takaさんのリクエストに応えて、今日は探検と英語について。
探検のために外国に出かけると、英語は案外通じないものだと気がつく。
たしかに世界中に普及したような英語だけれど、現実は厳しい。たとえば日本の田舎に出かけて英語で話しかけたとして、そこで一体何人の人が相手にしてくれるか?という問いの答えがそのまま世界各地に当てはまる。(一部例外を除き)それゆえに現地語を少しでも話して、理解できるようにしたほうがいいのだけれど、各国を渡り歩く場合はそれも至難の業。
かつてアフリカから南米に渡ったとき、アフリカではフランス語だし、南米ではポルトガル語(ブラジル)やスペイン語ということで旅の終わりには英語など忘れかけて、そのかわりフランス語とポルトガル&スペイン語がちゃんぽんになった言葉をしゃべって、誰にも意思が通じないという事態におちいったこともあった。もちろん日本語も使うことがないからどこかチグハグになっていって、しまいにわたしは言葉を喪失するのではないか、と焦ったりもした。
しかし面白いのはコトバが通じないと、ひとは自然と身振り手振りに切り替えるものなのだ、ということ。そしてボディ・ランゲージで、世界は案外行けたりするのだ、と気がついた。
それでも各地で情報収集しようとするとき、英語は一番使える言葉だった。
旅先では、情報をいかに獲得するかが、時に生死を分けることもある。
安宿のドミトリーを常連としていたわたしは、そこで会う日本人旅行者以上に、外国人旅行者の方がずっと正確で詳しい情報を持って旅をしていることを知って愕然とした。というのは、英語を話す人のネットワークはそれだけ広いので、日本人が日本語で伝える情報とは比べ物ないくらいの質量というわけ。
英語が、情報収集のためのツールに加えて、自己表現のツールになったのは、その後のこと。ニューヨークの探検家クラブ、ワシントンDCのナショナル・ジオグラフィック・ソサエティで、自分を表現できるのは英語しかない。30分あげるから、皆の前で、自由にしゃべっていい、と言われて、どれだけ探検家としての自分自身をアピールできるかは、単純に英語力にかかっている。
わたしは、旅先で英語を身につけてきたのだけれど、世界の中で英語の存在は、大きいとも小さいともいえる。世界には実に多くの文化と人種がいるように、言葉もまた多種多様。
そんな世界を知った上で、英語を使っていきたいと考えている。それが英語に対して心がけていること。