今日の訪問者数 413
昨日の訪問者数 1,468
今週の訪問者数 3,215
全体の訪問者数 204,990
ひゃ~~~気が付いたら訪問者数20万超えておりましたがな~~!!
これが多いのか少ないのか分かりませんが・・・
本当に熱心な皆様、ありがとう!!!
ますます頑張りますワン!!
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1982年某日 ビーングの忘年会
所属事務所『ビーング』と契約をしてあっと言う間に2年が過ぎた。
この年末に、事務所の忘年会を渋谷のエピキュラスで盛大にやることになった。
僕達がビーングと契約した時はまだ小さな駆け出し事務所だったし、実際所属アーティストも少なかったけれど、あれよあれよと言う間にアーティストが増えた。
事務所も大きくなって、スタッフも増えた。
忘年会にはそんな新たなアーティストが集合していた。
その忘年会で一番印象に残っているバンド、やっぱ『暴威』だなぁ・・・。
『暴威』、第一印象がとにかく怖かった、全員リーゼントでまさに凶悪な暴走族を髣髴させる雰囲気で会場に登場。
全身から「喧嘩上等」のオーラがビンビンで、氷室君は僕と挨拶する前に睨みつけてくるのでびびったよぉ~。
まぁー本人に喧嘩を売る気は毛頭無かっただろうけれど、氷室君はとにかく革ジャンにリーゼントでガツンガツン尖がっていたのが印象的だった。
この忘年会で、デビューしたての『暴威』が演奏した曲、セックスピストルズの曲だった。
演奏や歌がとてもタイトで格好良かったな。
そう言えば、『暴威』の後に、これまた革ジャンリーゼントの『虎舞竜』っつうのも新た入ってきていたなぁ。
この二つのバンド、なかなか売れなくて苦労していたみたいだけど、その後大ブレークして良かった。
ビーング関連事務所だったけれど、浜田麻里さんが出てきたのもこの頃だ。
「麻里ちゃんはヘビーメタル」と言うキャッチコピー、糸井重里さんが作ったのだけど、上手いなと思った。
ひぐっつあんが麻里ちゃんをプロデュースすると言うことで麻里ちゃんのことを知ったのだけれど、麻里ちゃんのデモテープを聴いた時の衝撃は忘れられない。
そう言えば、本城美紗子さんもいたね、彼女は麻里ちゃんより少し前にタッカンプロデュースでデビューしていたな。
他にも、早川めぐみさんって言う人もいたな・・・・。
女性メタルシンガーが精力的に出てきてたね。
彼女達、すべてLOUDNESS担当の事務所のプロデューサーTさんが関わっていたのだけど、ある日、Tさんが「二井原君、彼女達の共通点って分かる?」って聞いてきた。
「なんですか?可愛いロックシンガーってこと以外わからないけど・・・」
「あのねぇ、イニシャルがねHMなんだよ!」
「あぁ~成るほどね、浜田麻里、早川めぐみ、本城美紗子、あぁ本当だHMだ・・・」
「実はねぇ~・・・・HMってヘビーメタルなんだエヘヘへ!」
「エヘヘへって・・・そんな安易な決め方で・・・ええのん?」(爆笑)
(そう言えば、あんたが考えた『棺桶演出』ちょっとオモロイ感じになってたけど・・・あんたって人は・・・そんなんでエエの?・・・・笑・・・)
1983年1月21日 サードアルバム「魔界典章~The law of devil’s land」が出た。
同時にシングル「ジェラルディーン」もリリース。
この「ジェラルディーン」、事務所的にここでシングルヒットをと思って出したのだけど上手くは行かないものだったね。
一方、アルバムの方はついにトップチャートに躍り出た!
ヘビーメタルがヒットチャートに食い込むなんて、誰が想像しただろうか?
ツアーはどの会場も即売り切れると言う状態。
LOUDNESSは物凄い勢いで頂上へ昇っていっている感じだった。
とは言うものの、売り上げ的に考えてみると、当時ブレークしていた、サザンやRCサクセション、矢沢永吉さんとかと比べるとゼロが一つ足りないのが現実だったと思う。
少なくとも、当時の日本のポップス&ロック状況を冷静になって考えてみても、LOUDNESSがやっていたような音楽がお茶の間に浸透して歌われると言うことは考えにくかった。
要するに、我々が一過性的な流行バンドとなるか否かはこれからの活動次第と言うことになった。
人気投票でも上位を占め、アルバムヒットチャートも上位を占め、ライブ会場も満員御礼が続いた。
すでにある意味ヘビーメタルバンドLOUDNESSとしては、日本国内では登りつめるところまで行った観があった。
LOUDNESSとして日本国内でこれからやっていくには、現状維持か、ある程度LOUDNESSの音楽性やビジュアルを変えてもっとセールス的に上を目指すかの選択肢しか無かった。
後は、海外へ出てもっと自分達の信じるヘビーメタルで勝負するかしかなかったのだ。
1983年5月 4枚目のアルバムの製作を始めた。
評論家やその他マスコミは、LOUDNESSは4枚目が勝負と冷静に分析した。
確かに、デビュー3作まではバンドやスタッフ達のモチベーションも高く勢いが続くけれど、4枚目となるとそこが難しい。
LOUDNESSは事務所『ビーング』を離れ、新たに自分達のマネージメント会社”LOUDNESS MUSIC”を設立。
お世話になっていた照明会社に間借りをしての出発となった。
5月21日にひぐっつあんのソロアルバムが出た。
そして、すぐに”The end of cetry tour ‘83”がスタートした。
北海道を皮切りに始まったツアーだった。
ちなみに、話が脱線するけれど、僕はこの頃のツアーから、色んな霊現象や不思議な体験をするようになった。
ツアー先々のホテルで金縛りに連日連夜襲われた。
寝ている時、体が天井まで浮いた経験をした。
実際、目の前に天井があったし、背中はフワフワする実感があった。
ある日、僕の部屋で5歳くらいの少女がにっこり笑って立っていた、その少女は「そろそろ起きる時間だよ」と言って僕を起こしてくれた、その時はあまり怖くなかったけど・・・・。
戦国時代の武将達が大勢大声と共に僕の部屋を駆け抜けて行った。
一番凄かったのは、幽体離脱だ。
ある晩、金縛りからいつものように体が浮き始めた、これは何度か経験したのでこのままどうなるのか好奇心が出て、わざとベランダの外へ出るイメージをしたら、本当に外に出た。
その時完全に僕は宙に浮いていたけれど、怖くなって肉体に戻った。
後にも先にも幽体離脱はこれが最後で、何度か金縛りにはなるけれど、幽体離脱は出来なくなった。
ホテルの部屋に入った途端異常を感じて部屋を変えてもらうこともしばしばあった。
そして、この頃一番やっかいな「パニック障害」の恐怖を初経験した。
この心の病(今ではパニック障害は脳の機能的な問題だと言われている)は、その後続くワールツアー中もずっと僕を苦しめた。
恐怖と不安でアルコールが増えた。
ライブ後に休みたいのだけれど、体が脳が心が眠らせてくれない・・。
金縛りにあう、異常な寝汗をかき、のたうちまわるのだ。
初めて医者から精神安定剤や入眠剤を処方してもらった。
マネージャーからは「自律神経失調症だろ」と言われた。
いろんな「心の病」の本を読み漁り、助けを求めた。
変な話だけれど、ジムモリソンやジャニスジョップリン、ジミヘンドリックスなど、ドラッグやアルコールに溺れるロックミュージシャンの気持ちが少し分かったような気がした。
人気ロックミュージシャンであり続けるストレスは相当なものだと思った。
いや、実際は多忙を極めていて、自分ではストレスだなと実感することはなかったのだが、体や脳が休息の黄色信号を出していたのだろう。
たかだか、日本で少し人気が出て多忙になっただけでこれである・・・。
ましてや、世界を相手に人気やセールスを維持して行くストレスとは計り知れないと思った。
ライブなど、毎晩、何千と言う人達を相手にエネルギーのぶつけ合いをするのだ。
人のエネルギーは物凄いパワーがある、その何千と言う心のパワーがステージに向かってくるのだ。
そして、僕はその何千と言うパワーを受け止め、そして僕から何千の人へパワーを返すのだ。
確かに、疲れるわな・・・・。(笑
7月7日 渋谷公会堂ライブ終了後、楽屋で記者会見を行い、アメリカ西海岸ツアー及びロンドンレコーディングを発表した。
若干23歳の僕は、すでに身も心も疲れ始めてはいたけれど、まだまだ夢と希望ではち切れそうだった。
LOUDNESS号は輝く未来へと飛び出したばかりだった。