウン(トラックダウンとも呼ばれる)と言われる「録音した音をまとめる作業」だ。
「録音」も大まかに分けて二つの作業に分けることが出来る。
一つは基本の「バッキングリズム録音」である。
バッキングリズムは文字通り曲の核となる部分である。
ドラムパートを中心にリズムパート全般を指す。
その中にはベースも入るしリズムギター(バッキングギター)も含まれる。
バンドによってはこの時点でドラム、ベース、ギターを一斉に演奏して全て録音する場合もあるし、取りあえずドラムだけ良い演奏が録音できることをメインに考え、ドラム録音終了後にベースやギターなどを録音することも多い。
もう一つは僕達の間では「うわ物、かぶせ物」と呼ばれる「ダビング録音」である。
「ダビング録音」とは文字通りそのリズムトラックの上に、ヴォーカルや各ソロを「ダビングする作業」である。
ここチェストナットスタジオでは「録音作業」がメインであった。
LOUDNESSのレコーディングはおおよそこんな風に進む。
1 スタジオ内に各楽器をセッティングしてその録音する音を作る。特にドラムはここでしっかり音を作る。
2各楽器の録音の音が決まると、演奏する時に聞くヘッドホーンのバランスをとる。
3録音する曲のテンポを決定して、そのテンポをリズムマシーンのようなもので出して各楽器を演奏する人はそれを聞きながら演奏する。
ちなみに我々業界の人間はそのリズムマシーンのことを「ドンカマ」と呼んだりするのだが、海外では「クリック」と呼ぶのが一般的だ。
人やバンドによっては「ドンカマ」を無しでやることもある。
「ドンカマ」が何故必要かというと、人は興奮するとリズムが早くなったり、遅くなったり一定したリズムで演奏できないので、Voやギターをダビングする時に「ドンカマ」があれば多少ドラムのリズムの揺れがあってもリズムを見失うことが無いからだ。
まぁー全てをセーノで一発で録音できるバンドや音楽なら「ドンカマ」は必要無いだろうけれど、そういう芸当が出来る人(バンド)は相当な達人であろう。
ちなみに、美空ひばりさんなどの演歌大御所はすべてを一発録音するそうだ。
僕は赤坂の日本コロムビアのスタジオで、偶然美空ひばりさんがレコーディングしているのをこの目で見たことがあるので間違いない。
ちょっと話が脱線するけれど、この美空ひばりさんは凄いよ!!!
美空さんがレコーディングする日はスタジオ内はまさに厳戒態勢状態であった。
日本コロムビア本社のスタジオに黒塗りのでっか~~~い外車で乗りつけ、会社の役員クラスの人間全員が玄関まで出迎えた。
社内はピリピリムード全開でスタジオまでの廊下には赤い絨毯が敷かれた。
スタジオの内外のあちらこちらにSPのような黒い背広姿にサングラスと言う一見「ヤ0ザ」と思われるような強面の怖そうなおじさん、お兄さんが沢山目を光らしていた。
スタジオにはオーケストラやドラム、ギターなどミュージシャンが全員スタンバイしていて、その中央に美空さんのマイクが神々しく立っていた。
録音は美空さんを含めバックミュージシャン全員が一斉に演奏、歌って、一発ライブレコーディングである。
美空さんは基本的に1~2回程度しか歌わない、と言うか、その1回の歌でスタジオ内は大興奮、感動の嵐で拍手喝采、中には感動で泣いている人もいたぞ!
で、仮に美空さんが間違って歌ったとしても、美空さんの歌に演奏を合わせるそうな・・・・。
僕はその現場のすべて一部始終をこの目でしかと見たもんね~~~♪
スタジオの入り口にその日のレコーディングアーティスト名を書いてあるのだけど「LOUDNESS」と書いている隣が「美空ひばり」って・・・日本コロムビア恐るべし!
今の時代なら、その模様を携帯の写真にとってブログのネタになるのだろうね!
3音やリズムテンポが決まるといよいよバッキング演奏が始まる。ギターソロのパートは雰囲気で弾く場合もあるし、ソロを弾かずにギターのバッキングリズムだけ弾く場合もある。
で、意外とこの時に弾いたギターソロが結局ベストテイクになる場合も多い。
ヴォーカルも一応一緒に歌うけれど、大体この時点では歌詞やメロディーが出来上がっていないので、リズム録音の時のヴォーカルは鼻歌程度で曲の船頭役に徹することが多い。
ちなみに、ロニージェームスディオ師匠はこの時でも本気モードで歌い上げるそうだ。
色んなメロディーや歌詞を実験するためだそうな。
4リズムバッキング出来上がったらようやくヴォーカルやコーラス、ギターソロ、その他キーボードやアコ―スティックギターなどのオーバーダビングに突入する。
LOUDNESSのレコーディング、一斉に演奏が始まった。
曲は「LOUDNESS」だったと思う。
タッカンがあの豪快なアームダウンをかき鳴らした。
僕はヘッドホーンの中で暴れまわっているような、ギターの唸り泣き叫ぶ音を聞きながら、手に汗を握り身震いがした。
この世のものとは思えないようなギターの叫びだった!
タッカンのロックへの思い、自分は今生まれ変わるんだと言う決意がこのギターの雄たけびと化した。
まさに、今LOUDNESSが誕生しようとしている瞬間だった。
タッカンのアームダウンは本物の恐竜が叫んでいるようなサウンドだった。
そして長いフィードバック音・・・
そしてタッカンがカウントを取った。
「フィーン!フィーン!フィーン!!」
ひぐっつあんとマー君が渾身の力を込めてアクセントを入れた。
タッカンがメインリフをかき鳴らした。
この瞬間だった、僕は予定の無い雄たけびを叫んでしまった。
“WE ARE LOUDNESS!!!!! COME ON NOW!!WOOOO~~~~~~YEAH!!!!”
極度の興奮と感動がそうさせたのかもしれない。
LOUDNESSの怒涛のリズムがスタジオを揺らした!
僕はもうこのヘビーでザクザクとしたLOUDNESSのリズムに心がはちきれそうになった。
ひぐっつあんのビートは力強くパワフルだった。
あのリハーサルスタジオとは違う鬼気迫る表情だった。
この瞬間「デイビー」ではなく、そうあの「ひぐっつあん」に変身したのだ。
ドラムがこれほど大きな、雷のような激しい音だとは思わなかった。
スネア、キックドラム、タムタム、シンバルが剃刀のような鋭いビートを叫び邪悪なエネルギーをかき消し、ドラム全体が神々しい重量機関車に見えた。
こんなに激しく感情のこもったドラムは今まで見たことが無かった。
マー君のベースも凄まじい重低音をかき鳴らしLOUDNESSのサウンドを支えた。
時折見せるベースのラインがバンド全体に大きな刺激を与え、益々この重量機関車は熱くなった。
ひぐっつあんとの相性は抜群だった。
この時、マー君は若干19歳だったと思うけれど、その瑞々しいビートはLOUDNESSと言う生まれたばかりの恐竜の息吹そのものだった。
ザクザクと刻まれるギターも躍動感でいっぱいだった。
タッカンのギターソロでスタジオ中が激震した。
まさにニューギターヒーローが降臨した瞬間だった。
ヴァンへーレンでもない、マイケルシェンカーでもない、そこにあるサウンドは高崎晃そのものだった。
超絶なギターソロはリハーサルスタジオで山ほど聞かせてもらってはいたけれど、ヘッドホーンでこうしてあらためて聞くとそのクリアーで細かく表現されるギターソロの一音一音が正確で華麗で狂気的であることを思い知った。
本当にこの人は化け物だと思った、ギターの神だと思った。
この3人の繰り出すサウンドに身を任せていると、このままどこか遠くへ飛んでいくのではないかと思うほどに酔いしれた・・。
(これは、これは凄い、凄いバンドやんけ~~!!)
そして、僕はこの超重量級サウンドを聞きながら歌った!叫んだ!吼えた!!
ついに、LOUDNESSのハードでヘビーなサウンドに僕の声が混ざったのをヘッドホーンで聞いた!
(フンギャ~~~!コリャ~~~ありえ~~ん世界~~~~助けて~~~~!!)
僕はネジが外れた・・・・。
僕はあらためてこのバンドの持つポテンシャルを確信した。
このバンドが持つサウンドが世界中どこにもないユニークで斬新で新鮮な魅力に溢れていることを。
僕はその新しいサウンドに感動で震えながら、全身全霊、声の続く限りマイクに向かって叫び歌った・・・・。
もうすでにバンドの商業的な結果などどうでも良いような気がした。
僕はこのLOUDNESSのサウンドに出会えただけで充分幸せで満たされた。
それ以上は恐れ多くて望めないような気分だった。
京都から上京して半年、僕の中の偉大な存在が「まだまだお前の旅はこれからだよ・・・」と笑っているような気がした・・・。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕の方から個人への返事はしませんが、よほど返信が必要と思われる方へは当然返事させてもらいます・・・。
これはと思うご意見、ご質問は、質問者は匿名の上、このブログ上でお答えさせてもらいます。
:::::::::::::::::::::::::::
1981年8月、車に揺られて、僕たち4人は三重県の山奥まで来た。
LOUDNESSデビューアルバムのレコーディングであり、僕にとっては生まれて初めてのレコーディングである。
レコーディングは三重県鈴鹿のチェストナットスタジオと言うところだった。
三重の山奥にあった合宿型スタジオだった。
「えらいまぁ・・・自然の中にまで来たねぇ・・」
そんなことを誰かが思わず口に出すほど大自然に囲まれたスタジオだった。
僕はオーディションの時にレコーディングスタジオを経験しているので、さすがに2度目となると少しは余裕があった。
とは言うものの、いったいレコーディングというものが、実際どんな風に行われるのか僕には謎だった。
中学生の時に、初めてレッドツェッペリンやピンクフロイド、ディープパープルなどのLPを聞いた時、そのステレオから出てくる圧倒的かつ超人的な演奏に「この人達は人間じゃない、どっか別の星から来た人達だ」と腰を抜かしていたのだが、今まさに自分がその別の星の人間になりかけているのだ。
いや・・本当に自分があんな風になれるのか・・スタジオに着いても半信半疑だった。
僕は異常なまでの興奮でまるでフワフワと空を飛んでいるような気分だった。
いよいよ、スタジオでレコーディングがスタートした。
レコーディングには大きく分けると二つの作業がある。
一つは「録音作業」、もう一つはミックスダウン(トラックダウンとも呼ばれる)と言われる「録音した音をまとめる作業」だ。
「録音」も大まかに分けて二つの作業に分けることが出来る。
一つは基本の「バッキングリズム録音」である。
バッキングリズムは文字通り曲の核となる部分である。
ドラムパートを中心にリズムパート全般を指す。
その中にはベースも入るしリズムギター(バッキングギター)も含まれる。
バンドによってはこの時点でドラム、ベース、ギターを一斉に演奏して全て録音する場合もあるし、取りあえずドラムだけ良い演奏が録音できることをメインに考え、ドラム録音終了後にベースやギターなどを録音することも多い。
もう一つは僕達の間では「うわ物、かぶせ物」と呼ばれる「ダビング録音」である。
「ダビング録音」とは文字通りそのリズムトラックの上に、ヴォーカルや各ソロを「ダビングする作業」である。
ここチェストナットスタジオでは「録音作業」がメインであった。
LOUDNESSのレコーディングはおおよそこんな風に進む。
1 スタジオ内に各楽器をセッティングしてその録音する音を作る。特にドラムはここでしっかり音を作る。
2各楽器の録音の音が決まると、演奏する時に聞くヘッドホーンのバランスをとる。
3録音する曲のテンポを決定して、そのテンポをリズムマシーンのようなもので出して各楽器を演奏する人はそれを聞きながら演奏する。
ちなみに我々業界の人間はそのリズムマシーンのことを「ドンカマ」と呼んだりするのだが、海外では「クリック」と呼ぶのが一般的だ。
人やバンドによっては「ドンカマ」を無しでやることもある。
「ドンカマ」が何故必要かというと、人は興奮するとリズムが早くなったり、遅くなったり一定したリズムで演奏できないので、Voやギターをダビングする時に「ドンカマ」があれば多少ドラムのリズムの揺れがあってもリズムを見失うことが無いからだ。
まぁー全てをセーノで一発で録音できるバンドや音楽なら「ドンカマ」は必要無いだろうけれど、そういう芸当が出来る人(バンド)は相当な達人であろう。
ちなみに、美空ひばりさんなどの演歌大御所はすべてを一発録音するそうだ。
僕は赤坂の日本コロムビアのスタジオで、偶然美空ひばりさんがレコーディングしているのをこの目で見たことがあるので間違いない。
ちょっと話が脱線するけれど、この美空ひばりさんは凄いよ!!!
美空さんがレコーディングする日はスタジオ内はまさに厳戒態勢状態であった。
日本コロムビア本社のスタジオに黒塗りのでっか~~~い外車で乗りつけ、会社の役員クラスの人間全員が玄関まで出迎えた。
社内はピリピリムード全開でスタジオまでの廊下には赤い絨毯が敷かれた。
スタジオの内外のあちらこちらにSPのような黒い背広姿にサングラスと言う一見「ヤ0ザ」と思われるような強面の怖そうなおじさん、お兄さんが沢山目を光らしていた。
スタジオにはオーケストラやドラム、ギターなどミュージシャンが全員スタンバイしていて、その中央に美空さんのマイクが神々しく立っていた。
録音は美空さんを含めバックミュージシャン全員が一斉に演奏、歌って、一発ライブレコーディングである。
美空さんは基本的に1~2回程度しか歌わない、と言うか、その1回の歌でスタジオ内は大興奮、感動の嵐で拍手喝采、中には感動で泣いている人もいたぞ!
で、仮に美空さんが間違って歌ったとしても、美空さんの歌に演奏を合わせるそうな・・・・。
僕はその現場のすべて一部始終をこの目でしかと見たもんね~~~♪
スタジオの入り口にその日のレコーディングアーティスト名を書いてあるのだけど「LOUDNESS」と書いている隣が「美空ひばり」って・・・日本コロムビア恐るべし!
今の時代なら、その模様を携帯の写真にとってブログのネタになるのだろうね!
3音やリズムテンポが決まるといよいよバッキング演奏が始まる。ギターソロのパートは雰囲気で弾く場合もあるし、ソロを弾かずにギターのバッキングリズムだけ弾く場合もある。
で、意外とこの時に弾いたギターソロが結局ベストテイクになる場合も多い。
ヴォーカルも一応一緒に歌うけれど、大体この時点では歌詞やメロディーが出来上がっていないので、リズム録音の時のヴォーカルは鼻歌程度で曲の船頭役に徹することが多い。
ちなみに、ロニージェームスディオ師匠はこの時でも本気モードで歌い上げるそうだ。
色んなメロディーや歌詞を実験するためだそうな。
4リズムバッキング出来上がったらようやくヴォーカルやコーラス、ギターソロ、その他キーボードやアコ―スティックギターなどのオーバーダビングに突入する。
LOUDNESSのレコーディング、一斉に演奏が始まった。
曲は「LOUDNESS」だったと思う。
タッカンがあの豪快なアームダウンをかき鳴らした。
僕はヘッドホーンの中で暴れまわっているような、ギターの唸り泣き叫ぶ音を聞きながら、手に汗を握り身震いがした。
この世のものとは思えないようなギターの叫びだった!
タッカンのロックへの思い、自分は今生まれ変わるんだと言う決意がこのギターの雄たけびと化した。
まさに、今LOUDNESSが誕生しようとしている瞬間だった。
タッカンのアームダウンは本物の恐竜が叫んでいるようなサウンドだった。
そして長いフィードバック音・・・
そしてタッカンがカウントを取った。
「フィーン!フィーン!フィーン!!」
ひぐっつあんとマー君が渾身の力を込めてアクセントを入れた。
タッカンがメインリフをかき鳴らした。
この瞬間だった、僕は予定の無い雄たけびを叫んでしまった。
“WE ARE LOUDNESS!!!!! COME ON NOW!!WOOOO~~~~~~YEAH!!!!”
極度の興奮と感動がそうさせたのかもしれない。
LOUDNESSの怒涛のリズムがスタジオを揺らした!
僕はもうこのヘビーでザクザクとしたLOUDNESSのリズムに心がはちきれそうになった。
ひぐっつあんのビートは力強くパワフルだった。
あのリハーサルスタジオとは違う鬼気迫る表情だった。
この瞬間「デイビー」ではなく、そうあの「ひぐっつあん」に変身したのだ。
ドラムがこれほど大きな、雷のような激しい音だとは思わなかった。
スネア、キックドラム、タムタム、シンバルが剃刀のような鋭いビートを叫び邪悪なエネルギーをかき消し、ドラム全体が神々しい重量機関車に見えた。
こんなに激しく感情のこもったドラムは今まで見たことが無かった。
マー君のベースも凄まじい重低音をかき鳴らしLOUDNESSのサウンドを支えた。
時折見せるベースのラインがバンド全体に大きな刺激を与え、益々この重量機関車は熱くなった。
ひぐっつあんとの相性は抜群だった。
この時、マー君は若干19歳だったと思うけれど、その瑞々しいビートはLOUDNESSと言う生まれたばかりの恐竜の息吹そのものだった。
ザクザクと刻まれるギターも躍動感でいっぱいだった。
タッカンのギターソロでスタジオ中が激震した。
まさにニューギターヒーローが降臨した瞬間だった。
ヴァンへーレンでもない、マイケルシェンカーでもない、そこにあるサウンドは高崎晃そのものだった。
超絶なギターソロはリハーサルスタジオで山ほど聞かせてもらってはいたけれど、ヘッドホーンでこうしてあらためて聞くとそのクリアーで細かく表現されるギターソロの一音一音が正確で華麗で狂気的であることを思い知った。
本当にこの人は化け物だと思った、ギターの神だと思った。
この3人の繰り出すサウンドに身を任せていると、このままどこか遠くへ飛んでいくのではないかと思うほどに酔いしれた・・。
(これは、これは凄い、凄いバンドやんけ~~!!)
そして、僕はこの超重量級サウンドを聞きながら歌った!叫んだ!吼えた!!
ついに、LOUDNESSのハードでヘビーなサウンドに僕の声が混ざったのをヘッドホーンで聞いた!
(フンギャ~~~!コリャ~~~ありえ~~ん世界~~~~助けて~~~~!!)
僕はネジが外れた・・・・。
僕はあらためてこのバンドの持つポテンシャルを確信した。
このバンドが持つサウンドが世界中どこにもないユニークで斬新で新鮮な魅力に溢れていることを。
僕はその新しいサウンドに感動で震えながら、全身全霊、声の続く限りマイクに向かって叫び歌った・・・・。
もうすでにバンドの商業的な結果などどうでも良いような気がした。
僕はこのLOUDNESSのサウンドに出会えただけで充分幸せで満たされた。
それ以上は恐れ多くて望めないような気分だった。
京都から上京して半年、僕の中の偉大な存在が「まだまだお前の旅はこれからだよ・・・」と笑っているような気がした・・・。
ご意見、ご感想、いつでも気軽にメール下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕の方から個人への返事はしませんが、よっぽど必要と思われる方へはご返事をさせてもらいます。
これはと思うご意見、ご質問は、質問者匿名の上、このブログ上でお答えさせてもらいます。
*********************
数週間ほどで事務所とのデビュー前の打ち合わせもほぼ終わった。
ロックに精通している若手プロデューサーが多かったのもあって、あまりロックとかけ離れたようなイメージ戦略や音楽の方向にはならず、むしろ色々と勉強になる打ち合わせだった。
事務所の心意気も分かった。
当時のBeingのスタッフは少数精鋭部隊だった、そして皆優秀で勤勉なスタッフばかりだった。
後に彼等の多くはBeingから独立して、日本の音楽業界で素晴らしい業績をあげた。
大手レコード会社の社長にまで昇りつめた人もいる。
デビューアルバムのレコーディングが決まった。
僕達は目前に迫ったデビューアルバムに向けて曲作りに励んだ。
タッカンは毎回リハーサルの度に数曲のアイデアを提供した。
僕達はそのタッカンのアイデアを元に、セッションを繰り広げて曲を完成させていった。
大まかに言ってこんな感じだ。
1 タッカンがメインテーマとなるギターのリフを弾く。
2 ひぐっつあんがそれを聞きながらテンポやリズムパターンを即座に反応。
3 マー君がリフをタッカンから教えてもらってひぐっつあんのリズムに合わせて弾く。
4 しばらく3人でどのグルーブが一番気持ち良いか、色んな速さやパターンを試行錯誤
5 それを聞きながら僕が滅茶苦茶な英語で適当に叫ぶ、歌う。
6 タッカン、全体のコード進行をすでに考えている場合が多いけれど、僕らの3人のパフォーマンスで他のパートのコード進行やらのアイデアが沸きあがることもあった。
7 曲の骨格が出来上がると、何度も頭から演奏して体に曲を叩き込む。
8 ソロパートもセッションの勢いで出来上がることもしばしばだったし、ソロだけ別の日に構築したものを考えて持ってくることもあった。
9 数時間この作業をくりかえして曲はほぼ出来上がる。
10忘れないように、全てのセッションはカセットテープレコダーに録音した。
11僕はそのテープを持って帰って歌のメロディーをまとめて歌詞を考えた。
12細々とした決めフレーズなどはレコーディングの現場で決めた。
この曲作り方法は基本的に今も変わっていない。
セッションを録音し続けるというのは大事だった。
と言うのも、みんなアドリブで演奏しているので、どんな凄いフレーズが飛び出てくるか分からないからである。
スタジオの外にはステレオ完備の簡易応接間があって、曲が大体まとまる度にその応接間で録音したテープを聴きながら「このフレーズ使おう!」とか「この部分のコードを変えよう」とか「この歌のメロディー使おう」とか色々意見を出しあった。
こんな感じで1日に3曲ほどはコンスタントに出来上がった。
デビューアルバムレコーディングの前にはアルバム数枚分のアイデアが出来上がっていた。
デビューアルバムに収録されているオープニングナンバー「LOUDNESS」のリフを始めて聞いたときの興奮は今でも手に取るように覚えている。
まず、イントロのギターのアームダウンを駆使した咆哮部分、既に決まっていたかのように自然に出てきたアイデアだった。
タッカンがあの咆哮イントロでひとしきりイントロを盛り上げて、この曲のメインテーマのシャッフルのリフを弾き出した瞬間、僕は全身に電気が走った。
(ウォ~~~~こ、これは、すげ~~~~~!!!)
ボーカルメロディーも既に知っている曲であるかのように即座に溢れ出てきた。
ドラムパートもベースパートもすべて、すでに何度も演奏しているかのように自然にまとまった。
あれよ、あれよという間に全てのパートは瞬時に出来上がった。
まさに、バンドケミストリーの真骨頂である。
よく出来た曲はこう言う具合に瞬時に出来上がることが多い。
勿論、時間をかけて練りに練って出来上がる場合も多いけれど、即出来上がる曲には強い生命力が宿っていると言うのか、後にまで人気が続き、そのバンドの代表曲となる場合が多い。
「TO BE DEMON」のセッションも凄まじかった。
頭の静かな部分から徐々に曲のテンションが上がって行き最終的にパワー全開で暴れ回るのだが、あの曲作りセッションでのギターソロ・・・あの神がかり具合は尋常ではなかった。
タッカンの火を噴くようなスピードと泣きのソロ、まさに狂気であり天使でもあった。
この曲を演奏した後のカタルシスたるや・・・・。
僕はこのリハーサルでやっていたあの恐ろしいまでの爆発した演奏を知っているので、レコーディングにおいてその爆発振りが少し影を潜めて録音されているのが残念だった。
ある意味、レコーディングの難しさの一面を知ったのであった。
「ROCK SHOCK」のセッションも凄く記憶に残っている。
あの曲も「LOUDNESS」同様あっという間に出来あがった曲だ。
僕達それぞれの個性が存分に発揮されている曲だと思う。
タッカンの少しパンキッシュな早いイントロリフに、即効反応したひぐっつあんとマー君。
あの印象的な早いリフでありながら、とてもフックがあり覚えやすいギターリフ。
このリフでバンドは面白いほどに火がついた。
あのリフでバンドはまさにトランス状態に至った。
ボーカルので出しのブレークパートのヴォーカルメロディー、考えるまでもなく体が、本能が、反応したフレーズであった。
何もかもが4人の本能むき出しのまま瞬時に出来上がった。
セッションを数回やって録音したテープを聴いて狂喜乱舞した。
まさにLOUDNESS独自のグルーブを持った黄金のメタルナンバーである。
僕達はこの曲が大好きだった。
この曲を演奏していると自然と笑顔になった。
会心のR&Rナンバーが完成した。
タッカンはギターリフ作りにおいて、まさに天才的な感覚、ひらめきを持ったギターリストである。
そして、まさにギターリフの打ち出の小槌、ギターリフの宝庫であった。
滝の如く溢れ出るギターリフにはキラキラ煌く黄金の輝きがあった。
はっきり言う、キャッチーなギターリフができると言うのは天才である。
小難しいギターソロは練習で克服できても、キャッチーなギターリフのアイデアは練習しても浮かばない。
これはもって産まれた才能のある人のみに可能なことである。
キャッチーなギターリフを書くバンドのギタープレイヤーはみな伝説になっている。
これは疑問を挟む余地のない話である。
デビューアルバムの曲は、我々の頭ではなく本能で完成させた曲ばかりであった。
デビューアルバムの曲は、感情ほとばしる究極のナンバーを選曲したアルバムであった。
僕達の魂の競演の結晶であった。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕の方から個人への返事はしませんが、よっぽど必要と思われる方へはご返事をさせてもらいます。
これはと思うご意見、ご質問は、質問者匿名の上、このブログ上でお答えさせてもらいます。
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数週間ほどで事務所とのデビュー前の打ち合わせもほぼ終わった。
ロックに精通している若手プロデューサーが多かったのもあって、あまりロックとかけ離れたようなイメージ戦略や音楽の方向にはならず、むしろ色々と勉強になる打ち合わせだった。
事務所の心意気も分かった。
当時のBeingのスタッフは少数精鋭部隊だった、そして皆優秀で勤勉なスタッフばかりだった。
後に彼等の多くはBeingから独立して、日本の音楽業界で素晴らしい業績をあげた。
大手レコード会社の社長にまで昇りつめた人もいる。
デビューアルバムのレコーディングが決まった。
僕達は目前に迫ったデビューアルバムに向けて曲作りに励んだ。
タッカンは毎回リハーサルの度に数曲のアイデアを提供した。
僕達はそのタッカンのアイデアを元に、セッションを繰り広げて曲を完成させていった。
大まかに言ってこんな感じだ。
1 タッカンがメインテーマとなるギターのリフを弾く。
2 ひぐっつあんがそれを聞きながらテンポやリズムパターンを即座に反応。
3 マー君がリフをタッカンから教えてもらってひぐっつあんのリズムに合わせて弾く。
4 しばらく3人でどのグルーブが一番気持ち良いか、色んな速さやパターンを試行錯誤
5 それを聞きながら僕が滅茶苦茶な英語で適当に叫ぶ、歌う。
6 タッカン、全体のコード進行をすでに考えている場合が多いけれど、僕らの3人のパフォーマンスで他のパートのコード進行やらのアイデアが沸きあがることもあった。
7 曲の骨格が出来上がると、何度も頭から演奏して体に曲を叩き込む。
8 ソロパートもセッションの勢いで出来上がることもしばしばだったし、ソロだけ別の日に構築したものを考えて持ってくることもあった。
9 数時間この作業をくりかえして曲はほぼ出来上がる。
10忘れないように、全てのセッションはカセットテープレコダーに録音した。
11僕はそのテープを持って帰って歌のメロディーをまとめて歌詞を考えた。
12細々とした決めフレーズなどはレコーディングの現場で決めた。
この曲作り方法は基本的に今も変わっていない。
セッションを録音し続けるというのは大事だった。
と言うのも、みんなアドリブで演奏しているので、どんな凄いフレーズが飛び出てくるか分からないからである。
スタジオの外にはステレオ完備の簡易応接間があって、曲が大体まとまる度にその応接間で録音したテープを聴きながら「このフレーズ使おう!」とか「この部分のコードを変えよう」とか「この歌のメロディー使おう」とか色々意見を出しあった。
こんな感じで1日に3曲ほどはコンスタントに出来上がった。
デビューアルバムレコーディングの前にはアルバム数枚分のアイデアが出来上がっていた。
デビューアルバムに収録されているオープニングナンバー「LOUDNESS」のリフを始めて聞いたときの興奮は今でも手に取るように覚えている。
まず、イントロのギターのアームダウンを駆使した咆哮部分、既に決まっていたかのように自然に出てきたアイデアだった。
タッカンがあの咆哮イントロでひとしきりイントロを盛り上げて、この曲のメインテーマのシャッフルのリフを弾き出した瞬間、僕は全身に電気が走った。
(ウォ~~~~こ、これは、すげ~~~~~!!!)
ボーカルメロディーも既に知っている曲であるかのように即座に溢れ出てきた。
ドラムパートもベースパートもすべて、すでに何度も演奏しているかのように自然にまとまった。
あれよ、あれよという間に全てのパートは瞬時に出来上がった。
まさに、バンドケミストリーの真骨頂である。
よく出来た曲はこう言う具合に瞬時に出来上がることが多い。
勿論、時間をかけて練りに練って出来上がる場合も多いけれど、即出来上がる曲には強い生命力が宿っていると言うのか、後にまで人気が続き、そのバンドの代表曲となる場合が多い。
「TO BE DEMON」のセッションも凄まじかった。
頭の静かな部分から徐々に曲のテンションが上がって行き最終的にパワー全開で暴れ回るのだが、あの曲作りセッションでのギターソロ・・・あの神がかり具合は尋常ではなかった。
タッカンの火を噴くようなスピードと泣きのソロ、まさに狂気であり天使でもあった。
この曲を演奏した後のカタルシスたるや・・・・。
僕はこのリハーサルでやっていたあの恐ろしいまでの爆発した演奏を知っているので、レコーディングにおいてその爆発振りが少し影を潜めて録音されているのが残念だった。
ある意味、レコーディングの難しさの一面を知ったのであった。
「ROCK SHOCK」のセッションも凄く記憶に残っている。
あの曲も「LOUDNESS」同様あっという間に出来あがった曲だ。
僕達それぞれの個性が存分に発揮されている曲だと思う。
タッカンの少しパンキッシュな早いイントロリフに、即効反応したひぐっつあんとマー君。
あの印象的な早いリフでありながら、とてもフックがあり覚えやすいギターリフ。
このリフでバンドは面白いほどに火がついた。
あのリフでバンドはまさにトランス状態に至った。
ボーカルので出しのブレークパートのヴォーカルメロディー、考えるまでもなく体が、本能が、反応したフレーズであった。
何もかもが4人の本能むき出しのまま瞬時に出来上がった。
セッションを数回やって録音したテープを聴いて狂喜乱舞した。
まさにLOUDNESS独自のグルーブを持った黄金のメタルナンバーである。
僕達はこの曲が大好きだった。
この曲を演奏していると自然と笑顔になった。
会心のR&Rナンバーが完成した。
タッカンはギターリフ作りにおいて、まさに天才的な感覚、ひらめきを持ったギターリストである。
そして、まさにギターリフの打ち出の小槌、ギターリフの宝庫であった。
滝の如く溢れ出るギターリフにはキラキラ煌く黄金の輝きがあった。
はっきり言う、キャッチーなギターリフができると言うのは天才である。
小難しいギターソロは練習で克服できても、キャッチーなギターリフのアイデアは練習しても浮かばない。
これはもって産まれた才能のある人のみに可能なことである。
キャッチーなギターリフを書くバンドのギタープレイヤーはみな伝説になっている。
これは疑問を挟む余地のない話である。
デビューアルバムの曲は、我々の頭ではなく本能で完成させた曲ばかりであった。
デビューアルバムの曲は、感情ほとばしる究極のナンバーを選曲したアルバムであった。
僕達の魂の競演の結晶であった。
ご意見、感想、などがあればいつでも気軽にメール下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕からの返信は期待しないでください。
必要だと思ったら返信しますけど・・・。
*******************
Beingとの契約が済んでから僕の生活が激変した。
まず、ひぐっつあんでの居候生活に終止符が打たれた。
その前に少しだけ僕の居候時代のお話を・・・(笑)
ひぐっつあんでの居候期間は3ヶ月ほどだったけれど、その間に8キロは太った。
僕が上京した時の体重は46キロしかなくて、絵に描いたような骨皮筋衛門だった。
居候生活は不健康で不摂生な生活ではあったけれど、ひぐっつあんとの生活は楽しかった。
ひぐっつあんにあっちこっち連れて行ってもらい、ちょっと大人の世界に触れ、純情青年が少しオマセになった。
高校時代は男子校で男に囲まれていた上、3年間と言うものバンド活動に明け暮れ夜や休日は楽器の練習や音楽鑑賞に打ち込んでいた。
当時流行っていたディスコとかにも行ったことが無かったし、ファッションやバイクにもまったく興味が無かった。
大学の3年間も、入学後すぐにステディーのガールフレンドが出来たので、所謂ナンパみたいなこともやったことがなかったし、サークルの打ち上げ以外で呑み会のようなこともやったことがなかった。
だいたい夜遊びに出かける余裕も無ければ興味も皆無だった。
当時の仏教大学はまさに女子大かと思うぐらいに女性が多かったのに、今思い返してもガールフレンド以外大学内で記憶に残るような女性の友達は少なかった。
ん~こうして考えると、スタジオ、ライブハウス、下宿、軽音部室が僕の生活圏のすべてであったのか・・・地味・・・。
学生の頃の思い出と言っても、唯一あるのは軽音楽部の夏合宿に一度だけ参加したことぐらいか。
場所は四国だったかのサーフィンの名所だった。
先輩にサーファーがいたのでそこが合宿所になったと思うのだけど、そこではじめてサーフィンなるものを経験したことが思い出としてあるなぁ。
はっきり言って、音楽活動以外はあまりパッとしない冴えない学生生活だった。
ひぐっつあんの居候の間に初めて夜の世界へデビューした。
ディスコにも行った、バーにも行った、ひぐっつあんの友達のモデルさんやら、スッチーやら、タレントさんやら、それまでに見たことも無いような洗練されたセクシーで美しい女性に囲まれた。
とは言っても、その美しい女性たちは皆さんひぐっつあんがお目当てであり、上京したてのどこの馬の骨かも分からない僕なんか鼻にもかけてもらえなかったけど、それなりに楽しかった。
呑みに行ってひぐっつあんに毎回奢ってもらうわけにも行かず、とは言っても僕はお金を当然持っていなかったけど、ひょんなことから呑み代を稼ぎ出す方法にありついた。
例えば、ちょっと高級なバーなんかでは殆どのお店にはピアノがあって、僕がそこのバーのピアノで弾き語りをしたら店のママに気に入られることが多く、度々呑み代がサービスになった。
その代わり、ママのリクエストがあれば何でも歌わなければならなかったけど・・・。
バンドが入っているバーは願ったり叶ったりだった。
そのバンド演奏に飛び入りして数曲歌ったら、そこの店のマスターに気に入られて大概呑み代がサービスになったので貧乏な僕には助かった。
まさに、芸は身を助けるであった・・・・。(笑)
そんな居候生活も終わり、自分の部屋を持つことになった。
契約で2年間は事務所から毎月一定の収入を得ることになったからだ。
僕が貰っていたのは所謂会社のサラリーマンが貰うような性格の「給料」では無くて、敢えて言うなら借金みたいなものだったけれど、まー返済の義務が無かったので「給料」と言っても良いだろう。
学生の頃はアルバイトで稼いでも数万円が限界だったし、ポケットには千円札が入っていれば御の字だったので、事務所から出た金額は物凄い大金に思えた。
部屋を借りることになって、不動産屋へ行って東京の現実を思い知ることになる。
それまで京都の学生下宿はだいたい12000円~25000円で僕の最後の部屋は6千円の家賃だった。
東京でも多分探せばあったのだろうけど、ひぐっつあんやタッカンの生活レベルに影響を受けたせいもあったと思う、世田谷、目黒、渋谷、六本木界隈で風呂のある部屋にこだわったら、ワンルームで最低でも5万円が必要だった。
部屋代、光熱費、食事代、通信費、交通費で事務所から出たお金は殆ど消えた・・。
月末には無銭状態になることが常だった。
兎にも角にも、東京で自分の部屋を持てたのは嬉しかった。
初めての部屋は東急田園都市線の駒沢大学駅そばだった。
ワンルームで、5畳ほどの部屋にユニットバスだった。
引越しはマー君が手伝ってくれた。
マー君がバンを運転して大阪から東京まで僕の生活道具を運んでくれた。
アースシェイカーで使っていたミュージックマンのベースは電話を引くために消えた・・・。
京都のガールフレンドの物も少しだけ持ってきた。
母親が鍋やら食器、お箸、スプーン、フォーク、下着、靴下、セーター、布団一式などを荷物につめて持たせてくれた、本当に有難かった・・・。
そして、秋葉原で電化製品をひとしきり揃えた。
7月初夏、ついに東京で自分の部屋を持って僕の生活がスタートした。
僕の生活環境が変わり同時にLOUDNESSの活動も本格的に忙しくなってきた。
連日ビーングの事務所でミーティングがあった。
デビューに先立って、バンドがどんな打ち出し方をするのが良いのか?
バンドイメージは?バンドの音楽性は?宣伝は?
僕達は事務所のプロデューサーと話し合いを重ねた。
ある日、事務所のプロデューサーから意外な発言が飛び出た。
「LOUDNESSって名前ダサクない?もっと他のにしようよ!絶対にLOUDNESSじゃ売れないよ・・・」
プロデューサの発言に僕達は言葉を失った・・・。
数人のプロデューサーが他のバンド名のアイデアを数個出してきた。
「この中から選んでほしい・・・」
候補の名前を一通り見た。
どれも、悪くは無いけれど今一インパクトに欠けていると感じた。
「LOUDNESSはダメ」と言う事務所側とバンドで意見が平行線となった。
何故「LOUDNESS」がダメなのかと言う理由も説得力も希薄だった。
結局、僕達は「LOUDNESS」と言う名前にこだわった。
最終的には事務所側が折れた。
やっとバンド名に関しては決着した・・・
次はバンドイメージをどうするのか?
それぞれのメンバーのイメージ戦略を具体的に話し合うことになった。
僕はもう何でも良かった。
悪魔でも、天使でも、野獣でも・・・・
(ロックとは言えそれを売るためには面倒なことが多いなぁ・・・)
マネージメントのコマーシャリズムな空気に少し息苦しくなった。
vocalism.niihara@gmail.com
基本的に僕からの返信は期待しないでください。
必要だと思ったら返信しますけど・・・。
*******************
Beingとの契約が済んでから僕の生活が激変した。
まず、ひぐっつあんでの居候生活に終止符が打たれた。
その前に少しだけ僕の居候時代のお話を・・・(笑)
ひぐっつあんでの居候期間は3ヶ月ほどだったけれど、その間に8キロは太った。
僕が上京した時の体重は46キロしかなくて、絵に描いたような骨皮筋衛門だった。
居候生活は不健康で不摂生な生活ではあったけれど、ひぐっつあんとの生活は楽しかった。
ひぐっつあんにあっちこっち連れて行ってもらい、ちょっと大人の世界に触れ、純情青年が少しオマセになった。
高校時代は男子校で男に囲まれていた上、3年間と言うものバンド活動に明け暮れ夜や休日は楽器の練習や音楽鑑賞に打ち込んでいた。
当時流行っていたディスコとかにも行ったことが無かったし、ファッションやバイクにもまったく興味が無かった。
大学の3年間も、入学後すぐにステディーのガールフレンドが出来たので、所謂ナンパみたいなこともやったことがなかったし、サークルの打ち上げ以外で呑み会のようなこともやったことがなかった。
だいたい夜遊びに出かける余裕も無ければ興味も皆無だった。
当時の仏教大学はまさに女子大かと思うぐらいに女性が多かったのに、今思い返してもガールフレンド以外大学内で記憶に残るような女性の友達は少なかった。
ん~こうして考えると、スタジオ、ライブハウス、下宿、軽音部室が僕の生活圏のすべてであったのか・・・地味・・・。
学生の頃の思い出と言っても、唯一あるのは軽音楽部の夏合宿に一度だけ参加したことぐらいか。
場所は四国だったかのサーフィンの名所だった。
先輩にサーファーがいたのでそこが合宿所になったと思うのだけど、そこではじめてサーフィンなるものを経験したことが思い出としてあるなぁ。
はっきり言って、音楽活動以外はあまりパッとしない冴えない学生生活だった。
ひぐっつあんの居候の間に初めて夜の世界へデビューした。
ディスコにも行った、バーにも行った、ひぐっつあんの友達のモデルさんやら、スッチーやら、タレントさんやら、それまでに見たことも無いような洗練されたセクシーで美しい女性に囲まれた。
とは言っても、その美しい女性たちは皆さんひぐっつあんがお目当てであり、上京したてのどこの馬の骨かも分からない僕なんか鼻にもかけてもらえなかったけど、それなりに楽しかった。
呑みに行ってひぐっつあんに毎回奢ってもらうわけにも行かず、とは言っても僕はお金を当然持っていなかったけど、ひょんなことから呑み代を稼ぎ出す方法にありついた。
例えば、ちょっと高級なバーなんかでは殆どのお店にはピアノがあって、僕がそこのバーのピアノで弾き語りをしたら店のママに気に入られることが多く、度々呑み代がサービスになった。
その代わり、ママのリクエストがあれば何でも歌わなければならなかったけど・・・。
バンドが入っているバーは願ったり叶ったりだった。
そのバンド演奏に飛び入りして数曲歌ったら、そこの店のマスターに気に入られて大概呑み代がサービスになったので貧乏な僕には助かった。
まさに、芸は身を助けるであった・・・・。(笑)
そんな居候生活も終わり、自分の部屋を持つことになった。
契約で2年間は事務所から毎月一定の収入を得ることになったからだ。
僕が貰っていたのは所謂会社のサラリーマンが貰うような性格の「給料」では無くて、敢えて言うなら借金みたいなものだったけれど、まー返済の義務が無かったので「給料」と言っても良いだろう。
学生の頃はアルバイトで稼いでも数万円が限界だったし、ポケットには千円札が入っていれば御の字だったので、事務所から出た金額は物凄い大金に思えた。
部屋を借りることになって、不動産屋へ行って東京の現実を思い知ることになる。
それまで京都の学生下宿はだいたい12000円~25000円で僕の最後の部屋は6千円の家賃だった。
東京でも多分探せばあったのだろうけど、ひぐっつあんやタッカンの生活レベルに影響を受けたせいもあったと思う、世田谷、目黒、渋谷、六本木界隈で風呂のある部屋にこだわったら、ワンルームで最低でも5万円が必要だった。
部屋代、光熱費、食事代、通信費、交通費で事務所から出たお金は殆ど消えた・・。
月末には無銭状態になることが常だった。
兎にも角にも、東京で自分の部屋を持てたのは嬉しかった。
初めての部屋は東急田園都市線の駒沢大学駅そばだった。
ワンルームで、5畳ほどの部屋にユニットバスだった。
引越しはマー君が手伝ってくれた。
マー君がバンを運転して大阪から東京まで僕の生活道具を運んでくれた。
アースシェイカーで使っていたミュージックマンのベースは電話を引くために消えた・・・。
京都のガールフレンドの物も少しだけ持ってきた。
母親が鍋やら食器、お箸、スプーン、フォーク、下着、靴下、セーター、布団一式などを荷物につめて持たせてくれた、本当に有難かった・・・。
そして、秋葉原で電化製品をひとしきり揃えた。
7月初夏、ついに東京で自分の部屋を持って僕の生活がスタートした。
僕の生活環境が変わり同時にLOUDNESSの活動も本格的に忙しくなってきた。
連日ビーングの事務所でミーティングがあった。
デビューに先立って、バンドがどんな打ち出し方をするのが良いのか?
バンドイメージは?バンドの音楽性は?宣伝は?
僕達は事務所のプロデューサーと話し合いを重ねた。
ある日、事務所のプロデューサーから意外な発言が飛び出た。
「LOUDNESSって名前ダサクない?もっと他のにしようよ!絶対にLOUDNESSじゃ売れないよ・・・」
プロデューサの発言に僕達は言葉を失った・・・。
数人のプロデューサーが他のバンド名のアイデアを数個出してきた。
「この中から選んでほしい・・・」
候補の名前を一通り見た。
どれも、悪くは無いけれど今一インパクトに欠けていると感じた。
「LOUDNESSはダメ」と言う事務所側とバンドで意見が平行線となった。
何故「LOUDNESS」がダメなのかと言う理由も説得力も希薄だった。
結局、僕達は「LOUDNESS」と言う名前にこだわった。
最終的には事務所側が折れた。
やっとバンド名に関しては決着した・・・
次はバンドイメージをどうするのか?
それぞれのメンバーのイメージ戦略を具体的に話し合うことになった。
僕はもう何でも良かった。
悪魔でも、天使でも、野獣でも・・・・
(ロックとは言えそれを売るためには面倒なことが多いなぁ・・・)
マネージメントのコマーシャリズムな空気に少し息苦しくなった。
前回「コメントが収拾がつかなくなるとブログ終了します」と書いたら「絶対に続けて~~!!」と悲鳴に近い嘆願メールが沢山届きました。
「終了」はまずあり得ませんのでご心配は無用ですよ!
ご意見、感想、聞きたいことなどがあればいつでも気軽にメール下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
個人へメールの返事は基本的にはしません。(ごめちゃい!)
でも気が向いたり必要であると思ったらご返事することもたまにありますけど、どの道あまり期待しないで下さい。
でも、頂いたメールにはすべて目を通しています。
厳しいお言葉にはすぐにへこんでしまうダメな気が小さい野郎なもので・・・
メールはお手柔らかによろしく!
*************
前回、「そして、早々に当時出来たばかりだった音楽プロダクション「Being」が乗り出した・・」と書いたのだが、後でよくよく考えると、日本コロンビアが先に決まっていて、その後「Being」と契約だったかもしれない・・・。
東京の赤坂には通称コロンビア通りと言う通りがあって、その通り沿いにでっかい日本コロンビアの本社ビルがあった。
マー君がバンドに合流して間も無く、僕達は日本コロンビアの本社ビルの地下一階にあったスタジオで曲作りをやり始めている。
どういう経緯で日本コロンビアのスタジオでやることになったのか具体的な理由を僕は知らない・・・。
とにかく、マネージメントBeingが決まる前から赤坂にあった日本コロンビアのスタジオでリハーサルや曲作りをやっていたのを思い出した。
これには、先に登場していたTレコードのNさんのサポートや尽力があったのだろう。
京都で始めてタッカンと会った時、TレコードのNさんという風に紹介をされたので、僕はてっきりこのプロジェクトはTレコードが絡んでいるものだと思っていた。
上京後、何度かNさん達とミーティングをして行く中で、どうやらそういう話でもないと言うことが分かった。
要するに、LAZYデビューの頃から付き合いのあったNさんは、あくまでもLAZY解散後のタッカンのアーティスト活動の為の相談役であり、必要な時はNさんが個人的にタッカンのために動き回っていたようで、Tレコードがこのプロジェクトに関係しているという話ではなかったようだった。
それにしても、Nさんがタッカンのレコードディールを取るために尽力されたのは間違いない。
さて、結果的に日本コロンビアが「LOUDNESS」に手を上げたという形になるのだが、これもよくよく考えると「LOUDNESS」と言うより「高崎晃ソロプロジェクト」として話が先にまとまっていたのではないかとも思える・・。
そしてその「高崎晃ソロプロジェクト」が「LOUDNESS」へとシフトしたと言うことだったのかもしれない。
何分、この頃の僕は、京都から出てきたばかりの新参者だったのでその辺の大人の事情や話には一切関わることがなかったので知る由もない・・。
レコード会社「日本コロンビア」が先かマネージメント「Being」が先かはこの際どうでも良い。
と言うのも、今はどうか分からないけれど、1981年あの頃はレコード会社と直にアーティストが専属契約を結ぶということは無く、そう言う事が出来ない仕組みになっていて、必ずマネージメントの存在が必要であった。
レコード会社が決まっているのであればマネージメントは同じ時期にほぼ間違いなく決まるからである。
ちなみに、分かりやすその構図を説明すると、レコード会社は言うならば「財務省」である。
レコード会社はアルバム制作費や宣伝費、アーティスト育成金やコンサート助成金(今ではこんな予算が存在するのかどうか分からないけれど・・)などの予算を出す立場であった。
マネージメントはそれらの予算を受け取り、そのアーティストのアルバム製作をやり、コンサートをやり、アーティストのスケジュール管理など考えられるあらゆる必要なことを全て引き受ける言わば「出先機関」のようなものであった。
これはあくまで1981年当時の話なので、多くが外資系の会社に変貌している現在のレコード会社の現状やシステムに関してはまったく不明だ。
この契約の形態を3者契約と呼ぶのだけど、マネージメント、アーティスト、レコード会社の3者が契約して始めて契約が成立と言うことだ。
これはあくまでも紳士協定的な原則であり当然例外も存在していただろうとは思う。
他に、この業界の代表的な紳士協定には「契約が解除されたらある一定期間はアルバム類を他社から出せない」と言うのがある。
要するに、いかなる理由があってもレコード会社と契約が切れた場合、ある一定の期間(半年~1年ほど)はリリース関係の活動が出来ないようなお約束があった、今はその辺どうなのかな?
何故そんな決まりごとが存在していたのかは分からない、ペナルティー的なことなのか?
とは言うものの、この紳士協定は法的な拘束力は無いので、強引に紳士協定を破ることも可能ではあったけれど、この狭い業界それをやったらどうなるかは火を見るより明らかだ。
マネージメントとしてBeingが名乗りを上げたのは既に書いた。
LOUDNESSをコントロールする主導権はBeingが握った。
Beingに関しては最早説明は不要だろう・・・。
1990年代に、B’zやTUBEなど日本のオリコンヒットチャートをBeingのアーティスト一色に染め上げた音楽制作頭脳集団である。
1981年にLOUDNESSがBeingと出会った頃はまだ出来たばかりのプロダクションであり、六本木のビルのワンフロアにその事務所を構えていた。
スタッフも少なく所属アーティストも少なかった。
ちなみに、その頃いたアーティストはギターリストの北島健二さん、織田哲郎さん、笹路 正徳さん率いる凄腕スタジオプレイヤー軍団のマライヤであった。
そのマライヤには清水靖晃さん、土方隆行さん、渡辺モリオさん、村川ジミー聡さん、山木秀夫さんなど目がくらむようなプロフェッショナルミュージシャンが名前を連ねていた。
ある日、僕たち4人はその六本木のBeingの事務所に呼ばれた。
そこで出迎えてくれたのはBeingの社長であるNDさん(この有名な社長を伏字にする必要があるのかわからないけれど、面倒なので伏字にさせてもらう・・)だった。
他にも数人若手のプロデューサーが同席をしていた。
社長のNさんが僕達に合うなり興奮気味に「リハーサルのテープを聞かせてももらったよ!!今までに無い新しいハードロックバンドだと思う。君達にはとても可能性を感じる!是非一緒にやりましょう!」と言う事だった。
当然、僕達には断る理由も無くLOUDNESSはそのままBeingとマネージメント契約を交わした。
こうしてLOUDNESSは着々とデビューに向かって動き出したのである。
僕はBeingとマネージメント契約を交わし、その月末からいきなり大卒初任給以上の給料を貰うことになった・・・。
僕にとっては見たこともない大金だった・・
「終了」はまずあり得ませんのでご心配は無用ですよ!
ご意見、感想、聞きたいことなどがあればいつでも気軽にメール下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
個人へメールの返事は基本的にはしません。(ごめちゃい!)
でも気が向いたり必要であると思ったらご返事することもたまにありますけど、どの道あまり期待しないで下さい。
でも、頂いたメールにはすべて目を通しています。
厳しいお言葉にはすぐにへこんでしまうダメな気が小さい野郎なもので・・・
メールはお手柔らかによろしく!
*************
前回、「そして、早々に当時出来たばかりだった音楽プロダクション「Being」が乗り出した・・」と書いたのだが、後でよくよく考えると、日本コロンビアが先に決まっていて、その後「Being」と契約だったかもしれない・・・。
東京の赤坂には通称コロンビア通りと言う通りがあって、その通り沿いにでっかい日本コロンビアの本社ビルがあった。
マー君がバンドに合流して間も無く、僕達は日本コロンビアの本社ビルの地下一階にあったスタジオで曲作りをやり始めている。
どういう経緯で日本コロンビアのスタジオでやることになったのか具体的な理由を僕は知らない・・・。
とにかく、マネージメントBeingが決まる前から赤坂にあった日本コロンビアのスタジオでリハーサルや曲作りをやっていたのを思い出した。
これには、先に登場していたTレコードのNさんのサポートや尽力があったのだろう。
京都で始めてタッカンと会った時、TレコードのNさんという風に紹介をされたので、僕はてっきりこのプロジェクトはTレコードが絡んでいるものだと思っていた。
上京後、何度かNさん達とミーティングをして行く中で、どうやらそういう話でもないと言うことが分かった。
要するに、LAZYデビューの頃から付き合いのあったNさんは、あくまでもLAZY解散後のタッカンのアーティスト活動の為の相談役であり、必要な時はNさんが個人的にタッカンのために動き回っていたようで、Tレコードがこのプロジェクトに関係しているという話ではなかったようだった。
それにしても、Nさんがタッカンのレコードディールを取るために尽力されたのは間違いない。
さて、結果的に日本コロンビアが「LOUDNESS」に手を上げたという形になるのだが、これもよくよく考えると「LOUDNESS」と言うより「高崎晃ソロプロジェクト」として話が先にまとまっていたのではないかとも思える・・。
そしてその「高崎晃ソロプロジェクト」が「LOUDNESS」へとシフトしたと言うことだったのかもしれない。
何分、この頃の僕は、京都から出てきたばかりの新参者だったのでその辺の大人の事情や話には一切関わることがなかったので知る由もない・・。
レコード会社「日本コロンビア」が先かマネージメント「Being」が先かはこの際どうでも良い。
と言うのも、今はどうか分からないけれど、1981年あの頃はレコード会社と直にアーティストが専属契約を結ぶということは無く、そう言う事が出来ない仕組みになっていて、必ずマネージメントの存在が必要であった。
レコード会社が決まっているのであればマネージメントは同じ時期にほぼ間違いなく決まるからである。
ちなみに、分かりやすその構図を説明すると、レコード会社は言うならば「財務省」である。
レコード会社はアルバム制作費や宣伝費、アーティスト育成金やコンサート助成金(今ではこんな予算が存在するのかどうか分からないけれど・・)などの予算を出す立場であった。
マネージメントはそれらの予算を受け取り、そのアーティストのアルバム製作をやり、コンサートをやり、アーティストのスケジュール管理など考えられるあらゆる必要なことを全て引き受ける言わば「出先機関」のようなものであった。
これはあくまで1981年当時の話なので、多くが外資系の会社に変貌している現在のレコード会社の現状やシステムに関してはまったく不明だ。
この契約の形態を3者契約と呼ぶのだけど、マネージメント、アーティスト、レコード会社の3者が契約して始めて契約が成立と言うことだ。
これはあくまでも紳士協定的な原則であり当然例外も存在していただろうとは思う。
他に、この業界の代表的な紳士協定には「契約が解除されたらある一定期間はアルバム類を他社から出せない」と言うのがある。
要するに、いかなる理由があってもレコード会社と契約が切れた場合、ある一定の期間(半年~1年ほど)はリリース関係の活動が出来ないようなお約束があった、今はその辺どうなのかな?
何故そんな決まりごとが存在していたのかは分からない、ペナルティー的なことなのか?
とは言うものの、この紳士協定は法的な拘束力は無いので、強引に紳士協定を破ることも可能ではあったけれど、この狭い業界それをやったらどうなるかは火を見るより明らかだ。
マネージメントとしてBeingが名乗りを上げたのは既に書いた。
LOUDNESSをコントロールする主導権はBeingが握った。
Beingに関しては最早説明は不要だろう・・・。
1990年代に、B’zやTUBEなど日本のオリコンヒットチャートをBeingのアーティスト一色に染め上げた音楽制作頭脳集団である。
1981年にLOUDNESSがBeingと出会った頃はまだ出来たばかりのプロダクションであり、六本木のビルのワンフロアにその事務所を構えていた。
スタッフも少なく所属アーティストも少なかった。
ちなみに、その頃いたアーティストはギターリストの北島健二さん、織田哲郎さん、笹路 正徳さん率いる凄腕スタジオプレイヤー軍団のマライヤであった。
そのマライヤには清水靖晃さん、土方隆行さん、渡辺モリオさん、村川ジミー聡さん、山木秀夫さんなど目がくらむようなプロフェッショナルミュージシャンが名前を連ねていた。
ある日、僕たち4人はその六本木のBeingの事務所に呼ばれた。
そこで出迎えてくれたのはBeingの社長であるNDさん(この有名な社長を伏字にする必要があるのかわからないけれど、面倒なので伏字にさせてもらう・・)だった。
他にも数人若手のプロデューサーが同席をしていた。
社長のNさんが僕達に合うなり興奮気味に「リハーサルのテープを聞かせてももらったよ!!今までに無い新しいハードロックバンドだと思う。君達にはとても可能性を感じる!是非一緒にやりましょう!」と言う事だった。
当然、僕達には断る理由も無くLOUDNESSはそのままBeingとマネージメント契約を交わした。
こうしてLOUDNESSは着々とデビューに向かって動き出したのである。
僕はBeingとマネージメント契約を交わし、その月末からいきなり大卒初任給以上の給料を貰うことになった・・・。
僕にとっては見たこともない大金だった・・
いつも沢山のコメントありがとうございます。
若干ですがコメントのご質問にお答えしたいと思います。
マー君のソロアルバムに関してですが、マー君のソロレコーディングが始まる前にLOUDNESS担当ディレクターが別会社へ行ってしまい、そのまま引継ぎがうまく出来ずに立ち消え状態になっているのが現状です。
マー君からは色々アイデアを聞いていたし、僕も何曲か歌う予定でした。
僕もマー君のソロアルバムがとても楽しみなので、なんとか実現できればと思っていますが・・・。
コメント欄に関してご意見を頂戴しました。
今のところ個人的には皆さんのコメントに関して取り立てて問題があるとは思っておりません。
なにかご意見、ご要望がある方は具体的内容をメールして下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
対処すべきコメントでしたら、しかるべき対処をさせてもらいます。
すでに数回、明らかに意味不明な宣伝コメントを削除しましたが、過激な発言であってもよほどの誹謗中傷や個人攻撃でない限りスルーします。
仮に、コメントで収拾がつかないような事態になった場合は、非公開コメントにするのではなく、この歴史物の話が途中であってもこのブログは終了するつもりです。
皆さん仲良くやって行きましょう!
よろしくお願いします。
*******************
「LOUDNESS」と言うバンド名を決めて、4人の気持ちはひとつになった。
とは言うものの、この時点ではあくまでも4人の中だけの話であって、LOUDNESSという名前のバンドが正式に世に誕生するにはクリアーすべき問題がいくつかあった。
そもそも、僕が上京した時に「高崎晃ソロアルバム」と言う方向性でどこかのレコード会社とレコード(アーティスト)契約の話が具体的にあったのかどうかは分からないけれど、少なくとも「LOUDNESS」を立ち上げた段階で、「LOUDNESS」と言う新人バンドと契約をしたいと言うレコード会社は存在していなかったと思う。
果たして、バンド「LOUDNESS」が欲しいと言ってくれるレコード会社が名乗り上げるのだろうか?
今でこそLOUDNESSという名前は、ある程度ロックミュージシャンやこの業界で市民権を得ている。
そして今でこそ、ハードロックやヘビーメタルと言うジャンルの音楽は常に一定の支持層があり、爆発的に売れないにしても、良いバンドであるならばCDを出せばある程度の数字が読めるジャンルではある。
しかしながら、我々4人がLOUDNESSと言うバンド名を決め「バンドをやろうぜ!」と立ち上がった頃、ハードロック・ヘビーメタルと言うジャンルの音楽は完璧に隅に追いやられて、むしろ全く見向きもされないような時代ではあった。
1981年、あの当時を振り返ると「長髪?今はもうそんなの流行んないよ~~・・」「はぁ?ハードロック??ツェッペリン?ディープパープル?あぁ昔の音楽ね・・・そんなのやったって商売になんないよ~~~」「ハードロック??今の若い子には絶対無理!絶対受けない!」と言った風潮で、本当に長髪ハードロッカーには肩身の狭い時代だった。
1981年、、ここ日本では確かにメインストリーム音楽はテクノミュージックであり、YMOなどが全盛期だった。

テクノミュージック・・・まさにハードロックとは正反対の音楽である。
そして、日本のテクノミュージックは欧米などでも影響を与えるほどの存在であったし、ここ日本ではちょっとした社会現象でもあった。
1981年、目を皿のようにして探しても、日本でプロとして活躍しているハードロックバンドは”BOW WOW”がかろうじて踏ん張っているような状況であった。
ハードロックが好き嫌いは別として、要するに、ハードロックを職業としてやろうと考える人も少なかったし、商売になると考える人もいなかった。
テクノミュージックとハードロック、この二つの音楽を仮に食事に例えるなら、ハードロックが「牛丼」だとしたら、テクノミュージックは「ビタミン剤」である。
テクノミュージックがコンピューターを駆使した近未来的な音楽だとしたら、ハードロックは肉体を駆使したプリミティブ音楽である。
僕達4人が始めようとしていた音楽は文字通り「時代に逆行した音楽」であった。
1981年当時のファッションを振り返っても、右を見ても左を見ても、耳のところで髪を一直線に短く切ったテクノカットが流行っていて、流行追いの若者はこぞって坂本龍一のようなファッションや髪型だった。
実はこんなことを書いているけれど、京都の珈琲ショップでタッカンに始めて会ったとき僕のヘアースタイルは「テクノカット」だったしその上「口ひげ」まで生やしていた。(笑)
タッカンが(随分とイメージと違うなぁ・・)と言うような表情をしたのにはこう言う理由があった。
普通ならば、これほど時代の流れとは違う音楽をやろうとすれば誰にも相手にされずそのまま消えていくのが世の常であっただろう。
しかし我々「LOUDNESS」の強運はここから始まっている。
1981年、日本中がテクノミュージックで沸き立っている時、実は世界的に影響を及ぼす新たな音楽のムーブメントの「怪物」が産声を上げていた。
まさに大きな変革と言う「波」がゆっくりとイギリスから押し寄せてきていたのだ・・・
その波とはNWOBHM( NEW WAVE OF BRITISH HEAVY METAL)である。

「・・・由来は「Sounds」誌で、ジェフ・バートンの書いた記事による。 1970年代後期のHR/HMは、パンク以降に登場したニュー・ウェーブを支持する人間が過去のロックを「オールド・ウェイヴ」と呼ぶ事に対しあえて "New Wave" 、ブリティッシュ・ロック低迷からの復権を願って "British" 、ハード・ロックを継承しながらも新しい時代を切り開く意味で"Heavy Metal"を合わせて名付けられた。 パンク、ニューウェーブが過去の音楽を否定する事を始まりとするのに対し、NWOBHMは伝統を継承するとの主張が込められている。」『フリー百科事典『ウィキペディアより引用』
要するに、イギリスでパンクやニューウエーブにやり場のないフラストレーションを抱えていた若者が反旗を翻して起こったムーブメントで、アイヤンメイデン、サクソン、モーターヘッド、デフレパードと言った連中がイギリスのアンダーグラウンドシーンで絶大な支持を受けた。
そしてここ日本では、その新たな「波」に敏感に反応していたのは極少数の音楽ジャーナリストだけだった。
日本のレコード会社の多くはこの「波」に関心を示すことも無く、ただ安全な「現在流行しているもの」を追い、その亜流を作り続けることに腐心しているようだった。
NWOBHMの新たな波が押し寄せる、そういう時代背景で「LOUDNESS」が産声を上げたのは「奇遇であり強運」であった。
勿論「運」だけではどうにも出来ないけれど、「運」も無ければどうにもならないのも現実だ。
「LOUDNESSをやろう」とした時、僕達には「こうやったら売れるだろう」と言うような所謂「計算」「打算」と言うものは頭に無かった。
ただ、「これが好きだ」「これがやりたい」と言うものに無心なっていただけである。
そこに「運」も見方してくれたのだ・・・。
「LOUDNESS」号が船出するには大人社会のシステムの扉をこじ開ける必要があった。
1981年、「ハードロックはねぇ・・」と言った冷めた反応を示す人は少なくなかった。
「高崎晃ソロ名義ならねぇ・・・」とあからさまにLAZYのふんどしを貸してくれと言わんばかりの訳知り顔が多かったのも事実であったと思う。
そんな人達にも、一度LOUDNESSのリハーサルテープを聴かせたら色めき立った。
「なんだ~このギターは!!」「なんじゃ~~この声は!!」「なんだ~~この曲は!!!」
それまで日本にいなかったニュータイプの超技巧派ハードロックギター、男性の絶叫型超ハイトーンロックヴォーカルは日本初だったと思う・・。
メタリックな楽曲も新鮮だった。
LOUDNESSはその当時デビューしていたどのロックバンドとも比較できないほどに強烈にハードでメタリックなサウンドを持ったバンドだった。
1981年、こうして平均年齢20歳のLOUDNESSはそのサウンドで日本の音楽業界に自分達の存在を明示したのである。
バンドの魅力は論ずるよりも音を聞かせた方が雄弁なのは当然である。
そして、早々に当時出来たばかりだった音楽プロダクション「Being」が乗り出した・・・・
若干ですがコメントのご質問にお答えしたいと思います。
マー君のソロアルバムに関してですが、マー君のソロレコーディングが始まる前にLOUDNESS担当ディレクターが別会社へ行ってしまい、そのまま引継ぎがうまく出来ずに立ち消え状態になっているのが現状です。
マー君からは色々アイデアを聞いていたし、僕も何曲か歌う予定でした。
僕もマー君のソロアルバムがとても楽しみなので、なんとか実現できればと思っていますが・・・。
コメント欄に関してご意見を頂戴しました。
今のところ個人的には皆さんのコメントに関して取り立てて問題があるとは思っておりません。
なにかご意見、ご要望がある方は具体的内容をメールして下さい。
vocalism.niihara@gmail.com
対処すべきコメントでしたら、しかるべき対処をさせてもらいます。
すでに数回、明らかに意味不明な宣伝コメントを削除しましたが、過激な発言であってもよほどの誹謗中傷や個人攻撃でない限りスルーします。
仮に、コメントで収拾がつかないような事態になった場合は、非公開コメントにするのではなく、この歴史物の話が途中であってもこのブログは終了するつもりです。
皆さん仲良くやって行きましょう!
よろしくお願いします。
*******************
「LOUDNESS」と言うバンド名を決めて、4人の気持ちはひとつになった。
とは言うものの、この時点ではあくまでも4人の中だけの話であって、LOUDNESSという名前のバンドが正式に世に誕生するにはクリアーすべき問題がいくつかあった。
そもそも、僕が上京した時に「高崎晃ソロアルバム」と言う方向性でどこかのレコード会社とレコード(アーティスト)契約の話が具体的にあったのかどうかは分からないけれど、少なくとも「LOUDNESS」を立ち上げた段階で、「LOUDNESS」と言う新人バンドと契約をしたいと言うレコード会社は存在していなかったと思う。
果たして、バンド「LOUDNESS」が欲しいと言ってくれるレコード会社が名乗り上げるのだろうか?
今でこそLOUDNESSという名前は、ある程度ロックミュージシャンやこの業界で市民権を得ている。
そして今でこそ、ハードロックやヘビーメタルと言うジャンルの音楽は常に一定の支持層があり、爆発的に売れないにしても、良いバンドであるならばCDを出せばある程度の数字が読めるジャンルではある。
しかしながら、我々4人がLOUDNESSと言うバンド名を決め「バンドをやろうぜ!」と立ち上がった頃、ハードロック・ヘビーメタルと言うジャンルの音楽は完璧に隅に追いやられて、むしろ全く見向きもされないような時代ではあった。
1981年、あの当時を振り返ると「長髪?今はもうそんなの流行んないよ~~・・」「はぁ?ハードロック??ツェッペリン?ディープパープル?あぁ昔の音楽ね・・・そんなのやったって商売になんないよ~~~」「ハードロック??今の若い子には絶対無理!絶対受けない!」と言った風潮で、本当に長髪ハードロッカーには肩身の狭い時代だった。
1981年、、ここ日本では確かにメインストリーム音楽はテクノミュージックであり、YMOなどが全盛期だった。

テクノミュージック・・・まさにハードロックとは正反対の音楽である。
そして、日本のテクノミュージックは欧米などでも影響を与えるほどの存在であったし、ここ日本ではちょっとした社会現象でもあった。
1981年、目を皿のようにして探しても、日本でプロとして活躍しているハードロックバンドは”BOW WOW”がかろうじて踏ん張っているような状況であった。
ハードロックが好き嫌いは別として、要するに、ハードロックを職業としてやろうと考える人も少なかったし、商売になると考える人もいなかった。
テクノミュージックとハードロック、この二つの音楽を仮に食事に例えるなら、ハードロックが「牛丼」だとしたら、テクノミュージックは「ビタミン剤」である。
テクノミュージックがコンピューターを駆使した近未来的な音楽だとしたら、ハードロックは肉体を駆使したプリミティブ音楽である。
僕達4人が始めようとしていた音楽は文字通り「時代に逆行した音楽」であった。
1981年当時のファッションを振り返っても、右を見ても左を見ても、耳のところで髪を一直線に短く切ったテクノカットが流行っていて、流行追いの若者はこぞって坂本龍一のようなファッションや髪型だった。
実はこんなことを書いているけれど、京都の珈琲ショップでタッカンに始めて会ったとき僕のヘアースタイルは「テクノカット」だったしその上「口ひげ」まで生やしていた。(笑)
タッカンが(随分とイメージと違うなぁ・・)と言うような表情をしたのにはこう言う理由があった。
普通ならば、これほど時代の流れとは違う音楽をやろうとすれば誰にも相手にされずそのまま消えていくのが世の常であっただろう。
しかし我々「LOUDNESS」の強運はここから始まっている。
1981年、日本中がテクノミュージックで沸き立っている時、実は世界的に影響を及ぼす新たな音楽のムーブメントの「怪物」が産声を上げていた。
まさに大きな変革と言う「波」がゆっくりとイギリスから押し寄せてきていたのだ・・・
その波とはNWOBHM( NEW WAVE OF BRITISH HEAVY METAL)である。

「・・・由来は「Sounds」誌で、ジェフ・バートンの書いた記事による。 1970年代後期のHR/HMは、パンク以降に登場したニュー・ウェーブを支持する人間が過去のロックを「オールド・ウェイヴ」と呼ぶ事に対しあえて "New Wave" 、ブリティッシュ・ロック低迷からの復権を願って "British" 、ハード・ロックを継承しながらも新しい時代を切り開く意味で"Heavy Metal"を合わせて名付けられた。 パンク、ニューウェーブが過去の音楽を否定する事を始まりとするのに対し、NWOBHMは伝統を継承するとの主張が込められている。」『フリー百科事典『ウィキペディアより引用』
要するに、イギリスでパンクやニューウエーブにやり場のないフラストレーションを抱えていた若者が反旗を翻して起こったムーブメントで、アイヤンメイデン、サクソン、モーターヘッド、デフレパードと言った連中がイギリスのアンダーグラウンドシーンで絶大な支持を受けた。
そしてここ日本では、その新たな「波」に敏感に反応していたのは極少数の音楽ジャーナリストだけだった。
日本のレコード会社の多くはこの「波」に関心を示すことも無く、ただ安全な「現在流行しているもの」を追い、その亜流を作り続けることに腐心しているようだった。
NWOBHMの新たな波が押し寄せる、そういう時代背景で「LOUDNESS」が産声を上げたのは「奇遇であり強運」であった。
勿論「運」だけではどうにも出来ないけれど、「運」も無ければどうにもならないのも現実だ。
「LOUDNESSをやろう」とした時、僕達には「こうやったら売れるだろう」と言うような所謂「計算」「打算」と言うものは頭に無かった。
ただ、「これが好きだ」「これがやりたい」と言うものに無心なっていただけである。
そこに「運」も見方してくれたのだ・・・。
「LOUDNESS」号が船出するには大人社会のシステムの扉をこじ開ける必要があった。
1981年、「ハードロックはねぇ・・」と言った冷めた反応を示す人は少なくなかった。
「高崎晃ソロ名義ならねぇ・・・」とあからさまにLAZYのふんどしを貸してくれと言わんばかりの訳知り顔が多かったのも事実であったと思う。
そんな人達にも、一度LOUDNESSのリハーサルテープを聴かせたら色めき立った。
「なんだ~このギターは!!」「なんじゃ~~この声は!!」「なんだ~~この曲は!!!」
それまで日本にいなかったニュータイプの超技巧派ハードロックギター、男性の絶叫型超ハイトーンロックヴォーカルは日本初だったと思う・・。
メタリックな楽曲も新鮮だった。
LOUDNESSはその当時デビューしていたどのロックバンドとも比較できないほどに強烈にハードでメタリックなサウンドを持ったバンドだった。
1981年、こうして平均年齢20歳のLOUDNESSはそのサウンドで日本の音楽業界に自分達の存在を明示したのである。
バンドの魅力は論ずるよりも音を聞かせた方が雄弁なのは当然である。
そして、早々に当時出来たばかりだった音楽プロダクション「Being」が乗り出した・・・・
Lazyのベースだったファニーことひろゆき君、まさに発車前に下車した感じだった。
物事が何も始まっていなかったので「脱退」と言う言葉は不適切かと思う。
ひろゆき君にはひろゆき君の,やりたいことがあったのだから仕方があるまい。
彼との交流は本当に短いものだった。
オーディションで始めて会った時、上京後のミーティングで数回、それがすべてだった。
彼の人柄などを良く知るほどには十分な付き合いが無かった。
どちらかと言えば、むしろ僕は彼のことをあまりよく知らないと言ったほうが良いかもしれない。
ただ印象としては、あの優しい笑顔のままの人だったと思う。
結局彼は後に、ポッキーこと井上俊次さんとNEVER LANDを結成して、僕は彼等のデビュー当時のライブを一度だけ観たことがあった。
とてもキャッチーで暖かな曲が多く、バンドメンバーの人柄がそのまま音に反映された優しいポップなバンドだった。
そのライブ以降、彼とは全く音信不通となり、LAZYの再結成の赤坂ブリッズ公演で客席からひろゆき君のことを観たのがネバーランドライブ以来であり、それが生きている彼を見る最後となった。
景山君や井上君はたまにLOUDNESSの楽屋へ陣中見舞いに来ることがあったけれど、ひろゆき君は殆ど来なかったと思う。
ひろゆき君に関して唯一の僕の思い出は、部屋の掃除が大の苦手なひろゆき君、僕が彼の部屋へ遊びに行くことになったので夜を徹して部屋の掃除をしてくれたこと・・。
「掃除大変やってんで~~~!」と言って僕を部屋に招き入れてくれた。
とても綺麗に掃除されていたので「そうなん?目茶綺麗な部屋やん!」と僕が言ったら、隣の部屋を見せてくれて「これがいつもの状態やねん!」と言って,泥棒が入った後のように見事に散らかった部屋を見せてくれて二人で大笑いしたことがあった。
2年前にそんな彼が急死したと言う知らせを受けた・・・。
ご冥福を祈る・・・・・。
タッカンが「幼なじみでベース弾ける奴がおんねん。」と言って,マー君を大阪から呼んだのはひろゆき君がこのプロジェクトに参加しないと決まって数日後だったと思う。
初めてマー君と合流した場所は失念したけれど、マー君はロックっぽいTシャツに黒と白の縦縞のタイトジーンズにカーリーヘアーと言う出で立ちだったのは良く覚えている。
とても細身でお人形さんのような愛くるしい青年だった。

右手にはベースのハードケースで中には白のリッケンバッカーが入っていた。
「まいど!」恥ずかしげに挨拶してくれた時、あのオーディションの夜焼き鳥屋「大吉」にいた人だとすぐに思い出した。
マー君は「アースシェイカー結構見に行ってたで~~」と言って笑っていた。
RUSHが大好きだと言うマー君とはすぐに意気投合した。
それまで僕は大阪から上京したてで、東京のことやプロの音楽の世界のことも、右左何も分からなかっただけに同志が出来たような気がして嬉しかったし、心強くなった。
僕達はすぐにスタジオに入ってセッションを始めた。
マー君のベースはひろゆき君とは明らかに違うタイプでマー君のそれは攻撃的でリッケンバッカー特有のゴリゴリしたサウンドが新鮮だった。
こうして高崎晃プロジェクトの名の下、4人のメンバーが揃うことになった・・・。
僕達はスタジオでセッションを繰り返しながらタッカンのリフを中心に曲作りも始めた。
毎日最低6時間ほどは演奏に没頭した。
僕たち4人は一つのリフから延々とインプロビゼーションで曲を膨らませて行った。
その間、殆ど会話らしい会話は無かった。
ただひたすらに演奏に没頭した。
セッション中、僕はアースシェイカーでやっていた時と同じように、皆の演奏を聴きながら思いつくまま出鱈目にただひたすらに叫びまくった。
そして、みんなの白熱するセッションのうねりから色んなイメージを受け取り、ヴォーカルメロディーをひらめきで作っていった。
あの時の4人のエネルギーは本当に凄まじかったと思う。
タッカンもひぐっつあんもマキシマムのパワーでロックしていた。
セッション中のタッカンのギターはまさに驚異的だった。
タッカンの指から溢れ出てくるギターリフも即興のギターソロも何もかもが神憑っていた。
そのギターに触発されたひぐっつあんもあり得ないような爆発したドラミングだった。
ひぐっつあんは脅威のスピードと怒涛のラウドドラム炸裂で益々スタジオ内を盛り上げ、4人の感情の導火線に火をつけた。
僕達はヘロヘロになるまでセッションを続けた・・・。
そしてその演奏をタッカンのカセットテープレコーダーで毎回録音した。
録音と言ってもMTRのようなものではなく、ラジカセの小さな奴をスタジオの中央に置いてせーので演奏したものを一発録音したものだった。

そんなセッションを繰り返していたある日、僕達はタッカンの家にいた。
セッションテープを聴きながら「おぉ!!このフレーズ凄いなぁ!!」とか「このメロディーのシャウト格好エエな」とか「このギターソロは病気やな・・」とか、僕の出鱈目な英語歌(ハナモゲラ唱法)に皆で大笑いしたりしている時、ひぐっつあんが(だと思う)「これで俺達バンドとしてせーへんか?」と提案した。
当初はあくまで高崎晃ソロプロジェクトとして始まったプロジェクトだったけれど、セッションを通じて自分達の作り出す音楽やロックに確固たる自信と確信を得たのだ。
「そうやな~~そうしょうか!」タッカンも同意した。
僕もマー君も異論があるわけが無い。
「バンド名どないする?」とひぐっつあんが言った。
この時にバンド名が決まったのだけど、バンド名の決定の経緯には色んな諸説があり今や僕も「これが真相だ!」と言う自信が無い・・・。
ただ、僕の記憶では、誰かがステレオのアンプに書いてあるLOUDNESSと言う文字を指差した。

「このLOUDNESSって格好ええんちゃうか?」と言った場面を記憶しているのだが・・。
それを聞いたタッカンが辞書で「LOUDNESS」を調べて「意味は・・・大声、騒々しさ、派手さ・・・おぉ!意味も格好ええぞ!!これにしようや!」となったと思う。
意外とバンド名は難なく決定したのだった。
この日から僕達4人の『LOUDNESS』の物語が始まった・・・・
物事が何も始まっていなかったので「脱退」と言う言葉は不適切かと思う。
ひろゆき君にはひろゆき君の,やりたいことがあったのだから仕方があるまい。
彼との交流は本当に短いものだった。
オーディションで始めて会った時、上京後のミーティングで数回、それがすべてだった。
彼の人柄などを良く知るほどには十分な付き合いが無かった。
どちらかと言えば、むしろ僕は彼のことをあまりよく知らないと言ったほうが良いかもしれない。
ただ印象としては、あの優しい笑顔のままの人だったと思う。
結局彼は後に、ポッキーこと井上俊次さんとNEVER LANDを結成して、僕は彼等のデビュー当時のライブを一度だけ観たことがあった。
とてもキャッチーで暖かな曲が多く、バンドメンバーの人柄がそのまま音に反映された優しいポップなバンドだった。
そのライブ以降、彼とは全く音信不通となり、LAZYの再結成の赤坂ブリッズ公演で客席からひろゆき君のことを観たのがネバーランドライブ以来であり、それが生きている彼を見る最後となった。
景山君や井上君はたまにLOUDNESSの楽屋へ陣中見舞いに来ることがあったけれど、ひろゆき君は殆ど来なかったと思う。
ひろゆき君に関して唯一の僕の思い出は、部屋の掃除が大の苦手なひろゆき君、僕が彼の部屋へ遊びに行くことになったので夜を徹して部屋の掃除をしてくれたこと・・。
「掃除大変やってんで~~~!」と言って僕を部屋に招き入れてくれた。
とても綺麗に掃除されていたので「そうなん?目茶綺麗な部屋やん!」と僕が言ったら、隣の部屋を見せてくれて「これがいつもの状態やねん!」と言って,泥棒が入った後のように見事に散らかった部屋を見せてくれて二人で大笑いしたことがあった。
2年前にそんな彼が急死したと言う知らせを受けた・・・。
ご冥福を祈る・・・・・。
タッカンが「幼なじみでベース弾ける奴がおんねん。」と言って,マー君を大阪から呼んだのはひろゆき君がこのプロジェクトに参加しないと決まって数日後だったと思う。
初めてマー君と合流した場所は失念したけれど、マー君はロックっぽいTシャツに黒と白の縦縞のタイトジーンズにカーリーヘアーと言う出で立ちだったのは良く覚えている。
とても細身でお人形さんのような愛くるしい青年だった。

右手にはベースのハードケースで中には白のリッケンバッカーが入っていた。
「まいど!」恥ずかしげに挨拶してくれた時、あのオーディションの夜焼き鳥屋「大吉」にいた人だとすぐに思い出した。
マー君は「アースシェイカー結構見に行ってたで~~」と言って笑っていた。
RUSHが大好きだと言うマー君とはすぐに意気投合した。
それまで僕は大阪から上京したてで、東京のことやプロの音楽の世界のことも、右左何も分からなかっただけに同志が出来たような気がして嬉しかったし、心強くなった。
僕達はすぐにスタジオに入ってセッションを始めた。
マー君のベースはひろゆき君とは明らかに違うタイプでマー君のそれは攻撃的でリッケンバッカー特有のゴリゴリしたサウンドが新鮮だった。
こうして高崎晃プロジェクトの名の下、4人のメンバーが揃うことになった・・・。
僕達はスタジオでセッションを繰り返しながらタッカンのリフを中心に曲作りも始めた。
毎日最低6時間ほどは演奏に没頭した。
僕たち4人は一つのリフから延々とインプロビゼーションで曲を膨らませて行った。
その間、殆ど会話らしい会話は無かった。
ただひたすらに演奏に没頭した。
セッション中、僕はアースシェイカーでやっていた時と同じように、皆の演奏を聴きながら思いつくまま出鱈目にただひたすらに叫びまくった。
そして、みんなの白熱するセッションのうねりから色んなイメージを受け取り、ヴォーカルメロディーをひらめきで作っていった。
あの時の4人のエネルギーは本当に凄まじかったと思う。
タッカンもひぐっつあんもマキシマムのパワーでロックしていた。
セッション中のタッカンのギターはまさに驚異的だった。
タッカンの指から溢れ出てくるギターリフも即興のギターソロも何もかもが神憑っていた。
そのギターに触発されたひぐっつあんもあり得ないような爆発したドラミングだった。
ひぐっつあんは脅威のスピードと怒涛のラウドドラム炸裂で益々スタジオ内を盛り上げ、4人の感情の導火線に火をつけた。
僕達はヘロヘロになるまでセッションを続けた・・・。
そしてその演奏をタッカンのカセットテープレコーダーで毎回録音した。
録音と言ってもMTRのようなものではなく、ラジカセの小さな奴をスタジオの中央に置いてせーので演奏したものを一発録音したものだった。

そんなセッションを繰り返していたある日、僕達はタッカンの家にいた。
セッションテープを聴きながら「おぉ!!このフレーズ凄いなぁ!!」とか「このメロディーのシャウト格好エエな」とか「このギターソロは病気やな・・」とか、僕の出鱈目な英語歌(ハナモゲラ唱法)に皆で大笑いしたりしている時、ひぐっつあんが(だと思う)「これで俺達バンドとしてせーへんか?」と提案した。
当初はあくまで高崎晃ソロプロジェクトとして始まったプロジェクトだったけれど、セッションを通じて自分達の作り出す音楽やロックに確固たる自信と確信を得たのだ。
「そうやな~~そうしょうか!」タッカンも同意した。
僕もマー君も異論があるわけが無い。
「バンド名どないする?」とひぐっつあんが言った。
この時にバンド名が決まったのだけど、バンド名の決定の経緯には色んな諸説があり今や僕も「これが真相だ!」と言う自信が無い・・・。
ただ、僕の記憶では、誰かがステレオのアンプに書いてあるLOUDNESSと言う文字を指差した。

「このLOUDNESSって格好ええんちゃうか?」と言った場面を記憶しているのだが・・。
それを聞いたタッカンが辞書で「LOUDNESS」を調べて「意味は・・・大声、騒々しさ、派手さ・・・おぉ!意味も格好ええぞ!!これにしようや!」となったと思う。
意外とバンド名は難なく決定したのだった。
この日から僕達4人の『LOUDNESS』の物語が始まった・・・・
僕が上京してきた時、実はまだLAZYが活動中だった。
解散ツアー中でひぐっつあんやタッカン、ひろゆき君は忙しそうだった。
その合間を縫ってタッカンとひぐっつあん、ひろゆき君と幾度か高崎プロジェクトのミーティングを重ねた。
タッカンのマンションでミーティングをやって、夜は呑みに繰り出すと言う日々だった。
いよいよ、LAZYの解散コンサートの最終日が来た。

僕は招待されてそのLAZY解散コンサートを観に行った。
会場にはLAZYの産みの親でもあるかまやつヒロシさんがいた。
大阪のアマチュアバンドが出る音楽番組「ハロヤン」の審査員であったかまやつさんがLAZYを見初めて東京へ引っ張って来たのは有名な話である。
LAZYのデビューに至る秘話をひぐっつあんから聞いたけれど、これはこれで中々興味深い話であったけれど、ここでは割愛する。
LAZYのライブ中は始終耳をつんざく黄色い歓声で客席は揺れていた。
99%は女性ファンで会場は埋め尽くされ、まさにアイドルライブ一色であった。
客席からは紙テープが舞い踊り、ペンライトが光り輝き、会場全体の一体感に僕はある意味高揚した。

(ひゃ~~みんなアイドルスターやん・・・・)
ミッシェルこと景山君は西條ヒデキに見えた。
僕はそれまでテレビ以外でアイドルの歌っているのを観たことが無かったけれど、ミッシェルの笑顔、歌い方、踊り、衣装、おしゃべり・・・etcが絵に描いたようなアイドルパフォーマンスでプロの底力を感じた。
一方、ひぐっつあんとタッカンはミッシェルやファニー、ポッキーとは完璧に違ったロックミュージシャンのオーラを発していた。
ひぐっつあんは完璧にコージーパウエルを彷彿させるパフォーマンスだったし、タッカンのギターはもはやLAZYが繰り広げるライブとは別の世界の空気を作っていた。
そして、目を見張る超絶プレーを黙々と繰り広げており、果たしてこの中のファンの人達にその凄さが理解されているのかどうかと考えてしまった。
僕はLAZYとは縁もゆかりも無い第三者の目でライブを観ていたけれど、たっかんやひぐっつあんの気持ちが手に取るように分かった。
この人達は本当に心からロックがしたいのだなと・・・。
ロックミュージシャンでありたい、俺たちは本物のロッカーなんだと言う魂の叫びが音として主張していたのだ。
自分達のやりたい音楽と実際繰り広げられている現実の音楽との乖離。
このフラストレーションが逆に物凄いパワーとなってLAZYの解散コンサートを他で類を見ないほどのロック魂に満ちたアイドル&ロックコンサートへと昇華させたのではないだろうか?
僕はLAZYのライブを観て感動したのだ。
この音楽に対するひたむきな若者達の姿に心打たれた。
(こんな凄い人達がアイドルでいるのは勿体ない!絶対にロックミュージシャンの世界で注目され正当評価されるべき人達や・・・)
ひぐっつあんとタッカンの凄まじいハードロックミュージシャンとしてのポテンシャルに圧倒された。
そして、僕がこの人達と一緒にこれから新たな音楽を作ることに身が引き締まる思いだった。
それにしても、この日のタッカンの泣きのギターインスト曲はゲイリームーアが乗り移ったのではないかと思うほどに凄まじかった・・・。
なんと言っても「宇宙船地球号」からの曲はすべて完璧なハード&メタルライブへと変身させた。

それまで日本のハードロックバンドを観てきたけれど、この日のLAZYのハード&メタル度は群を抜いていた。
LAZYはこの時点で既に実力的には日本のハードロックバンドの中でトップクラスであったのは明らかだった。
LAZYの解散ライブは大成功のうちに終わった。
ステージのセットや照明、音響、バンド、演奏、何もかもがプロの仕事であった。
(ひぐっつあん以外全員僕より年下なのに凄いなぁ・・・「8時だよ全員集合」のコントはなんやってん・・)
このバンドは既に色んな苦労を経験してきたのだなと感慨深くなった。
ライブ後僕は楽屋へ行った。
ひぐっつあんはライブ後即効で着替え、「さぁ~飲みに行くぞ~~」と言って僕達を引き連れてあっという間に楽屋から消えた。
(えっ?今解散コンサートが終わったばかりで・・そんなに急いで会場出なくても・・・そんなにあっさりでええの??メンバーと抱き合ったりとか・・・せんでええの??)
僕は少し意外な気がしてけれど、LAZYのバンドの状況をすぐに察することができた。
解散コンサートが終わって数日後、再びタッカンの部屋へ集合した。
「あんなぁ・・曲が結構出来てんねん!!ちょっと聞いてやぁ!」
カセットテープに録音された断片的なリフのアイデアを披露してくれた。
後に、そのアイデアの殆どがでLOUDNESSデビューアルバムの楽曲へと発展して行った。
まさに、アイデアが洪水の如く溢れているという感じだった。
早くスタジオに入って曲作りを始めたいと言うのが手に取るように分かった。
とは言うものの、僕が東京へ来て以来、ひろゆき君の表情があまり乗り気でない感じが気になってはいた。
数回ひろゆき君と二人っきりで話をしたり彼がやりたい音楽を聞かせてもらったりしていたのだけれど、明らかに彼のやりたい音楽とタッカンとひぐっつあんの目指すものの方向性は違っていた。
僕は内心大丈夫なのかと言う危惧の念を抱いていたのだけれど、意外と早くにその危惧が現実のものとなった。
「僕には他にやりたい音楽があるねん・・」
ひろゆき君がこう切り出すのに時間はかからなかった。
タッカンもひぐっつあんも既にそれを感じ取っていたようだった。
「わかった・・・ひろゆき、お前のやりたいことをやった方が良いで・・・」
ひぐっつあんの決断は早かった。
そして、ベースプレイヤーがいなくなった・・・・
解散ツアー中でひぐっつあんやタッカン、ひろゆき君は忙しそうだった。
その合間を縫ってタッカンとひぐっつあん、ひろゆき君と幾度か高崎プロジェクトのミーティングを重ねた。
タッカンのマンションでミーティングをやって、夜は呑みに繰り出すと言う日々だった。
いよいよ、LAZYの解散コンサートの最終日が来た。

僕は招待されてそのLAZY解散コンサートを観に行った。
会場にはLAZYの産みの親でもあるかまやつヒロシさんがいた。
大阪のアマチュアバンドが出る音楽番組「ハロヤン」の審査員であったかまやつさんがLAZYを見初めて東京へ引っ張って来たのは有名な話である。
LAZYのデビューに至る秘話をひぐっつあんから聞いたけれど、これはこれで中々興味深い話であったけれど、ここでは割愛する。
LAZYのライブ中は始終耳をつんざく黄色い歓声で客席は揺れていた。
99%は女性ファンで会場は埋め尽くされ、まさにアイドルライブ一色であった。
客席からは紙テープが舞い踊り、ペンライトが光り輝き、会場全体の一体感に僕はある意味高揚した。

(ひゃ~~みんなアイドルスターやん・・・・)
ミッシェルこと景山君は西條ヒデキに見えた。
僕はそれまでテレビ以外でアイドルの歌っているのを観たことが無かったけれど、ミッシェルの笑顔、歌い方、踊り、衣装、おしゃべり・・・etcが絵に描いたようなアイドルパフォーマンスでプロの底力を感じた。
一方、ひぐっつあんとタッカンはミッシェルやファニー、ポッキーとは完璧に違ったロックミュージシャンのオーラを発していた。
ひぐっつあんは完璧にコージーパウエルを彷彿させるパフォーマンスだったし、タッカンのギターはもはやLAZYが繰り広げるライブとは別の世界の空気を作っていた。
そして、目を見張る超絶プレーを黙々と繰り広げており、果たしてこの中のファンの人達にその凄さが理解されているのかどうかと考えてしまった。
僕はLAZYとは縁もゆかりも無い第三者の目でライブを観ていたけれど、たっかんやひぐっつあんの気持ちが手に取るように分かった。
この人達は本当に心からロックがしたいのだなと・・・。
ロックミュージシャンでありたい、俺たちは本物のロッカーなんだと言う魂の叫びが音として主張していたのだ。
自分達のやりたい音楽と実際繰り広げられている現実の音楽との乖離。
このフラストレーションが逆に物凄いパワーとなってLAZYの解散コンサートを他で類を見ないほどのロック魂に満ちたアイドル&ロックコンサートへと昇華させたのではないだろうか?
僕はLAZYのライブを観て感動したのだ。
この音楽に対するひたむきな若者達の姿に心打たれた。
(こんな凄い人達がアイドルでいるのは勿体ない!絶対にロックミュージシャンの世界で注目され正当評価されるべき人達や・・・)
ひぐっつあんとタッカンの凄まじいハードロックミュージシャンとしてのポテンシャルに圧倒された。
そして、僕がこの人達と一緒にこれから新たな音楽を作ることに身が引き締まる思いだった。
それにしても、この日のタッカンの泣きのギターインスト曲はゲイリームーアが乗り移ったのではないかと思うほどに凄まじかった・・・。
なんと言っても「宇宙船地球号」からの曲はすべて完璧なハード&メタルライブへと変身させた。

それまで日本のハードロックバンドを観てきたけれど、この日のLAZYのハード&メタル度は群を抜いていた。
LAZYはこの時点で既に実力的には日本のハードロックバンドの中でトップクラスであったのは明らかだった。
LAZYの解散ライブは大成功のうちに終わった。
ステージのセットや照明、音響、バンド、演奏、何もかもがプロの仕事であった。
(ひぐっつあん以外全員僕より年下なのに凄いなぁ・・・「8時だよ全員集合」のコントはなんやってん・・)
このバンドは既に色んな苦労を経験してきたのだなと感慨深くなった。
ライブ後僕は楽屋へ行った。
ひぐっつあんはライブ後即効で着替え、「さぁ~飲みに行くぞ~~」と言って僕達を引き連れてあっという間に楽屋から消えた。
(えっ?今解散コンサートが終わったばかりで・・そんなに急いで会場出なくても・・・そんなにあっさりでええの??メンバーと抱き合ったりとか・・・せんでええの??)
僕は少し意外な気がしてけれど、LAZYのバンドの状況をすぐに察することができた。
解散コンサートが終わって数日後、再びタッカンの部屋へ集合した。
「あんなぁ・・曲が結構出来てんねん!!ちょっと聞いてやぁ!」
カセットテープに録音された断片的なリフのアイデアを披露してくれた。
後に、そのアイデアの殆どがでLOUDNESSデビューアルバムの楽曲へと発展して行った。
まさに、アイデアが洪水の如く溢れているという感じだった。
早くスタジオに入って曲作りを始めたいと言うのが手に取るように分かった。
とは言うものの、僕が東京へ来て以来、ひろゆき君の表情があまり乗り気でない感じが気になってはいた。
数回ひろゆき君と二人っきりで話をしたり彼がやりたい音楽を聞かせてもらったりしていたのだけれど、明らかに彼のやりたい音楽とタッカンとひぐっつあんの目指すものの方向性は違っていた。
僕は内心大丈夫なのかと言う危惧の念を抱いていたのだけれど、意外と早くにその危惧が現実のものとなった。
「僕には他にやりたい音楽があるねん・・」
ひろゆき君がこう切り出すのに時間はかからなかった。
タッカンもひぐっつあんも既にそれを感じ取っていたようだった。
「わかった・・・ひろゆき、お前のやりたいことをやった方が良いで・・・」
ひぐっつあんの決断は早かった。
そして、ベースプレイヤーがいなくなった・・・・
本日、目出度く10万アクセスを突破しました!(・・ってこれが多いのか少ないのか分からないのですが・・トホホ)
全体の訪問者数 100,254 (6月12日 午後12時10分 現在)
3月から本格的にこの歴史物を書き出したのですが・・本当にありがたいことです!!
頑張りますワン♪
*******************
地下鉄はすぐに見つけることが出来た。
早速、地下鉄の経路図を見ながら「六本木駅」を探した。
(新宿、渋谷、日比谷、六本木、霞ヶ関、虎ノ門、赤坂、麹町・・・)
今までテレビでしか見たことの無かった地名を実際に見て興奮した。
駅名を見ていてどういう訳か、テレビ刑事ドラマの「太陽に吼えろ」で犯人が逃走している場面が頭に浮かんだ・・・
ボスやGパン刑事、ゴリさん、殿下が犯人を追ってその辺を走っているのではないかと思った。
「メンチョウ」に見えた麹町もテレビで「はがきのあて先」などで何度も聞き覚えのある地名だった。
芸能人がいるのではないかとキョロキョロしたら、僕の目の前を「松岡きつこ」が横切った。

その瞬間気絶しそうになった・・・。
(女優が地下鉄におるで・・・・恐るべし!)
東京にいる実感がますます強くなった。
地下鉄は大阪にもあったけれど東京の地下鉄は大阪と比べて上品な感じがした。
六本木駅へは問題なく着いた。
駅から出ると「アマンド」が目に入った。

(たしかアマンドからタクシーに乗れって言ってたなぁ・・)
僕はタクシーに乗り込み「西麻布まで」と言った。
「お客さん・・歩いて10分ほどですよ」
「あぁ・・いや・・お願いします・・・行って下さい」
僕は道に迷うのが嫌だったのでタクシーを利用した。
タクシーの運ちゃんは歩いて10分と言っておきながら車で20分ほどかかった・・・
今から思えば、六本木から西麻布の交差点は六本木通りをまっすぐ渋谷方面へ行けば3分とかからないものを、この運ちゃん、わざわざ防衛庁を経由して青山一丁目から「西麻布の交差点」と言うありえない遠回りをしたのだった・・・。
西麻布の交差点から再びひぐっつあんに電話して家の行き方を教えてもらった。
(なんや・・・京都くんだりから来たのに・・・迎えに来てくれたらええのに・・・)
僕はすこし不満を覚えながら言われた道を行った。
六本木の猥雑で喧騒とした風景とはうって変わって、ひぐっつあんの住んでいるマンションは閑静な住宅街にあった。
そして、ひぐっつあんのマンションはすぐに分かった。
何故なら、マンションの前には10人程のファンの子と思われる女の子がたむろしていたからだ。
彼女らの手にはひぐっつあんのブロマイド、「LAZY命」みたいなロゴをつけたものを持ち、ちょっと異様な雰囲気だった。
僕は産まれて始めてアイドルの追っかけファンを目の当たりにしたのだ。
(うわっ!なんじゃこの女の子らは!こりゃひぐっつあんもうかうか外にも出れんなぁ・・・ましてや寝起きの顔で僕を迎えに来たくても来れないわな・・・毎日こんな風に見張られているのか信じられへんなぁ・・それにしても、ひぐっつあんって人気あるんやんやなぁ・・・)
改めてLAZYの人気を思い知ったのだ。
彼女達の物凄い痛いほどの視線を感じながらひぐっつあんのマンションへと入っていった。
ひぐっつあんは寝起の顔で僕を出迎えてくれた。
「おぉ!!よう来たなぁ!!!」
ひぐっつあんは二日酔いのようだった。
この日から僕はひぐっつあんの居候となった・・・・。
そして、その日の夜早速、ひぐっつあんは僕をつれて夜の町へと繰り出した。
僕にとって東京初めての夜は「下北沢」だった。

下北沢、そこは京都の学生が通う呑み屋街とあい通じるものがあって、僕にはとても居心地の良い場所に思えた。
(こんな町があるなら安心や・・・)
その夜以来現在に至るまで「下北沢」は僕の東京での憩いの場所となり僕の第二のふるさとになった。
下北沢ではひぐっつあんの馴染みのお店「ジャックポット」で呑んだ。

店内は若い役者さん達やミュージシャン達、学生で溢れ物凄い活気だった。
中にはテレビで見たことのある役者さんもいた。
ジャックポットの店長がチャキチャキの江戸っ子弁で僕を歓迎してくれた。
「おお君が二井原君か!樋口君から噂を聞いているよ!」
そして、ひぐっつあんは何人かのミュージシャンに僕を紹介してくれた。
既にみんなは僕の噂をひぐっつあんから聞いていたようだった。
「二井原君、凄い声をしているんだって?デイビーが言っていたよ!本当楽しみだね!」
この頃、ひぐっつあんはミュージシャン仲間からは「デイビー」と呼ばれていて、僕は何のことか分からなかった。
「なんでみんなひぐっつあんのことデイビーって呼んでんの?」
僕はひぐっつあんに聞いてみた。
「ここでは俺はデイビーやねん・・・」と言って豪快に笑っていた。
「ほんなら俺もデイビーって呼んだほうがええんかな?」
「あほ!殺すぞ!」と言って笑ってビールを一気に呑み干した。
僕は無事に東京に着いた安堵感で満たされた・・・
東京・・・始めて来た場所ではないような奇妙な気分になった。
全体の訪問者数 100,254 (6月12日 午後12時10分 現在)
3月から本格的にこの歴史物を書き出したのですが・・本当にありがたいことです!!
頑張りますワン♪
*******************
地下鉄はすぐに見つけることが出来た。
早速、地下鉄の経路図を見ながら「六本木駅」を探した。
(新宿、渋谷、日比谷、六本木、霞ヶ関、虎ノ門、赤坂、麹町・・・)
今までテレビでしか見たことの無かった地名を実際に見て興奮した。
駅名を見ていてどういう訳か、テレビ刑事ドラマの「太陽に吼えろ」で犯人が逃走している場面が頭に浮かんだ・・・
ボスやGパン刑事、ゴリさん、殿下が犯人を追ってその辺を走っているのではないかと思った。
「メンチョウ」に見えた麹町もテレビで「はがきのあて先」などで何度も聞き覚えのある地名だった。
芸能人がいるのではないかとキョロキョロしたら、僕の目の前を「松岡きつこ」が横切った。

その瞬間気絶しそうになった・・・。
(女優が地下鉄におるで・・・・恐るべし!)
東京にいる実感がますます強くなった。
地下鉄は大阪にもあったけれど東京の地下鉄は大阪と比べて上品な感じがした。
六本木駅へは問題なく着いた。
駅から出ると「アマンド」が目に入った。

(たしかアマンドからタクシーに乗れって言ってたなぁ・・)
僕はタクシーに乗り込み「西麻布まで」と言った。
「お客さん・・歩いて10分ほどですよ」
「あぁ・・いや・・お願いします・・・行って下さい」
僕は道に迷うのが嫌だったのでタクシーを利用した。
タクシーの運ちゃんは歩いて10分と言っておきながら車で20分ほどかかった・・・
今から思えば、六本木から西麻布の交差点は六本木通りをまっすぐ渋谷方面へ行けば3分とかからないものを、この運ちゃん、わざわざ防衛庁を経由して青山一丁目から「西麻布の交差点」と言うありえない遠回りをしたのだった・・・。
西麻布の交差点から再びひぐっつあんに電話して家の行き方を教えてもらった。
(なんや・・・京都くんだりから来たのに・・・迎えに来てくれたらええのに・・・)
僕はすこし不満を覚えながら言われた道を行った。
六本木の猥雑で喧騒とした風景とはうって変わって、ひぐっつあんの住んでいるマンションは閑静な住宅街にあった。
そして、ひぐっつあんのマンションはすぐに分かった。
何故なら、マンションの前には10人程のファンの子と思われる女の子がたむろしていたからだ。
彼女らの手にはひぐっつあんのブロマイド、「LAZY命」みたいなロゴをつけたものを持ち、ちょっと異様な雰囲気だった。
僕は産まれて始めてアイドルの追っかけファンを目の当たりにしたのだ。
(うわっ!なんじゃこの女の子らは!こりゃひぐっつあんもうかうか外にも出れんなぁ・・・ましてや寝起きの顔で僕を迎えに来たくても来れないわな・・・毎日こんな風に見張られているのか信じられへんなぁ・・それにしても、ひぐっつあんって人気あるんやんやなぁ・・・)
改めてLAZYの人気を思い知ったのだ。
彼女達の物凄い痛いほどの視線を感じながらひぐっつあんのマンションへと入っていった。
ひぐっつあんは寝起の顔で僕を出迎えてくれた。
「おぉ!!よう来たなぁ!!!」
ひぐっつあんは二日酔いのようだった。
この日から僕はひぐっつあんの居候となった・・・・。
そして、その日の夜早速、ひぐっつあんは僕をつれて夜の町へと繰り出した。
僕にとって東京初めての夜は「下北沢」だった。

下北沢、そこは京都の学生が通う呑み屋街とあい通じるものがあって、僕にはとても居心地の良い場所に思えた。
(こんな町があるなら安心や・・・)
その夜以来現在に至るまで「下北沢」は僕の東京での憩いの場所となり僕の第二のふるさとになった。
下北沢ではひぐっつあんの馴染みのお店「ジャックポット」で呑んだ。

店内は若い役者さん達やミュージシャン達、学生で溢れ物凄い活気だった。
中にはテレビで見たことのある役者さんもいた。
ジャックポットの店長がチャキチャキの江戸っ子弁で僕を歓迎してくれた。
「おお君が二井原君か!樋口君から噂を聞いているよ!」
そして、ひぐっつあんは何人かのミュージシャンに僕を紹介してくれた。
既にみんなは僕の噂をひぐっつあんから聞いていたようだった。
「二井原君、凄い声をしているんだって?デイビーが言っていたよ!本当楽しみだね!」
この頃、ひぐっつあんはミュージシャン仲間からは「デイビー」と呼ばれていて、僕は何のことか分からなかった。
「なんでみんなひぐっつあんのことデイビーって呼んでんの?」
僕はひぐっつあんに聞いてみた。
「ここでは俺はデイビーやねん・・・」と言って豪快に笑っていた。
「ほんなら俺もデイビーって呼んだほうがええんかな?」
「あほ!殺すぞ!」と言って笑ってビールを一気に呑み干した。
僕は無事に東京に着いた安堵感で満たされた・・・
東京・・・始めて来た場所ではないような奇妙な気分になった。
コメント沢山ありがとう!
全て目を通していますよ!
時間があればレスします!
ありがとう!!
************************
1981年3月、21歳になったばかりの僕は京都発東京行きの夜行バスに乗った・・・。

ポケットにはわずかなお金と、着替えが入ったボストンバッグが一つ。
手荷物は少なかったけれど、大きな希望と夢で胸がはち切れそうだった。
不安は無かったと言えば嘘になるけれど、怖いものは無かった。
80年代、大阪の人間が東京で仕事をすると言うことはとても大きな冒険だったし憧れでもあった。
一世一代の大仕事と言う大そうな話だった。
今の感覚から言えば、アメリカへ行って勝負するぐらいの感じだろうか?
なのに、僕は何の迷いも無く導かれるが如く新たな世界へ飛び込んだのだ。
京都は夜10時頃に出発したと思う。
高速道路に入り車窓から見える景色がタイムマシーンのような感覚に襲われた。

僕は時空間の長いトンネルの中を飛んでいるような錯覚を抱いた。
滋賀県「草津」インターを超えた時、異様に胸が高鳴った。
僕にとって、最南端は高校生の頃の修学旅行で行った鹿児島県で、最北(最東と言うのか?)は滋賀県の「草津」だったからだ。
滋賀県「草津」から先は行ったことが無い未踏の土地になる。
暗闇にそびえ立つ山々があたかも大きな生き物のように目に映った。
この「草津」から先には得体の知れない巨大な怪物が潜んでいるような気がした。
僕は窓の外を見ながら生まれ育った大阪のことや、家族のこと、学校の友人のこと、バンド仲間、そして京都へ残してきた恋人のことを考えた。
再び僕に猛烈な孤独感が襲ってきた。
(これで良かったのだろうか・・・?)
押し寄せては消える寂しさで呼吸が苦しくなった・・・。
長い真っ暗なトンネルが永遠に消えないような気がした。
そして僕はいつのまにか眠ってしまった。
白々と夜が明け始めた頃に目が覚めた。
(ここはどの辺かな?・・・)
窓の外を見るとそこはもう東京だった。
始めてみる東京・・・。
東京タワーが見えた!
国会議事堂が見えた!
霞ヶ関ビルが見えた!
(わっ!ついに、ついに来たで~~~~~東京!!)
僕はすっかり目が覚めて食い入るように町並みや人々を見た。
程なくバスは東京八重洲口に到着した。

僕は始めて東京に降り立った!
僕は震えた・・・寒いからではない、武者震いだ。
いったいこれから先僕はどうなるのか・・・?
どんな音楽を作るのだろうか?
夢にまで見たレコードを本当に作るのだろうか?
本当に世界へ行くのだろうか?
歯がガチガチ言うほどに震えが止まらなかった
時間を見るとまだ朝が早い・・・
(いくらなんでも、ひぐっつあんへの電話はまだ早すぎるなぁ・・・)
京都にいる頃、当面の東京の生活など電話でひぐっつあんと話をしていたので心配は無かった。
取りあえず腹ごしらえをすることにした。
空腹だった・・・。
(そう言えば昨日実家で食べて以来何にも食べてなかったなぁ・・・)
立ち食いそばやが目の前にあった。
(「ふじそば」・・そばでも食べようか・・・・)
たぬきそばを頼んだ。
初めて見る東京のたぬきそば、愕然・・・。

(げっ!揚げが無いやん・・・これ天カスやん・・・どういう事?・・・)
そして、とどめはそば汁の色だった、僕は腰を抜かした。
(何や!!この真っ黒けの汁は!!!どんぶりの底が見えへんがな!!!)
東京に着いて10分でもの凄いカルチャーショックを受けた。
(うわ~こんなんでやって行けるかなぁ・・・)
僕はいきなり大きな不安を感じたけれど、そばを食べてみたらそれほど不味くは無かったので安心した。
そばを食べて、しばらく時間を潰してひぐっつあんに電話した。
「プルルルル・・・・プルルルル・・・」
待てど暮らせどひぐっつあんが電話に出ない・・。
(えっ!!嘘やん!!ひぐっつあん!!電話出て~~な!!)
僕は八重洲口でいきなり路頭に迷った気分になった。
仕方が無いので、再び喫茶店で時間を潰した。
メニューを見ながら店内の会話する人達の日本語に耳を奪われた・・・
(ギョ!!テレビのドラマのワンシーンやん!!ほんまにこんな喋り方すんねんな東京の人!)
僕は可笑しくなって半笑いのまま喋っているおばさんや、おじさんの言葉を聞いていた。
(ここは外国や・・異国や・・・えらいとこに来てもーたで~~・・)
まさに京都に来ている外国人ツアーリストの気分だった。
「すんませ~~ん、コーヒーと・・えっと、あとお絞りをもう一つたのんます・・。」
僕がその一言を言った瞬間だった、店のお客さんが一斉に僕を見た・・。
(ギョェ!俺なんかしたかな?)
関西弁がまだ市民権を得ていない時代だった・・・。
(あぁそうか・・大阪弁あかんねんぁ・・・)
下町の江戸っ子と思わせるおじさんの喋りを聞いていて東京も悪くないなと思った。
いやむしろ好きになれると思った。
時間を見たら12時前だった。
ぼくは急いでひぐっつあんに再び電話した。
眠そうな声でひぐっつあんが出た。
(あぁ~良かった・・・)
僕は胸を撫で下ろした。
「地下鉄で六本木駅まで来て西麻布に着いたら又電話頂戴。ほな!」
ひぐっつあんは眠そうな声でそう言うと即電話が切れた・・・。
(地下鉄ってどこにあるねん・・・)
僕はパニクった・・・
全て目を通していますよ!
時間があればレスします!
ありがとう!!
************************
1981年3月、21歳になったばかりの僕は京都発東京行きの夜行バスに乗った・・・。

ポケットにはわずかなお金と、着替えが入ったボストンバッグが一つ。
手荷物は少なかったけれど、大きな希望と夢で胸がはち切れそうだった。
不安は無かったと言えば嘘になるけれど、怖いものは無かった。
80年代、大阪の人間が東京で仕事をすると言うことはとても大きな冒険だったし憧れでもあった。
一世一代の大仕事と言う大そうな話だった。
今の感覚から言えば、アメリカへ行って勝負するぐらいの感じだろうか?
なのに、僕は何の迷いも無く導かれるが如く新たな世界へ飛び込んだのだ。
京都は夜10時頃に出発したと思う。
高速道路に入り車窓から見える景色がタイムマシーンのような感覚に襲われた。

僕は時空間の長いトンネルの中を飛んでいるような錯覚を抱いた。
滋賀県「草津」インターを超えた時、異様に胸が高鳴った。
僕にとって、最南端は高校生の頃の修学旅行で行った鹿児島県で、最北(最東と言うのか?)は滋賀県の「草津」だったからだ。
滋賀県「草津」から先は行ったことが無い未踏の土地になる。
暗闇にそびえ立つ山々があたかも大きな生き物のように目に映った。
この「草津」から先には得体の知れない巨大な怪物が潜んでいるような気がした。
僕は窓の外を見ながら生まれ育った大阪のことや、家族のこと、学校の友人のこと、バンド仲間、そして京都へ残してきた恋人のことを考えた。
再び僕に猛烈な孤独感が襲ってきた。
(これで良かったのだろうか・・・?)
押し寄せては消える寂しさで呼吸が苦しくなった・・・。
長い真っ暗なトンネルが永遠に消えないような気がした。
そして僕はいつのまにか眠ってしまった。
白々と夜が明け始めた頃に目が覚めた。
(ここはどの辺かな?・・・)
窓の外を見るとそこはもう東京だった。
始めてみる東京・・・。
東京タワーが見えた!
国会議事堂が見えた!
霞ヶ関ビルが見えた!
(わっ!ついに、ついに来たで~~~~~東京!!)
僕はすっかり目が覚めて食い入るように町並みや人々を見た。
程なくバスは東京八重洲口に到着した。

僕は始めて東京に降り立った!
僕は震えた・・・寒いからではない、武者震いだ。
いったいこれから先僕はどうなるのか・・・?
どんな音楽を作るのだろうか?
夢にまで見たレコードを本当に作るのだろうか?
本当に世界へ行くのだろうか?
歯がガチガチ言うほどに震えが止まらなかった
時間を見るとまだ朝が早い・・・
(いくらなんでも、ひぐっつあんへの電話はまだ早すぎるなぁ・・・)
京都にいる頃、当面の東京の生活など電話でひぐっつあんと話をしていたので心配は無かった。
取りあえず腹ごしらえをすることにした。
空腹だった・・・。
(そう言えば昨日実家で食べて以来何にも食べてなかったなぁ・・・)
立ち食いそばやが目の前にあった。
(「ふじそば」・・そばでも食べようか・・・・)
たぬきそばを頼んだ。
初めて見る東京のたぬきそば、愕然・・・。

(げっ!揚げが無いやん・・・これ天カスやん・・・どういう事?・・・)
そして、とどめはそば汁の色だった、僕は腰を抜かした。
(何や!!この真っ黒けの汁は!!!どんぶりの底が見えへんがな!!!)
東京に着いて10分でもの凄いカルチャーショックを受けた。
(うわ~こんなんでやって行けるかなぁ・・・)
僕はいきなり大きな不安を感じたけれど、そばを食べてみたらそれほど不味くは無かったので安心した。
そばを食べて、しばらく時間を潰してひぐっつあんに電話した。
「プルルルル・・・・プルルルル・・・」
待てど暮らせどひぐっつあんが電話に出ない・・。
(えっ!!嘘やん!!ひぐっつあん!!電話出て~~な!!)
僕は八重洲口でいきなり路頭に迷った気分になった。
仕方が無いので、再び喫茶店で時間を潰した。
メニューを見ながら店内の会話する人達の日本語に耳を奪われた・・・
(ギョ!!テレビのドラマのワンシーンやん!!ほんまにこんな喋り方すんねんな東京の人!)
僕は可笑しくなって半笑いのまま喋っているおばさんや、おじさんの言葉を聞いていた。
(ここは外国や・・異国や・・・えらいとこに来てもーたで~~・・)
まさに京都に来ている外国人ツアーリストの気分だった。
「すんませ~~ん、コーヒーと・・えっと、あとお絞りをもう一つたのんます・・。」
僕がその一言を言った瞬間だった、店のお客さんが一斉に僕を見た・・。
(ギョェ!俺なんかしたかな?)
関西弁がまだ市民権を得ていない時代だった・・・。
(あぁそうか・・大阪弁あかんねんぁ・・・)
下町の江戸っ子と思わせるおじさんの喋りを聞いていて東京も悪くないなと思った。
いやむしろ好きになれると思った。
時間を見たら12時前だった。
ぼくは急いでひぐっつあんに再び電話した。
眠そうな声でひぐっつあんが出た。
(あぁ~良かった・・・)
僕は胸を撫で下ろした。
「地下鉄で六本木駅まで来て西麻布に着いたら又電話頂戴。ほな!」
ひぐっつあんは眠そうな声でそう言うと即電話が切れた・・・。
(地下鉄ってどこにあるねん・・・)
僕はパニクった・・・
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