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ライフスタイルーデジタルフォト ismコンシェルジュ:伏見行介 板見浩史


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カテゴリ:ヒストリー

  • 映画や広告に登場したカメラの代名詞としてのNIKON
    [ 2007-02-05 20:09 ]
  • 進む一眼レフの自動化と、女性フォトグラファーの活躍
    [ 2007-01-15 16:14 ]
  • 繁栄と動乱の交錯する不確実な時代、それぞれの世界を見出した若き写真家たち
    [ 2006-12-05 20:06 ]
  • 「F」の伝説と、本格的な一眼レフ時代の到来。
    [ 2006-11-21 12:34 ]
  • LIFEのフォトグラファーに認められ、世界水準に躍り出た日本のレンズとカメラ
    [ 2006-10-16 10:06 ]
  • 日本のカメラが本格的に産声を上げ始めた時代、彗星のように現われた「万能小型カメラ」
    [ 2006-09-18 16:40 ]

映画や広告に登場したカメラの代名詞としてのNIKON

フォトグラファーを主人公にした映画がいくつかある。ざっと覚えているだけでも、古くはヒッチコックの「裏窓」(1954)、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」(1966)、フェイ・ダナウエイ主演の「アイズ」(1978)、クリント・イーストウッドがフォトグラファー役で登場して女性に人気を呼んだ「マディソン郡の橋」(1995)、ジュリア・ロバーツ主演の「グッドナイト・ムーン」(1998)などが代表的なところかな。国内でも、前に紹介した戦場カメラマン・一ノ瀬泰造を主人公にした「地雷を踏んだらサヨウナラ」などもあるし、あまりヒットしなかった映画も丹念に調べれば、結構な数にのぼるに違いない。

「裏窓」は、ジェームス・スチュアート扮する骨折したフォトグラファーが退屈しのぎにアパートの窓から覗き見をしていて、偶然おきた殺人事件に巻き込まれていくというストーリー。恋人役のグレース・ケリーの美しさもさることながら、主人公が商売道具のカメラ(ドイツのイハーゲ社製エキザクタ)に望遠レンズを装着して犯人を見張るシーンなどは、クラシックカメラファンにとっても見所のひとつだ。フォトグラファーの正義感に加え、真実を探るカメラとレンズの小道具としての役割が、とても効いていたような気がする。

カンヌ映画祭グランプリを受賞してアントニオーニの代表作のひとつとされる「欲望」は、サスペンスと不条理がミックスされた異色の作品だ。ちなみに原題は「Blowup」で、写真を引き伸ばす意味。ロンドンの売れっ子フォトグラファーが、公園でたまたまカップルを撮影したことをきっかけに、不思議な殺人事件に関わってしまう。ここで主人公の手にいつも携えられているのはニコンF。さまざまなシーンで職業写真家の道具としてリアリティーを演出しているが、主人公が無造作に紙袋に包んだFをロールスロイスのダッシュボードにしまう場面などもあったりして、こんなディテールも気にして観るとちょっと面白い。

ラストシーン、見えないボールでテニスに興じるイカレた若者たちにうながされ、「在るはずのない」ボールを投げ返す主人公。「在るもの」を「写す」ことを宿命とする写真家が自らの存在理由を失う一瞬だ。確かに自分のカメラが写し出した「事件」さえも、実際にあったのかどうか、謎のまま映画は終わる。

一方、大人のフォトグラファーをしっとりと描いたのが、有名な「マディソン郡の橋」。クリント・イーストウッドが制作・監督・主演のすべてを担当して話題を呼んだ作品だ。アイオワ州マディソン郡に点在する屋根付橋を撮影に来たナショナルジオグラフィック誌専属のフォトグラファー、ロバート・キンケイドがヒロインと短くも激しい恋に落ちるというラブストーリーで、そのストイックな展開は多くの女性の共感を得て大ヒットした。

イーストウッドの渋い演技の魅力も大きかったが、カメラファンにはここでもフォトグラファーの仕事のパートナーとしてニコンFがドラマに真実味を与えていたことが嬉しかったものだ。歴史と権威のある雑誌の専属写真家、真面目で誠意ある男のキャラクター、世界中を取材で駆け巡るタフさと機動性…そのイメージのすべてを小さな一眼レフが主人公と共有していた、といったら言いすぎだろうか。原作の時代設定は1965年だから、1970年まで生産されていたFは当時まだバリバリの現役。世界中で「ナイコン」と呼ばれ親しまれたニコンは、もうすでにカメラの代名詞を兼ねていたと言っていいだろう。

余談だが、この映画の封切り直後、映画に使用されたものと同じ機種の中古価格が急騰したという。ただ、これは決して一次的な人気や投機目的ではなく、本当のカメラファンたちにこの映画が名機の存在価値を再び思い出させてくれる、ひとつのきっかけになったのだと思っている。

実はニコンの一眼レフカメラは映画だけでなく、アメリカ企業のシンボルともいえる銀行と航空会社の企業広告にもかつて使われたことがある。どちらも機種はニコンFで、銀行の広告に登場したものはニッコールレンズを大きくデフォルメして新聞記事を映し出している。おそらく、正確でシャープな眼で市場や投資先を見つめています、といった顧客への企業メッセージなのだろうか。

もう一方の航空会社の広告には、なんと飛行機の手前にFとレンズシステムがずらりと並び、一見するとカメラの広告のようだ。キャッチコピーには「Fly now,sell sooner」とある。すぐ飛びます、より早く売ってください―そんな意味だと思うが、とてもインパクトがある。光学精密機器の粋であるニコンを積荷として前面にPRし、そのイメージを借りながら自社の運航が安全で正確かつシステマチックなことを強調していて、さすが広告のうまいアメリカだと感心させられる。

これも、広告に登用するカメラの信頼性と知名度がグローバルに認められていることが前提だということは言うまでもない。製品とは単に商品としての価値のみならず、人々の心に「歴史と信頼」―つまり真のブランドという、何ものにも代えがたい新たな価値を生んでこそ本物だからだ。「名機の資格」とはまさしくそれを極めることであり、そのDNAを受け継ぐ者の誇り、と言い換えてもいいだろう。

映画の話に戻ろう。「グッドナイト・ムーン」は、実の母親と新しい母親とが二人の子供をめぐって、対立しながらも最後には理解し支え合うというハートウォーミングなお話。子供たちの新しい母親として、またファッションフォトグラファーとして頑張る主役のジュリア・ロバーツの姿が健気で微笑ましい。この映画にもニコンが出てくるのだが、この時代はすでにデジタル一眼。育児に追われスタジオに遅刻した主人公が、私服のままのくつろぐモデルたちを急いで写し、合成画像処理で服を着せ1時間後には作品に仕上げるという荒業をやってのけるシーンがあった。1998年の封切り当時は、「ウッソー!」と思ったものだが、今では充分リアリティーがある。来るべきデジタル時代の写真の便利さが、当時そんなところにも予告されていた。この映画で使われていたカメラは、その翌年にデジタル一眼レフの最高級機として登場することになるニコンD1の前に開発された、デジタルスチルカメラE2NかE2NSのようだ。
E2NS
D1

いま最新のデジタル一眼レフ、フラッグシップモデルのD2XsやD2Hsから初心者用のD40までに連なるカメラたちを、スクリーンの中で垣間見ることができるのは結構楽しい。そのストーリーはもとより、日本のカメラが実は世界のスタンダードになっていることが、さまざまなシーンからも見えてくるところがカメラファンとしては嬉しいのだ。

また、デジタルカメラで写真を撮ることが楽しくなってきた人たちには、映画を観ることそのものもお薦めしたい。なぜなら、きちんとしたカットに基づいて撮り進められる映画のフレーミングは、実に完成度が高く、フレームを意識して見ていると構図や画面構成のとてもいい勉強にもなるからだ。映画を楽しみながら写真が上達するなんて、楽でいいしね。
グッドナイト・ムーン
マディソン郡の橋
by nikondigital | 2007-02-05 20:09 | ヒストリー | Trackback | Comments(3)

進む一眼レフの自動化と、女性フォトグラファーの活躍

1970年代も後半になると、一眼レフカメラのエレクトロニクス化と小型軽量化、そして低価格化がいっそう進むようになった。以前は機械式が主だったシャッター速度と絞り値の制御も、カメラに搭載されたマイクロコンピュータによりオート化されていく。そんなトレンドのなか、ニコンも絞り優先AE(設定した絞り値に応じてカメラが最適なシャッター速度を選ぶオート撮影モード)式の一眼レフ、ニコンFEを1978年に発売、手ごろな価格と高機能が受けて写真愛好家に大ヒットした。

そして80年代に入り、ニコンのDNAの粋を集めた最高級フラッグシップ機は、歴代のF、F2を経て、F3という進化形へと結実していた。電子制御式の露出機構や液晶によるファインダー内表示など、当時の先進的なスペックを堅牢なボディに内蔵したF3は、たちまちプロの信頼を勝ち得て、多くのハイアマチュアたちの垂涎の的になった。いままでのFシリーズの直線基調とは違い、丸みを帯びながらも精悍なフォルムをデザインしたのは、フィアットやアルファ・ロメオなどのカーデザインでも有名なインダストリアルデザイナー、イタリアのジョルジュエット・ジウジアーロだ。
精悍さとお洒落心をあわせ持ったF3のボディデザイン

カメラのホールド性を向上させるために設けられたグリップ部に、くっきりと入った赤のラインがブラックボディに美しく映えて、僕たちにカメラの新しいデザインコンセプトというものを教えてくれた。ジウジアーロデザインは、その後も初心者や女性向けに開発されロングセラーとなった小型軽量のAE一眼ニコンEMや、次世代のF4にも継承された。

さらに1983年、カメラ市場に画期的な測光方式を持った一眼レフが登場した。マルチパターン測光方式を採用したニコンFAである。これは大まかにいうと、5分割した画面内のそれぞれの受光部で得られた測光値をパターン分析したのち、膨大な数の実写データに基づく演算プログラムによって処理し、自動的に適切な絞りとシャッターの組み合わせを決めるという方式。つまり、今までの中央部重点測光という方式では、逆光時や暗い背景での人物撮影などに露出を補正する必要があったが、FAはどんな条件でもぴたりと適正露出が得られるという素晴らしい機能を最大の特徴としていたのだった。

ちょうどこの年から、国内の代表的な写真・カメラ専門誌10数誌による「カメラグランプリ」の制定が決まり、年内に発売されたすべての機種を対象に、もっとも優れた1台のカメラを決定すべく選考が開始されていた。当然、FAは最有力機種のひとつとしてリストアップされていたが、他社からもユニークなマルチスポット測光という方式を持った一眼レフが候補として有力視されていた。画面の狭い部分だけをピンスポットで測光し、最大8点まで記憶・演算できるというもので、撮影者の意思を露出に反映できるという評価も高く、賞の行方は予断を許さなかった。

世界初のマルチパターン測光を搭載したニコンFA

翌1984年6月1日の写真の日、港区の青学会館でカメラ記者クラブ主催の84カメラグランプリ表彰式が開催された。栄えある第1回目の受賞機種となったのは、ニコンFAだった。どんな撮影条件のもとでも適正露出が得られる、世界初のマルチパターン測光の搭載という画期的なイノベーションへの評価はもちろんのこと、1/4000秒の最高速シャッタースピードや実用的な撮影モードを内蔵した、一眼レフとしての機能バランスのよさに対しても高い評価を得たからだった。ちなみに昨年、2006年度のカメラグランプリは、デジタル一眼「ニコンD200」が受賞している。

事実、当時カメラ記者クラブの一員として選考に参加した僕もFAを実際に使って、わざと逆光の難しい条件ばかり撮影したものだが、現像後に結果を見て露出の正確に驚かされたものだ。「カメラが光を判断して制御している…」と。その後、「評価測光」「多分割測光」など、名称は違えどニコンの方式を他のメーカーも追随し、フォトグラファーは露出決定の苦労からかなり開放され、作画やシャッターチャンスに専念することが可能になった。

その後、80年代の半ばから90年代にかけて一眼レフのAF(オートフォーカス)化が進むと、その傾向にさらに拍車がかかる。視力に自信がなく写真から遠ざかっていた年配者や、メカニズムに弱いため写真を敬遠していた女性たちが写真の世界に参入するようになってきたのだ。特に写真・カメラ専門誌などの月例や全国コンテストでも、目立って女性の応募や入選が増え始めたのも、この頃に端を発するといっていいだろう。

長い間、その写真の専門誌を通じて見てきた経験からいえば、もともと女性は写真に向いていると僕は思っている。カメラという機械が好きで、写真をわりと「アタマ」で考えがちなオトコとちがって、女性はあまりカメラの機種だとか機能にこだわらない傾向がある。シャッターを押して「見たように、感じたように写ればいい…」のである。写真へのモチベーションにしても、カメラへの興味よりメンタルな部分にあることのほうが多いようだ。だから、それだけ女性のほうが、煩わしい「写真のお約束事」を離れ、自由に新しい写真が撮れるのではないかと思っている。

事実、2000年以降の木村伊兵衛賞をはじめとする各写真賞での女性の活躍は、発想やモチーフの豊かさにおいて前述したことを実証しているだろう。もちろん、カメラがまだ不便だった時代から社会的ハンデを乗り越え写真を撮り続けてきた、女性報道写真家第一号の笹本恒子をはじめ、常盤刀洋子、今井寿恵、吉田ルイ子といった数々の女性フォトグラファーたちの名を上げることもできるが、カメラの自動化がそれに続く多くの女性たちにとっての間口を広げ、新しいフォトグラファーの誕生に貢献することは間違いないことだろう。

かつて、ヒトラー時代にベルリンオリンピックを記録した映画「民族の祭典」「美の祭典」の撮影監督を務め、戦後はフォトグラファーとして活躍した女性、レニ・リーフェンシュタール。60歳を過ぎてからアフリカのヌバ族を取材撮影し、70歳を過ぎてダイビングの免許を取り世界最高齢のダイバーとして海中写真に挑んだ彼女は、NIKONの愛用者だった。2003年に101歳で天寿を全うしたが、いま彼女が生きていて、軽く小さく自動化が進んだデジタル一眼D40を持ったら、どんな写真を撮ったことだろう…。昨今の女性たちの逞しい好奇心と行動力を思うとき、ふとそんなことを考えてしまうのだ。
by nikondigital | 2007-01-15 16:14 | ヒストリー | Trackback(1) | Comments(0)

繁栄と動乱の交錯する不確実な時代、それぞれの世界を見出した若き写真家たち

70年代の幕開けは、その後の日本の世相を象徴するようなイベントや出来事で始まった。1970年3月から9月まで「人類の進歩と調和」をテーマに大阪で開催された万博EXPO'70には6420万人以上が訪れ、万博史上最高の入場者数を記録。アメリカ館では前年に月面着陸に成功したアポロ11号が持ち帰った「月の石」の展示に長蛇の列ができるなど、各国のパビリオンは人類の明るい未来を予感させるようなムードにあふれていた。

しかし一方で海外に目を向ければ、長期化したベトナム戦争はいまだ続いており、カンボジア内戦まで誘発してむしろ戦火は拡大していたし、また国内においても安保や大学闘争や三里塚国際空港問題などで世情はまだまだ騒然としていたのだった。

同じ1970年の10月、一人の日本人カメラマンがカンボジアの戦場で命を落とした。優れた業績を残したジャーナリストに与えられるピュリッツァー賞(写真部門)を1966年に受賞した沢田教一である。迫り来る米軍の進撃から川を渡って逃げるベトナム人母子の切迫した表情を見事に捉えた受賞作「安全への逃避」は、沢田の代表作としてさまざまに紹介されているので見たことのある人も多いだろう。そこには、戦争という非情で過酷な運命に翻弄される人間の恐れや悲しみや苦しみが凝縮されている。そうした沢田の眼差しは民衆だけでなく戦う米兵士にも同様に注がれていて、多くの優れた戦場写真がそうであるように、単なる「戦闘の記録」ではなく、「人間」が写されている点で高く評価されている。

ベトナム戦争の時代、戦場を活躍の場に選んだ日本人カメラマンは沢田のほかにも多かった。PANA通信社特派員としていち早くベトナムに入った岡村昭彦はその後1965年に「南ヴェトナム戦争従軍記」で戦争の内側を描いてベストセラーとなった。また、戦場でつかのまの休息を取る兵士を捉えた「より良きころの夢」で1968年度ピュリッツァー賞を受賞した酒井淑夫、週刊朝日の特派で作家・開高健と同行取材をした秋元啓一、そして石川文洋、一ノ瀬泰造、峯弘道、嶋元啓三郎などが、ベトナムの戦場で活躍した主な日本人カメラマンといってよいだろう。

文字通り命をかけた撮影であるため、沢田をはじめその半数近くが戦場で命を落としている。なかでも1973年、ポルポト派の制圧下にあったカンボジアのアンコールワットへ潜入取材を試みて消息を絶ち、のちにその死が確認された一ノ瀬泰造の青春の軌跡は、その著書や映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」「TAIZO」などでよく知られているところだ。

戦闘中の取材で被弾した一ノ瀬泰造のニコン 撮影:早川文象

日本大学芸術学部写真学科を一ノ瀬が卒業したのは1970年。大学紛争も、大衆的な盛り上がりから徐々に不毛な内ゲバ闘争といった閉塞的状況へと向かい始める。冒頭に述べたように、明るくあるべき未来と眼前の困難な現実が不確実に交錯する当時の時代意識のなかで、若者たちがいま生きていることの実感を求めて海外へと向かう兆しが見えはじめてきた頃だった。たとえば、24歳から13年あまりにおよぶ海外の旅の所産を「印度放浪」「全東洋街道」などの著作に結実させ、のちに若い世代の圧倒的な共感を得ることになる藤原新也が、インドをはじめとするアジア諸国へ旅立つのもこの時代の少し前、1968年頃のことだ。

一ノ瀬の生き方を英雄視や美化したりすることは避けなければいけないが、一ノ瀬が命をかけて切り撮ってきたベトナムの戦場の写真は、僕たちの目の前にまぎれもないその時代の世界の一断面を見せつけてくれた。激しい戦闘シーンだけでなく、戦渦におびえる子供の無垢な眼差しや、戦闘の合間のベトナム兵士や女性や老人などの人間スナップにも優れていて、その若すぎた死を惜しむ声は今も絶えない。遺品となった、被弾し貫通した跡の生々しいニコンFブラックボディは、カメラに命と未来を託した一人の若者の心の形を残しているようで切なさを誘う。

1960年代後半、成田空港建設に反対する農民を密着取材した「三里塚」で写真家として出発した北井一夫は、70年代に入るとアサヒカメラの連載「村へ」で全国各地の農村の生活を撮り続け、1976年に第1回目の木村伊兵衛賞を受賞する。

一方で、斬新な肉体表現による2作目の写真集「NUDE」で1970年に高い評価を得た篠山紀信が、その後、山口百恵や桜田淳子などのアイドルたちを精力的に撮り始め、小学館から創刊された若者向け雑誌『GORO』でヌード・グラビアページ「激写」シリーズを担当し時代の寵児となっていくのも、この頃のこと。

「村へ」1975年 (c)北井一夫

日航よど号乗っ取り事件、ディスカバージャパンブーム、連合赤軍浅間山荘事件、日本列島改造論、オイルショック、ロッキード疑獄…。繁栄と動乱が交錯する1970年代、若い写真家たちはそれぞれのアイデンティティーに従って、「世界を映し出す鏡」…つまりカメラという小箱を抱えて、その視点をさまざまな地平へ放ち始めたのだった。
by nikondigital | 2006-12-05 20:06 | ヒストリー | Trackback(1) | Comments(1)

「F」の伝説と、本格的な一眼レフ時代の到来。

1950年代も後半になると、新しいタイプのカメラが登場してくるようになってきた。「フォーカルプレーンシャッター式一眼レフカメラ」、つまり現在主流となっている一眼レフの基本形である。簡単にいうと、それまでの二眼レフのように、ピントを測距するレンズと実際に撮影するレンズが別ではなく、ひとつのレンズを通してピント合わせも撮影も行なうタイプのカメラのことだ。

広角から望遠までさまざまな種類の交換レンズを自由に駆使できるというメリットは、その時代すでに高い完成度を誇っていたレンジファインダーカメラの便利さをも超えて、なおあまりあるものであった。特に、ファインダーで見たままの画像がパララックス(視差)なしに撮影できることや、遠くのものを引寄せて撮影することのできる望遠レンズの使用が有利な点などは、その後マスメディアが拡大し、ますます需要の増えていく報道写真をはじめ、スポーツ写真や動物の生態写真などの撮影には欠くことのできない機能だといえた。

そうした背景のもと、1957(昭和32)年以降、国内のおもなカメラメーカーから一眼レフカメラが次々と発売されるようになる。発表当初からプロの報道カメラマンのみならず、表現派のフォトグラファーたちからも絶賛され愛用される「ニコンF」が登場したのは、2年の開発期間を経たのちの1959年のこと。

製品名の「F」は、レフレックス(Re-Flex)、つまり反射ミラーを利用する一眼レフの総称からとられた。現在のデジタル一眼シリーズの系譜にも連綿と続く「F」の称号を最初に与えられた、いわばニコンのカメラDNAの原基とも言える伝説の機種だ。亀倉雄策のデザインによる直線基調の力強いボディ外観は、のちに通産省「グッドデザイン商品」(1966年)に選定されるほど美しい機能美を備えていた。

カメラにとってそのスタイルが「美しい」というのは大切な要素である。それは飾り物としての美しさなどでは、もちろんない。円滑な操作性を実現するために、高度な人間工学を駆使してレイアウトされたダイアルやレバーの形状、精緻な金属加工技術で再現されたボディーラインやロゴマークなどは、その内部メカニズムへの信頼性とあいまって、フォトグラファーたちの撮影意欲を高揚させるという意味で、創造する写真の質に大きく貢献するからである。

一方で、ニコンのカメラの特長のひとつでもある堅牢性は一眼レフにおいても受け継がれた。1963年に編成された米エベレスト遠征隊の調査記録用カメラにはニコンFが採用されている。地球上でももっとも過酷な状況に絶えうる当時唯一のカメラとしてである。

1964年、東京オリンピックが開催されると、報道写真で使用されるカメラは一眼レフがいよいよ主流となり、国立競技場のスタンドは超望遠レンズを装着した一眼レフを構える国内外の新聞社や雑誌のカメラマンたちであふれた。そして、選手たちの躍動する肉体の動きや、迫力に満ちた表情を克明に捉えた写真が新聞や雑誌の誌面を大きく飾った。

当時、一般の家庭ではカラーテレビが普及し始めたころだったが、一瞬を写し留めるスティルフォトの力はやはり何といっても大きい。多様なレンズやストロボの使用を可能にするシステムカメラとしての一眼レフの発達は、写真の記録性と表現領域を大きく広げ、フォトジャーナリズムの世界に恩恵を与えたといっていいだろう。

それを反映するかのように、1960年代の国内の写真界も多産である。1963年に細江英公が三島由紀夫を撮った『薔薇刑』で世に衝撃を与え、翌年には荒木経惟が『さっちん』で第1回太陽賞を受賞、さらに翌年には立木義浩が『舌出し天使』を、67年には森山大道が『にっぽん劇場』をそれぞれカメラ毎日に発表するなど、ほかにも現在の写真シーンを牽引する多くの写真家たちが実質デビューを果した時代でもあった。

忘れてならないデビューもある。1966年6月29日、ビートルズが日本にやって来る。到着前の雨に濡れた滑走路、ヒルトンホテルでの記者会見、武道館での演奏風景から離日の瞬間までの100時間を密着し、みずみずしい映像感覚で撮影した浅井愼平のデビューである。

ジョンやポールの飾らない自然な表情はもちろん素敵だったが、飲みかけのままのティーカップ、灰皿に残った吸殻、脱ぎ捨てられたブーツ…そんなシーンでも、思い入れと撮り方によってはかけがえのない「作品」になるということを、これらの写真は僕たちに教えてくれたのだった。

今年、ビートルズ来日40周年を記念して、その浅井慎平写真展が銀座で開かれた。ビートルズの音楽は40年の間にすっかりスタンダードになり、ジョン・レノンもジョージ・ハリソンも故人となったが、写真はまだ微熱を帯びているような気がした。会場の片隅の、撮影に使われた機材を展示するガラスケースの中に、ニコンFブラックボディがさりげなく、しかも少し誇らしげに置かれていたのが印象的だった。
by nikondigital | 2006-11-21 12:34 | ヒストリー | Trackback | Comments(1)

LIFEのフォトグラファーに認められ、世界水準に躍り出た日本のレンズとカメラ

昭和25(1950)年、第3次吉田内閣のもと戦後経済は徐々に復興の兆しを見せはじめていた。街にはヒット曲の笠木シズ子「買い物ヴギ」が賑やかに流れ、百貨店ではファッションショーが開かれたり、女性の間ではロングドレスやスラックスといったアメリカンファッションが大流行。また、活動的なボブヘアが若い女性たちに受け入れられ、初の男性用のファッション誌も創刊し、石津謙介が大阪でVANジャケットを設立するのがこの翌年のことである。

国内がそんな平和と景気回復ムードに染まりつつあるさなか、ほんのわずかな距離を隔てた海の向こうで朝鮮戦争が勃発する。朝鮮民主主義人民共和国を後押しするソ連と中国、そして韓国軍を支援するアメリカなど国連軍との戦いは、東西冷戦の代理戦争という側面を持っていただけに各国の耳目を集めることとなり、アメリカをはじめ世界中から多くの戦争カメラマンが取材へ赴いた。LIFE誌の専属フォトグラファーであるデビッド・ダグラス・ダンカンもそのなかの一人で、当時日本に滞在していた。

戦争勃発直前の6月上旬のこと、ダンカンは日本人初のLIFE誌契約フォトグラファーであった三木淳にともなわれて品川区大井の日本光学本社工場を訪れた。三木からニッコールレンズで撮影された写真を見せられ、シャープな描写力に強い興味と関心を持ったからだった。検査室で実際にドイツ製レンズと比較した性能を目の当たりにした彼は、そのクオリティーの高さに惚れ込み、ただちに購入する。その後、6月25日に開戦し、すでに戦場となった朝鮮半島に、ニッコール50ミリと135ミリを装着したライカを携えたダンカンの姿があった。


当時、世界一明るいといわれたニッコール50ミリ F1.4

また、ダンカンは同じLIFE誌のカール・マイダンスにもニコンのレンズを強く勧めた。もともと新聞記者であったマイダンスは、写真による報道の必要性を早くから感じペンをカメラに持ち変えたフォトジャーナリストで、第二次世界大戦下のヨーロッパ、中国・アジアなど多くの戦場をフィルムに収め、大戦後はマッカーサー司令部とともに日本に上陸し、敗戦の象徴的映像として有名なミズーリ号上の降伏調印式の写真を撮影したことでも知られる。


レンズだけでなくカメラもニコンを愛用するようになったマイダンスと、ダンカンたちの写真は優れた報道写真としてLIFEの誌面を飾ったばかりでなく、アメリカ写真家協会が選ぶ1950年度の最優秀写真賞「U.S.カメラ賞」に輝いた。そして戦場という過酷な環境の中で抜群の信頼性を発揮した日本製カメラ=「Nikon」が、アメリカ国内で大反響を呼ぶことになったのである。この年のニューヨーク・タイムズ紙は「日本のカメラとレンズはドイツ製のものよりも優秀である」というLIFE誌のフォトグラファーたちの証言を交えてテストレポートを掲載、その精度と性能の高さを世界中に知らしめたのだった。


ニッコール50mmF2付きのニコンS2

1955年、いまでも語り草になる大きな写真展がニューヨーク近代美術館で開かれた。同館の写真部長でもあるフォトグラファー、エドワード・スタイケンのプロデュースによる「ザ・ファミリー・オブ・マン―われらみな人間家族」展だ。人種や民族を超えた人間の尊厳やヒューマニズムを写真映像で提唱し希求しようという壮大なテーマに基づく企画展で、273人の写真家による503点の作品で構成された。アメリカ国内のみならずヨーロッパなど、1957年までに世界38ヵ国で開催されて、非常に大きな反響を巻き起こした。日本展は1956年に東京・高島屋で、国内の写真家27人を加えて開催された。

そうした国外の写真的ムーブメントのなか、1957年には数寄屋橋に本格的な写真ギャラリーとして富士フォトサロンが開設、東松照明、奈良原一高、細江英公、石元泰博、川田喜久治といった当時新進気鋭の写真家による第1回「10人の眼」展が開かれ、以後の写真の流れに大きなエポックを作り出してゆく。産業としてのカメラが世界水準に急迫するのと併行して、国内の写真シーンも熱を帯びはじめていく時代だった。
by nikondigital | 2006-10-16 10:06 | ヒストリー | Trackback | Comments(4)

日本のカメラが本格的に産声を上げ始めた時代、彗星のように現われた「万能小型カメラ」

いま僕たちが使っているカメラの原型をたどると、もっとも古い国産カメラは明治36(1903)年の「手提暗函」にまでさかのぼる。そんな素朴なカメラづくりで産業としての形態を整え、さらに発展の兆しを見せてくるのは第2次大戦前のこと。昭和13(1938)年ころには、二眼レフやスプリングカメラ、透視ファインダーカメラと、さまざまなタイプの国産カメラが世に生み出されている。現在、世界中のカメラ生産のほとんどのシェアを占める日本のカメラづくりの原動力は、すでにこの時代に端を発しているといえる。だが、そののち戦争によってしばらくはカメラ産業の空白期が続くことになった。

昭和20(1945)年、広島・長崎への原爆投下によって太平洋戦争が終結。敗戦を経て新しい国づくりに希望を燃やす人々にとって、再び世界に通用する工業製品の開発と生産は必須の命題だったに違いない。戦前からの生産の下地もあり、また進駐軍将兵たちに土産としてカメラの人気が高かったことなどもあって、戦後は多くのカメラメーカーが林立する。 
 そうした数多くのメーカーの中で、特筆すべき会社があった。それは、日本光学工業株式会社、現在のニコン。大正6(1917)年に創業された同社は、双眼鏡・顕微鏡をはじめ、艦船や航空機用の精密光学器機を手がけてきたが、戦後は民生用のカメラを主軸に据えて復興と発展の足がかりとしたのだった。

それまでは日本最大の光学メーカーとして、他社に距離計やレンズを供給していた日本光学が、多くの老舗メーカーの中にあって、自社でレンズのみならずボディーも開発・生産、つまりカメラメーカーとしてデビューしたのが昭和23(1948)年のこと。それは日本のカメラ史にとっても記念すべき「万能小型カメラ」NIKONⅠ型の誕生した年であった。Ⅰ型は、現在でも愛好者が多いフォーカルプレンシャッター式距離計連動カメラの原型ともいえる機種で、その後もM型、S型と発展しながら名機の系譜を連ねていくことになる。


当時の光学技術の粋を集めて開発されたNIKONⅠ型。金属ボディのシンプルなフォルムは、いま見ても充分に美しい。 

その前後の国内の写真シーンを簡単に振り返ってみよう。
戦後になるとそれまで統制されていた言論・出版の自由化により、大衆向けの娯楽雑誌が雨後のタケノコのように出版され、戦争で休刊していた週刊誌や月刊誌なども続々と復刊するようになった。そうした出版ジャーナリズム復活時代の波にのって活躍を始めるカメラマンたちが登場してくる。戦前から活躍していた木村伊兵衛、土門拳といった当時すでに有名だった写真家に加えて、戦後派フォトグラファーの台頭である。
 
その代表的なひとりが、1946年に銀座の酒場「ルパン」でカウンターの椅子に腰掛けポーズをとる太宰治や、執筆中の坂口安吾の有名なポートレートを撮ったことでも知られる林忠彦だ。のちの最盛期には20誌をこえる雑誌の連載をこなすほどの時代の寵児となり、いまでいうフリーカメラマンの先駆けともいえた。貧困の中でも逞しく生きる戦後の庶民の姿を自在なレンズワークで活写し、文士たちの個性的な風貌を的確に捉えるその撮影手法は、以降のフォトジャーナリズムにも少なからぬ影響を与えた。

また、新しい時代への夢を与えてくれる最大の娯楽として国民の間で映画が隆盛を極めてゆくが、その華やかな銀幕で活躍する数多くの女優たちを近代映画社のカメラマンとして秋山庄太郎が精力的に撮り始めるのも、その頃のこと。

情報や記録や人間の夢や憧れをビジュアルに伝えるものとしての写真の役割りが、戦争という重い足かせから解き放たれて一斉に花開く、まさにそんな時代だった。

そうしたニーズによって国内のカメラ産業も、前述したように発展の一途をたどってゆく。あるエポックメイキングな国産カメラとレンズがニューヨークタイムズ紙で絶大な評価を受け、日本のカメラ作りの水準の高さを世界に認めさせることになるのは、それから数年後のことであった。

配給を受ける人々の長蛇の列。昭和21(1946)年、銀座4丁目あたり。向こうに見えるのはいまの「和光」の建物で、TOKYO.P.X(駐留軍向けの売店)の看板が時代を感じさせる。手前はチャップリン姿のサンドイッチマンか。
撮影:林忠彦
by nikondigital | 2006-09-18 16:40 | ヒストリー | Trackback | Comments(0)