ジョン・レノン暗殺
1980年。
子育てと家事を担当する専業主夫として日々を過ごしていたジョ
ン・レノンが数年ぶりにニューヨークのスタジオに入り、レコー
ディングをしているらしいというニュースは、ビートルズ世代の
僕にはワクワクするニュースだった。
ビートルズ解散後のジョンもポールも、僕は大ファンだからアル
バムは買い続けたけど、作品としてはとても上物とはいえないも
のだった。
『マッカートニー』も中途半端な作品だったし、ジョンの『ロッ
クンロール』もカバー曲である「スタンドバイミー」が一番とい
う出来だった。ビートルズファンであって、ポールやジョンのフ
ァンではなかったんだろう、、、と自分自身を慰めていた。
その後「ウイングス」を結成してポールは精力的に音楽活動を始
めるが、ジョンはヨーコ・オノと一緒にイベントやハプニングと
云われる活動が目立ち、いくつか発表される作品も、なにやら才
能の枯渇さえ感じてしまっていた。
しばらくして『イマジン』で世界を魅了するが、それも長く続か
ず、気が付いたら「専業主夫」宣言をして、音楽の世界から遠ざ
かり、夏の軽井沢の万平ホテルに逗留して町を散歩しているジョ
ンの写真などが話題になるくらいだった。なんだか、ジョンに対
しては少し寂しい思いをしていた。
そんな時に、いよいよスタジオに入ったというニュースが流れて
きたのだ。自分自身を慰め、才能の枯渇を感じ、寂しい思いをし
ていたとは云え、体のどこを切っても「ビートルズ」という赤い
血が流れる僕である。
貴男にとって生涯の衝撃の一枚は何か?
と問われれば、即座に『プリーズプリーズミー』と答える。
このシングルは、初めて自分の金で買ったレコードで、僕の音楽
人生は間違いなくこの出会いから始まっている。
日が変わった1980年12月9日。真夜中。
名古屋観光ホテルに宿泊をしていた僕の部屋の電話が鳴った。
当時つき合っていた廣田由美子さん(現、糟谷由美子)からだっ
た。その内容は真冬に冷や水を一気に浴びせられたように僕を凍
りつかせた。
「ジョン・レノンが殺されたの知ってる?」
12月8日。スタジオでレコーディングをしていたジョンは夕食
を取るために一旦自宅のダコタアパートへ帰り、その玄関前で待
っていたファンの求めに応じ気さくにサインをしているところを、
そのファンに拳銃で撃たれたのだ。玄関ロビーはおびただしい血
で染まり、クリスマスシーズンの交通渋滞もあっただろう、救急
車が到着したのは1時間も後のことで、病院へ運ばれる救急車の
なかで、ジョンは帰らぬ人となった。
どうしてファンが?
ファンなら俺と一緒じゃないか!
なんで殺さなきゃならなかったんだ!
撃った時、駆け付けたガードマンに取り押さえられた犯人は、
「自分が何をしたか分かっているんだろうな!」と聞かれ、
「分かっているジョン・レノンを殺したんだ」と答えた。
ジョンを自分だけのものにしたかったから命を奪ったと犯人は語
った。狂信的な犯行だった。
そして25年の歳月が流れた。
昨今の幼児殺害事件の犯人も、自分だけのものにしたくて命を奪
っているという精神構造はなんら変わっていない。
世界を震撼させたジョン・レノン殺害事件の教訓も活かされない
まま、僕達は現代を生きている。