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2010年2月2日
熱海駅で、大阪まで行くにはどう乗り換えたら早いのか? みどりの窓口で聞くと、この時間(午前9時台)は乗り 換えなくこだまで大阪まで行っても、途中駅(静岡や名 古屋)でひかりやのぞみに乗り換えても到着時間はほと んど変わらないとのことだったから、乗り換えなしでい ければ世話ないねと大阪までこだまの旅。 名古屋を過ぎ関ヶ原を通りかかると車窓は雪景色へとか わった。友人の写真家がこのあたりは標高が高いのか? と聞く。 「伊吹山と鈴鹿山脈にはさまれた関ヶ原は、北からの寒 気と南からの湿気を含んだ風のぶつかりながらの通り 道にあたるから平野にあるけど豪雪地帯となるんだ」 「古戦場はどこにみえるんだ?」 「ちょうどこのあたりかな。雪に隠れているがこの平坦 地に、西方豊臣軍・東方徳川軍の総勢15万人の兵が 対峙したのは、今を去ること400年前の1600年 の9月15日の早朝。夏ともなれば中尊寺じゃないが、 ここも、夏草や兵者どもが夢の跡、だな」 「うーん。その戦いの始末を講談調で聞きたいところだ な」 「吉川英治の太平記を声を上げて読めば自分が講談師に なったような感じがでるぜ」 「ところで布袋君のライブは何時からだっけ?」 「夕方5時からはじまるがどうしましたか?」 「京都に寄れるかな。伏見稲荷に行きたいんだ」 「時間は間に合う。そうだな。無病息災とツアー成功と 商売繁盛と世界平和を祈祷してもらおうじゃないか。 よーし。京都でおりよう」 伏見稲荷駅をおりると雨になっていた。外国人が訪れて みたい日本の第1位は築地魚市場だそうだが伏見稲荷は 3位か4位といわれていて稲荷駅をぞろぞろおりた乗客 に外国の人達が目立っておおかった。しかもどういう分 けか若い人が多い。 豊臣秀吉が寄進した唐門をバックに記念写真を撮って社 務所にむかい、F宮司さんを訪ねると、この雨の中お越 しいただきありがとうございます。どうぞどうぞお上が りくださいと応接間に通され、あたたかいお茶をごちそ うになった。寒い日で、あたたかいお茶がなによりのご 馳走だった。F宮司さんに外国のお客さんに人気の件を 訊ねると、ここは京都の有名なお寺さんとちがいまして 拝観料というものがありませんから外国の若い方には人 気があるのでございましょう。また、稲荷山を一周する には2時間ほどかかりますから、とてもよいハイキング コースでもあるのではないでしょうかとおっしゃられて いた。 ちなみに、馳走という字は「馳せ走る」を意味している が、これは「来客あれば裏の畑へ馳せ走り取り立ての野 菜で食事をもてなす」という禅寺用語からきている。 美人を意味する「べっぴん」という言葉は愛知県の現在 の豊橋市、江戸時代でいえば吉田宿にあった割烹「織清」 が名物のうなぎをPRする際「すこぶるべつしな(別品)」 と書き通行人の関心を引いたことにはじまる。以来うな ぎに限らず極上品をべっぴんというようになり、その後、 美人についてつかわれるようになり、言葉が東海道をの ぼりくだりし、各地で使われるようになったという。 気後れする。尻込みするを意味する「びびる」は、つい 最近の造語かとおもえばそうではなく、なんと鎌倉以前 の源平の戦いでつくられた言葉で、源平の富士川の戦い で、夜の水鳥の飛び立つ羽音に源氏の奇襲とかんちがい し退却した平氏を後代の軍記物で、さかんにびびり、び びるを口伝されたのだという。なお、当時、鎧が触れあ う音をびんびんと呼んだことに由来する。えへん! などとなにやら物知りのようであるが、先日、東京新聞 に語源遺産という付録があって、そこに書いてあったこ とであります。受け売りさせていただきました。 話の道草はこのくらいにして伏見稲荷にもどります。社 務所でお茶を飲み、本殿で祈祷をし、稲荷山の千本鳥居 をくぐり、参道のいなり屋で写真家は味噌煮込みうどん、 わたしは玉子丼をたべて、京都駅にもどり大阪市内を抜 け南港のゼップ大阪へ着いたのは開演5分前だった。 布袋と写真家はしばらく会っていなかったが初対面では ない。東京からライブを観にきてくれたよと伝えると出 番前のあわただしい時間帯のなか、どうぞ楽しんでくだ さいと挨拶に来てくれた。ここからは写真家の文章でラ イブの紹介するとしよう。
京都。(やはり地名というものは旅情を誘う)驚いたの は、ヌシが宮司さんと懇意だったこと。さらには、鳥居 奉納のこと。いやはや、メリハリがありすぎ。 「おはらい」も突然のことで、戸惑いながらも、とても うれしかった。ありがとう。そして、大阪。(この地名 も存在感とともに旅情もある)HOTEIに紹介してく れたのもうれしかった。 圧巻はその音楽。「さいたまスーパーアリ‐ナ」に次いで 二度めの体験だ。今回は涙ぐむ曲が 3曲もあって大興奮。 曲名がわからず伝えられないのが残念だ。美しいフレー ズがなん層にも連なり合って次々に繰り出してきて息が 苦しくなった。しかも、すばらしいアップテンポで! 他にもステージを見て感じたこと。彼は誠実な人間なん だろうなということ、立ち振る舞いにそれが見てとれる。 改めて感服の限り。
南港から車で新大阪に戻り夜の新幹線で東京まで戻った。 新大阪の土産物売店でマイブームの「みたらし団子」を 買い、人にも配ろうと5箱も買い、うち1箱は車内で写 真家と食った。美味い! これは美味い! と写真家か らマイブームに賛同いただき、ひとしきり喋った後かる く眠って、気がつくと新幹線は東京駅にすべりこんだ。 満開の熱海桜の花見から大阪の布袋ライブまでの初春の 小旅行は無事終了。
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2010年2月1日
新聞に「桜が満開」と写真が載っていた。 ピンク色の可愛らしい花が満開じゃないか。 花見に行ってみよう! とでかけることにした。 今年に入って友人から韓国の或る町に桜が咲きその数な んと30万本という話を聞いた。上野公園の桜が約30 00本。日本で最大の桜の群生は奈良の吉野の山の桜で 3万本というから、30万本の桜というのはあまりにも 凄い。凄すぎて想像がつかない。いったい30万本の桜 がどう咲いてるんだろう。聞くと、とにかく全ての家の 庭、道という道、川の土手、学校、公園、市庁舎、町を 取り囲む山々、およそ考えられる限り木という木はすべ て桜だと友人はいう。締めて総数30万本。どうだ凄い だろうという。どうだと自慢げに言うこの男も見てきた のではなく話を聞いたんだというが、正確には聞いたの ではなく、そこを訪れ度肝を抜かれた作家が書いた物を 読んで知っているにすぎない。それにしても訪れたソウ ルで聞いた話では、桜は日本を象徴する花で日本統治時 代に役所や学校に盛んに植えられたが、第2次世界大戦 後、韓国は解放され、同時に桜は日本統治時代を象徴す る花ということで随分切られてしまってソウルにはあま り桜は咲きませんと聞いたことがある。なんで、韓国の 地方のとある町には日本を象徴する桜が30万本も植え られているのだろうと、この話を聞いたときに不思議で しょうがなかった。 もうすこし聞いてみると、日本統治時代からこの町には もの凄い数の桜が植わっていたが、やはり韓国が解放さ れたときにソウルと同じように切られて終ったそうだ。 その後、日本と韓国の友好の証しとして、不幸な歴史を 乗り越えアジアの隣人としてともに未来へ向かおうと、 それぞれの国の友好団体によって植桜運動が展開され、 かってのような桜の大景観が蘇ったというすばらしい話 だった。すばらしい話はいいが、それにしちゃこの話が 日本で知られていないのはいったいどういうことだろう。 なにか深い理由があるようなないような気もしないでは ないが、それよりも知られてないからこの町に花見に行 きたくともどこへ行けばいいのかまったく分からない。 ツーリストエージェントも冬ソナツアーは仕掛けるが花 見ツアーのご用意はしてくれてない。行きたくても行き ようがない。では、いつかこの町で花見をすることとし て、まずは日本で桜を愛でよう。さっそく今年から桜追 っかけツアーを始めよう。と友人と正月に約束したが、 そういった約束が一番なりやすいのが口約束だから、守 ることで約束を成立させようじゃないかと誘い合って花 見にでかけることにしたのである。調べるとその桜は熱 海桜で、
「熱海でひとあし早い春に出逢う」 例年1月初旬より開花する「あたみ桜」は、沖縄の寒緋 桜と並んで日本列島で最も早咲きの桜。インド原産の寒 桜の一種で明治4年ころイタリア人によって熱海にもた らされた。河津桜より1ヶ月早く咲きます。今年度は昨 年より8日早く平成21年12月17日に糸川遊歩道で 開花を確認しました。
と満開の桜の写真が出ていた。 明治4年にイタリア人が持ってきたというなら金色夜叉 よりも40年も早いじゃないか。貫一もお宮も熱海桜を 見たかもしれんな。貫一、お宮は作中の人物だからとも かくも、尾崎紅葉は見たに違いないが、はて、さて、金 色夜叉をちゃんと読んでないから小説に熱海桜が登場す るかどうかは知らないのである。それよりも開花確認が 去年の12月17日? 開花してすでに1ヶ月経つじゃ ないか! 今のうちに見ておかないとそろそろ散ってし まうのではありませんかと快晴のお天気に恵まれた土曜 日、熱海にでかけたのである。 糸川沿いの桜は匂うが如き満開で、写真家の友人は桜の 木1本1本、桜の花びら1枚1枚、どれがフォトジェニ ックであるかと穴の空くように見つめ倒し、これだ!と 叫んだと思えば立ったり座ったりと構図を決めにかかり、 決まれば夢中でシャッターを切った。 「うーんいかん。フィルムが無くなった」 の友人の一声を潮時に花見&写真大会は終了。バス通り の Cafe Kinowa に入り、写真家はビール にグラタン、わたしはコーヒーに生ハムのサンドイッチ を注文し一休みした。ハワイは常夏で熱海は常春といわ れるが、まったくそのとおりの春のような暖かい一日で、 あれじゃ桜も咲くわいなと思った。 熱海はこの桜が終わると入れ替わるように梅の季節がや ってきて熱海梅園で群生の紅梅白梅が香りと共に楽しめ る。呼応するようにMOA美術館では新春恒例の「所蔵 名品展」が開催され、国宝:紅白梅屏風図 尾形光琳が 展示される。モネの睡蓮の連作のひとつが展示される。 ボストン美術館と真贋をあらそい真性とお墨付きを勝ち 得たレンブラントの肖像画が展示される。ギリシャの壺 もあればローマの壺もあるぞと。そして、梅が終われば いよいよソメイヨシノの季節が始まる。特に、奥湯河原 から七尾に抜ける桜ヶ丘に立ち並ぶ桜の木はどれも古く、 まるで満開の桜を身にまとった山の精の立ち姿であるが 如きである。また、糸川沿いのしだれ桜が流れる水の上 に花びらを散らす風景は一幅の画となって春を彩るので あるから、熱海は常春と呼ぶにふさわしい。 夕方、温泉に浸かって、ミシュランの☆レストラン:ラ・ ンバンスのシェフにもらったレシピに基づいてつくった 金目鯛のづけの焙りをおかずに夕飯を食い、食後は酔い どれ亭で未完の小説家と石油王とともに西村トリオのジ ャズライブを楽しんだ。花見の一日は盛りだくさんの出 来事で終わることができた。明日は大阪へ行く。早めに 寝た。
尚、写真家につられるように何枚か写真を撮ったが、そ の中の数枚を写真家が褒めてくれた。デジカメとPCを 繫ぐラインが見つかり次第アップしますのでお楽しみに。
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2010年1月28日
ツイッターというつぶやきブログが人気らしい。 若い唄歌いがマイスペースを持っていて、プロフィール や好きな歌手やらと数少ない情報がアップされているが、 それはそれとしてこのマイスペースに登場している可愛 らしい唄歌いのお嬢さんが今の今、何を思っているかが よく分からないから、自分の感情や思いを文章にするの も簡単じゃなかろうし時間もかかるものだから、ジャス トワンフレーズ、たった一言でいいからなにか書いてみ なさい、ただし毎日書くんだよ、一言なら毎日書けるん でしょ、とアドバイスをして、お嬢さんはマイスペース の中のブログのコーナーで一言ブログを開始したが、ど うもこれが一言ではすまないらしい。 わたしが提案したのは、 「朝から雨。憂鬱」 たったこれだけジャストワンフレーズ。いやむしろこれ だけしか書いちゃいけないのだが、実際には、 「今朝から冷たい雨が降っている。大好きなレインコー トがクリーニングから戻ってきてない。このままじゃ 外に出られない。憂鬱」 と、なにやらつぶやきになっている。ツイッターになっ ている。 つぶやくのは構わないが、ジャストワンフレーズの狙い は、一言で表すことによって、このお嬢さんの感情を詩 にできないかなと考えたのである。「マイ フェイバリ ット シングス」という好きなものについて歌う曲もあ るじゃないか。よしんば狙い通りにはならなくとも、悪 感情をツイータすることによってぼやきになってしまう ことはさけられる。野村監督じゃあるまいし若いお嬢さ んにぼやきは似合わない。第一、詩とは余程かけはなれ たものになってしまう。 話はかわるようだが、小文、ミニセンテンスになると文 章が主文、副文によって構成されてきて少し複雑になる し、感情を表現するから感情を文章にすることになるか ら、うまく書けても散文であり詩にはならない。 若い可愛らしい歌歌いのお嬢さんのブログが詩になった らいいのにな、と考えながら高速道路を走っていると、 道路上に灰色のおおきな餃子のようなかたちをした石が 落ちているのが見えた。ハンドルを左に切りながら石を 避けて通り過ぎようとしたその瞬間、石が翼を広げ飛び 立ち車の前を間一髪ですれ違って去っていった。石だと 思ったら鳥だった。ハンドルを誤操作するほど慌てはし なかったが、ビックリした。 お嬢さんへアドバイスしたとおりに書けば、
「石が飛び立つ。仰天」
となるのだろうか。 こちらの方がやっぱり詩的である。
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2010年1月28日
24日の日曜日から 「HOTEI モダンタイムス ロックンロール パーティー」 が始まって、初日の名古屋に行って来た。 名古屋の日曜日の夜は、行く度に顔をだ寿司屋が休 みで、行く度に顔をだすバー:ISOLAが休みで、 行く度に宿泊するホテルのバーは早めに閉まってし まうし、名古屋コーチンの絶品のミソ鍋屋も早めに 終わってしまうなどろくなことがないから、ライブ 終了後布袋&バンドの皆さんと楽屋でシャンパンで お疲れさんとやって新幹線に乗って東京に帰ってき たが、それにしてもライブがカッコよくて、同乗し たスタッフと新幹線が東京駅に着くまでの間中ズー とライブの話をしていた。 ギタリズムVの東京厚生年金会館ライブが終わって、 お客さんに混じって会場を出て新宿駅に向かった某 テレビ局の部長が、 「今日のライブで朝まで酒が飲めるな」 と話ながら帰って行ったファンがいましたよと後日 僕に教えてくれたが、名古屋からの帰りの僕はまっ たく彼らと同じ気分だったんだ。 ただし、今回のパーティーライブはGVとは味が違 う。まあなんともオシャレな気分になれるライヴで、 ライブタイトルのパーティーとの名づけに感心する。
翌朝、マンションの北側の駐車場脇におおきなテデ ィーベアの縫いぐるみを両手で抱えている2歳児と 思われるちいさなちいさな女の子がひとりでいた。 そばに誰もいない。 「ママはどこにいるの?」 と声をかけるとあっちと言うばかりで、そのあっち がどっちかわからない。駐車場の北側の道路は通行 量も少なくない。幼児をひとりしておくには危険だ。 おかあさんが来るまでそばで待つことにした。 「おうちはどこ?」 「・・・・・・・」 「ママはどこ?」 「あっち」 そうかさっき聞いたなこれは・・・。 あまり人見知りしないおんなの児でさいわい泣かれ はしなかった。しばらく二人で立っていた。この件 に関してわたしは親切心のかたまりであり、組み合 わせもジッチャンと可愛い孫というほほえましい図 でありつつ、双方でなついてないから、見る者によ ってはヘタをするとわたしはかなり不信な男という 図でもある。朝からまずいなあ・・・早く来ないか な~と待つこと15分。やっと、むこうの角から若 いおかあさんがキョロキョロあたりを見回しながら 姿をあらわした。おんなの児もよちよちとそちらへ 歩き出した。 お姉チャンを幼稚園バスに乗せて送り出したあと、 同じ幼稚園に通うこどもを持つおかあさん同士で立 ち話に夢中になってこどもが離れたのにも気がつか なかったようだ。信じられない話だが、しかし、自 分のこどもも忘れるくらいの話っていったいなんだ ろう。 ハイチのことかな。 日本の教育方針のことかな。 いやいやそうではないかもしれん。 きっと誰かの悪口。これがストレス解消には一番い いらしいそうだが、まあなにはともあれ、おかあさ んが登場してよかった。
近所で評判のパン屋で朝飯用のバケットを買って家 に戻ると友人から、憧れた女優の死をしらせるメー ルが入っっていた。 「惜別」 ジーン・シモンズ。 「スパルタカス」で、カーク・ダグラスの女房役を 演じた。中学生の当時もっとも好きだった女優。作 中、湖で沐浴する場面があり、水面の緩やかな揺れ に光りが反射し股間のあたりが見えそうで見えない。 もどかしい妄想が中学生の頭をいつまでたっても支 配したもんだ。その時、館内の男客の頭が見える角 度を探って一斉に動いた。ような気がする。 映画音楽「スパルタカスのテーマ」も哀切極まる名 曲。 今は無い秋田市大町1丁目にあった秋田ピカデリー で70㎜上映された。嗚呼、懐かしい。 Bより。
続いて友人Tからきたメールも惜別の辞だった。 スペンサーシリーズの著者、R・B・パーカー氏が 死去。ベストセラー探偵小説のスペンサーシリーズ で知られる米作家,ロバート.B.パーカー氏が19日、 マサチューセッツ州ケンブリッジの自宅で死去した。 77歳だった。 死因は明らかにされていない。 ボストン大学の英文学博士号を持つパーカー氏は、 1973年に作家デビュー。 1977年にはスペンサーシリーズ4作目の「約束 の地」で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞のエド ガー賞最優秀長編賞を受賞した。 パーカー氏は,1980年代に「私立探偵スペンサー」 としてテレビドラマ化された同シリーズを含め60 を超えるミステリー作品を手掛け、その多くが地元 ボストンを舞台に描かれた。 Tより。
今読みかけている本が一段落したら、またスペンサ ーシリーズに埋没するとするか。
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2010年1月20日
子供の頃の岡崎市のわたしの家のあった中町には銭湯が ひとつではなくふたつかみっつあって、それぞれが子ど もの足で10分はかからないほどの近さにあったくらい 銭湯は生活に溶け込んでいた。 中町を東にはずれていくとしだいに田や畑がおおくなり、 そういった所にある農家は自宅に風呂をもっており、中 町の西側は町の中心街になっていて、そういう商店街に ある家は身上のよい家もおおく内風呂があった。 中町は商店街もあるが外れであり身上のよい家もあれば、 ブルカラーとホワイトカラーが入り交じったように風呂 がない市営住宅に住んでいる人々もおおく、銭湯がいく つもあったのである。 こどもの頃は親につれられ銭湯に行ったが、中学生にな れば近所の友達と連れだって銭湯に通った。風呂に浸か り近所の大人といっぱしの風呂談義もした。 「そうかね。K先生はまだ甲山中学にいるのかねえ。バ ス通りの公設市場の角を北に行くとお菓子屋があるね。 あそこで店番をしたり、店の前を掃除しているおばち ゃんは(おばちゃんといっても20代の人であるが、 中学生からみればオネエチャンは姉やせめて高校生で、 二十歳をすぎた大人の女性はおばちゃんだった)あの おばちゃんは菓子に嫁いだわしの娘だがね、あの子が 中学の時の担任の先生がK先生だったんだよ。そうか お元気でいらっしゃるか。音楽の先生だったからあの 子は歌が大好きになったんだよ。いまなんて言ってた かねえ? その歌を歌って人なんだがね」 「ビートルズです」 「え? ずーとるび?」 「ちがいます。ビートルズです。ジョンとポールとジョ ージとリンゴがいるんです」 「所ジョージがいるの? 林檎も? 沢山いていろんな ものがあるんだねえ。昔の歌手はそんなにいなかった よ。三橋三智也とか春日八郎とかね。ひとりだったよ」 「アメリカ人かね」 「いいえ。イギリス人です」 「じゃあ、何語で歌ってるんだい?」 「英語ですよ」 「アメリカじゃなくても英語を歌うんだ。わしゃイギリ ス語だと思っとったよ」 「英語はイギリスが先ですよ」 「そうか。アメリカはイギリスのまねしとるのか」 「まねじゃなくてイギリス人がアメリカにいったんです」 「いろんなこと知っとるなあ中学生になると」 「音楽が好きなら娘さんに聞けばわかるんじゃないです かねえ。ビートルズって」 「わかるかねえ、、、、。それよりも湯がぬるくないか。 手をパンパンと叩いてみてくれんか。そういえばこの 間、店の前を掃除しながら、りんごーのはなびらがー って歌ってたからなあ。英語の歌じゃなあ、、。そう いえば、あんたら英語喋れるンかァ?」 「喋れないですよー。まだ習い始めたばっかりですし」 などと銭湯で会話をしながら大人との距離を縮めていっ たものだった。 話はかわって現在の今朝、しんぼーさんが、風呂で死ぬ 件数がとても多くなってますから気をつけてくださいと テレビでやっていた。しんぼーさんというのは大阪よみ うりテレビのアナウンサーで、数年前から日本テレビに て東京進出をし、今は全国ネットで名が知れている人す。 で、しんぼーさんがその時に、風呂場での死者の数はア メリカやイギリスと比べて日本が圧倒的に多いと発言し、 共演者が、えー!そうなんですかァー!。とあたかも日 本人は風呂で死ぬ、欧米人は風呂で死なない的な感想が スタジオに流れたが、よく考えてみれば風呂に入る機会 と回数は欧米人に比べ日本人の方が圧倒的に多いのだ。 現に、一昔前の岡崎のこどもは銭湯に通って大人と風呂 談義をしたし、わたしのイギリスの友人はシャワー専門 でバスタブに浸かるなんてこどもの頃からしたことない よ。だってめんどくさいだろう。と言っているのだから、 風呂場での事故数を欧米と比べてもなんの意味もないの だが、それはそれとして冬場に風呂場で死ぬ人がとても 多いというのはほんとに気になる。 裸になった寒さで血圧が下がり、湯に入った熱さで血圧 が上がり、という短時間での血圧の急上昇急降下によっ てひきおこされる心筋梗塞や脳梗塞が死因だという。 数日前には浅川マキさんがコンサート会場に行く前に入 った風呂で亡くなられた。享年62の若さである。たし か心筋梗塞だった。 10前の12月には舞台監督のパンチョ半沢も風呂で死 んだ。リハーサルスタジオへ出かける前の寝起きのひと 風呂で40になったばかりの働き真っ盛りの脳梗塞での 死だった。 伊豆山の寓居での楽しみに起きがけの朝風呂があるが、 医者に言わせれば、たしかに温泉大浴場は家の内風呂と ちがい暖房が入っていて裸になったときに寒いというこ とはないでしょうが、それでも身体がまだ十分に目覚め ていない状態で湯舟にどっぷりと浸かることは避けた方 がいいとの忠告である。 今日は寒さはそれほどでもないが、大寒です。 どうぞみなさん。この寒さを元気に乗り切って暖かい 春を迎えようではありませんか。
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2010年1月15日
ハイチの大地震。凄まじいものだったようで、昨日の東 京新聞の夕刊に1面に掲載された写真では、丘をおおい つくす住宅のそのほとんどが地滑りにあったように倒壊 し町が壊滅していた。 世界最貧国のひとつであるハイチでは産業が乏しく人々 は仕事を求め都会に集まるが、職にあぶれた人々は町外 れに建てられたバラックのような家々に建て増し建て増 しされた複雑に入り組んだ住居群が丘の上まで続いて貧 民丘街を形成する。掲載された写真はそのひと丘が倒壊 壊滅している写真だが、しかし、そのような丘は首都ポ ルトーフランスにはいくつもあるのだ。 ハイチ政府の発表によると死者は10万人とされたが、 それは倒れた住宅に住んでいたと思われる人口をそのま ま当てた数字であると言うくらい、なにもかも推測でし か状況を把握できていないようだ。 地震の規模に比べて死者の予想数が大きいのは、最貧国 ゆえに建築基準法が耐震構造に則っていないことや貧民 地区ではバラック・オン・バラックと建物はただ積み上 げられているだけにすぎないことが理由としてある。 また、最貧国にありがちに政情は不安定で政府軍・反政 府ゲリラとの間での闘争が常態化していて、それが各国 からの経済支援を困難にし、最貧国の経済は更に悪化に 悪化を重ね、救急体制、医療施設が極度に不足している という現実もある。 政情を安定化させる為に国連が事務所を構え100人以 上をスタッフを送り込み平和維持活動の監視下において いたが、そのスタッフの100人ほどが亡くなったので はと報じられていた。 そんな暗い気持ちになっていたところへイギリスはロン ドンから知人が訪ねてきた。知人と言ったが正確には元 IRC2ロンドン事務所のスタッフのVさんである。1 990年代の10年間、世紀末のロンドンでこのオフィ ースを拠点に我々はイギリス人と日英混成チームをつく り大活躍をしたのだが、大活躍といってもそのエリアは アート、ミュージックなどクリエイティブな方面に限ら れ、金儲けとは一線を画すものであったから、ミュージ ックシーンやミュージックそのものがビジネスの一形態 として位置づけられてしまった21世紀の今日はそのオ フィースは役割を終え数年前に解散したのであるが、よ うするに、そのいちばんおもしろかった時代を一緒に駆 け抜けたスタッフが東京に来たと訪ねてくれたのである。 さて、久しぶりの英会話はどんなもんじゃろう。 錆びついてるんじゃないかなァ、、、 と思っていたが全然問題なかった。すらすらべらべらと はいかないが、そんなのはロンドンにいた頃からそうだ ったから相手も先刻ご承知で、ゆっくりゆっくり噛みし めるようなスピードで会話はすすんだ。もちろん錆びつ いた部分はあったが、Vさんの今の仕事のパートナーの Aさんがイギリス人のくせに(くせにとは失礼な言い方 だがこの際は褒め言葉)日本語がぺらぺらで、聞いてみ れば交換留学生で岐阜の高校に留学し、いったん英国に 帰ってのち、今度は英語の先生として浜松の学校で教え ていたというキャリアの持ち主で、日本語がお上手なの は当たり前という人でしたから、錆びた部分はその人が ピカピカに磨いてくれるようでもあり会話はなにもかも スムーズにすすみ、大いに笑い大いに懐かしみナイスな 時間を過ごすことができたので、さき程までの暗い気持 ちはいつしかどこかへ飛んでいってしまったようである。 ちなみにVさんもAさんもとてもすてきな美人でありま す。
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2010年1月13日
数年前に逝去された永平寺第78世住職 「道号法諱 栴崖奕保(せんがいえきほ) 禅師号 黙照天心禅師(もくしょうてんしんぜんじ)」 のインタビューが正月にNHKで放送されたのをみた。 この正月が初めての放送ではなく再放送で、番組名は 「NHKアーカイブ:この人に会いたい」。 かって放送されたが今は亡くなってしまった人の忘れが たき名インタビューを再度放送している番組で、わたし の好きな番組のひとつである。
禅師は、若い頃には座禅の意味がわからなかったが今は 生活の全てが禅であり、その基本が座禅であるとくり返 しくり返し述べていた。 このくだりは、禅宗の高僧であればいかにもそう述べそ うであるから、わたしにはなんのことやらよく分からな いけれどきっとそうなんだろうと括って話を聞いていた が、最晩年の悟りについて語った話はおもしろいと言う より、なにやら覚悟めいた言葉だった。
「いつでも死ねるという覚悟が悟りだと思ってましたが、 間違ってました。どんなことがあっても平気で生きる。 これが悟りでした」
と、剛速球が飛んできた。ソファーに寝転がってる場合 じゃないぞと起き上がった。わたしのふるくからの友人 もまことに行儀が悪く、ソファーに腰をかけテーブルに 足をのっけたり、寝転がってテレビを見たり新聞を読ん だりするが、これは! と思う記事や場面にでくわすと 起き上がって姿勢を正すと言っていたが、わたしもこの 時は起き上がっただけでなく姿勢を正した。 死ぬ覚悟よりももっと大事な事があるという。 それは生き続けることであるという。 仏教では、そもそも人間とはあらゆる煩悩であると定義 されるから、全ての煩悩から解放されることが悟りであ るとすれば、悟りとは人間をやめるということであり、 それ自体が矛盾をはらんでいるのである。禅師のいつで も死ねる覚悟というのは生と死のぎりぎりの接点上を生 きるということであり、いかにも悟りの境地に思えるが、 そうではなく、生を死と等価値と見ず、あるがままに生 き続ける生の全肯定を、悟りだという。 これほど「生」を肯定した言葉は聞いたことがなかった。 しかし、凄いことを言うもんだなあ、、、 正月早々の寝正月気分で聞く言葉かァ?、、、 いやいや。正月や冥土の旅の一里塚と詠んだ俳人もいる。 年の始まったばかりのここで聞いておかないとまた無為 に1年を過ごすことになるのかもしれんぞとお神籤をみ れば、ひとつは新聞に載っていた運勢占いで、ひとつは 或る神社から送られてきた神社神籤であるが、どういう わけかそのふたつとも、わたしの今年は大運機に満ちて いるとのお告げである。そしてふたつともこの6月にこ れからの人生を左右するような運命的な出会いを予感さ せている。いやー。わくわくしまくりでありますが、平 常心平常心と心でつぶやき新年の日々を過ごしておる次 第であります。
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2010年1月8日
年明けて、昨年患ったおめめの検診にでかけた。 目の中を先生が覗きこむようにと瞳孔の開く目薬を点眼 されているから、目を開けていると眩しくてしかたない。 サングラスをし、目をつむって待合室で呼ばれる順番を まっている。
タカハシマリコさーん スズキシゲルさーん マツイヒデキさーん カトーコーイチさーん オザワイチローさーん
なにやら知っている人の名前が呼ばれている。歌手から ギタリストから大リーガーから政治家までいて、世の中 には同姓同名の人がよほど多いと知れると感心している と、
コイケフミコさーん
と呼ばれた人がいた。この名前はなつかしい。中学の同 級生だ。小池文子で「ブンコ」と呼ばれていた。いやー。 ひさしぶりにブンコの名前をここで聞くことになるとは と眩しいをがまんして待合室にいる小池さんを目で追う と、けっこうなおばあちゃんだった。もちろん岡崎の同 級生のブンコが東京の下町の眼科にいようとは思っては いないが、あんな、おばあちゃんは想定外だった。でも あれだぞ。俺は人を見てあんなばあちゃんと勝手に言っ てるが、他人はわたしを見てジイサンと思っとるかもし れんと席を立ちトイレに入って鏡を見れば、なかなかの ハンサムボーイじゃないか。しかも若々しいぞ。と眩し くてよく見えないのをいいことに勝手に思ってみたりし た。 しかし。名前はまだ呼ばれない。 しかし。目の検査の話はいいが昨年末に書きかけになっ たままの神戸旅行の続きはいったいどうなったんだろう。 病院に入ってブログがしばらく更新されてなくても、退 院してしばらくぶりにブログが復活しても、読みに来て いる人の数が減りも増えもしないことに唖然としたり、 気が楽になったりしてみたが、だからといって「この続 きは次回」と書いたままにしておいて、しかも年を越し てしまってはいかがなものか? すこしだけ書いておき ます。 旅行2日目にははやくもかみさんと離ればなれになった。 わたしは仕事へ。かみさんは友人宅へ。 かみさんがいなくなってひとりぼっちになったような気 がしたが、気楽になったことも確かだった。 彼女たちは旧居留地界隈を買い物したり100種類もの お茶が飲めるティーハウスで喫茶したりウインドウショ ッピングしたりと散策を楽しんだようだ。 こっちは旧居留地のブランドショップ街も元町の商店街 も北野の異人館も六甲のハーブ園にもとんと縁がなく、 会場内でリハーサルだ、打ち合わせだ、本番だ、値段交 渉だとまあ地味な神戸だったが、意外な楽しみにでくわ すことができた。 宿泊しているホテルの部屋が海側でなく山側で、部屋か ら六甲の山並みの下に東西に長い神戸市街が見える。朝 起きてホテルで朝食をとり、仕事にでるまでの間に、秋 のはじめのころから読み始め、まだ読み終わっていない 「坂の上の雲」を読んだ。 単行本の4巻の満州平野の大会戦で騎兵旅団を指揮する 秋山好古について書かれたくだりで、源平の戦いの義経 の鵯越えの騎兵戦法が引用されていた。 今の神戸の市街地は六甲の山と瀬戸内海にはさまれてま ことに狭く東西に長いが12世紀もそうで、ここを舞台 に源平の戦いの火ぶたは切って落とされた。東から攻め るは源氏。守る平家の戦隊は長く延び、源氏軍と対峙す る先頭は今の西宮あたりにあり後陣は神戸市の西のはず れにあった。平家軍は全軍東を向いている。義経は数十 騎を連れただけで夜半ひそかに京を抜けだし丹波に入り、 山越えで六甲の西のはずれの鵯の坂の上に出、そこから 一気に山を下り平家軍の尻尾に殴り込みをかけた。天か ら騎馬と武者が降ってきたような大騒ぎになった。無理 もなかろう。ちゃんちゃんばらばらと長槍を突き出し白 刃を振りかざし、ビュンビュンと呻りを上げて弓から放 たれた矢が空を飛び落ちてくる中で戦っているのは遙か 先頭集団である。後陣部隊は武装していても戦争状態に はない。しかも鵯の山の坂といってもほぼ絶壁に近い壁 を騎馬武者が駆け下り殴り込んできたのである。平家軍 は混乱に混乱を極め敗走し、屋島、壇ノ浦と敗走に敗走 を重ね、1192年:源氏によるイイクニツクル鎌倉幕 府が成立するのである。世界史的に見てもこの義経の騎 兵戦法はジンギスハンの騎兵による大遠征と比べてもな んら遜色はないと作家司馬遼太郎は書くのである。 その義経の下り降りた鵯の絶壁の坂がホテルの窓から見 えるのである。年の為にフロントに電話をして場所を確 かめると、やはり部屋から見える西の絶壁がそうだとい う。本を読んでいると時にそういう偶然にも似た場面に 出くわすが、今回は偶然にしても出来すぎていた。読書 の楽しみはこういうところにあるのです。ということで 神戸は楽しかった。かみさんも友人と過ごした神戸がス テキだったようでした。
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謹賀新年。 今年は、伊豆山神社、香取雷神社、富岡八幡宮、成田山 深川不動、日枝神社の五社を詣でた。数行けばいいって もんでありますよ神社の祈願は。お百度参りというもの があるくらいですから。たった一度行っただけで神さん がお願い事をきいてくれるっちゅうわけにはいきません。 友人から聞いた話だが、この人は高校を卒業後シェフを 夢見て京都の老舗ホテルのレストランに就職した。修行 10年を経て師匠に許しを得パリに飛んだ。パリの二つ 星レストランでまた10年の修行を積み、帰国し、自分 のレストランを開いた。屋台に毛が生えたような小さな 店だった。始めの頃こそ客がつかなかったが、その味は 評判となりいつしか客がつき始め、ちいさなレストラン が手狭になり、こんなにお客さんを待たせてはならんと いよいよ決心し、銀行から借金をして繁華街にちゃんと した店をオープンした。皆が祝ってくれた。当初は順調 そうに見えたその事業は、その友人が体調をくずしたこ とにより陰りを見せ始めた。なあに、そのうち直るやろ。 借金もあるし休んでなんていられへん。とタカをくくっ て無理に無理を重ねたことでますます体調を崩し、しま いには厨房に立てなくなってしまった。尿道結石が大爆 発をし全身に走る激痛で仕事もなにもかも手に着かなく なってしまったのだ。 病院を何度も変わり医者も何人も変わったが回復の兆し はなかった。さすがに神頼みをした。病気に霊験あらた かと聞けばどこの神社にも行った。煩いが永くなり店は 閉じたままで、日本一のシェフになるという夢を諦めか けたとき誰に聞いたか思い出せないそうだが豊国さんが よろしいと聞き、毎日毎日痛みをこらえ東山の上にある 本殿までの長い階段を上り下りし祈願した。 或る日、お祈りして階段を下りあと2,3段で階段が終 いというところで、いつまでたっても直らない痛みにい らつくようにジャンプして地面に飛び降り着地した瞬間、 チン◎の先からおおきな石がころっと飛びだし、永の煩 いの尿道結石が 祝!全快したと言う。その後、店は順 調で京にこの店ありと言われるまでになった。 なんべんでも行かなあきまへんで。 どこでも行かなあきまへんで。 1回だけでは聞いてくれまへんで。 友人はわたしにこれだけは守りなはれやと言うのである。
で五社に詣でたのでありました。 いくつも頼むと神さんもこんがらがる。 健康祈願1本で、明るい2010年になりますように。
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2009年12月18日
ひさびさに夫婦揃って神戸への旅。 旅といってもかみさんには友人を訪ねる小旅行だが、わ たしは昔の業界符牒でいうところのビータ(旅の逆言い 回しで地方での仕事のこと)で、ちょうど神戸にでかけ るので一緒にと連れだった。
1995年1月17日の早朝。まだ寝静まっていた居間 の電話が鳴った。電話口にでてみると函館の叔父さんだ った。函館の叔父さんはかみさん方の親戚で、かみさん はこどものころから可愛がってもらっているが、わたし は日頃のつき合いはなかった。
「居たか。家にいるんだね。よかったー。いや安心した」 叔父さんは電話口で開口一番こういった。 「伯父さん。それがいったいどうしたんですか? こん なに朝早くから」 わたしが家にいるいないで安心するということはなんの ことだろう。電話の真意がまったくわからなかった。 「そうか。しらんか。テレビをつけてみなさい。NHK がいいだろう」 テレビをつけると街が崩壊し至るところで火の手が上が っている神戸の街が映し出された。 「なにがあったんですか?」 「大地震だ。神戸はほぼ壊滅した。何千人もの死者がで るだろう。わしは年寄りだから早く起きるんでね。さ っきこのニュースが飛び込んできてビックリしたんだ が、君は仕事でよく地方にでかけると聞いていたから、 まさか、神戸にいるのじゃないなと心配で電話したん だ。いやーよかった」
とこのようにして僕は阪神淡路大震災を知った。 あれから14年の年月が流れた。神戸の街は復興し電話 をくれた親切な叔父さんも鬼籍に入られ数年経つ。そん なことを車内で話しながら神戸に向かった。 そういえば大震災の翌年に神戸に行ったときはポートア イランドに仮設住宅がぎっしりと建てられてたねえ。 あの人達も今は平穏な日々が訪れているといいねえ。 とも話しながら、お茶を飲み駅弁を食った。東京駅で買 った鯛飯弁当が飯に鯛のうまみがしっかりと染みこんで いてたいへんよろしい上に安いときている。新発売なの か。この弁当ははじめて見たような気がする。 かみさんは、わたしは朝はそんなに食べられないからと 遠慮しながら一番高い弁当を買った。弁当箱の大きさも 鯛飯の倍ほどはある。 なんじゃそれは? そんなに食べられないと言ったじゃないかい? 言う事とやることが違うんじゃないかい? という顔で弁当とかみさんの顔を交互に眺めると、 お腹は空いてるの。 ご飯は沢山食べられないの。 これはご飯が少なくておかずがおおいからわたしには ぴったり。 と言って美味そうに食べ始めた。
ここまで書いて夕方の打ち合わせが始まることになっ てしまった。神戸の旅の続きは次回。
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