
講演会で自分の探検について話をする機会がある。
たまにふと、自分はどうして目の前に集まった人たちに話しかけているのだろう、と素朴な疑問にとらえられることがある。ある種、哲学的な問題さえ含んだこの問いは一言でいうなら「自分探し」への扉。似たような心境はサハラ砂漠のど真ん中で、ヒマラヤの高峰で、アマゾンの密林地帯でこれまでにたびたび自分の中に出没明滅してきた。そのたびに、わたしは「探検」について考えを重ねてきた。
探検と冒険。これは明らかに異なる次元の人間の営み。危険を冒すという意味の冒険に対して、探検とはあくまでも「探ること」そして「検証すること」。探検家としてわたしはつねにこのことにこだわり続けてもいる。
轟音とどろく大瀑布の筏下り、8000メートル級の高山への無酸素登頂、さらにはナイフを一本だけ持ってのジャングル越え。たとえばこれらの企図はそれ自体が冒険家にとっての目的となる。ところが探検家はそうではない。
探検家はたとえば図書館で誕生したりもする。そこで出会った一冊の本。一枚の地図。そこで未知の世界の存在を知ったとき、探検家がこの世に生まれでるのだ。ジャングル、砂漠、雪山、氷河、探検家にとってそれらは目的ではない。それを越えたところにある未知の領域に向かうのが探検家である。冒険と探検は兄弟のような関係にあるが、言葉の違いほどに、二つは別々のものである。
そんなこともあって、山頂や極点をきわめれば終わる冒険とは違い、探検家の旅はフィールドから図書館を何度も往復するような長いものとなる。そして探検の醍醐味とはそのプロセスにある。発見までの道のり。それ自体が一つの物語。失敗の連続、あるいは遠回りだと思っていたことのなかに成功への鍵が隠されている。
先日講演会の後、参加者と一杯やりながら話をしていたときに、その人はこんなことを言った。
「サムライの美学はいかに死ぬか、ということ。その理想的な最期にむかってサムライは生きる。ところが探検家はいかに生きるか、そこに最大の美学がある。話を聞いていてそんな気がしました」
わたしはふと故植村直己氏のことを思い出した。彼の最大のテーマは「冒険とは生きて帰ってくること」だった。しかし植村さんは結局そのテーマを実践できないまま、アラスカのマッキンリーに消息を絶ってしまった。
発見という一瞬の輝きのために旅から旅へ。そのプロセスは、いかに生きるか、という探検の真髄へとつながっている。
探検の美学とは、いかに生きるか、そこにかかっている。
(写真はロビンソン・クルーソー島。山に登り、風の中で水を飲む)