2010年1月13日
数年前に逝去された永平寺第78世住職
「道号法諱 栴崖奕保(せんがいえきほ)
禅師号 黙照天心禅師(もくしょうてんしんぜんじ)」
のインタビューが正月にNHKで放送されたのをみた。
この正月が初めての放送ではなく再放送で、番組名は
「NHKアーカイブ:この人に会いたい」。
かって放送されたが今は亡くなってしまった人の忘れが
たき名インタビューを再度放送している番組で、わたし
の好きな番組のひとつである。
禅師は、若い頃には座禅の意味がわからなかったが今は
生活の全てが禅であり、その基本が座禅であるとくり返
しくり返し述べていた。
このくだりは、禅宗の高僧であればいかにもそう述べそ
うであるから、わたしにはなんのことやらよく分からな
いけれどきっとそうなんだろうと括って話を聞いていた
が、最晩年の悟りについて語った話はおもしろいと言う
より、なにやら覚悟めいた言葉だった。
「いつでも死ねるという覚悟が悟りだと思ってましたが、
間違ってました。どんなことがあっても平気で生きる。
これが悟りでした」
と、剛速球が飛んできた。ソファーに寝転がってる場合
じゃないぞと起き上がった。わたしのふるくからの友人
もまことに行儀が悪く、ソファーに腰をかけテーブルに
足をのっけたり、寝転がってテレビを見たり新聞を読ん
だりするが、これは! と思う記事や場面にでくわすと
起き上がって姿勢を正すと言っていたが、わたしもこの
時は起き上がっただけでなく姿勢を正した。
死ぬ覚悟よりももっと大事な事があるという。
それは生き続けることであるという。
仏教では、そもそも人間とはあらゆる煩悩であると定義
されるから、全ての煩悩から解放されることが悟りであ
るとすれば、悟りとは人間をやめるということであり、
それ自体が矛盾をはらんでいるのである。禅師のいつで
も死ねる覚悟というのは生と死のぎりぎりの接点上を生
きるということであり、いかにも悟りの境地に思えるが、
そうではなく、生を死と等価値と見ず、あるがままに生
き続ける生の全肯定を、悟りだという。
これほど「生」を肯定した言葉は聞いたことがなかった。
しかし、凄いことを言うもんだなあ、、、
正月早々の寝正月気分で聞く言葉かァ?、、、
いやいや。正月や冥土の旅の一里塚と詠んだ俳人もいる。
年の始まったばかりのここで聞いておかないとまた無為
に1年を過ごすことになるのかもしれんぞとお神籤をみ
れば、ひとつは新聞に載っていた運勢占いで、ひとつは
或る神社から送られてきた神社神籤であるが、どういう
わけかそのふたつとも、わたしの今年は大運機に満ちて
いるとのお告げである。そしてふたつともこの6月にこ
れからの人生を左右するような運命的な出会いを予感さ
せている。いやー。わくわくしまくりでありますが、平
常心平常心と心でつぶやき新年の日々を過ごしておる次
第であります。