1983年、具体的に海外公演とレコーディングが決まった。
この海外公演が決まった経緯と言うのを僕は詳しく知らない。
アメリカからオファーがあったと言うわけでも無かったと思う。
エンジニアのダニーマクレンドンさんが、ツアーの段取りやライブブッキングに深く関わっていたのは間違いない。
具体的にアメリカの地で勝算があったのか分からないけど、運命的に海外へ行くのが決まっていたかのようだった。
アメリカであてがあったわけでも無かったと思うけれど、アメリカでライブをやれば何かが始まると言う予感はあった。
日本で売れる為に音楽性を変えたりビジュアルを変えたりする気は毛頭なかったのは言うまでも無い、ヘビーメタルでもっと成功したいのならば海外へ行くことは必然であった。
「俺は海外で通用するバンドを作りたい」
初めて会った時のタッカンのセリフだ。
タッカンの思いはずっと変わらなかったし本気だったのだ。
夢を抱くことは大事だ。
そして、夢を抱いたら夢実現の為に行動に移さなければならない。
待っているだけでは夢は実現しない。
あたり前の話だが、チャンスは掴みに行かなければ掴めないのだ。
だからLOUDNESSは「チャンスを掴みに行った」のだ。
この時、スタッフもメンバーも夢に向かって一丸となっていた。
僕は、人生初のパスポートをバンドのメンバーと一緒に申請をしに行った。
その時のみんなの顔の輝きを今でも覚えている
僕達は嬉しくて、ワクワクしていて、夢と希望が抱えきれないほどに溢れかえっていた。
今でもそのパスポートは宝物として大事にしている。
そのパスポートを見るとあの頃の気持ちを思い出す。
今でも、パスポートに一杯押してある各国の入国許可スタンプを見る度に胸が熱くなる。
ひぐっつあんとタッカンはレイジーの仕事でハワイへ行ったことがあると言っていた。
ひぐっつあんはハワイがどれ程素敵かを語ってくれた。
「英語はだいじょうやったん?」
「ほんなもん、あかんに決まってるやんけ!」ひぐっつあんが豪快に笑った。
この人がいると海外でも大丈夫だと思った。
アメリカ西海岸ツアーが終わったら一度帰国して、すぐにヨーロッパツアーだった。
その後、イギリスはロンドンで4枚目のレコーディングの予定だった。
オランダ、ドイツ、イギリス・・・・
アメリカもヨーロッパも僕には想像の付かない場所だった。
僕には縁の無い遠い遠い異国の地だと思っていた。
ドイツと言えばスコーピオンズだ!
僕が始めてコピーしたバンドの国だ。
イギリスと言えば憧れのビートルズの国だ。
そしてなんと言っても、レッドツェッペリン、ディープパープル、WHO,ピンクフロイド・・・
僕の大好きなバンド達の故郷ではないか!!
ポールマッカートニーと同じ空気が吸えると思っただけで幸せだった。
ジョンレンノンに会ったらどうしようか?と真剣に考えた。(1980年12月8日死亡しておりましたな・・・)
リンゴスターに会ったらどうしよう・・・
ジョージハリスンに会ったらどうしよう・・・
ミーハー丸出しであった。
絶対にアビーロードスタジオへは行くぞと心に決めた。
そして、あの横断歩道を渡ってやると決意した。
1983年7月 初の海外ツアーの為に渡米
初めての成田空港・・・広かった。
羽田とは違った匂いがした。
でも、空港独特のセンチメタルな雰囲気は同じだった。
そこには沢山の夢があり、希望があり、涙があり、抱擁があり、出発があり、別れがあった。
搭乗手続きに時間がかかった。
搭乗待合場所で、僕は緊張と不安の為無言で飛行機を眺めていた。
マネージャーから入国審査時の注意など受けたけど、上の空だった。
「当機はまもなく成田よりサンフランシスコ空港へ向かって離陸いたします。飛行時間は約9時間半の予定です。現地の天候は晴れ、現地時間はただ今・・・・」
いよいよ日本を離れる瞬間が来た。
23歳の僕は、胸がはち切れそうだった・・・
そして、嬉しくて泣きそうになった。
LOUDNESSの第2幕が始まった・・・。