私は仲間たちを後ろに引き連れ、ソリューションアイ地下大ホールの壇上へ向かい、袖口を歩き始めた。
ふと、廊下の片隅で、その舞台裏の廊下とは不釣合いのアンティーク調の豪華な椅子に座る一人の老人の姿が目に入った。傍らには顔の長い中年女性が背筋を伸ばし立っている。
老人はこんな薄暗い廊下で、まぶしいはずもないのに黒いサングラスをかけている。そしてその奥の瞳から、じっと私を見つめている。
シミとほくろだらけの顔だが、恰幅がよく、肌がつやつやしている。真っ白になった頭はきれいにオールバックにセットされており、同じように真っ白に決めたスーツの下から、派手な原色のハイビスカスが並んだアロハシャツが見え隠れする。豪華な特注らしい杖の上に両手を乗せ、更にその上に顎を乗せ、吟味するように私をじっと見つめている。
どこからどう見ても、マフィアのボスのようだった。一体誰なんだ・・・。
私は思わず歩を緩め、老人の前で足を止めた。ジミーが慌てて、私に耳打ちした。
「会長の、ミスターリュウジ・ハヤセのお父様です」
えっ!
この人が? このマフィアのボスみたいな格好した、この人が?
あのリュウの、お父さん!?
老人は私の反応を見透かしたように、かすれた声でウォホッホと笑ってみせた。
「これっ。愛人め。これが早瀬隆二の父親か、マフィアのボスじゃないのかとでも思っておるのだろう!」
私は戸惑い、返事ができず、ジミーに助けを求めた。
「ミスター・リュウゾウ・ハヤセ。お久しぶりです」
ジミーが深く頭を下げた。
「何がお久しぶりだバカモノ!」
突然、リュウのお父さんはジミーに怒鳴り、杖の先でジミーの頭をかつんと殴った。
「私の大切な嫁を手玉にとりやがって! わしがどれだけ、ミキちゃんから介護されるのを楽しみにしておったと思っておるんだ!」
ジミーが戸惑い、苦笑いを浮かべて私の背中を押した。
「か、介護なら、リカの方がプロですよ」
「わしはおっぱいが大きいほうがいいんだ!」
何っ。私はリュウの父親とわかっていながらも、にらみつけずにはいられなかった。
老人が私の顔を見て、またウォッホッホと笑う。
「気の強い顔をしておるな。さすが、わしの一人息子が骨抜きにされるわけだ」
「骨抜きだなんて、そんな・・・!」
反論しようとして、そして私は黙った。唇をかみ締め、頭を下げる。
「あの、このたびは息子さんが・・・リュウジさんが・・・」
老人は黙って、私を見つめている。私はおそるおそる顔を上げて、老人を見た。老人は相
変わらず杖の上に顎をのせ、おもしろそうに私を見ている。
彼は一人息子が死んだというのに、なぜこんなにひょうひょうとしていられるのだろう。
辛くないのだろうか。
悲しくないのだろうか。
「お嬢さんよ」
老人が、33歳の私に向かって言った。
「息子が産み、育てた会社だ。頼んだぞ」
私はその言葉を重く受け止めた。
深い吐息と一緒にうなるように「はい」と返事をしてみせる。
老人がよっこらせと立ち上がった。リュウが言った通り、顔の長い家政婦が、老人を支え、傍らに立つ。
さすが、息子が190センチを超えるだけある。この老人も、83歳という年齢とは思えないほど、背が高かった。180センチはあるだろう。
老人はにっこりとほほえみ160センチに満たない小さな私を見下ろすと、私の頭の上にぼかっと大きな手を置いた。
重くて重くて、頭がおしつぶされるかと思った。
髪の毛をつたい、頭皮をつたい、その老人の大きな手の感触が心に伝わってくる。
大きくて、あたたかくて、ふわふわしている。
リュウと同じだ。リュウと同じ手をしている・・・。
涙があふれそうになるのを、必死にこらえた。
「主人はいずれ、戻る。それまで耐えなさい。耐えてソリューションアイを、守りぬけ」
・・・え?
主人はいずれ、戻る・・・?
聞き返そうとした私を妨げるように、老人は「そうだ」とつぶやき、彼に付き添っていた家政婦を振り返った。
「息子に頼まれて、預かっていたものがある。君に返さなくてはな」
老人に言われて、家政婦は無表情のまま、足元に置かれた段ボール箱の元にしゃがんだ。
そしてダンボール箱を開けた。
中からひょい、と顔を出したのは、フェレットのアニ子だった。
思わず顔がほころび、アニ子を抱き上げようとしたその瞬間・・・!
アニ子は長い間段ボールに入れられ、警戒心を強めていたようだ。シャー! と威嚇の声をあげると、あっという間に私の足をすり抜け、薄暗い廊下を走り出した!
「こら! 待て! 待ちなさい!」
慌てて追いかける。
「リカ、フェレットは後にして! もうすぐ演説が始まりますよ!」
ジミーが叫んだ。
「だめよ! アニ子が怪我でもしたら大変! 大丈夫すぐ戻る!」
私は慌てて、すばしっこく走るアニ子を追いかけた。アニ子は細長い廊下を、まっすぐにピューと走っていき、音響室へと続く鉄骨の階段をぴょんぴょんと駆け上がっていく。
「待ちなさい!」
音響室にいた中国人が、不思議そうに、珍妙なフェレットという動物と、今日の臨時株主総会の目玉である私の追いかけっこを見つめている。
「お願い! その子捕まえて!」
アニ子は開け放たれた音響室に入って行こうとしたが、中国人は初めて見るであろう珍獣を見つめ、「アイヤー!」と叫んで恐れて、扉を閉めてしまった。
「バカ! 役立たず! こんなちっちゃい動物恐れてどうすんのよ!」
アニ子は戸惑い、扉の前をいったりきたりしている。今だ!
アニ子に飛び掛ったが、彼女はくるりと方向転換をし、さらに上へと続く鉄骨の階段をあがっていく。飛び掛った私はそのまま、閉ざされた扉に激突した!
全く! これからソリューションアイ存亡をかけた演説だというのに、たんこぶが!
私は意地になって、興奮してすばしっこく逃げていくアニ子を追いかけ続けた。
鉄骨の階段を上がりきったところで、無意識に先を急ごうとする私の足を、とっさに脳が命令を下して止めさせた。
これは・・・まずい。
私もアニ子も、舞台の最上に上り詰めていた。舞台の上を、縦に10本ほどの鉄骨がまっすぐ下手側に伸びている。そしてその鉄骨に絡みつく、壇上を照らす照明器具たち。
鉄骨でできた梁の幅は十センチほどしかない。その隙間から、スポットライトを浴びて、ソリューションアイの未来を語る、ドクターコフィンの頭が見えた。
アニ子の姿を探す。彼女は真ん中の鉄骨の上を、とっとことお尻を揺らして歩いている。
その鉄骨の下から舞台の壇上まで、高さは4メートルほどだろうか。アニ子はそこが空中であることに、全く気がついていない。
「アニ子、こっちへ来なさい!」
声をこらして、必死にその珍獣に問いかける。
アニ子は私の声に振り返ると、困った顔を浮かべ、その場に座りこんだ。
「今から行くからね、そこでじっとしてるのよ!」
幅十センチの鉄骨の梁に、足を乗せた。
怖い! 下を見るな! 足がすくむ。震えている。でも、早くアニ子を助けてあげないと。4メートル下に落下したら大変なことになる。しかも現在、会場は会社の行く末を担う大切な臨時株主総会の真っ最中なのだ。
一歩、また一歩と、両手でバランスを取りながら、アニ子に近づいていく。
アニ子は私が飼い主であることをすっかり忘れてしまったようで、私の気配に気がつくとまた起き上がり、シャー! と威嚇する。
「大丈夫、あなたを助けるために来たのよ、シーっ!」
アニ子が不安定にお尻を揺らせながら、のそりのそりと後ずさりしていく。その片方の足が梁から外れ、アニ子はバランスを崩した。
「危ない!」