2007年3月16日
S社のN君が、村上春樹訳「ロング・グッドバイ」が出
ましたが読まれたでしょうか?とメールをくれた。
この人はわたくしよりも若干年下なのに、雑誌や本の先
達で、雑誌や本ばかりでなく映画にも先達で、あれはよ
ろしいこれはいけませんと話してくれるのである。笑顔
で話してくれるのである。こちらは、その時の気分で奨
められた本を読んだり読まなかったりするのであるが、
それは、N君の本の読み方は職業病に冒されているとい
う事をわたくしは知っているからである。
N君の勤めているS社は本を出版する会社で、彼はその
会社で作家をそそのかせて本を書かせるなどという恐ろ
しい仕事をしている。また彼は雑誌部門にいることもあ
り、その時は世の中で何がオモロクてなにが流行ってい
るのかとアンテナを張り巡らしている。広く浅く世に出
る本を片っ端から読み映画を観て、あれはよろしいこれ
はいけませんと判断するところから彼の仕事がはじまる
のである。ついでといってはナンだが、わたくしにも教
えてくれるのである。
本が好きでその仕事に入ったにもかかわらず、好きな本
を読むのではなく、知らない本を読まなければナラナイ
というのが彼の職業なので、わたくしは彼の本の読み方
を職業病に冒された読み方と言っているのである。当の
本人もそう言っている。でもそういったN君の情報はわ
たくしは頭ごなしに信用しているので、興味が牽かれれ
ば早速お奨めに従い、山本周五郎の短編集に没頭してい
る時は後回しになる。お奨めに従って読んだり読まなか
ったりするというのは、そういうことである。
N君は、藤沢周平は退職後の楽しみにとっているそうで、
代表作と言われる「三屋清左衛門残日録」や「用心棒日
月抄」はさすがに読んでいるが、短編までは手が回って
いなから、藤沢周平の「花のあと」という短編で、池の
端に咲いている満開の桜の花を池に映った陽の光が揺れ
ながら花びらの裏側を照らしているなどという一節がう
つくしいなあ、日本語とはかくあるべきか、まあ、この
一節に一献、と酌み交わすのはN君の退職後まで待たざ
るを得なく、まだしばらく先のことになるだろう。
さて、そのN君ご推薦の「ロング・グッドバイ」は、か
って清水俊二氏の名訳によって知られたレイモンド・チ
ャンドラーの代表作である。チャンドラーは若い頃映画
の脚本を書いていた時期があったようで、その独特の文
体は絵画的でもある。ジャンルはハード・ボイルド。
「マルタの鷹」によってハード・ボイルド文学を確立し
たダシェール・ハメットの正統な後継者であり、193
9年に発表した処女長編小説「大いなる眠り」の主人公:
私立探偵フィリップ・マーロウは永遠のアイコンである。
新聞紙上でもさかんにこの本が取りあげられていること
もあって、東京駅前八重洲ブックセンターの1階の入り
口の話題の新刊コーナーには200冊ほど積み上げられ
山となっていた。帯に、
「ヴィクターズのカウンターでもう一度、フィリップ・
マーロウに会ってみませんか」
「あの長いお別れが村上春樹の新訳で生まれ変わります」
と書かれているから、まず読者はかって清水訳で読んだ
我々世代であろう。八重洲ブックセンターの話題本コー
ナーの「ロング・グッドバイ」の山の前には、わたくし
と同世代のすこし人生にくたびれた感じのサラリーマン
がぶ厚い本を手にして、村上春樹はいかがなものか・・。
かも知れんがあのマーロウにもう一度会ってみようかな。
2000円もするんじゃちと手が出しかねるので家の本
箱をひっくり返して清水訳を引っぱりだして済ますか・
・・など思案顔で且つ立ち去りがたく佇んでいた。
次の読者は村上春樹ファンであろう。フィリップ・マー
ロウを知らなくても、「ノルウェイの森」に代表され
る村上ワールドの若い読者はゴマンといる。なにしろ世
界で一番読まれている日本の作家は村上春樹であるのだ。
村上ファンとおぼしき若者も熱心に立ち読みしていた。
わたくしはその若者に是非読んで欲しいと心から願った
が、その若者は残念ながら手にしなかった。
この本はかってロバート・アルトマンによって映画化さ
れた。マルタの鷹やカサブランカで私立探偵を演じたハ
ンフリー・ボガードのようなクールでハード=非情な印
象をもつ役者ではなく、映画「MASH」で<妙に正義
感が強いが茶目っ気がある軍隊の若き与太者>という役
を演じたエリオット・グールドが演じていた。
また、どういう訳かアルトマン監督は原作にはない、ハ
ーモニカを吹くフィリップ・マーロウを創りだし、ラス
トシーンは私立探偵として関わった事件との決別を告げ
去ってゆくマーロウの吹く哀愁を帯びたハーモニカの音
で締めくくった。
村上訳グッドバイは、都会の物語であるという解釈が清
水訳とちがうところだと書評されている。かって本がす
り切れるほど読み返し、また、アルトマン映画も封切り
から2番館名画座と追っかけ何度も観返し、そのどちら
も忘れがたい「ロング・グッドバイ」であったものだが、
さて、わたくしも、ヴィクターズに出かけ、カウンター
に腰かけ、ギムレットを飲み、フィリップ・マーローや
テリー・レノックスに会いに行くとするか。