2008年8月18日
1週間留守にして東京に戻ってくると涼しかった。
盆が終わり夏の甲子園が終わり夏が終わってしまったか
のようだ。この夏を忘れないようにこの1週間の精霊を
訪ねた旅を書き残しておこう。
8月13日:伊豆山神社。
12世紀。京での源平の闘いに敗れた源頼朝は、平氏方
の武将北条氏の領地伊豆の韮山へ流された。そこで北条
氏の娘政子と恋仲になり、或る夜、手に手を取って韮山
を抜けだし、相模湾に出て、小舟に乗り伊豆山海岸にた
どり着き、伊豆山神社に駆け落ちした。いい国作る鎌倉
幕府(1192年)の成立十数年前のことで頼朝はしば
らくこの伊豆山神社で政子とともに過ごした。伊豆山神
社は、奈良時代末期やはり伊豆大島に流され、流地で修
験をかさねた役の小角が毎夜毎夜空を飛び大島からこの
伊豆山神社に飛来したという伝承があるが、なにかと日
本史上の流罪人と縁の深いところである。
境内の片隅に、ここで頼朝と政子が口づけをしたと言わ
れるベンチのような石があり、その伝承で伊豆山神社は
縁結びの神として今は知られている。その後政子が懐妊
したことで北条氏の後盾を得た頼朝は一旦千葉に逃れる
が挙兵をし、武蔵、三浦、鎌倉と兵をすすめ、壇ノ浦で
の平氏との最終戦に勝利し1192年に征夷大将軍とな
り鎌倉幕府を建てる事になるのだから、この伊豆山神社
は歴史上の神社と言っていい。地元の物知りのタクシー
の運転手さんから、韮山に流された頼朝は政子と出来上
がる前に伊東氏の娘とも出来上がったようで、この娘は
捨てられた事を恨み韮山に登り自害したと聞いた。まあ
あちこちで女に手を出したらしいですよとも聞いた。
頼朝は、清和天皇の後胤の子孫で京都で生まれ京都で育
った男だから、伊豆の山や海辺の鄙に住む豪族の娘共に
は抜群の知名度を持っていたのだろう。今では、京都の
神護寺にある肖像画は頼朝ではなく別人だという説があ
るが、残されたその肖像画の頼朝は端正な美男子であり、
まあ、もてたことだったろう。
伊豆山神社の境内から快晴の相模湾をながめると青い海
に初島が浮かび、遠く大島も霞んでいた。空にはまっ白
な入道雲。この景色はなぜか懐かしげで、子供の頃に見
た夏休みの風景に見える。でも、なぜ夏の風景はそうい
う思い出を連れてくるのだろう。永遠なるものは人の記
憶であるとフビライ汗は言ったが、その言葉を思い出し
ながら蝉時雨の中、階段に腰かけ海を見ていた。
8月14日:岡崎。父の初盆、先祖代々の盆供養。
15年ほど前に買った1週間くらいの旅用のカバンに荷
物を詰め家を出たが重くてしょうがない。柄をひっぱっ
てゴロゴロと転がしながら歩くがどうにも重いし、その
音がゴロゴロではなくゴトゴトと音がする。ひっくり返
してみると、片方のコロが半分ほど欠けていた。ひぱっ
て歩くのじゃなく半分引きずって歩いていたのだからこ
りゃ重いわけだ。岡崎に着くと呉服屋のYに電話してカ
バンを買いにつき合ってもらった。
午後6時から始まる盆供養が7時を過ぎても始まらない。
随念寺のお坊さんの到着が遅れているのだ。実家には孫
やひ孫が訪れわいわいと賑やかである。うちの祖父さん
=親父は子供達や孫達に人気があったんだなーとあらた
めて思う。そこにいくと俺は、せいぜい長生きしていじ
わるジイサンかなと思っているところに住職あらわれて、
お盆の忙しいところごくろうさまでございますとの挨拶
もそこそこに南無阿弥陀仏の念仏を済ませると忙しそう
に次の檀家へ出かけていった。おいそがしいところごく
ろうさまなのは、盆の供養に集まった我々糟谷家の皆で
はなく住職その人であるとみた。
8月15日:比叡山延暦寺。
比叡山延暦寺の東塔、北谷に最澄が開いた根本中堂を拝
したくて叡山へのぼる。まずは根本中堂の向かいの小山
に建つ文殊菩薩を奉った文殊楼へ拝観する。文殊菩薩は
二階に安置されている。その階段の急なこと。階段では
なくまるで梯子である。自慢ではないが高所恐怖症であ
るわたしは恐る恐るびびりながら下りるときに余計な緊
張をしたのだろう。左足の裏側の筋肉を痛めてしまった。
ピッと痛みが走ったくらいの軽症ではあるが、野口みず
き状態になってしまった。野口君は痛い足を軽く引きず
りながら文殊楼で御朱印をいただき、いよいよ根本中堂
に拝観。中堂の中にいた坊さんに開山いらい続く不滅の
灯明の話を聞いた。
この最澄が建立した天台宗総本山延暦寺の根本中堂の仏
様はお釈迦様ではなく薬師如来である。平城京当時の奈
良の仏教は原始仏教の匂いを強く持っていて、悟りを開
けるのは天才釈迦がそうであったように万人に一人いる
かどうかと説く。最澄は、仏教はそういう一人乗りの舟
(小乗)ではなく大勢の人々が救われる大きな舟(大乗)
であると強く信じ、法華経を極めるために遣唐使として
唐へ渡り天台山で修行し膨大な教典と資料を持ち帰る。
その後叡山から、大乗止観を持つ栄西、道元、法然、親
鸞、日蓮らの名僧があらわれ、日本の仏教史を彩ってい
くことになるのはあらためていうまでもないが、最澄が
叡山に登り今の根本中堂の場所に初めて寺らしきものを
建て、これを比叡山寺と名づけたのは、まだ京に都がで
きる前の最澄22歳のときのことで、そのころから最澄
は衆人の救済という大乗止観をもっていたのは確かだろ
うから、釈迦如来ではなく医として衆人を救済をする薬
師如来を本尊にしたのかもしれないと勝手に想像もした。
根本中堂の御朱印は「毉王殿:比叡山根本中堂」。
8月16日。
糟谷家の先祖代々の人々が眠る浄土宗総本山知恩院に参
拝する。
御朱印は「法然上人:知恩院」。
その後、岡崎の呉服屋のYと京都駅で待ち合わせ、市内
の寺を巡る。
まずは、寺町にある廬山寺。最澄の弟子の元三大師によ
って建立されたこの寺には、どういう分けか法然の著作
書「選択本念仏集」の原本が残されている寺だが、戦後
の調査により、この寺のある場所が平安時代の紫式部邸
跡地とわかり、いまでは紫式部の寺として有名である。
この寺の中庭は枯山水の庭でこの庭がまことによろしか
った。ちょうどいまは桔梗の季節で枯山水の中の浮かぶ
島々に紫の桔梗が涼しげに咲いていて、いつまでも廊下
にすわり眺めていたかったけれど、今日は御朱印のスタ
ンプラリーの日と決めている。次に向かう。
廬山寺の御朱印は「元三大師廬山寺」と「紫式部邸址廬
山寺」。ちなみに元三大師の名は良源で、元日の三日目
に亡くなったから元三大師と諡されたと観光タクシーの
運転手さんから聞いた。
次も同じ寺町にある蓬台山総見院阿弥陀寺。
この寺には織田信長の墓がある。信長の墓は一般的には
豊臣秀吉によって大徳寺境内に建てられた墓が有名だが、
ここには信長が納骨されていない。当時の総見院の和尚
(名は忘れてしまった)が頑として遺骨を渡さなかった
といわれ、現代も信長と死を共にした森蘭丸の森家の遺
族により信長公の墓は守られておりますと住職は言って
いた。ここでは御朱印を申し込むと、冷たい麦茶と京都
の和菓子がだされた。 暑い京都の盆の寺巡り。冷たい
麦茶はのどを潤したが、半透明に薄く焼かれた砂糖にく
るまれたゼリーのなかに小豆がひとつふたつと入ってい
る小さな京の和菓子がシャクシャクとなんともうまかっ
た。菓子を包んだ紙に「鴨川」と名が書かれていたので、
これを土産にしようと捜したがどこの店にも置いてなか
った。
御朱印は「信長公本病:蓬台山総見院阿弥陀寺」。
スタンプラリーは続く。
龍安寺。石庭で有名なこの寺はあたりまえのことだが檀
家衆をもつ。本堂脇の、と打ち込むと本土浮気のと変換
されいちいちめんどくさいが、それはさておき、枯山水
の名庭を観ていると本堂では臨済宗の盆供養が行われて
いて、坊さんが10人も勢揃いしてしきりに声を上げ読
経していた。以前龍安寺を訪れたことがあるYは、ひっ
そりと静まりかえった石庭の印象が強く、庭を観るどこ
ろか本堂の中を珍しげに観ていた。
「おまえのところは浄土真宗じゃないか。禅宗の盆供養
がそんなに珍しいのか?」
「いやそうじゃなくてさ。以前来たときに、そのあれと
来たときに、誰だったっけかなあ、あいつだよ、あれ?
あいつはカスヤ知らなかったっけかァ? そうだねえ、
あいつは大阪の店にいたときの同期だから知らないだ
ろうねェ、あいつは音楽好きでねェ、よく大阪フェス
ティバルホールへコンサートを一緒に観に行ったもん
だよ」
「そんなこと聞いてないんですけど・・・・」
ちなみに石庭は、禅寺でありながら堂内に座禅場を持た
ない龍安寺の縁側を利用したいわば露天座禅場で、庭に
は15個の石(15=十五夜の月=円=完全型)が配置
されているが、どこに座っても一つ欠けて14個しか見
えない。不足=不完を戒めとして修行に励む禅の精神を
表していると言われている。深閑とした静寂の中で組む
座禅であるから、脇の本堂でどんどんガシャガシャと音
をだし大声で読経されてはYでなくとも心が乱れるのは
しかたない龍安寺であった。ちなみに境内の湯豆腐の店
は良し。
御朱印は「石庭:龍安寺」。
その後、渡来系カモ族の守り神である上賀茂神社、下賀
茂神社と巡り、スタンプラリーは終了した。
上賀茂御朱印「賀茂別雷神社」。
下賀茂御朱印「賀茂御祖神社」。
夜は大文字の送り火。
盆に極楽浄土から帰世した親父の御霊が大の火の点火を
合図に、妙法の読経に送られ、天の舟に乗り、左大の火
に送られ、鳥居をくぐりまた浄土へ帰って行った。
わたしが巡った精霊は、源頼朝、最澄、元山和尚、紫式
部、信長、森蘭丸、糟谷家のご先祖であった。