- 卒業[ 2008-03-31 19:20 ]
- 本日は・・・[ 2008-03-31 01:05 ]
- シャラの決意[ 2008-03-29 19:22 ]
- スタジオで忙しかったのじゃぁ~♪[ 2008-03-28 23:37 ]
- モンチッチ[ 2008-03-28 00:01 ]
- アマチュアバンドコンテスト[ 2008-03-26 23:54 ]
- アースシェイカー始動[ 2008-03-25 23:54 ]
- アースシェイカー誕生[ 2008-03-24 18:41 ]
- 楽器を聴く耳[ 2008-03-23 19:22 ]
- RAINBOW!!KISS!!AEROSMITH!!![ 2008-03-22 15:13 ]
LOUDNESS豆日記&情報
LOUDNESS結成前、ヴォーカリストを探していたたっかんに僕を紹介したのはマー君だった。
マー君は僕がアースシェイカーでやっていた頃のライブを何度か見ていて、(ゲディーリーの声そっくりの奴がおるやんけ!このヴォーカル凄いやんけ!)と思っていたそうな。
マー君はプログレが大好きな人で、特にRUSHの大ファンでもあった。
アースシェイカーがマー君の大好きなRUSHのコピーをやっていたと言うのも奇遇。
もしアースシェイカーがRUSHのコピーをやっていなかったら、僕はマー君の目にとまらなかったかもしれない。
そうなれば、僕の人生も大きく変わっていただろう。
確実に今こうしてブログを書いていなかっただろうな。
================
高校3年の秋が来た。
シャラはプロ宣言したけれど取りあえずは大学へ進学することになった。
僕はどういう進路をとるべきか決めかねていた。
恥を忍んで書くと、実は高校入学した頃は医学部へ進む夢があった。
当時、上之宮高校と言うところは高校1年の早い段階で理数系/文系の進路を決める実力試験があり、医学部志望だったけれど実力試験で数学のあまりの惨憺たる結果ゆえ文系コースへほぼ強制的に行くことになった。
医学部という夢は早々に破れたものの、文系に関してはまったく興味も無く、将来何をすべきか分からなくなっていた。
そんな時、シャラとの出会いがありロックにのめり込んだわけだが、だからと言ってプロのミュージシャンになるという自覚は無かった。
と言うか、プロのミュージシャンってどうやってなるのか分からなかったし。
ミュージシャンのプロ試験があるという話は聞かないし、コネがあるわけでも無かったし。
何よりもロックで喰って行けるような自信が無かった。
自分の進むべき道、やるべきことが分からなかったけれど、どこかの会社へ就職するのは違うような気がしていた。
漠然とだが、自分にはサラリーマン以外に何かやるべきことがあるように思えてならなかった。
それが何であるかは分からなかったけれど、何か見つかるかもしれないと言うこともあって取りあえず大学へ行くことにした。
大学の4年間で何か見つかるかもしれない・・・
僕は大学に進学することにした。
今から思えばこんな悠長な動機で、決して安くない私立大学へ行かせてくれた親には本当に感謝の言葉をいくら言っても足りないぐらいだ。
高校最後の春が来て、そして僕達は高校を卒業した。
ロックに目覚めロックのイロハを学んだ3年間だった。
ロックで大事な仲間に巡りあい、いっぱい笑ったし楽しかった。
ロックのお陰で不良になってグレルようなことも無く、ロックでいろんなことを学んだ。
ロックと共に僕の青春があった。
高校3年間の間には色んなことがあったけれど、このブログに相応しいできごとはとりあえずこれ以上思い出せない・・・。
僕は京都の仏教大学社会学部社会学科へ進むことになり、シャラは大阪の大学が決まった。
大学は別々になったけれどアースシェイカーと言うバンドは続けていくことには変わりはなった。
大学へ進学して、アースシェイカーの活動は益々本格的になった。
本格的に活動するに従い楽器も本格的なものが欲しくなった。
「ニーちゃん俺ギブソンのフライングV買うで、マイケルシェンカーと同じ白色や!ニーちゃんもなんかホンモン一緒に買えへんか?」シャラはある日電話口でそう宣言した。
「ま、まじかいな!」
確かに、琵琶ベースはちょっと物足りない感じがしていたし、とにかくベースを買うために僕はバイトに励んだ。
本格的なベース・・・

実はあまりベースにはこだわりは無かったけれど、最早ポールマッカートニーが使っていたヴァイオリンベースでは無いことだけは確かだった。
ゲディリーが使っていたリッケンバッカーモデルは弾きにくい印象があった。
散々迷った挙句、ミュージックマンのスティングレーベースに決めた。(写真の奴ね!色も同じです!)
エアロスミスのライブでトムハミルトンが使っていてベースの存在感もさることながら音が一番好みだったからだ。
リッケンバッカーのゴリゴリ系より、フェンダー系の音の方が好きだった。
「俺、ミュージックマン買うわ」ある日電話でシャラに言うとシャラも賛同してくれた。
バイトでお金も溜まりめぼしい楽器屋さんもシャラと一緒に決めた。
シャラと一緒に買いに行く約束をしたのになかなかシャラから買いに行く日取りの電話が来なかった。
もう待ちきれ無くなった僕は電話した。
「早よ買いに行こうな楽器!」僕はシャラに言った。
「今週の土曜日に行こうや」僕は具体的に曜日を指定した。
「ん~あかん、ニーちゃん土曜はあかんで、その日仏滅やんけ!」シャラの意外な台詞にひっくり返った。
「まさか、あんた、こんなことに縁起を担ぐ気かいな!!」
「あたりまえやんけお前、そんな縁起の悪い日に大事な一生もんのギター買えるかっちゅうねん!!ほんなもんお前、大安の日に決まってるやろうが!」
シャラの意外な古風な一面を垣間見た瞬間であった。
次の大安の日があれほど長く感じたことはなかった。
一生「大安」が来ないのではないかと思うほどに長かった。
LOUDNESS結成前、ヴォーカリストを探していたたっかんに僕を紹介したのはマー君だった。
マー君は僕がアースシェイカーでやっていた頃のライブを何度か見ていて、(ゲディーリーの声そっくりの奴がおるやんけ!このヴォーカル凄いやんけ!)と思っていたそうな。
マー君はプログレが大好きな人で、特にRUSHの大ファンでもあった。
アースシェイカーがマー君の大好きなRUSHのコピーをやっていたと言うのも奇遇。
もしアースシェイカーがRUSHのコピーをやっていなかったら、僕はマー君の目にとまらなかったかもしれない。
そうなれば、僕の人生も大きく変わっていただろう。
確実に今こうしてブログを書いていなかっただろうな。
================
高校3年の秋が来た。
シャラはプロ宣言したけれど取りあえずは大学へ進学することになった。
僕はどういう進路をとるべきか決めかねていた。
恥を忍んで書くと、実は高校入学した頃は医学部へ進む夢があった。
当時、上之宮高校と言うところは高校1年の早い段階で理数系/文系の進路を決める実力試験があり、医学部志望だったけれど実力試験で数学のあまりの惨憺たる結果ゆえ文系コースへほぼ強制的に行くことになった。
医学部という夢は早々に破れたものの、文系に関してはまったく興味も無く、将来何をすべきか分からなくなっていた。
そんな時、シャラとの出会いがありロックにのめり込んだわけだが、だからと言ってプロのミュージシャンになるという自覚は無かった。
と言うか、プロのミュージシャンってどうやってなるのか分からなかったし。
ミュージシャンのプロ試験があるという話は聞かないし、コネがあるわけでも無かったし。
何よりもロックで喰って行けるような自信が無かった。
自分の進むべき道、やるべきことが分からなかったけれど、どこかの会社へ就職するのは違うような気がしていた。
漠然とだが、自分にはサラリーマン以外に何かやるべきことがあるように思えてならなかった。
それが何であるかは分からなかったけれど、何か見つかるかもしれないと言うこともあって取りあえず大学へ行くことにした。
大学の4年間で何か見つかるかもしれない・・・
僕は大学に進学することにした。
今から思えばこんな悠長な動機で、決して安くない私立大学へ行かせてくれた親には本当に感謝の言葉をいくら言っても足りないぐらいだ。
高校最後の春が来て、そして僕達は高校を卒業した。
ロックに目覚めロックのイロハを学んだ3年間だった。
ロックで大事な仲間に巡りあい、いっぱい笑ったし楽しかった。
ロックのお陰で不良になってグレルようなことも無く、ロックでいろんなことを学んだ。
ロックと共に僕の青春があった。
高校3年間の間には色んなことがあったけれど、このブログに相応しいできごとはとりあえずこれ以上思い出せない・・・。
僕は京都の仏教大学社会学部社会学科へ進むことになり、シャラは大阪の大学が決まった。
大学は別々になったけれどアースシェイカーと言うバンドは続けていくことには変わりはなった。
大学へ進学して、アースシェイカーの活動は益々本格的になった。
本格的に活動するに従い楽器も本格的なものが欲しくなった。
「ニーちゃん俺ギブソンのフライングV買うで、マイケルシェンカーと同じ白色や!ニーちゃんもなんかホンモン一緒に買えへんか?」シャラはある日電話口でそう宣言した。
「ま、まじかいな!」
確かに、琵琶ベースはちょっと物足りない感じがしていたし、とにかくベースを買うために僕はバイトに励んだ。
本格的なベース・・・

ゲディリーが使っていたリッケンバッカーモデルは弾きにくい印象があった。
散々迷った挙句、ミュージックマンのスティングレーベースに決めた。(写真の奴ね!色も同じです!)
エアロスミスのライブでトムハミルトンが使っていてベースの存在感もさることながら音が一番好みだったからだ。
リッケンバッカーのゴリゴリ系より、フェンダー系の音の方が好きだった。
「俺、ミュージックマン買うわ」ある日電話でシャラに言うとシャラも賛同してくれた。
バイトでお金も溜まりめぼしい楽器屋さんもシャラと一緒に決めた。
シャラと一緒に買いに行く約束をしたのになかなかシャラから買いに行く日取りの電話が来なかった。
もう待ちきれ無くなった僕は電話した。
「早よ買いに行こうな楽器!」僕はシャラに言った。
「今週の土曜日に行こうや」僕は具体的に曜日を指定した。
「ん~あかん、ニーちゃん土曜はあかんで、その日仏滅やんけ!」シャラの意外な台詞にひっくり返った。
「まさか、あんた、こんなことに縁起を担ぐ気かいな!!」
「あたりまえやんけお前、そんな縁起の悪い日に大事な一生もんのギター買えるかっちゅうねん!!ほんなもんお前、大安の日に決まってるやろうが!」
シャラの意外な古風な一面を垣間見た瞬間であった。
次の大安の日があれほど長く感じたことはなかった。
一生「大安」が来ないのではないかと思うほどに長かった。
東京のあるイヴェントライブで44マグナムのポール君と一緒に5曲歌ってきて、今帰宅。
明日「歴史物」続き頑張ります。
おやすみ。
明日「歴史物」続き頑張ります。
おやすみ。
======================
LOUDNESS 豆日記&情報
僕がLOUDNESSのオーディションに合格して、しばらくひぐっつあんのマンションに居候していた。
いやーひぐっつあんには本当にお世話になった。
僕は居候の身だから本当は僕が家主であるひぐっつあんに色々と気を使わなけらばならないのに、逆に色んな身の回りの世話をやってくれた。
僕が居候していた間僕達は毎日昼前に起床。
ひぐっつあんは起床したらすぐに部屋をきれいに片付けて掃除機をかける所から一日は始まった。
僕が脱ぎ捨てた洋服なんかも片付けて洗濯もしてくれた。
朝ごはんを作ってもらい、シャワーを浴びて、ひぐっつあんはレージーの仕事に出かけた。
僕はその間、お留守番だったなぁ。
夕方にレージーの仕事から帰ってきて、夕方からビール呑みながら将棋。
ひぐっつあん将棋目茶強い、と言うか僕が弱すぎたのか、飛車角金すべて無しでも勝てなかった。
そして本格的に夜になったら、近所の中華料理屋があってそこで毎日餃子とビールだ。
ひとしきり、ビールを飲んだりしたら下北沢へ繰り出た。
下北沢でテンソウや桑田バンドの人達や、その頃勢いのあったバンド連中と朝まで飲んだ。
朝方マンションに帰って来てひぐっつあんが布団を敷いてくれて沈没。
東京に出てくる前は体重が46キロぐらいしかなかったけれど、あっという間に53キロになった・・・。
====================
シャラ元気~~?今日もブログ見てくれておおきに!
最近RUSHの話題が出たけれど、その時にあまりに懐かしくなってRUSHのCDを3枚も買ってしまった。
で、今日その3枚の一枚、RUSHのライブアルバム"ALL THE WARLD'S A STAGE"を聞いていると急にシャラの声が聞きたくなって電話した。
シャラはアースシェイカーのツアーで岡山にいた。
「友達に聞いてニーちゃんのブログ読んでるで~~~~」と笑っていた。
恐る恐る「あのぉー今書いてる昔話やねんけどぉ、やっぱり記憶違いしてるかなぁ?」と聞くと
「おぉ~そやなぁ~かなり間違っているなぁ~~~」・・・うぅ~~やっぱりぃ。(汗
「まぁーそうやけど別にええんちゃうか~おもろいしぃ」と慰めてくれた。
そこで今日シャラと電話で判明したこと;
その1「Drのわったんは大学1年の終わりまでアースシェイカーでやっていた!!!!」だったぁ~~~!!!
ひゃ~~~~がび~~~~ん!!!!
やっても~~た~~~!!!
そう言えば、わったん甲南大学行っていたのをすっかり忘れていた・・・。
大学途中でアメリカ留学やったなぁ・・。
なので、わったんのくだりを訂正し、もしわったんこれ読んでいたら「謝罪申し上げすぅ~」
その2「僕のあのフレッシュベース、みんなの悪評もありすぐに矢沢栄吉モデルの琵琶ベースに買い換えていた」らしい・・・
シャラにそれを言われた時に全く記憶に無かったけれど、今何となくうっすらとそのベースの記憶が蘇ってきた。
しか~しだぁ~~~、なんでよりによって琵琶ベースやねん?>俺
その後、ちょこちょこっとシャラに昔のことをインタビューしてこれから書くことの確認をしました。
とは言うものの、これから書く昔話も一応半分創作/半分事実と言うスタンスにしておきますわ!
関係各位殿、その辺容赦してくださいませぇ~~。
それにしてももしシャラが自叙伝のようなものを書いた時、僕の内容と大きく違っていたらどうしましょう・・・。
シャラは物覚え良いからなぁ・・・。
高校生のときのリハーサルのテープとか未だに持ってるし・・・・。
困った、困った・・。
ちなみに、アースシェイカーの新譜情報はココ
現在アースシェイカー新譜引っさげて全国ツアーも頑張っています、是非見に行ってやってくださいなぁ!!
=============================================
モンチッチと坊主頭、ハードロックバンドだけではなくてフォークシンガーのバック演奏をやっていたことがある。
そのシンガー、頭の形が金魚蜂をひっくりかえしたような髪型のせいであだ名が「金魚蜂」と言われていた。
彼が軽音楽部に所属していたのかどうかは記憶に無い上に何故僕とシャラが彼のバックで演奏をすることになったのかも記憶にない。
一応フォークソロなのだけど「金魚蜂バンド」と言う名前が付いていた。
彼のオリジナル曲ばかりをやっていたと思う。
バック演奏と言っても、他にドラムやキーボードがいたわけでもなく、生ギターの彼と僕とシャラと言う編成だった。
そのシンガー君の地元が奈良と言うこともあって、「金魚蜂バンド」の活動は奈良が多かった。
幾度と無くシャラと一緒に近鉄奈良線に乗って奈良へ行った。
ある日、その「金魚蜂バンド」で奈良のアマチュアバンドのイヴェントに出演した。
そのイヴェントのトリを勤めたのが「リッキー&11A'リパブリックバンド」と言うリッキーさんがヴォーカルとバックミュージシャンが3人組の格好良いソウルバンドだった。
僕はベースだったからそのリッキーさんのバンドのベースの人にとても感銘を受けた。
そのイヴェント後も大阪のリハーサルスタジオでそのベースの人に会うことがあって「よー金魚蜂バンドやんけ、元気?」と気さくに声を掛けもらった。
そのベースの人その後、世良正則&ツイストでデビューして瞬く間に有名になって、世良さんの後は大友康平さんのHOUD DOGに加入した。
今でも、そのベーシスト「サメやん」こと「鮫島秀樹」さんに会うたびに「よー金魚蜂バンドやんけ、元気?」と声を掛けられる・・。(笑
ある日、「金魚蜂バンド」の練習(だったと思う)でシャラと一緒に近鉄の電車に乗って、二人たわいも無い話をしていた。
アースシェイカーのことやらの話からいきなり「どこの大学行く?」とか話になって、将来の話になった。
「かなりアホやから大学なんか行かれへんなぁ・・・」とか僕は言っていた。
「ほんで、シャラどーすんねん、将来何すんねん?」と僕が聞いた。
シャラは僕の顔を見据えて真剣に言った。
「俺はプロになるで」
しばらくシャラの言っている意味が分からなかった・・・。
シャラはすでにロックミュージシャンのプロへの野望の炎を燃やしていた。
「ニーちゃんやろうや!プロになろうや!」
僕は腰が抜けた。
ロックが職業になるなんて想像すら出来なかった。
「行けるで。絶対に行けるで。プロでもやっていけるで!俺は絶対にプロになるで」
シャラは確信のある眼差しだった。
僕はその決意に満足に返答も出来ないまま戸惑った。
近鉄電車の窓から差し込む太陽が今までに無いぐらいまぶしく光輝いていた・・・・。
電車は心地よく揺れながら生駒山に近づいてきた。
今でもあの時の情景は忘れない。
そして、あの時、太陽はシャラの決意を祝福しているようだった。
LOUDNESS 豆日記&情報
僕がLOUDNESSのオーディションに合格して、しばらくひぐっつあんのマンションに居候していた。
いやーひぐっつあんには本当にお世話になった。
僕は居候の身だから本当は僕が家主であるひぐっつあんに色々と気を使わなけらばならないのに、逆に色んな身の回りの世話をやってくれた。
僕が居候していた間僕達は毎日昼前に起床。
ひぐっつあんは起床したらすぐに部屋をきれいに片付けて掃除機をかける所から一日は始まった。
僕が脱ぎ捨てた洋服なんかも片付けて洗濯もしてくれた。
朝ごはんを作ってもらい、シャワーを浴びて、ひぐっつあんはレージーの仕事に出かけた。
僕はその間、お留守番だったなぁ。
夕方にレージーの仕事から帰ってきて、夕方からビール呑みながら将棋。
ひぐっつあん将棋目茶強い、と言うか僕が弱すぎたのか、飛車角金すべて無しでも勝てなかった。
そして本格的に夜になったら、近所の中華料理屋があってそこで毎日餃子とビールだ。
ひとしきり、ビールを飲んだりしたら下北沢へ繰り出た。
下北沢でテンソウや桑田バンドの人達や、その頃勢いのあったバンド連中と朝まで飲んだ。
朝方マンションに帰って来てひぐっつあんが布団を敷いてくれて沈没。
東京に出てくる前は体重が46キロぐらいしかなかったけれど、あっという間に53キロになった・・・。
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シャラ元気~~?今日もブログ見てくれておおきに!
最近RUSHの話題が出たけれど、その時にあまりに懐かしくなってRUSHのCDを3枚も買ってしまった。
で、今日その3枚の一枚、RUSHのライブアルバム"ALL THE WARLD'S A STAGE"を聞いていると急にシャラの声が聞きたくなって電話した。
シャラはアースシェイカーのツアーで岡山にいた。
「友達に聞いてニーちゃんのブログ読んでるで~~~~」と笑っていた。
恐る恐る「あのぉー今書いてる昔話やねんけどぉ、やっぱり記憶違いしてるかなぁ?」と聞くと
「おぉ~そやなぁ~かなり間違っているなぁ~~~」・・・うぅ~~やっぱりぃ。(汗
「まぁーそうやけど別にええんちゃうか~おもろいしぃ」と慰めてくれた。
そこで今日シャラと電話で判明したこと;
その1「Drのわったんは大学1年の終わりまでアースシェイカーでやっていた!!!!」だったぁ~~~!!!
ひゃ~~~~がび~~~~ん!!!!
やっても~~た~~~!!!
そう言えば、わったん甲南大学行っていたのをすっかり忘れていた・・・。
大学途中でアメリカ留学やったなぁ・・。
なので、わったんのくだりを訂正し、もしわったんこれ読んでいたら「謝罪申し上げすぅ~」
その2「僕のあのフレッシュベース、みんなの悪評もありすぐに矢沢栄吉モデルの琵琶ベースに買い換えていた」らしい・・・
シャラにそれを言われた時に全く記憶に無かったけれど、今何となくうっすらとそのベースの記憶が蘇ってきた。
しか~しだぁ~~~、なんでよりによって琵琶ベースやねん?>俺
その後、ちょこちょこっとシャラに昔のことをインタビューしてこれから書くことの確認をしました。
とは言うものの、これから書く昔話も一応半分創作/半分事実と言うスタンスにしておきますわ!
関係各位殿、その辺容赦してくださいませぇ~~。
それにしてももしシャラが自叙伝のようなものを書いた時、僕の内容と大きく違っていたらどうしましょう・・・。
シャラは物覚え良いからなぁ・・・。
高校生のときのリハーサルのテープとか未だに持ってるし・・・・。
困った、困った・・。
ちなみに、アースシェイカーの新譜情報はココ
現在アースシェイカー新譜引っさげて全国ツアーも頑張っています、是非見に行ってやってくださいなぁ!!
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モンチッチと坊主頭、ハードロックバンドだけではなくてフォークシンガーのバック演奏をやっていたことがある。
そのシンガー、頭の形が金魚蜂をひっくりかえしたような髪型のせいであだ名が「金魚蜂」と言われていた。
彼が軽音楽部に所属していたのかどうかは記憶に無い上に何故僕とシャラが彼のバックで演奏をすることになったのかも記憶にない。
一応フォークソロなのだけど「金魚蜂バンド」と言う名前が付いていた。
彼のオリジナル曲ばかりをやっていたと思う。
バック演奏と言っても、他にドラムやキーボードがいたわけでもなく、生ギターの彼と僕とシャラと言う編成だった。
そのシンガー君の地元が奈良と言うこともあって、「金魚蜂バンド」の活動は奈良が多かった。
幾度と無くシャラと一緒に近鉄奈良線に乗って奈良へ行った。
ある日、その「金魚蜂バンド」で奈良のアマチュアバンドのイヴェントに出演した。
そのイヴェントのトリを勤めたのが「リッキー&11A'リパブリックバンド」と言うリッキーさんがヴォーカルとバックミュージシャンが3人組の格好良いソウルバンドだった。
僕はベースだったからそのリッキーさんのバンドのベースの人にとても感銘を受けた。
そのイヴェント後も大阪のリハーサルスタジオでそのベースの人に会うことがあって「よー金魚蜂バンドやんけ、元気?」と気さくに声を掛けもらった。
そのベースの人その後、世良正則&ツイストでデビューして瞬く間に有名になって、世良さんの後は大友康平さんのHOUD DOGに加入した。
今でも、そのベーシスト「サメやん」こと「鮫島秀樹」さんに会うたびに「よー金魚蜂バンドやんけ、元気?」と声を掛けられる・・。(笑
ある日、「金魚蜂バンド」の練習(だったと思う)でシャラと一緒に近鉄の電車に乗って、二人たわいも無い話をしていた。
アースシェイカーのことやらの話からいきなり「どこの大学行く?」とか話になって、将来の話になった。
「かなりアホやから大学なんか行かれへんなぁ・・・」とか僕は言っていた。
「ほんで、シャラどーすんねん、将来何すんねん?」と僕が聞いた。
シャラは僕の顔を見据えて真剣に言った。
「俺はプロになるで」
しばらくシャラの言っている意味が分からなかった・・・。
シャラはすでにロックミュージシャンのプロへの野望の炎を燃やしていた。
「ニーちゃんやろうや!プロになろうや!」
僕は腰が抜けた。
ロックが職業になるなんて想像すら出来なかった。
「行けるで。絶対に行けるで。プロでもやっていけるで!俺は絶対にプロになるで」
シャラは確信のある眼差しだった。
僕はその決意に満足に返答も出来ないまま戸惑った。
近鉄電車の窓から差し込む太陽が今までに無いぐらいまぶしく光輝いていた・・・・。
電車は心地よく揺れながら生駒山に近づいてきた。
今でもあの時の情景は忘れない。
そして、あの時、太陽はシャラの決意を祝福しているようだった。
ごめん今日はスタジオの仕事に追われて「歴史物」続きが書けませんでした!!(汗
ごめんなさい!(汗
明日頑張ります!!!!
LOUDNESS LIVESHOCKS 2008
METAL MAD QUATTRO CIRCUIT
2008/4/22(火) : 渋谷 CLUB QUATTRO 19:00/19:30
2008/4/25(金) : 名古屋 CLUB QUATTRO 18:30/19:30
2008/4/26(土) : 心斎橋 CLUB QUATTRO 17:30/18:30
一般発売日
2008/3/22 (土)
チケット代
全立見 前売り\6000 (tax in D別500円) 当日 \6500
===========================
MINORU NIIHARA
"ROCK’N ROLL GYPSY" JAPAN TOUR 08
5月9日(金) open/start 19:00/19:30
5月10日(土) open/start 18:00/18:30
場所;神楽坂DIMENSION
Vo 二井原実
Gtr 田川ヒロアキ
Gr 小畑秀光
Bass 寺沢こういち
Dr ファンキー末吉
チケット;5000円 (ドリンク別)
LOUDNESS FC先行販売2008/3/17-3/31(消印有効)
各プレイガイド発売 2008/4/5(土)
問合せ:神楽坂EXPLOSION 03-3267-87
ごめんなさい!(汗
明日頑張ります!!!!
LOUDNESS LIVESHOCKS 2008
METAL MAD QUATTRO CIRCUIT
2008/4/22(火) : 渋谷 CLUB QUATTRO 19:00/19:30
2008/4/25(金) : 名古屋 CLUB QUATTRO 18:30/19:30
2008/4/26(土) : 心斎橋 CLUB QUATTRO 17:30/18:30
一般発売日
2008/3/22 (土)
チケット代
全立見 前売り\6000 (tax in D別500円) 当日 \6500
===========================
MINORU NIIHARA
"ROCK’N ROLL GYPSY" JAPAN TOUR 08
5月9日(金) open/start 19:00/19:30
5月10日(土) open/start 18:00/18:30
場所;神楽坂DIMENSION
Vo 二井原実
Gtr 田川ヒロアキ
Gr 小畑秀光
Bass 寺沢こういち
Dr ファンキー末吉
チケット;5000円 (ドリンク別)
LOUDNESS FC先行販売2008/3/17-3/31(消印有効)
各プレイガイド発売 2008/4/5(土)
問合せ:神楽坂EXPLOSION 03-3267-87
LOUDNESS日記
新作METAL MADのヴォーカルメロディーと英語歌詞のアドヴァイスにハリケーンアイズで手伝ってくれたSTEVE JOHNSTADさんが力を貸してくれた。
彼とのやり取りはすべてメール。
例えば、今日ある曲を録音したとする、それをMP3ファイルで彼に送ったら数日後には彼のメロアイデアのMP3ファイルと添削された英語の歌詞がメールで届く。
勿論80年代にも海外の作詞家と仕事はしていたけれど、当時、歌詞はファックスですぐに手に入るとしても、音源は郵送になるので数週間を要した。
結局、完璧なものが仕上がるのに3週間以上かかるのはざらであった。
今は早ければ1日に何度もアメリカとリアルタイムでやり取りをやって、最短で数時間で1曲が完成する。
本当にネットって便利だわ・・・。
=========
アースシェイカーを結成したぐらいから、ヴィジュアルも気にするようになった。
ずっと純真一直線童貞(少なくとも僕はそうだった、なんか文句ある?)高校正ロック坊主もいっぱしに少し色気付いてきたのか?
僕は中学校では3年間坊主頭だった、高校に入ってロックのロンゲを目指して高校2年の終わりごろにはかなりの長髪になっていた。
シャラがある日「なぁーロッドヘアーにせえへんか?」
ロッドヘアーとはロッドスチュアーがやっていた髪型で両サイドが長く頭のてっぺんがツンツンと言う、当事はかなり先端を行ったロックの頭だった。
「一緒に行こうや・・美容院・・・」シャラが僕を誘った。
僕とシャラは一緒に女性が行くヘアーサロン(美容室)へ行った。
散髪屋(床屋)でバリカンしか知らなかった僕としては未知なる世界、「ヘアーサロン」だ。
その頃はまだ男性が美容室でカットすると言うことは珍しく、かなりの確立で「男性お断り」と言う張り紙のお店があった。
梅田で男性もカットしてくれる店をシャラが見つけていて、僕とシャラはそこへ行った。
カットするお姉ーさんにロッドスチュアートの写真の切り抜きを見せて「こんな風にして」と少し照れながら言ったら、お姉さんは穴が開くほど写真に見入り「ほんまに??これ?でええの?」と言ってクスッと笑った。
晴れて、僕もシャラも頭のてっぺん部分がツンツンの憧れのロッドへアーになった。
髪形はまさに写真通りなのだけど、なんか違うなと考え気が付いた。
ロッドは金髪で僕らは黒髪であるということに気が付いたのだ。
さすがに金髪にする勇気はシャラも僕も持ち合わせていなかった・・・。
シャラは毎朝そのツンツン部分を几帳面におっ立てて学校に来ていた。
悲劇が起こったのは高校3年になった時だ。
髪型も含めとても自由な高校だったのに急に校則が変わった。
新たな校則は「髪は耳を出す」である。
僕とシャラは困った・・・・。
ロッドヘアーにしたばかりである。
校則に従ってロッドヘアーを切れば、それは単なる「もんちっちヘアー」である。
僕とシャラは必死で抵抗したがさすがに無理だった。
シャラは早々に髪を切って「モンチッチ」になった。
僕はがんばって校則に抵抗したが、抵抗しすぎた。
生活指導の怖い先生に呼び出された。
「学校辞めるか、坊主にして来い」
次の日僕は坊主に逆戻りした・・・
新作METAL MADのヴォーカルメロディーと英語歌詞のアドヴァイスにハリケーンアイズで手伝ってくれたSTEVE JOHNSTADさんが力を貸してくれた。
彼とのやり取りはすべてメール。
例えば、今日ある曲を録音したとする、それをMP3ファイルで彼に送ったら数日後には彼のメロアイデアのMP3ファイルと添削された英語の歌詞がメールで届く。
勿論80年代にも海外の作詞家と仕事はしていたけれど、当時、歌詞はファックスですぐに手に入るとしても、音源は郵送になるので数週間を要した。
結局、完璧なものが仕上がるのに3週間以上かかるのはざらであった。
今は早ければ1日に何度もアメリカとリアルタイムでやり取りをやって、最短で数時間で1曲が完成する。
本当にネットって便利だわ・・・。
=========
アースシェイカーを結成したぐらいから、ヴィジュアルも気にするようになった。
ずっと純真一直線童貞(少なくとも僕はそうだった、なんか文句ある?)高校正ロック坊主もいっぱしに少し色気付いてきたのか?
僕は中学校では3年間坊主頭だった、高校に入ってロックのロンゲを目指して高校2年の終わりごろにはかなりの長髪になっていた。
シャラがある日「なぁーロッドヘアーにせえへんか?」
ロッドヘアーとはロッドスチュアーがやっていた髪型で両サイドが長く頭のてっぺんがツンツンと言う、当事はかなり先端を行ったロックの頭だった。
「一緒に行こうや・・美容院・・・」シャラが僕を誘った。
僕とシャラは一緒に女性が行くヘアーサロン(美容室)へ行った。
散髪屋(床屋)でバリカンしか知らなかった僕としては未知なる世界、「ヘアーサロン」だ。
その頃はまだ男性が美容室でカットすると言うことは珍しく、かなりの確立で「男性お断り」と言う張り紙のお店があった。
梅田で男性もカットしてくれる店をシャラが見つけていて、僕とシャラはそこへ行った。
カットするお姉ーさんにロッドスチュアートの写真の切り抜きを見せて「こんな風にして」と少し照れながら言ったら、お姉さんは穴が開くほど写真に見入り「ほんまに??これ?でええの?」と言ってクスッと笑った。
晴れて、僕もシャラも頭のてっぺん部分がツンツンの憧れのロッドへアーになった。
髪形はまさに写真通りなのだけど、なんか違うなと考え気が付いた。
ロッドは金髪で僕らは黒髪であるということに気が付いたのだ。
さすがに金髪にする勇気はシャラも僕も持ち合わせていなかった・・・。
シャラは毎朝そのツンツン部分を几帳面におっ立てて学校に来ていた。
悲劇が起こったのは高校3年になった時だ。
髪型も含めとても自由な高校だったのに急に校則が変わった。
新たな校則は「髪は耳を出す」である。
僕とシャラは困った・・・・。
ロッドヘアーにしたばかりである。
校則に従ってロッドヘアーを切れば、それは単なる「もんちっちヘアー」である。
僕とシャラは必死で抵抗したがさすがに無理だった。
シャラは早々に髪を切って「モンチッチ」になった。
僕はがんばって校則に抵抗したが、抵抗しすぎた。
生活指導の怖い先生に呼び出された。
「学校辞めるか、坊主にして来い」
次の日僕は坊主に逆戻りした・・・
LOUDNESS日記
昨日、モトリークルーとAC/DCの話題が出たついでに、もう一つモトリーとAC/DCの話題。
彼らのステージセットは凄まじいスケールの馬鹿でかいステージセットなのは皆さんもDVDなどでご存知かと思う。
その頃ラウドネスと一緒にツアーに出ていたスタッフの一人が僕に「あのステージセット、もし日本でやったら組み立てるだけで丸二日はかかる規模だよ」と教えてくれた。
そんな馬鹿でかいセットを彼らは半日で組み立てるのだ、半日だよ!!
まさに恐るべきプロフェショナル集団である。
実はあの大きなセット、搬出するときは極力分解せずステージセットそのままを数分割して、それを長ロングビッグサイズのトラックに入れて移動するのだ。
そのトラックの数たるや物凄かったぞ。
でその、モンスターステージセットをなんと3セットも持っていて、ツアー中は全米で同時に移動していたのである、この説明わかる?(笑
つまり、NYでライブあるとする、その同じ日に翌日の会場へ別のセットを運ぶトラックが移動して、もう一つ別のトラックはもうちょっと遠い会場へ移動している・・みたいな感じ。
総トラック数たるや軽~~~く3桁だろうな、多分。
なんかもうねぇ札束が舞ってたよ・・
楽屋のケイタリングから何から何までほんま超豪華だったし。
楽屋でほんまもんのシェフが料理してるんやで!!
本物のスパーロックスターが一晩で稼ぎ出すお金って天文学的数字なんやねぇ・・・。
====================
結局、アースシェイカーのヴォーカリストは見つからなかった。
僕は和製ゲディリー(RUSHのベース&ヴォーカル)を目指すことに決めた。
当然のこと、練習はDrのわったんの家でやることになっていたので練習のたびに神戸にある山の手の高級住宅地へ行った。
僕達は練習に励みバンドのサウンドを固めた。
ある日、Drのわったんが神戸のヤマハ楽器が主催するアマチュアバンドコンテスト「バンド合戦」に出ないかと提案した。
勿論、僕もシャラも異論があるはずも無かった。
アースシェイカーの当面の目標が決まった。
コンテスト当日が来た。
コンテストには2曲演奏できる。
僕達はスコ―ピオンズの”CATCH YOUR TRAIN”とヴァンへーレンの”ON FIRE”をやったような気がする。(あまり良く覚えていないけれど・・・)
すでに高校の文化祭などでライブの経験はあったので多少は落ち着いていた。
僕の記憶では演奏が崩壊するようなことも無く、まずまずの出来だったと思う。
その日のコンテスト審査委員にソーバッドレビューのギターリスト石田長生さんが来ていて、むしろそれで緊張した。
「ベースの人、ニ、二イハラ君って言うの?いや~自分、珍しい声してんなぁ・・ほんまおもろい声してんでぇ・・・」
大阪弁で「おもろい」と言うのは時にかなりのお褒めの言葉のときがある。
僕は石田さんのそのコメントが嬉しくって嬉しくって天にも昇る心境だった。
とは言うものの、バンドの評価は演奏が荒い、ベースのリズムが走っている、ドラムも走っているなど決して褒められたものではなかったけれど・・・。
コンテストの結果は一週間後だった。
発表は神戸ヤマハのコンテスト会場の入り口で行われた。
会場が神戸だったのでわったんがバンドを代表で結果発表を見に行ってくれた。
「にーちゃん、優勝したで!!」
わったんの声は電話口からでも分かるほどに嬉しそうだった!
アースシェイカーとしての初パフォーマンスは素晴らしい結果となった。
そのコンテストがきっかけとなり、神戸界隈で有名な音楽プロデューサーSさんの目に留まり、色々アドヴァイスをもらったり、その頃、関西でカリスマ的に人気のあったキッスのようなハードロックバンド「山水館」やプログレのカリスマ「シェラザード」なんかの大きなイヴェントの前座に起用してもらったりした。
ちょうどその頃、テレビでは「イカ天」のような番組「ハロヤンことハローヤング」と言うアマチュアバンドばかり出るテレビ番組があって、アースシェイカーでも虎視眈々と出演を夢みていた。
ハロヤンにはアマチュアバンドが主役なので下手なバンドも多かったけれど、凄いバンドも出ていた。
ある日の朝、シャラが血相変えて僕の教室に飛んできた。
「ニーちゃん昨日のハロヤン観たか?」
「おぉー観たがな~ディープパープルの”BURN”やってたバンドやろ?」と僕も興奮ぎみに話した。
「ギターの奴無茶うまかったなぁ、あれ完コピやったなぁ・・・」シャラの目はキラキラしていた。
「全員高校生や言うとったなぁ・・・凄いバンドやったなぁ・・。」二人でため息をついた。
確かに、あの日のゲスト審査員であったいつもニコニコ顔のかまやつひろしさんがそのディープパープルコピーバンドを見たとき、彼の目の色が変わっていた、驚いたような表情で目つきが厳しいプロの目になっていた。
そのバンド、ハロヤンに出て以来あっという間に大阪のアマチュアロックバンドの間では噂になり一躍有名になった。
その高校生ディープパープルのコピーバンドの名前は「LAZY」と言い、そのリッチーの完コピを披露した天才スーパー高校生ギターリストの名は「高崎晃」と言った。
昨日、モトリークルーとAC/DCの話題が出たついでに、もう一つモトリーとAC/DCの話題。
彼らのステージセットは凄まじいスケールの馬鹿でかいステージセットなのは皆さんもDVDなどでご存知かと思う。
その頃ラウドネスと一緒にツアーに出ていたスタッフの一人が僕に「あのステージセット、もし日本でやったら組み立てるだけで丸二日はかかる規模だよ」と教えてくれた。
そんな馬鹿でかいセットを彼らは半日で組み立てるのだ、半日だよ!!
まさに恐るべきプロフェショナル集団である。
実はあの大きなセット、搬出するときは極力分解せずステージセットそのままを数分割して、それを長ロングビッグサイズのトラックに入れて移動するのだ。
そのトラックの数たるや物凄かったぞ。
でその、モンスターステージセットをなんと3セットも持っていて、ツアー中は全米で同時に移動していたのである、この説明わかる?(笑
つまり、NYでライブあるとする、その同じ日に翌日の会場へ別のセットを運ぶトラックが移動して、もう一つ別のトラックはもうちょっと遠い会場へ移動している・・みたいな感じ。
総トラック数たるや軽~~~く3桁だろうな、多分。
なんかもうねぇ札束が舞ってたよ・・
楽屋のケイタリングから何から何までほんま超豪華だったし。
楽屋でほんまもんのシェフが料理してるんやで!!
本物のスパーロックスターが一晩で稼ぎ出すお金って天文学的数字なんやねぇ・・・。
====================
結局、アースシェイカーのヴォーカリストは見つからなかった。
僕は和製ゲディリー(RUSHのベース&ヴォーカル)を目指すことに決めた。
当然のこと、練習はDrのわったんの家でやることになっていたので練習のたびに神戸にある山の手の高級住宅地へ行った。
僕達は練習に励みバンドのサウンドを固めた。
ある日、Drのわったんが神戸のヤマハ楽器が主催するアマチュアバンドコンテスト「バンド合戦」に出ないかと提案した。
勿論、僕もシャラも異論があるはずも無かった。
アースシェイカーの当面の目標が決まった。
コンテスト当日が来た。
コンテストには2曲演奏できる。
僕達はスコ―ピオンズの”CATCH YOUR TRAIN”とヴァンへーレンの”ON FIRE”をやったような気がする。(あまり良く覚えていないけれど・・・)
すでに高校の文化祭などでライブの経験はあったので多少は落ち着いていた。
僕の記憶では演奏が崩壊するようなことも無く、まずまずの出来だったと思う。
その日のコンテスト審査委員にソーバッドレビューのギターリスト石田長生さんが来ていて、むしろそれで緊張した。
「ベースの人、ニ、二イハラ君って言うの?いや~自分、珍しい声してんなぁ・・ほんまおもろい声してんでぇ・・・」
大阪弁で「おもろい」と言うのは時にかなりのお褒めの言葉のときがある。
僕は石田さんのそのコメントが嬉しくって嬉しくって天にも昇る心境だった。
とは言うものの、バンドの評価は演奏が荒い、ベースのリズムが走っている、ドラムも走っているなど決して褒められたものではなかったけれど・・・。
コンテストの結果は一週間後だった。
発表は神戸ヤマハのコンテスト会場の入り口で行われた。
会場が神戸だったのでわったんがバンドを代表で結果発表を見に行ってくれた。
「にーちゃん、優勝したで!!」
わったんの声は電話口からでも分かるほどに嬉しそうだった!
アースシェイカーとしての初パフォーマンスは素晴らしい結果となった。
そのコンテストがきっかけとなり、神戸界隈で有名な音楽プロデューサーSさんの目に留まり、色々アドヴァイスをもらったり、その頃、関西でカリスマ的に人気のあったキッスのようなハードロックバンド「山水館」やプログレのカリスマ「シェラザード」なんかの大きなイヴェントの前座に起用してもらったりした。
ちょうどその頃、テレビでは「イカ天」のような番組「ハロヤンことハローヤング」と言うアマチュアバンドばかり出るテレビ番組があって、アースシェイカーでも虎視眈々と出演を夢みていた。
ハロヤンにはアマチュアバンドが主役なので下手なバンドも多かったけれど、凄いバンドも出ていた。
ある日の朝、シャラが血相変えて僕の教室に飛んできた。
「ニーちゃん昨日のハロヤン観たか?」
「おぉー観たがな~ディープパープルの”BURN”やってたバンドやろ?」と僕も興奮ぎみに話した。
「ギターの奴無茶うまかったなぁ、あれ完コピやったなぁ・・・」シャラの目はキラキラしていた。
「全員高校生や言うとったなぁ・・・凄いバンドやったなぁ・・。」二人でため息をついた。
確かに、あの日のゲスト審査員であったいつもニコニコ顔のかまやつひろしさんがそのディープパープルコピーバンドを見たとき、彼の目の色が変わっていた、驚いたような表情で目つきが厳しいプロの目になっていた。
そのバンド、ハロヤンに出て以来あっという間に大阪のアマチュアロックバンドの間では噂になり一躍有名になった。
その高校生ディープパープルのコピーバンドの名前は「LAZY」と言い、そのリッチーの完コピを披露した天才スーパー高校生ギターリストの名は「高崎晃」と言った。
===================
LOUDNESS豆日記or豆情報
モトリークルーと一緒に全米ツアーをしていた時、彼らの衣装ケースを見てぶったまげた。
モトリーのメンバーそれぞれに、ちょっとした洋服タンスなみの大きさの衣装ケースがあった。
外観はツアー用の楽器のハードケースで観音開きなっていて底には当然コマがついて簡単に移動が出来る仕組みだ。
その衣装ケースを開くとまず目に入るのがずら~~っとハンガーに掛けられたステージ衣装だ。
衣装の下にはブーツやらがありその靴関係の横には引き出しが5個ほどあった。
各引き出しにはメーク用の化粧品がひとしきり、アクセサリーも山のように入れてあったしドライヤーやヘヤ―スプレーも完備。
観音開きの蓋(扉?)右側には大きな鏡が合ってその鏡の上にはスポットライトが付いてた。
左の方の扉には沢山のヌード写真が貼ってあった。
彼等の衣装が華やかだったので、そのステージ衣装ケースを見ているだけでも楽しかった。
AC/DCのメンバーにも同じような衣装ケースがあって、アンガスヤングの衣装ケースには同じような色違いの半ズボンと小学生の制服みたいなのがずら~~~っと並んでいた。
一番笑ったのはヴォーカルの人の衣装ケースで、あの黒のタンクトップと色あせたジーパンのまったく同じものがずら~っと並んでいた。
あのハンチング帽も数個あったと思う。(笑
当然、LOUDNESSも彼等の影響で衣装ケースを作ってもらった。
多分ESPが提供してくれた衣装ケース、ほぼモトリークルーの衣装ケースを完コピーした優れものを各メンバーが所有していたなぁ~。
しかし、あの衣装ケース何処へ行ったのかなぁ~?
そして衣装も誰が持って行ったんだろう?
衣装は記念に欲しかったなぁ~。
============================
アースシェイカーが始動した。
まずはバンドの楽曲である。
とりあえずどんな曲を持ち曲としてやるのかのミーティングである。
Drのわったんが自分のやりたいバンドのLPを持ってきた。
「凄いバンドがあるからこれコピーしようや」と言ってもってきたのがVAN HALENのデビューアルバムだった。
シャラも僕もエディーヴァンへーレンの今まで聞いたことの無い斬新なサウンドや超絶なギタープレーに耳が釘付けになった。
70年代後半にしてまさにハードロックの新たな息吹を感じさせるような、革命的ロックアルバムだと思った。
アメリカかぁ・・・LA?
アメリカのLAと言う土地柄から考えるともっとレイドバックしたロックと言うイメージが強い。
例えば、ドゥービーブラザーズやイーグルスと言ったところだ。
もっと極端な例ならビーチボーイズやカーペンターズと言ったサーフィンやコーラスなど爽やかポップスバンドのメッカという印象であった。
あの、LAからこんな格好良いハードロックバンドが現れるなんて、僕達は戸惑った。
アメリカが凄いことになってるなぁ・・・・。
アースシェイカーとしてヴァンへーレンは絶対やらなくてはならないバンドだと思った。
早速ヴァンへーレンのファーストから”ON FIRE”と”YOU REALLY GOT ME””AIN’T TALKING ABOUT LOVE””ATOMIC PUNK””I’M HE ONE”あたりをやることにした。
シャラのお勧めはRUSHだった。
RUSHはカナダの3人組ハードロックバンドで非常にテクニカルなバンドで3人組の我々にはうってつけのバンドだった。
RUSHの“ALL THE WORLD’S STAGE”“と言うライブアルバムから沢山の曲をやった。
特にこのアルバムの”Bastille Day“という曲は僕のハイトーンヴォーカルの決定打となり、その後の僕のヴォーカルスタイルの礎となった曲でもある
その他にもUFOやSCORPIONSなどもレパートリーに入り、アースシェイカーの大よその方向性は出来上がった。
僕はヴォーカルをとりながらベースを弾くと言うことになり、大変苦労した。
僕はもっとベースに専念したかった。
アースシェイカーのヴォーカルを探すこととなった・・。
LOUDNESS豆日記or豆情報
モトリークルーと一緒に全米ツアーをしていた時、彼らの衣装ケースを見てぶったまげた。
モトリーのメンバーそれぞれに、ちょっとした洋服タンスなみの大きさの衣装ケースがあった。
外観はツアー用の楽器のハードケースで観音開きなっていて底には当然コマがついて簡単に移動が出来る仕組みだ。
その衣装ケースを開くとまず目に入るのがずら~~っとハンガーに掛けられたステージ衣装だ。
衣装の下にはブーツやらがありその靴関係の横には引き出しが5個ほどあった。
各引き出しにはメーク用の化粧品がひとしきり、アクセサリーも山のように入れてあったしドライヤーやヘヤ―スプレーも完備。
観音開きの蓋(扉?)右側には大きな鏡が合ってその鏡の上にはスポットライトが付いてた。
左の方の扉には沢山のヌード写真が貼ってあった。
彼等の衣装が華やかだったので、そのステージ衣装ケースを見ているだけでも楽しかった。
AC/DCのメンバーにも同じような衣装ケースがあって、アンガスヤングの衣装ケースには同じような色違いの半ズボンと小学生の制服みたいなのがずら~~~っと並んでいた。
一番笑ったのはヴォーカルの人の衣装ケースで、あの黒のタンクトップと色あせたジーパンのまったく同じものがずら~っと並んでいた。
あのハンチング帽も数個あったと思う。(笑
当然、LOUDNESSも彼等の影響で衣装ケースを作ってもらった。
多分ESPが提供してくれた衣装ケース、ほぼモトリークルーの衣装ケースを完コピーした優れものを各メンバーが所有していたなぁ~。
しかし、あの衣装ケース何処へ行ったのかなぁ~?
そして衣装も誰が持って行ったんだろう?
衣装は記念に欲しかったなぁ~。
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アースシェイカーが始動した。
まずはバンドの楽曲である。
とりあえずどんな曲を持ち曲としてやるのかのミーティングである。
Drのわったんが自分のやりたいバンドのLPを持ってきた。
「凄いバンドがあるからこれコピーしようや」と言ってもってきたのがVAN HALENのデビューアルバムだった。
シャラも僕もエディーヴァンへーレンの今まで聞いたことの無い斬新なサウンドや超絶なギタープレーに耳が釘付けになった。
70年代後半にしてまさにハードロックの新たな息吹を感じさせるような、革命的ロックアルバムだと思った。
アメリカかぁ・・・LA?
アメリカのLAと言う土地柄から考えるともっとレイドバックしたロックと言うイメージが強い。
例えば、ドゥービーブラザーズやイーグルスと言ったところだ。
もっと極端な例ならビーチボーイズやカーペンターズと言ったサーフィンやコーラスなど爽やかポップスバンドのメッカという印象であった。
あの、LAからこんな格好良いハードロックバンドが現れるなんて、僕達は戸惑った。
アメリカが凄いことになってるなぁ・・・・。
アースシェイカーとしてヴァンへーレンは絶対やらなくてはならないバンドだと思った。
早速ヴァンへーレンのファーストから”ON FIRE”と”YOU REALLY GOT ME””AIN’T TALKING ABOUT LOVE””ATOMIC PUNK””I’M HE ONE”あたりをやることにした。
シャラのお勧めはRUSHだった。
RUSHはカナダの3人組ハードロックバンドで非常にテクニカルなバンドで3人組の我々にはうってつけのバンドだった。
RUSHの“ALL THE WORLD’S STAGE”“と言うライブアルバムから沢山の曲をやった。
特にこのアルバムの”Bastille Day“という曲は僕のハイトーンヴォーカルの決定打となり、その後の僕のヴォーカルスタイルの礎となった曲でもある
その他にもUFOやSCORPIONSなどもレパートリーに入り、アースシェイカーの大よその方向性は出来上がった。
僕はヴォーカルをとりながらベースを弾くと言うことになり、大変苦労した。
僕はもっとベースに専念したかった。
アースシェイカーのヴォーカルを探すこととなった・・。
===========
LOUDNESS豆日記or豆情報
LOUDNESSのライブのPAの音の大きさは半端じゃないけれど、実はステージ上の音のでかさも凄かった。
モニターの音のでかさはミュージシャン仲間の間でも有名だった。
普通、ステージには自分の演奏を聞く為のモニタースピーカーと言うものがある。
それぞれのパートの足元に2個モニタースピーカーが置いてある。
ちなみに、我々の間ではそのモニタースピーカーのことを「転がし」と呼んだりする、まぁー業界用語ですわ。
ちなみにステージ右が「カミ」左手が「シモ」、ステージのものを片付けることを「ワラワス」と言ったりする。
最近ではライブハウス形式のライブが多いからそんなにモニターの音はでかくないけれど。
一番モニターの音がでかかったのは80年代のホールツアーの頃だな。
ドラムの人も当然モニタースピーカーがある、普通は我々と同じようなスピーカーなのだけど、ひぐっつあんのは規格外だった。
まぁーモニタースピーカーと言うよりモロPAだったな・・・PAがステージの後ろにある感じ。
どれだけ音が大きかったと言うと、例えばベースドラムの音の風圧で髪の毛や衣装が揺れるぐらい。
いや~ヴォーカリストには地獄だったっす。
===============
僕達は18歳になっていた。
「曲作ったで~、聞いて~や~」シャラがテープを持って僕の教室へ来た。
カセットにはちゃんと2本ギターでリフが録音されており、メロディーやソロも録音されていた。
曲調はモロハードロックで、その曲は後のアースシェイカーのアルバムでも聴けるはずだ。
アースシェイカーのアルバムでの曲名は忘れたけれど・・・・
そのギターリフは基本的に当時のままだったと思う。
「おぉ~~なんじゃ~~これは!!!!レコードみたいやんけ!!目茶格好ええやんけ~~!!」
僕は初めて聞くオリジナルロックの曲を聞いて興奮した。
「シャラ凄いなぁ~」
曲そのものも格好良かったけれど、ギターが沢山ミックス録音されているのに仰天したのだ。
今は、DTM(デスクトップミュージック)とか言って楽器が弾けない人でもコンピューターを駆使して物凄い演奏をプログラミング演奏できるし、デジタル録音機(MTR)の進歩で安価で一昔だったらありえないような機能がオールインワンで手に入る。
ちなみに、MTR(マルチトラックレコーダー)と言うのは多重録音機で、2トラック以上の複数の録音トラックの録音再生を行う事ができる録音機器で、それぞれのトラックで個別に録音、再生を選択する事ができる優れもの。
さて、話は1978年の話だ。
シャラが作ったそのテープはなんと英語の教材用の録音機(2ch)で録音されていた。
何度も、何度もテープを出しては録音して作った涙ぐましいもの。
「このオリジナル曲やろうや!」
シャラから初めてのオリジナル曲をバンドで作ろうと言う提案であった。
WILD BOARは高校生の青春の1ページ的な趣味のバンドだったし、オリジナル曲を作ると言う発想は無かった。
シャラのオリジナルの提案は紛れも無い本格的なロックバンド結成を意味していた。
その為には、本気でバンドをやる気のあるメンバーを探す必要があった。
そこそこ技術的にも優れている人が欲しかった。
僕とシャラは梅田の楽器屋の前にいた。
シャラは自分で手書きで書いたメンバー募集のチラシを持って。
「ドラマー募集、当方18歳、GtrとBass ハーロックバンドやります!」
胸を躍らせてメンバー募集の張り紙を楽器屋さんの掲示板のようなボードに貼った。
僕達の頭の中ではすでにスーパードラマーと一緒にバンドをやっていた。
何でも思い込みが一番大事だ。
ついでに、他のメンバー募集の張り紙をチェックした。
その中に「Gtr&Bass募集!WE ARE BLUES LIKE!!」と言うアホな文面の張り紙を見つけシャラが大爆笑した。
「こいつ等アホやな~~文法もへったくれもないんやな~~」
「このバンドに連絡したろか?」シャラが悪戯っぽく言った。
数日後、僕とシャラは「WE ARE BLUES LIKE」バンドの人の家に行った。
「自分ら高校生なん?ちゃんと楽器弾けんの?」
社会人のその人達はシャラに質問した。
「ギターあるからなんか弾いてみぃー」
少しバカにしたような感じでギターを渡されたシャラは猛烈な早弾きを披露、その社会人の度肝をぬいた。
「自分ら・・・す、凄いなぁ・・・」
「WE ARE BLUES LIKE」バンドのリーダーらしき人はしばし呆然としていた。
しばらく僕とシャラと「WE ARE BLUES LIKE」バンドのドラムの人とジャムセッションをして帰った。
「シャラどーすんねん?あのバンドに入ってやるんか?」
「あほーあかんやろ・・・WE ARE BLUES LIKEやでぇ・」
その後「WE ARE BLUES LIKE」バンドのリーダーから何度も家に電話がかかってきて「俺らのバンド入れやこりぁ~」と脅された。
マジ怖かったなぁ・・・・。
数日後、芦屋に住むボンボンのY君から応募の電話が来た。
「ハードロックのドラムやりたいねんけど、まだ募集してんの?」
18歳で同じ年のY君の家は芦屋にある大邸宅で、その邸宅の屋根裏になんとバンド練習できる部屋があった!
彼からそこへ招待された。
僕とシャラは逆にオーディションされたのかもしれない・・・。(笑
「わったん」と言うあだ名が付いたY君のドラムは高校生にしては充分パワーがありテクニックもそこそこあった。
性格もさわやかで格好も良くばっちりの人材だった、なんと言っても練習し放題の部屋があるのだ!
ただし条件があった、彼の高校卒業までの期間限定でのバンド参加だった。
わったんは高校卒業後アメリカの大学へ留学することが決まっていたからだ。
(実は後日、わったんは大学1年までアースシェイカーでドラムを叩いていたとシャラからの指摘がありました。そう言えばわったん甲南大学行ってたことを思い出しました。大学1年でアメリカ留学だったのね。わったんごめんなさい!
ここに訂正をしてお詫び申し上げまするぅ~許して~~。)
僕達は3人でバンドをすることになった。
Y&Tが大好きだったシャラはもうバンド名を決めていた。
Y&Tの曲名からいただいた名前だった。
「アースシェイカーってどうや?」
アースシェイカーが始まった・・・・。
LOUDNESS豆日記or豆情報
LOUDNESSのライブのPAの音の大きさは半端じゃないけれど、実はステージ上の音のでかさも凄かった。
モニターの音のでかさはミュージシャン仲間の間でも有名だった。
普通、ステージには自分の演奏を聞く為のモニタースピーカーと言うものがある。
それぞれのパートの足元に2個モニタースピーカーが置いてある。
ちなみに、我々の間ではそのモニタースピーカーのことを「転がし」と呼んだりする、まぁー業界用語ですわ。
ちなみにステージ右が「カミ」左手が「シモ」、ステージのものを片付けることを「ワラワス」と言ったりする。
最近ではライブハウス形式のライブが多いからそんなにモニターの音はでかくないけれど。
一番モニターの音がでかかったのは80年代のホールツアーの頃だな。
ドラムの人も当然モニタースピーカーがある、普通は我々と同じようなスピーカーなのだけど、ひぐっつあんのは規格外だった。
まぁーモニタースピーカーと言うよりモロPAだったな・・・PAがステージの後ろにある感じ。
どれだけ音が大きかったと言うと、例えばベースドラムの音の風圧で髪の毛や衣装が揺れるぐらい。
いや~ヴォーカリストには地獄だったっす。
===============
僕達は18歳になっていた。
「曲作ったで~、聞いて~や~」シャラがテープを持って僕の教室へ来た。
カセットにはちゃんと2本ギターでリフが録音されており、メロディーやソロも録音されていた。
曲調はモロハードロックで、その曲は後のアースシェイカーのアルバムでも聴けるはずだ。
アースシェイカーのアルバムでの曲名は忘れたけれど・・・・
そのギターリフは基本的に当時のままだったと思う。
「おぉ~~なんじゃ~~これは!!!!レコードみたいやんけ!!目茶格好ええやんけ~~!!」
僕は初めて聞くオリジナルロックの曲を聞いて興奮した。
「シャラ凄いなぁ~」
曲そのものも格好良かったけれど、ギターが沢山ミックス録音されているのに仰天したのだ。
今は、DTM(デスクトップミュージック)とか言って楽器が弾けない人でもコンピューターを駆使して物凄い演奏をプログラミング演奏できるし、デジタル録音機(MTR)の進歩で安価で一昔だったらありえないような機能がオールインワンで手に入る。
ちなみに、MTR(マルチトラックレコーダー)と言うのは多重録音機で、2トラック以上の複数の録音トラックの録音再生を行う事ができる録音機器で、それぞれのトラックで個別に録音、再生を選択する事ができる優れもの。
さて、話は1978年の話だ。
シャラが作ったそのテープはなんと英語の教材用の録音機(2ch)で録音されていた。
何度も、何度もテープを出しては録音して作った涙ぐましいもの。
「このオリジナル曲やろうや!」
シャラから初めてのオリジナル曲をバンドで作ろうと言う提案であった。
WILD BOARは高校生の青春の1ページ的な趣味のバンドだったし、オリジナル曲を作ると言う発想は無かった。
シャラのオリジナルの提案は紛れも無い本格的なロックバンド結成を意味していた。
その為には、本気でバンドをやる気のあるメンバーを探す必要があった。
そこそこ技術的にも優れている人が欲しかった。
僕とシャラは梅田の楽器屋の前にいた。
シャラは自分で手書きで書いたメンバー募集のチラシを持って。
「ドラマー募集、当方18歳、GtrとBass ハーロックバンドやります!」
胸を躍らせてメンバー募集の張り紙を楽器屋さんの掲示板のようなボードに貼った。
僕達の頭の中ではすでにスーパードラマーと一緒にバンドをやっていた。
何でも思い込みが一番大事だ。
ついでに、他のメンバー募集の張り紙をチェックした。
その中に「Gtr&Bass募集!WE ARE BLUES LIKE!!」と言うアホな文面の張り紙を見つけシャラが大爆笑した。
「こいつ等アホやな~~文法もへったくれもないんやな~~」
「このバンドに連絡したろか?」シャラが悪戯っぽく言った。
数日後、僕とシャラは「WE ARE BLUES LIKE」バンドの人の家に行った。
「自分ら高校生なん?ちゃんと楽器弾けんの?」
社会人のその人達はシャラに質問した。
「ギターあるからなんか弾いてみぃー」
少しバカにしたような感じでギターを渡されたシャラは猛烈な早弾きを披露、その社会人の度肝をぬいた。
「自分ら・・・す、凄いなぁ・・・」
「WE ARE BLUES LIKE」バンドのリーダーらしき人はしばし呆然としていた。
しばらく僕とシャラと「WE ARE BLUES LIKE」バンドのドラムの人とジャムセッションをして帰った。
「シャラどーすんねん?あのバンドに入ってやるんか?」
「あほーあかんやろ・・・WE ARE BLUES LIKEやでぇ・」
その後「WE ARE BLUES LIKE」バンドのリーダーから何度も家に電話がかかってきて「俺らのバンド入れやこりぁ~」と脅された。
マジ怖かったなぁ・・・・。
数日後、芦屋に住むボンボンのY君から応募の電話が来た。
「ハードロックのドラムやりたいねんけど、まだ募集してんの?」
18歳で同じ年のY君の家は芦屋にある大邸宅で、その邸宅の屋根裏になんとバンド練習できる部屋があった!
彼からそこへ招待された。
僕とシャラは逆にオーディションされたのかもしれない・・・。(笑
「わったん」と言うあだ名が付いたY君のドラムは高校生にしては充分パワーがありテクニックもそこそこあった。
性格もさわやかで格好も良くばっちりの人材だった、なんと言っても練習し放題の部屋があるのだ!
ただし条件があった、彼の高校卒業までの期間限定でのバンド参加だった。
わったんは高校卒業後アメリカの大学へ留学することが決まっていたからだ。
(実は後日、わったんは大学1年までアースシェイカーでドラムを叩いていたとシャラからの指摘がありました。そう言えばわったん甲南大学行ってたことを思い出しました。大学1年でアメリカ留学だったのね。わったんごめんなさい!
ここに訂正をしてお詫び申し上げまするぅ~許して~~。)
僕達は3人でバンドをすることになった。
Y&Tが大好きだったシャラはもうバンド名を決めていた。
Y&Tの曲名からいただいた名前だった。
「アースシェイカーってどうや?」
アースシェイカーが始まった・・・・。
===========
LOUDNESS豆日記or豆情報
デビュー当時、作詞はレポート用紙や便箋やノートに書いていた。
レコーディングの時にスタジオへ何度も書き直したのを持っていって、それをアシスタントが必要なだけコピーしたりしていた。
僕の直筆があまりに汚いので、ディレクターが「これじゃ読めねーよ」と言うことでアシスタントの人が清書することも多かったけれど。
ワープロで書くようになったのはSLYの2枚目のアルバムからだったと思う。
コンピューターを使うようになったのはX.Y.Z.-Aのアルバムからである。
僕の直筆の歌詞がボツ曲を含め数百曲分この世に存在していたことになる。
いったい何処へ消えたのか?
直筆の歌詞があったところでどうってこと無いけれど、まぁー記念になるもんねぇ!
もっと大事にしておくべきだったと後悔している。
===============
ベースギターの話。
僕は中学校の時にベースギターを手に入れたけれど、ベースと同時期にアコースティックギター(フォークギター)も弾き始めていた。
これは姉がフォークをやっていた影響もある。
中学3年の頃にはアコギを結構弾けるようになっていたし、高校のころにはその腕もあがってラグタイムスギターも得意だった。
ステファングロスマンhttp://www.youtube.com/watch?v=91u_0PccY4cやスリーピジョンエステス、ポールサイモンなどを弾いていた。
と言っても、耳でコピーしたわけではなくて、近所のお兄さんの弾いているのを見よう見まねで弾いて覚えた。
肝心のベースなのだが、ベースを弾いているお兄さんは僕の周りにいなかったので、本当にどうして良いのか分からなかった。
ある日シャラにコードの概念を教えてもらいベースはそのコードのルート音を弾けば取りあえずは良いと教えてもらった。
さらに「ブルーノートスケール」と言うものも教えてもらい、アドリブのイロハも教えてくれた。
まさに手品の種明かしのような感じである。
「おぉ!!!成るほど!!そう言うことかぁ!!」
これらの知識は頭の中の霧を消滅させるには充分だった。
迷路に迷い込んだ旅人が道しるべを発見したような、夜の海原の灯台の光のようなものだった。
僕の頭のモヤモヤが消え「おぉ!!理屈がわかったぞ~~~!!」となってからの進歩は凄まじかった。
ベースギターのフレーズも乾いたスポンジに水が吸収されるように身に付いた。
指もガンガン早く動くようになった。
練習の仕方も色々研究した。
リズムの大事さも理解した。
相変わらずコピーは下手だったけれど、ベースを弾くことに関して確固たる自信を持って弾けるようになった。
これはとても大事なことである。
僕はベースの練習にのめり込んだ。
勉強そっちのけで練習した、無我夢中になってやった。
毎日最低4~5時間は弾いていたと思う。
コピーをすると言う行為は耳が鍛えられる。
集中してベースのフレーズを聴く癖が付いた。
ベースの音が聞き取れるようになると、他の楽器の音もつぶさに分析できるようになった。
コード分析も出来るようになって音が聞き取りにくい場合でもコードの理屈でおおよその音が拾えた。
何もかも今までのロックの聞き方とはかなり変わったのは言うまでもない。
反面、物凄くベースの音を集中して聞く癖が付いたお陰でどの曲を聴いてもベースの音ばかり聞こえて困った。
否が応でもベースの音ばかりが耳に入ってくるのだ。
歌謡曲であろうがジャズであろうが曲を聴いたらまずベースのメロディーが先に飛び込んでくる。
バランスよく音楽が聴けるようになったのはここ10年くらいかもしれない。
今は随分楽器のバランスは普通に聞くことができるけれど、もしボーっとして曲を聴いているとベースのラインばかり聞いている。
まぁー好きだから良いのだけれど。
今はヴォーカリストであるけれども、あの当時の楽器練習がプロになってからもとても役に立っている。
出来るならばヴォーカリストと言えど、楽器を何か一つ基礎で良いからマスターすべきではないだろうか?
せめて、コードやスケールぐらいの知識はあっても良いと思う。
どんなことでも、頑張って続けていると今まで見えなかった聞こえてこなかったものが突然モヤが消えたようにはっきり見え聞こえるようになる瞬間が来る。
ちなみに、僕の英語のヒヤリングもある日急に霧が消えたように英語が聞き取れるようになった。
どんなことでも、解決する為のちょっとしたヒントがどこかに隠れている。
そのヒントに出会うには「続ける」以外方法は無いような気がする。
ある日シャラが曲を作ってきた・・・。
LOUDNESS豆日記or豆情報
デビュー当時、作詞はレポート用紙や便箋やノートに書いていた。
レコーディングの時にスタジオへ何度も書き直したのを持っていって、それをアシスタントが必要なだけコピーしたりしていた。
僕の直筆があまりに汚いので、ディレクターが「これじゃ読めねーよ」と言うことでアシスタントの人が清書することも多かったけれど。
ワープロで書くようになったのはSLYの2枚目のアルバムからだったと思う。
コンピューターを使うようになったのはX.Y.Z.-Aのアルバムからである。
僕の直筆の歌詞がボツ曲を含め数百曲分この世に存在していたことになる。
いったい何処へ消えたのか?
直筆の歌詞があったところでどうってこと無いけれど、まぁー記念になるもんねぇ!
もっと大事にしておくべきだったと後悔している。
===============
ベースギターの話。
僕は中学校の時にベースギターを手に入れたけれど、ベースと同時期にアコースティックギター(フォークギター)も弾き始めていた。
これは姉がフォークをやっていた影響もある。
中学3年の頃にはアコギを結構弾けるようになっていたし、高校のころにはその腕もあがってラグタイムスギターも得意だった。
ステファングロスマンhttp://www.youtube.com/watch?v=91u_0PccY4cやスリーピジョンエステス、ポールサイモンなどを弾いていた。
と言っても、耳でコピーしたわけではなくて、近所のお兄さんの弾いているのを見よう見まねで弾いて覚えた。
肝心のベースなのだが、ベースを弾いているお兄さんは僕の周りにいなかったので、本当にどうして良いのか分からなかった。
ある日シャラにコードの概念を教えてもらいベースはそのコードのルート音を弾けば取りあえずは良いと教えてもらった。
さらに「ブルーノートスケール」と言うものも教えてもらい、アドリブのイロハも教えてくれた。
まさに手品の種明かしのような感じである。
「おぉ!!!成るほど!!そう言うことかぁ!!」
これらの知識は頭の中の霧を消滅させるには充分だった。
迷路に迷い込んだ旅人が道しるべを発見したような、夜の海原の灯台の光のようなものだった。
僕の頭のモヤモヤが消え「おぉ!!理屈がわかったぞ~~~!!」となってからの進歩は凄まじかった。
ベースギターのフレーズも乾いたスポンジに水が吸収されるように身に付いた。
指もガンガン早く動くようになった。
練習の仕方も色々研究した。
リズムの大事さも理解した。
相変わらずコピーは下手だったけれど、ベースを弾くことに関して確固たる自信を持って弾けるようになった。
これはとても大事なことである。
僕はベースの練習にのめり込んだ。
勉強そっちのけで練習した、無我夢中になってやった。
毎日最低4~5時間は弾いていたと思う。
コピーをすると言う行為は耳が鍛えられる。
集中してベースのフレーズを聴く癖が付いた。
ベースの音が聞き取れるようになると、他の楽器の音もつぶさに分析できるようになった。
コード分析も出来るようになって音が聞き取りにくい場合でもコードの理屈でおおよその音が拾えた。
何もかも今までのロックの聞き方とはかなり変わったのは言うまでもない。
反面、物凄くベースの音を集中して聞く癖が付いたお陰でどの曲を聴いてもベースの音ばかり聞こえて困った。
否が応でもベースの音ばかりが耳に入ってくるのだ。
歌謡曲であろうがジャズであろうが曲を聴いたらまずベースのメロディーが先に飛び込んでくる。
バランスよく音楽が聴けるようになったのはここ10年くらいかもしれない。
今は随分楽器のバランスは普通に聞くことができるけれど、もしボーっとして曲を聴いているとベースのラインばかり聞いている。
まぁー好きだから良いのだけれど。
今はヴォーカリストであるけれども、あの当時の楽器練習がプロになってからもとても役に立っている。
出来るならばヴォーカリストと言えど、楽器を何か一つ基礎で良いからマスターすべきではないだろうか?
せめて、コードやスケールぐらいの知識はあっても良いと思う。
どんなことでも、頑張って続けていると今まで見えなかった聞こえてこなかったものが突然モヤが消えたようにはっきり見え聞こえるようになる瞬間が来る。
ちなみに、僕の英語のヒヤリングもある日急に霧が消えたように英語が聞き取れるようになった。
どんなことでも、解決する為のちょっとしたヒントがどこかに隠れている。
そのヒントに出会うには「続ける」以外方法は無いような気がする。
ある日シャラが曲を作ってきた・・・。
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LOUDNESS豆日記or豆情報
LOUDNESS日記と言っても日記にするような活動が今現在そんなにないので、豆情報も追加しました。
最近テレビで黒人演歌歌手のジェロさんの一日追っかけ特集をチラッと観た。
いや~今話題の人だけにキャンペーンが凄かった。
朝からインタビューやらラジオやテレビ出演やらでおおわらわですなぁ。
そう言えばLOUDNESSも80年代は彼のような感じでアルバムプロモーションを全国展開してたな。
だいたい各地方にレコード会社の営業支社みたいなのがあって、そこの宣伝の人がキャンペーンスケジュールをブッキングするんですなぁ。
例えば、朝に札幌に到着したとする、まずはレコード会社の営業所へ行って偉いさんやスタッフへ挨拶→数社の新聞社インタビュー→ミニコミ誌インタビュー→ラジオ出演→レコード屋さん巡り→有線放送へ挨拶→テレビ出演→サイン会などのイヴェント出演→再びラジオ出演→夕食会があって→酔いつぶれて沈没・・・・
ほんま、早朝から夜中までよく働いたなぁ。
===============
高校2年ぐらいからライブを見に行くようになった。
当時の関西にはまだそれほど目だったハードロックバンドは無く,主に関西ブルース&ソウルバンドが主流だった。
アマチュアバンドのコンテストもあって、アマチュアコンテストの横綱はYAMAHA主催の88ロックデーだった。
大阪の万博跡地でやっていた88ロックデーは僕らの憧れだった。
88ロックデーであの伝説の沖縄ハードロックバンド「紫」を観たし、上田正樹&サウスツーサウス、優歌団を観て夢中になった。
特に僕は関西ブルースバンドにのめり込んで、上田正樹&サウスツーサウスやソーバッドレビュー、優歌団の追っかけをするほどになった。
僕は関西ブルース面々の影響が大きいと思う。
僕のステージングやMCの間といったものはかなり彼等の影響を受けている。
優歌団のシンガー木村さんの物まねが得意だったし。
当時、僕はハードロックよりどちらかと言うと関西ブルースバンドのようなことの方が好きだったかもしれない。
シャラとバンドを組んだときも優歌団みたいな曲をやろうと提案したら「死んでも嫌や」とケンモホロロに反対された。
キッスやエアロスミスが初来日したのもこの頃で僕とシャラは一緒にライブへ行った。
3階の後ろの方の席で米粒にしかバンドは見えなかったけれど、僕達は興奮したし、これが本物のコンサートやと思った。
特にKISSのロックショーはエンターテイメントの真髄、頂点だと思った。
ちなみにその時、前座でバウワウが出演していて、その完璧なパフォーマンスに度肝を抜いた。
日本人もなかなかやるなと思った。
所謂ロックの外タレの来日が盛んになってきたけれど、僕達は高校生でお金が無かったので沢山のライブには行けなかった。
そんな時シャラが驚くべき方法で外タレのライブを見る方法を見つけてきた。
「ニーちゃん、物凄いええ方法見つけたで!!ライブただで見放題やで!!!」
「どーすんねん?」
「ライブの警備員のバイトあるらしいで」
確かにこれは名案であった、ただで観放題と言うか聴き放題だった。
そのバイトはライブ当日の早い目の夕方に会場に集合して、外タレ招聘会社U社の人から警備に関しての注意をうけたりした。
コンサート前の会場ではサウンドチェックをやっていてその音に釘付けになった。
ある日、レインボーのライブでの警備員バイトの日、ライブ終了後に数人居残りを命じられた。
メンバーをステージから帰りの車まで警備する為である。
会場で待つように命じられていたので会場のいすに座って待っていると、なんとリッチーをはじめレインボーメンバーが全員ステージに登場してきた。
そして、なんと、次の日の変更曲のリハーサルを始めたではないか!!!!
僕達は腰が抜けた。
レインボーのリハーサルは2曲ほどで、PAから音は出ていなかったけれど大満足だった。
そのレインボーライブの日、僕達が会場の入り口ロビーで説明を受けているとブラブラっとロビーに出てきて「やぁー」と言って気さくに握手してくれた人がいた。
僕は興奮しながらも「I'm BIG FAN!!!!」とその人につたない英語で言った。
そうしたらなんとその人、僕をガシッとハグしてくれて頭をぐしゃぐしゃとして何やら英語で言ってくれた、僕は夢心地だった。
グイッとハグされたとき大柄ではなったけれど鋼のような筋肉の塊が印象深かった。
僕をハグしてくれたやさしげな笑顔で気さくなそのお人こそ、今は亡きコージーパウエルだった。
LOUDNESS豆日記or豆情報
LOUDNESS日記と言っても日記にするような活動が今現在そんなにないので、豆情報も追加しました。
最近テレビで黒人演歌歌手のジェロさんの一日追っかけ特集をチラッと観た。
いや~今話題の人だけにキャンペーンが凄かった。
朝からインタビューやらラジオやテレビ出演やらでおおわらわですなぁ。
そう言えばLOUDNESSも80年代は彼のような感じでアルバムプロモーションを全国展開してたな。
だいたい各地方にレコード会社の営業支社みたいなのがあって、そこの宣伝の人がキャンペーンスケジュールをブッキングするんですなぁ。
例えば、朝に札幌に到着したとする、まずはレコード会社の営業所へ行って偉いさんやスタッフへ挨拶→数社の新聞社インタビュー→ミニコミ誌インタビュー→ラジオ出演→レコード屋さん巡り→有線放送へ挨拶→テレビ出演→サイン会などのイヴェント出演→再びラジオ出演→夕食会があって→酔いつぶれて沈没・・・・
ほんま、早朝から夜中までよく働いたなぁ。
===============
高校2年ぐらいからライブを見に行くようになった。
当時の関西にはまだそれほど目だったハードロックバンドは無く,主に関西ブルース&ソウルバンドが主流だった。
アマチュアバンドのコンテストもあって、アマチュアコンテストの横綱はYAMAHA主催の88ロックデーだった。
大阪の万博跡地でやっていた88ロックデーは僕らの憧れだった。
88ロックデーであの伝説の沖縄ハードロックバンド「紫」を観たし、上田正樹&サウスツーサウス、優歌団を観て夢中になった。
特に僕は関西ブルースバンドにのめり込んで、上田正樹&サウスツーサウスやソーバッドレビュー、優歌団の追っかけをするほどになった。
僕は関西ブルース面々の影響が大きいと思う。
僕のステージングやMCの間といったものはかなり彼等の影響を受けている。
優歌団のシンガー木村さんの物まねが得意だったし。
当時、僕はハードロックよりどちらかと言うと関西ブルースバンドのようなことの方が好きだったかもしれない。
シャラとバンドを組んだときも優歌団みたいな曲をやろうと提案したら「死んでも嫌や」とケンモホロロに反対された。
キッスやエアロスミスが初来日したのもこの頃で僕とシャラは一緒にライブへ行った。
3階の後ろの方の席で米粒にしかバンドは見えなかったけれど、僕達は興奮したし、これが本物のコンサートやと思った。
特にKISSのロックショーはエンターテイメントの真髄、頂点だと思った。
ちなみにその時、前座でバウワウが出演していて、その完璧なパフォーマンスに度肝を抜いた。
日本人もなかなかやるなと思った。
所謂ロックの外タレの来日が盛んになってきたけれど、僕達は高校生でお金が無かったので沢山のライブには行けなかった。
そんな時シャラが驚くべき方法で外タレのライブを見る方法を見つけてきた。
「ニーちゃん、物凄いええ方法見つけたで!!ライブただで見放題やで!!!」
「どーすんねん?」
「ライブの警備員のバイトあるらしいで」
確かにこれは名案であった、ただで観放題と言うか聴き放題だった。
そのバイトはライブ当日の早い目の夕方に会場に集合して、外タレ招聘会社U社の人から警備に関しての注意をうけたりした。
コンサート前の会場ではサウンドチェックをやっていてその音に釘付けになった。
ある日、レインボーのライブでの警備員バイトの日、ライブ終了後に数人居残りを命じられた。
メンバーをステージから帰りの車まで警備する為である。
会場で待つように命じられていたので会場のいすに座って待っていると、なんとリッチーをはじめレインボーメンバーが全員ステージに登場してきた。
そして、なんと、次の日の変更曲のリハーサルを始めたではないか!!!!
僕達は腰が抜けた。
レインボーのリハーサルは2曲ほどで、PAから音は出ていなかったけれど大満足だった。
そのレインボーライブの日、僕達が会場の入り口ロビーで説明を受けているとブラブラっとロビーに出てきて「やぁー」と言って気さくに握手してくれた人がいた。
僕は興奮しながらも「I'm BIG FAN!!!!」とその人につたない英語で言った。
そうしたらなんとその人、僕をガシッとハグしてくれて頭をぐしゃぐしゃとして何やら英語で言ってくれた、僕は夢心地だった。
グイッとハグされたとき大柄ではなったけれど鋼のような筋肉の塊が印象深かった。
僕をハグしてくれたやさしげな笑顔で気さくなそのお人こそ、今は亡きコージーパウエルだった。
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